kagamimochi-nikki 加賀美茂知日記
慶祝と美とグノ-シスの弥増す日々
日々の過去の出来事

今日という日6月6日 1944ノルマンディー上陸作戦、ほか写真wikipediaオマハ上陸前海兵隊

6月6日

20260606土曜日旧暦4月21日赤口(48番辛亥かのといシンガイ)月齢 20.2

43番丙午ひのえうま年 30番癸巳みずのとみ月 48番辛亥かのとい日

吉方位 陽遁日 辛亥かのとい日 南 大吉 年末まであと208日

https://ja.wikipedia.org/wiki/6%E6%9C%886%E6%97%A5

6月6日の出来事

1941年 – 北海道紋別郡雄武町で幌内ダム決壊事故発生。60名が死亡する。

1942年 – 第二次世界大戦・ミッドウェー海戦:主力空母「赤城」「飛龍」が沈没し日本海軍機動部隊が事実上壊滅。

年月日:1942年6月5日 - 6月7日(6月3日から5日とする見解もある)[1]

場所:中部太平洋、ハワイ諸島北西のミッドウェー島とその周辺海域[1]。

結果:アメリカ軍の勝利。日本軍は制空・制海権を失い、戦局の主導権がアメリカ側に移行[1]。

損害:日本軍 3057人戦死 米軍 307人戦死 

1944年 – 第二次世界大戦: ノルマンディー上陸作戦が決行される。(D-デイ)

年月日:1944年6月6日

場所:北フランス(ノルマンディー、コタンタン半島)

結果:連合軍の勝利

(歴史的意味および余波も参照)

連合軍がフランスに上陸し、西部戦線での陸戦が再開

損害:連合軍 6日投入兵力15万人 米軍 戦死1,465[2]~2,501[3] 米軍以外連合軍 1913人合計 約3300人 独軍 38万人 戦死9000人 捕虜約20000人 

1945年 – 第二次世界大戦・沖縄戦: 陸戦隊指揮官大田実海軍少将が海軍次官宛に、後世有名になった「沖縄県民斯ク戦ヘリ」の電報を打電。沖縄戦 損害 日本 軍94000死亡 民間94000死亡 死傷率=死亡率 軍のみ81% 民間含むと162% 連合軍(米軍) 死者20000 戦傷者50000 戦闘外傷病者 25000

死傷率 95000÷548000=0.173 17.3%

*米軍兵士曰く「日本兵との戦いに比べると、ドイツ兵との戦いは、お嬢さんとのダンス」

1945年-沖縄戦6月6日:米軍:・第1海兵師団は、どうやら泥から解放され、6月6日には小禄半島のふもとを通って、道のりの半分ほどまできていた。《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 462頁より》・6月6日の朝、大隊長のU・H・トンプソン少佐は、与那城から逃げ腰の日本軍を破竹の勢いで退去させると、ジューン・E・バイヤーズ大尉指揮下のB中隊をして八重瀬岳一帯のかべに当たらせてみた。3個分隊からなる偵察隊が機関銃の弾幕のもとにしのびこんでいったが、機関銃陣地は撃滅しようにも、手榴弾も届かないほど洞窟の奥深くに据えられているので、撃滅することができない。《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 468頁より》・B中隊はけわしい坂を登って丘陵の中程にある平坦な場所をめざして進んで行った。この進撃は、日本軍が引き延ばし戦術に出るべく用意した前線を越え、牛島中将が〝全力を結集して〟米軍を撃滅し、米軍に最大の被害を与えるべく麾下に命令を下していたその地区まで入り込んでいたのである。「この目的完遂のため、陣地は最後の一兵まで死守すべし、もちろん退却は許されない」これが、牛島中将がこの陣地の防衛にあたって将兵に与えた訓示であった。日本軍は、米軍の両中隊が予定された射程内に入ってくるまで、辛抱強く待った。そして射程内に入るやいなや、機関銃や20ミリ砲を轟然と発砲した。《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 468-470、478頁より》:日本軍:・6日は朝から、梅雨の晴れ間になった。それは米軍機の行動を容易にし、艦砲射撃の精度を高めた。北側の最前線は半島のほぼ中央部まで押し上げられ、わずか15平方キロの半島は彼我入り乱れての死闘となった。沖根司令部が戦闘指揮所として使っていた宇栄原の「羽田山」(元・護部隊本部)も、米軍戦車の「馬乗り攻撃」を受ける切迫した戦況となり、司令官と幕僚は同夜、豊見城74高地の元の司令部に戻る。 《「沖縄県民斯ク戦ヘリ 大田實海軍中将一家の昭和史』(田村洋三 / 光人社NF文庫) 422頁より》・6日は早朝から天候が回復した。5日に引き続き米軍の攻撃はこの日も活発であった。米軍は次々と馬乗り攻撃をかけ、各壕を撃破した。事態は緊迫していた。6日の夕方、大田司令官は、小禄地区の陥落はもはや時間の問題と判断して、… 訣別電を発した。「戦況は切迫せり。小官の報告は本電をもってひとまず終止符を打つべき時機に到達したものと判断する。御了承ありたし」

… 大田司令官は6日夜、豊見城の沖縄方面根拠地隊司令部に指揮所を移動した。

さらに同日の夜、海軍次官あて別記の「沖縄県民かく戦えり。・・・県民に対し後世特別の御高配を賜わらんことを」の電報を打った。《「沖縄 旧海軍司令部壕の軌跡」(宮里一夫著/ニライ社) 106-108頁より》・この頃、陸軍第32軍の司令部から神参謀が本土に向けて与論島を経由し沖縄脱出を試みている最中であったが、神参謀の日誌には「政府に対する連絡」として、レイシズム (人種差別) とスパイ陰謀論を利用し、沖縄戦の戦況悪化を沖縄人へ責任転嫁する内容が記されている。大田中将は(一部ハ兎角ノ悪評ナキニシモアラザルモ)という言葉で、当時拡散されていた「意図的に歪められた情報」を否定する意図もあったと思われる(以上引用元サイト注)。

1994年 – コロンビア南部カウカ県でM6.4の地震。約800名の死者を出す。

2015年 – 砂川市一家5人死傷事故: 北海道砂川市の国道12号で、飲酒後の男2人が、飲み直すため速度を競い合い自動車を運転。赤信号を無視して時速100キロ超で交差点に突入し、北海道歌志内市の一家5人が乗る車に衝突し、4人が死亡、1人が重体となった[24]。

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1941年 – 北海道紋別郡雄武町で幌内ダム決壊事故発生。60名が死亡する。

1942年 – 第二次世界大戦・ミッドウェー海戦:主力空母「赤城」「飛龍」が沈没し日本海軍機動部隊が事実上壊滅。

年月日:1942年6月5日 - 6月7日(6月3日から5日とする見解もある)[1]

場所:中部太平洋、ハワイ諸島北西のミッドウェー島とその周辺海域[1]。

結果:アメリカ軍の勝利。日本軍は制空・制海権を失い、戦局の主導権がアメリカ側に移行[1]。

損害:日本軍 3057人戦死 米軍 307人戦死 

1944年 – 第二次世界大戦: ノルマンディー上陸作戦が決行される。(D-デイ)

年月日:1944年6月6日

場所:北フランス(ノルマンディー、コタンタン半島)

結果:連合軍の勝利

(歴史的意味および余波も参照)

連合軍がフランスに上陸し、西部戦線での陸戦が再開

損害:連合軍 6日投入兵力15万人 米軍 戦死1,465[2]~2,501[3] 米軍以外連合軍 1913人合計 約3300人 独軍 38万人 戦死9000人 捕虜約20000人 

1944年6月6日Dデイ

連合軍兵力6月6日15万6千人

連合軍損害アメリカ軍

戦死1,465[2]~2,501[3]

他連合軍戦死1,913[4]

負傷者約6,000人[5]

死亡率 戦死2000人として計算すると1.2%

死傷率 死傷8000人として5.1%

ナチスドイツ軍兵力38万

死亡不明 死傷9000

死傷率 2.3%

1945年 – 第二次世界大戦・沖縄戦: 陸戦隊指揮官大田実海軍少将が海軍次官宛に、後世有名になった「沖縄県民斯ク戦ヘリ」の電報を打電。沖縄戦 損害 日本 軍94000死亡 民間94000死亡 死傷率=死亡率 軍のみ81% 民間含むと162% 連合軍(米軍) 死者20000 戦傷者50000 戦闘外傷病者 25000

死傷率 95000÷548000=0.173 17.3%

*米軍兵士曰く「日本兵との戦いに比べると、ドイツ兵との戦いは、お嬢さんとのダンス」

日本総兵力116000(陸50000  海3000   現地招集30000 他)

連合軍総兵力のべ548000

損害

日本 軍94000死亡 民間94000死亡   

死傷率=死亡率(軍のみ 81% 民間入れると 162%)

連合軍(米軍) 死者20000 戦傷者50000 戦闘外傷病者 25000

死傷率 95000÷548000=0.173 17.3%

1945年-沖縄戦6月6日:米軍:・第1海兵師団は、どうやら泥から解放され、6月6日には小禄半島のふもとを通って、道のりの半分ほどまできていた。《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 462頁より》・6月6日の朝、大隊長のU・H・トンプソン少佐は、与那城から逃げ腰の日本軍を破竹の勢いで退去させると、ジューン・E・バイヤーズ大尉指揮下のB中隊をして八重瀬岳一帯のかべに当たらせてみた。3個分隊からなる偵察隊が機関銃の弾幕のもとにしのびこんでいったが、機関銃陣地は撃滅しようにも、手榴弾も届かないほど洞窟の奥深くに据えられているので、撃滅することができない。《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 468頁より》・B中隊はけわしい坂を登って丘陵の中程にある平坦な場所をめざして進んで行った。この進撃は、日本軍が引き延ばし戦術に出るべく用意した前線を越え、牛島中将が〝全力を結集して〟米軍を撃滅し、米軍に最大の被害を与えるべく麾下に命令を下していたその地区まで入り込んでいたのである。「この目的完遂のため、陣地は最後の一兵まで死守すべし、もちろん退却は許されない」これが、牛島中将がこの陣地の防衛にあたって将兵に与えた訓示であった。日本軍は、米軍の両中隊が予定された射程内に入ってくるまで、辛抱強く待った。そして射程内に入るやいなや、機関銃や20ミリ砲を轟然と発砲した。《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 468-470、478頁より》:日本軍:・6日は朝から、梅雨の晴れ間になった。それは米軍機の行動を容易にし、艦砲射撃の精度を高めた。北側の最前線は半島のほぼ中央部まで押し上げられ、わずか15平方キロの半島は彼我入り乱れての死闘となった。沖根司令部が戦闘指揮所として使っていた宇栄原の「羽田山」(元・護部隊本部)も、米軍戦車の「馬乗り攻撃」を受ける切迫した戦況となり、司令官と幕僚は同夜、豊見城74高地の元の司令部に戻る。 《「沖縄県民斯ク戦ヘリ 大田實海軍中将一家の昭和史』(田村洋三 / 光人社NF文庫) 422頁より》・6日は早朝から天候が回復した。5日に引き続き米軍の攻撃はこの日も活発であった。米軍は次々と馬乗り攻撃をかけ、各壕を撃破した。事態は緊迫していた。6日の夕方、大田司令官は、小禄地区の陥落はもはや時間の問題と判断して、… 訣別電を発した。「戦況は切迫せり。小官の報告は本電をもってひとまず終止符を打つべき時機に到達したものと判断する。御了承ありたし」

… 大田司令官は6日夜、豊見城の沖縄方面根拠地隊司令部に指揮所を移動した。

さらに同日の夜、海軍次官あて別記の「沖縄県民かく戦えり。・・・県民に対し後世特別の御高配を賜わらんことを」の電報を打った。《「沖縄 旧海軍司令部壕の軌跡」(宮里一夫著/ニライ社) 106-108頁より》・この頃、陸軍第32軍の司令部から神参謀が本土に向けて与論島を経由し沖縄脱出を試みている最中であったが、神参謀の日誌には「政府に対する連絡」として、レイシズム (人種差別) とスパイ陰謀論を利用し、沖縄戦の戦況悪化を沖縄人へ責任転嫁する内容が記されている。大田中将は(一部ハ兎角ノ悪評ナキニシモアラザルモ)という言葉で、当時拡散されていた「意図的に歪められた情報」を否定する意図もあったと思われる(以上引用元サイト注)。

1994年 – コロンビア南部カウカ県でM6.4の地震。約800名の死者を出す。

2015年 – 砂川市一家5人死傷事故: 北海道砂川市の国道12号で、飲酒後の男2人が、飲み直すため速度を競い合い自動車を運転。赤信号を無視して時速100キロ超で交差点に突入し、北海道歌志内市の一家5人が乗る車に衝突し、4人が死亡、1人が重体となった[24]。

チャットgpt先生の6月6日のエッセイ

6月6日 ― 「勝った側の歴史」と、忘れた側の戦後

6月6日という日は、軍事史の転換点がいくつも重なっている。

1942年のミッドウェー。
1944年のノルマンディー上陸。
1945年の沖縄戦。

どれも第二次世界大戦の趨勢を決定づけた戦いだが、その中で最も日本人が知らず、語らず、理解していない戦場は、おそらく沖縄戦である。

日本本土では「悲惨だった」「住民が巻き込まれた」「集団自決があった」という断片的な知識だけが流通している。しかし、沖縄戦が実際にはどれほど異常な戦闘だったのか、その軍事的実相は驚くほど共有されていない。

沖縄戦は、日本軍が勝った戦いではない。完全敗北である。
だが同時に、米軍が太平洋戦争全体を通じて、最も「勝ちたくない形で勝った」戦いでもあった。

米軍は圧倒的物量を持っていた。制海権、制空権、補給能力、火力、工兵力、通信能力、医療能力、すべてで日本軍を凌駕していた。数字だけ見れば勝敗は戦う前から決まっている。

それでも米軍は苦しんだ。

日本軍は沖縄で、従来の玉砕突撃を修正し、「持久消耗戦」に徹した。洞窟陣地、地下壕、逆斜面、防御縦深、夜間浸透。兵力不足と物資不足を前提に、「いかに長く敵を殺すか」に戦術思想を集中した。

米軍側記録を読むと、沖縄戦は「前進した」というより、「一つ一つの丘と洞窟を破壊しながら這い進んだ」戦場である。

しかも相手は降伏しない。

硫黄島でもそうだったが、沖縄ではさらに規模が大きかった。日本軍は後退しても戦線は崩壊しない。壕を一つ潰しても、次の尾根からまた機関銃が来る。火炎放射器で焼いても終わらない。豪雨と泥濘で戦車も止まる。米軍は毎日進撃しながら、毎日精神を削られていった。

「日本兵との戦いに比べると、ドイツ兵との戦いは、お嬢さんとのダンスだ」

これは誇張ではなく、当時の米兵側の率直な感覚だったのだろう。

ノルマンディー上陸作戦は、たしかに史上最大級の上陸作戦だった。しかし、戦場としての性質は違う。ドイツ軍は合理的軍隊であり、戦線維持不能になれば撤退する。包囲されれば降伏もする。

だが沖縄では、日本軍は組織崩壊後も戦闘を続けた。

米軍から見れば、「敵軍を撃破した後に、本当の地獄が始まる」戦場だった。

そしてその地獄の中に、民間人が存在していた。

ここで重要なのは、戦後日本が沖縄戦を「悲劇」としてのみ処理した点である。
もちろん悲劇だった。だが、それだけでは実相を見失う。

沖縄住民は単なる受動的被害者ではなかった。
日本軍に協力した者もいた。スパイ視された者もいた。避難民として右往左往した者もいた。軍に動員された少年少女もいた。壕を追われた者もいた。米軍に投降した者もいた。

つまり、人間が極限状況で示す、清濁すべてが沖縄にはあった。

だが戦後日本は、その複雑さを長く扱えなかった。

GHQのプレスコードは、日本側の戦争体験を「軍国主義の狂気」という単線構造に整理する方向へ働いた。もちろん日本軍の暴虐や無謀は現実に存在した。しかし同時に、「なぜあれほど戦ったのか」「なぜ沖縄だけがあれほどの持久戦になったのか」という軍事的分析や、人間的複雑性は後景に退いた。

戦後日本人は、「沖縄戦を理解する」以前に、「沖縄戦を知らない」。

大田実少将の「沖縄県民斯ク戦ヘリ」の電報だけが、美談として切り取られた。

「県民ニ対シ後世特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ」

この言葉は戦後、半ば神話化された。
だが冷静に見れば、その「特別の御高配」は、本当に存在したのか。

復帰後も基地負担は集中し続けた。
本土側は「沖縄問題」と言うが、多くの日本人は沖縄戦の戦場位置すら曖昧である。
慰霊の日は知っていても、牛島満も大田実も、シュガーローフも前田高地も、小禄も摩文仁も知らない。

つまり、「心を持ったか」という以前に、多くは関心すら持たなかった。

沖縄戦とは、日本軍最後の組織的戦闘であると同時に、戦後日本の記憶構造を決定づけた戦場でもある。

そして6月6日は、その巨大な崩壊のただ中にあった日だ。

ミッドウェーでは日本海軍機動部隊が事実上壊滅した。
ノルマンディーでは西部戦線が再開した。
沖縄では、日本という国家の終焉が、地下壕の泥と血の中で進行していた。

しかもそれは、「一億玉砕」の絶叫ではなく、疲弊した兵士、飢えた住民、崩れる壕、泥濘、砲撃、敗北を理解しながら戦い続ける人間たちによって進んでいた。

そこには英雄譚も、単純な被害者物語もない。

あるのは、「負けると分かっていても戦争は止まらない」という、近代国家総力戦の冷酷な現実だけである。

6月6日は、勝者の記念日として語られることが多い。
しかし日本側から見るなら、この日はむしろ、「敗北とは何か」を最も濃密に示した日付なのかもしれない。