kagamimochi-nikki 加賀美茂知日記
慶祝と美とグノ-シスの弥増す日々
日々の過去の出来事

今日という日5月30日 1431ジャンヌ・ダルク火刑、ほか写真wikipedia『シャルル7世年代記』の、執行前のジャンヌ

5月30日

20260530土曜日旧暦4月14日大安(41番甲辰きのえたつコウシン)月齢 13.2

43番丙午ひのえうま年 30番癸巳みずのとみ月 41番甲辰きのえたつ日

吉方位 陽遁日 甲辰きのえたつ日 西 中吉 年末まではあと215日

https://ja.wikipedia.org/wiki/5%E6%9C%8830%E6%97%A5

5月30日の出来事

819年(弘仁10年5月3日) – 空海が高野山で金剛峰寺の開創に着手。

1431年 – ジャンヌ・ダルクが、3ヶ月ほど続いた異端審問の末、フランスのルーアンで火刑に処される[1]。

1434年 – フス戦争: リパニの戦い。時          1434年5月30日

場所        チェスキー・ブロト(英語版)近郊のリパニ(英語版)

座標: 北緯50度01分43秒 東経14度56分13秒

結果        ウトラキストとカトリックの決定的勝利

損害:フス軍 1万人中 1300戦死 700人処刑。カトリック軍13000人中 戦死 200人

1935年 – パキスタンでMw 7.7の地震、58,000人死亡。

1945年沖縄戦5月30日雨つづく(21日から):米軍:・首里城の地下壕入口は、5月30日の午後1時30分になってもまだ、日本軍が頑強に保持していたし、首里では、米軍はそれ以上の土地をとることができなかった。海兵第3大隊と第1大隊は、塹壕を掘って日本軍本陣内でたてこもり、日本軍は、後方守備隊が首里周辺の戦線を維持するために、がんばっていた。

首里城の占領は、それによって、日本軍が首里から退いた、ということでないばかりか、首里の占領でもなく、また日本軍の全計画に影響を与えたともみえなかった。海兵隊は、ただ踏みとどまるだけのために、いまや食料や水、弾薬のかき集めに、一所懸命になっていたのだ。

第306歩兵連隊は、5月30日、海兵隊の戦線を横切って首里城の西方にある〝100メートル高地〟に攻撃を加えたが、そこにいた日本軍に撃退された。だが、ここ以外は首里戦線の重要な陣地はすべて米軍が奪いとった。これは明らかに、日本軍後方守備陣地の破壊となった。ここまで来てはじめて、米軍は日本軍が首里から撤退したという証拠を、前線で確認できたのである。《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 406頁より》・5月30日と31日、米軍は散発的な抵抗を抑えて、首里防衛線を制圧した。用心ぶかく首里城要塞に入った海兵隊員と米軍の兵士は、散乱する日本兵の死体を発見したが、主要な装備品はなくなっていた。首里城には腐敗した死臭が充満していた。1万の労働者が8年もの歳月をかけて建設した城は、艦砲射撃で無残に破壊され、城石がまるで、大きなおもちゃのブロックのように転がり、砕け散っていた。そこに牛島中将の姿はなかった。《「沖縄 シュガーローフの戦い 米海兵隊 地獄の7日間」(ジェームス・H・ハラス/猿渡青児・訳/光人社NF庫) 》:日本軍:・難攻不落を誇った首里を撤退して南下する途中、津嘉山に仮の新戦闘司令所を設けた守備軍首脳…は、…30日午前零時ごろ津嘉山を発ち、その日のうちに摩文仁へ到着した。そして89高地(摩文仁岳)の八合目あたりにある自然洞窟に落ちついた。《写真記録「これが沖縄戦だ」(大田昌秀 編著/琉球新報社) 164頁より》

1952年 – 東京都板橋に存在した岩之坂上派出所を在日朝鮮人ら約300人が襲撃。警察官12人が拳銃を発射して応戦したため死者3人、重軽傷者10余人[4]。

1972年 – 日本赤軍がテルアビブのロッド空港で銃乱射(テルアビブ空港乱射事件)。犯人2人を含む26人死亡。

1978年 – アメリカ、テキサスシティでマラソン・オイル社の大型石油タンク(55,000ガロン)2基が次々と爆発炎上。死者20人以上[9]。

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819年(弘仁10年5月3日) – 空海が高野山で金剛峰寺の開創に着手。

金剛峯寺(こんごうぶじ)は、和歌山県伊都郡高野町高野山にある高野山真言宗の総本山の寺院。正式には高野山金剛峯寺(こうやさんこんごうぶじ)と号する。

高野山は、和歌山県北部、周囲を1,000メートル級の山々に囲まれた標高約800メートルの盆地状の平坦地に位置する。100か寺以上の寺院が密集する日本では他に例を見ない宗教都市である。京都の東寺と共に、真言宗の宗祖である空海(弘法大師)が修禅の道場として開創し、真言密教の聖地、また、弘法大師入定信仰の山として、21世紀の今日も多くの参詣者を集めている。2004年(平成16年)7月に登録されたユネスコの世界遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」の構成資産の一部[1]。

「金剛峯寺」という寺号は、明治期以降は1つの寺院の名称になっている。しかし高野山は「一山境内地」といわれ高野山全域が寺の境内地とされ、金剛峯寺の山号が高野山であることからも分かるように、元来は真言宗の総本山としての高野山全体と同義であった。寺紋は五三桐紋と三つ巴紋。

1431年 – ジャンヌ・ダルクが、3ヶ月ほど続いた異端審問の末、フランスのルーアンで火刑に処される[1]。

概要

ジャンヌは現在のフランス東部ドンレミ(現在はドンレミ=ラ=ピュセルという街)に、農夫の娘として生まれた。神の啓示を受けたとしてフランス軍に従軍し、イングランドとの百年戦争で重要な戦いに参戦し勝利を収め、各都市をフランスへ取り戻し、のちのフランス王シャルル7世の戴冠を成功させた。

その後ジャンヌはブルゴーニュ公国軍の捕虜となり、身代金と引き換えにイングランドへ引き渡された。イングランドと通じていたボーヴェ司教ピエール・コーションによって「不服従と異端[6]」の疑いで異端審問にかけられ、最終的に異端の判決を受けたジャンヌは、19歳で火刑に処せられてその生涯を終えた[7]。

処刑

1431年5月30日に執行されたジャンヌの火刑の目撃証言が残っている。場所はルーアンのヴィエ・マルシェ広場で、高い柱に縛りつけられたジャンヌは、立会人のマルタン・ラドヴニューとイザンヴァル・ド・ラ・ピエールの2人の修道士に、自分の前に十字架を掲げて欲しいと頼んだ。一人のイングランド兵士も、ジャンヌの服の前に置かれていた小さな十字架を立てて、ジャンヌに見えるようにした。そして火刑に処せられて息絶えたジャンヌが実は生き延びたと誰にも言わせないために、処刑執行者たちが薪の燃えさしを取り除いて、黒焦げになったジャンヌの遺体を人々の前に晒した。さらにジャンヌの遺体が遺物となって人々の手に入らないように、再び火がつけられて灰になるまで燃やされた。灰になったジャンヌの遺体は、処刑執行者たちによってマチルダと呼ばれる橋の上からセーヌ川へ流された。ジャンヌの処刑執行者の1人ジョフロワ・セラージュはのちに「地獄へ落ちるかのような激しい恐怖を感じた」と語っている[59]。

1434年 – フス戦争: リパニの戦い。時          1434年5月30日

場所        チェスキー・ブロト(英語版)近郊のリパニ(英語版)

座標: 北緯50度01分43秒 東経14度56分13秒

結果        ウトラキストとカトリックの決定的勝利

損害:フス軍 1万人中 1300戦死 700人処刑。カトリック軍13000人中 戦死 200人

リパニの戦い (リパニのたたかい、チェコ語:Bitva u Lipan)又はチェスキー・ブロトの戦いは、1434年5月30日にプラハの40km東のリパニで発生した戦い。 フス戦争を実質的に終わらせた。 ボヘミア同盟(ウトラキスト(穏健派フス派)+カトリック)が、大プロコプ率いる過激派フス派(ターボル派+シロッツィ)を破った。

1935年 – パキスタンでMw 7.7の地震、58,000人死亡。

1945年沖縄戦5月30日雨つづく(21日から):米軍:・首里城の地下壕入口は、5月30日の午後1時30分になってもまだ、日本軍が頑強に保持していたし、首里では、米軍はそれ以上の土地をとることができなかった。海兵第3大隊と第1大隊は、塹壕を掘って日本軍本陣内でたてこもり、日本軍は、後方守備隊が首里周辺の戦線を維持するために、がんばっていた。

首里城の占領は、それによって、日本軍が首里から退いた、ということでないばかりか、首里の占領でもなく、また日本軍の全計画に影響を与えたともみえなかった。海兵隊は、ただ踏みとどまるだけのために、いまや食料や水、弾薬のかき集めに、一所懸命になっていたのだ。

第306歩兵連隊は、5月30日、海兵隊の戦線を横切って首里城の西方にある〝100メートル高地〟に攻撃を加えたが、そこにいた日本軍に撃退された。だが、ここ以外は首里戦線の重要な陣地はすべて米軍が奪いとった。これは明らかに、日本軍後方守備陣地の破壊となった。ここまで来てはじめて、米軍は日本軍が首里から撤退したという証拠を、前線で確認できたのである。《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 406頁より》・5月30日と31日、米軍は散発的な抵抗を抑えて、首里防衛線を制圧した。用心ぶかく首里城要塞に入った海兵隊員と米軍の兵士は、散乱する日本兵の死体を発見したが、主要な装備品はなくなっていた。首里城には腐敗した死臭が充満していた。1万の労働者が8年もの歳月をかけて建設した城は、艦砲射撃で無残に破壊され、城石がまるで、大きなおもちゃのブロックのように転がり、砕け散っていた。そこに牛島中将の姿はなかった。《「沖縄 シュガーローフの戦い 米海兵隊 地獄の7日間」(ジェームス・H・ハラス/猿渡青児・訳/光人社NF庫) 》:日本軍:・難攻不落を誇った首里を撤退して南下する途中、津嘉山に仮の新戦闘司令所を設けた守備軍首脳…は、…30日午前零時ごろ津嘉山を発ち、その日のうちに摩文仁へ到着した。そして89高地(摩文仁岳)の八合目あたりにある自然洞窟に落ちついた。《写真記録「これが沖縄戦だ」(大田昌秀 編著/琉球新報社) 164頁より》

1952年 – 東京都板橋に存在した岩之坂上派出所を在日朝鮮人ら約300人が襲撃。警察官12人が拳銃を発射して応戦したため死者3人、重軽傷者10余人[4]。

1972年 – 日本赤軍がテルアビブのロッド空港で銃乱射(テルアビブ空港乱射事件)。犯人2人を含む26人死亡。

テルアビブ空港乱射事件(テルアビブくうこうらんしゃじけん)・ロッド空港の虐殺(ロッドくうこうのぎゃくさつ、英語: Lod Airport massacre[1][2])は、1972年5月30日にイスラエルのテルアビブ近郊都市ロッドに所在するロッド国際空港(現:ベン・グリオン国際空港)で発生した、パレスチナ解放人民戦線(PFLP)の対外作戦部隊 (PFLP-EO)が計画し、当時「アラブ赤軍」などと自称した日本人政治活動家(後の日本赤軍)3名が実行したテロリズム事件[2][3]。

プエルトリコ人(アメリカ合衆国籍)17人、イスラエル人8人、カナダ人1人の、計26人の民間人が殺害され、80人が重軽傷を負った。欧米や日本では無差別テロとする理解が主である[4]。

1978年 – アメリカ、テキサスシティでマラソン・オイル社の大型石油タンク(55,000ガロン)2基が次々と爆発炎上。死者20人以上[9]。

チャットgpt先生の5月30日のエッセイ

5月30日という日付を、暦や吉凶から切り離して眺めると、「局所的な崩壊が同時多発的に記録される日」としての輪郭が浮かぶ。宗教的開創、処刑、内戦の決着、大地震、そして近代戦争の極限局面まで、性質の異なる出来事が一つの時間帯に圧縮されているのが特徴的だ。


この日の歴史の中で、最も長い影を落とすのは1945年の沖縄戦である。特に首里防衛線が事実上崩れ始める局面は、単なる戦線移動ではなく、作戦体系そのものの収縮だった。

米軍側から見れば、沖縄戦は「上陸して制圧する戦闘」ではなく、想定以上に層状化された縦深防御との消耗戦になった。艦砲射撃と航空支援、圧倒的な補給能力を持ちながらも、地形利用と地下化された陣地、そして段階的後退を組み合わせた日本軍の防御は、戦術的に予想より長く持ちこたえた。特に首里周辺は、単純な前線突破ではなく、防衛線そのものが「戦場の位置をずらしながら時間を稼ぐ構造」になっていた。

ここで重要なのは、米軍が「進撃している」というよりも、「制圧したはずの空間が機能停止していない」状態に繰り返し直面していた点である。前線の占領がそのまま支配を意味しない局面が続き、結果として補給・負傷者処理・再配置が戦闘そのものと同じ比重を持つようになった。沖縄戦はしばしば“島嶼戦の極限形”と呼ばれるが、実態としては「前線と後方の区別が崩れた持久戦」に近い。

また、この戦闘では民間人の存在が構造的に戦場へ組み込まれていた点が避けられない。避難・動員・捕虜化・再配置が短期間に連続し、軍事秩序の外側にあるはずの人口が戦闘の圧力の中に引き込まれた。その結果として、捕虜・投降者・避難民をめぐる扱いは、戦時プロパガンダや情報統制、前線の誤認、恐怖反応などが重なった複雑な領域に属することになる。

戦後において、この部分は占領期の検閲や報道統制(いわゆるプレスコード)の影響もあって、一次記録と公開情報の間に断絶が生まれた領域でもある。ただしそれは「単一の隠蔽構造」というより、敗戦直後の情報管理・政治再編・証言の遅延が重なった結果として、複数の解釈層が並存する状態を作ったと見る方が実態に近い。

いずれにせよ、沖縄戦の本質を冷静に捉えるなら、それは「どちらが優勢だったか」という単純な図式ではなく、「近代火力戦と地形戦、そして住民を含む非対称構造が同時に作動した極端な消耗モデル」である。米軍は物量面では圧倒的優位にありながら、それが即時の戦域制圧に直結しない状況に直面した。これは太平洋戦域の中でも特異な構造であり、戦略的勝利と戦術的遅延が同時に成立した稀な事例でもある。


この日には他にも、異端審問による火刑(ジャンヌ・ダルク)、宗教都市の開創(高野山)、フス戦争の決定的会戦など、「制度と信念の衝突が個体に帰結する局面」が並ぶ。一方で20世紀以降は、地震災害や無差別的テロ、産業事故のように、意思主体が分散したまま被害だけが集中的に発生する事象が目立つ。

つまり5月30日は、歴史の中で「秩序が個人に回収される時代」と「構造が分散したまま破局が発生する時代」の両方が同居している日でもある。

沖縄戦を含む近代の項目は、その転換点を象徴している。戦争が国家間の意志決定の延長ではなく、現場構造そのものの摩擦として現れるようになった時代の、最も極端なサンプルの一つとして。