5月22日
20260522金曜日旧暦4月6日先負(33番丙申ひのえさるヘイシン)月齢 5.2
43番丙午ひのえうま年 30番癸巳みずのとみ月 33番丙申ひのえさる日
吉方位 陽遁日 丙申ひのえさる日 東 南東 大吉 年末まではあと223日
https://ja.wikipedia.org/wiki/5%E6%9C%8822%E6%97%A5
5月22日の出来事
紀元前334年 – アレクサンドロス3世のマケドニア王国軍がグラニコス川の戦いでペルシア軍を破る[1]。戦争:アレクサンドロス3世の東方遠征
年月日:紀元前334年5月
場所:グラニコス川(現:ビガ川(英語版))
結果:マケドニアの勝利
損害」:マケドニア軍 25000人中 戦死300人程度 ペルシア軍 35000人中 戦死4000人 捕虜2000人。
1903年 – 第一高等学校の生徒であった藤村操が華厳滝で自殺。社会に大きな影響を与え、後を追うものが続出。
1917年 – 山形県米沢市で大火。死者11人、2300戸が焼失[2]。
1945年沖縄戦5月22日首里へ:米軍:・米軍参謀たちは、日本軍は首里で最後まで戦うだろう、と信じていた。… 誰しもが、首里で最後の日本兵が殺されるまで、戦いはずっとつづいていくだろうと考えていたのである。… 情報将校のルイス・B・エリィ大佐は、… 22日の夕方に開かれた幕僚会議でも、与那原街道を第7師団が通過したとき、さして強い抵抗がなかったことについて、「これはジャップが、首里にたてこもったことを意味するのだ」と、彼の見解を裏づける材料として解釈していた。さらにバックナー中将も、「私は日本軍の第一戦線部隊は、全部首里にいると思う。退いていくようには見えない」といっていた。《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 421頁より》・米軍は5月19日から10日間のシュガーローフの戦闘で2662人の戦死傷者を出し、1289人の戦闘疲労症をだした。米軍は、第一次世界大戦の経験を踏まえ、激増する戦闘疲労症に対し沖縄に精神科医を送り対応にあたった。旧日本軍の兵舎跡に戦闘疲労症の患者だけを収容する第82野戦病院を設立した。・ところが45年5月10日前後から、海兵師団は南部戦線に投入され、これと前後して「戦闘神経」問題が真剣に議論されるようになってきた。すなわち5月5日、第82野戦病院の病院長が、第3海兵師団医療部のモリソン大佐 (Cap. Morrison)、第1海兵師団医療部のキンブロウ大佐 (Cap. Kimbrough)、さらに2人の副官と協議し、海兵隊員の「戦闘神経症」患者については第82戦闘病院に転送し治療する行為が得られた。 それを裏付けるかのように、5月10日を前後して、シュガーローフヒルの戦闘において多数の「戦闘神経症」患者が発生し、野戦病院に運ばれることになった。
海兵隊員の野戦病院への転送が決まると、今度は病院が患者で溢れかえる現場が出てきた。すなわち、「シュガーローフの攻撃、そしてその占領から確保に至る十日間の戦闘で、第6海兵師団は、実に2662人の戦死傷者をだし、1289人の戦闘疲労症を出した。(中略) 非戦闘病者はおびただしい数になった。その多くが神経精神病、つまり『戦闘疲労症』であった。この種の患者は、海兵2個師団 ( 第1、第6)で、6315人、陸軍4個師団(第7、第27、第77、第96)で7762人を数えた」という。《『沖縄戦のトラウマ ~ 心に突き刺す棘』保坂廣志、紫峰出版 (2014) 沖縄戦と米兵の戦闘神経症 (pp. 242-243) 》:日本軍:・玉砕を主張したのは第62師団だけだった。もう戦おうにも武器弾薬がない。首里周辺の洞窟には「後送するにも余力はなく、また集積した軍需品を輸送する手段もない。重傷者を見捨てて後退するのは、情として忍びない。師団は戦友将兵の大部分が戦死した現戦線で玉砕したい」と訴えた。後退と決定したら、動けない重傷患者は自らの手で殺してしまわなければならないのだ。それが日本軍であり、「虜囚の辱め」を受けさせないためである。
八原高級参謀はこうした意見を聞いたあと、長参謀長に対して、首里を放棄して喜屋武半島へ後退すべきことを進言した。すぐにでも玉砕したがっていた参謀長だったが、本土決戦を少しでも有利にするために、できるだけ長く抵抗すべきである、という意見には賛成しないわけにはいかなかった。それが沖縄守備軍・第32軍に課せられた最大の任務だったからである。《図解「沖縄の戦い」(太平洋戦争研究会=編・森山康平=著/河出書房新社) 78、80頁より》・牛島中将は決断をせまられていた。首里で玉砕するか、知念半島へ撤退するか、あるいは20キロメートル南に位置する、多くの洞窟点在する八重瀬岳・与座岳まで撤退するかである。この場所には第24師団が北の首里に移動したさいに、武器や弾薬の補給物資をそのまま残していた。
すでに6万人以上の将兵が戦死していた。歩兵第62師団、歩兵第24師団、独立混成第44旅団ともに、ボロボロになっており、首里防衛線は崩壊の危機に瀕していた。
首里の防衛拠点が縮小していくなか、最後の決戦にために大規模な撤退作戦が計画された。生存している5万名もの将兵が、直径数キロ円内に押しこめられた場合、自滅は必至である。いったん包囲されてしまえば、圧倒的な火力をほこる米軍に前に日本軍の将兵は、格好の餌食にされてしまう。
最善の解決策、かつ、もっとも戦闘をひきのばす策を、牛島中将は選んだ。生き残った将兵を南部の八重瀬岳・与座岳方面へ撤退させることである。背後は海であり、彼らはここで死ぬまで戦う運命となった。《「沖縄 シュガーローフの戦い 米海兵隊 地獄の7日間」(ジェームス・H・ハラス/猿渡青児・訳/光人社NF庫) 370-371頁より》
1960年 – チリ地震発生。環太平洋全域を津波が襲う。マグニチュード9.5を記録した観測史上世界最大級の地震である。死傷者数 2231 – 6000人
1962年 – コンチネンタル航空11便爆破事件。45名死亡(全員)。
1967年 – ベルギー・ブリュッセルのイノバシオンデパートで火災(英語版)。死者322人。
1968年 – 99人が乗ったアメリカ海軍の原子力潜水艦「スコーピオン」が演習からの帰途に消息を絶つ。後に破壊された船体が発見される。
1992年 – 映画監督の伊丹十三が、映画『ミンボーの女』に反発した暴力団員に自宅前で斬られる[5]。
2017年 – マンチェスター・アリーナに於ける爆発物事件: イングランドマンチェスターの屋内競技場マンチェスター・アリーナで自爆テロが発生。22人が死亡、59人が負傷した。事件当日、場内ではアリアナ・グランデのコンサートが開催されていた[11]。
2021年 – 黄河石林トレイルランニング遭難事故。中国甘粛省で行われたトレイルランニング大会中、悪天候により参加者21人が死亡[14]。
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紀元前334年 – アレクサンドロス3世のマケドニア王国軍がグラニコス川の戦いでペルシア軍を破る[1]。戦争:アレクサンドロス3世の東方遠征
年月日:紀元前334年5月
場所:グラニコス川(現:ビガ川(英語版))
結果:マケドニアの勝利
損害」:マケドニア軍 25000人中 戦死300人程度 ペルシア軍 35000人中 戦死4000人 捕虜2000人。
グラニコス川の戦い(グラニコスがわのたたかい、ギリシア語: Μάχη του Γρανικού)は、紀元前334年にグラニコス川畔(現:ビガ川(英語版))で、アレクサンドロス3世(大王)が率いるアルゲアス朝(マケドニア王国)およびコリントス同盟の連合軍とアケメネス朝(ペルシア)の軍勢との間に行われた会戦である。
開戦前、ペルシア側のギリシア傭兵を率いるメムノンはマケドニア軍は強力だが遠征してきているので焦土作戦による敵の弱体化を提案したというが、ヘレスポントス・フリュギア太守アルシテスの「我が国民の家に火を点けるなどとんでもない」「ギリシア傭兵にとっては、戦争が長引くと報酬が多くなるからだろう」などと批判にさらされた上、ギリシア傭兵は後方に配置されたために効率良く戦闘が出来なかった。
1903年 – 第一高等学校の生徒であった藤村操が華厳滝で自殺。社会に大きな影響を与え、後を追うものが続出。
藤村 操(ふじむら みさお、1886年(明治19年)7月20日[1] – 1903年(明治36年)5月22日)は、北海道出身の旧制一高の学生。華厳滝で投身自殺した。自殺現場に残した遺書「巌頭之感(がんとうのかん)」によって当時の学生・マスコミ・知識人に波紋を広げた[2]。
巖頭之感
悠々たる哉天壤、遼々たる哉古今、五尺の小軀を以て
此大をはからむとす。ホレーショの哲學竟に何等の
オーソリチィーを價するものぞ。萬有の
眞相は唯だ一言にして悉す、曰く、「不可解」。
我この恨を懷いて煩悶、終に死を決するに至る。
既に巖頭に立つに及んで、胸中何等の
不安あるなし。始めて知る、大なる悲觀は
大なる樂觀に一致するを。
1917年 – 山形県米沢市で大火。死者11人、2300戸が焼失[2]。
1945年沖縄戦5月22日首里へ:米軍:・米軍参謀たちは、日本軍は首里で最後まで戦うだろう、と信じていた。… 誰しもが、首里で最後の日本兵が殺されるまで、戦いはずっとつづいていくだろうと考えていたのである。… 情報将校のルイス・B・エリィ大佐は、… 22日の夕方に開かれた幕僚会議でも、与那原街道を第7師団が通過したとき、さして強い抵抗がなかったことについて、「これはジャップが、首里にたてこもったことを意味するのだ」と、彼の見解を裏づける材料として解釈していた。さらにバックナー中将も、「私は日本軍の第一戦線部隊は、全部首里にいると思う。退いていくようには見えない」といっていた。《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 421頁より》・米軍は5月19日から10日間のシュガーローフの戦闘で2662人の戦死傷者を出し、1289人の戦闘疲労症をだした。米軍は、第一次世界大戦の経験を踏まえ、激増する戦闘疲労症に対し沖縄に精神科医を送り対応にあたった。旧日本軍の兵舎跡に戦闘疲労症の患者だけを収容する第82野戦病院を設立した。・ところが45年5月10日前後から、海兵師団は南部戦線に投入され、これと前後して「戦闘神経」問題が真剣に議論されるようになってきた。すなわち5月5日、第82野戦病院の病院長が、第3海兵師団医療部のモリソン大佐 (Cap. Morrison)、第1海兵師団医療部のキンブロウ大佐 (Cap. Kimbrough)、さらに2人の副官と協議し、海兵隊員の「戦闘神経症」患者については第82戦闘病院に転送し治療する行為が得られた。 それを裏付けるかのように、5月10日を前後して、シュガーローフヒルの戦闘において多数の「戦闘神経症」患者が発生し、野戦病院に運ばれることになった。
海兵隊員の野戦病院への転送が決まると、今度は病院が患者で溢れかえる現場が出てきた。すなわち、「シュガーローフの攻撃、そしてその占領から確保に至る十日間の戦闘で、第6海兵師団は、実に2662人の戦死傷者をだし、1289人の戦闘疲労症を出した。(中略) 非戦闘病者はおびただしい数になった。その多くが神経精神病、つまり『戦闘疲労症』であった。この種の患者は、海兵2個師団 ( 第1、第6)で、6315人、陸軍4個師団(第7、第27、第77、第96)で7762人を数えた」という。《『沖縄戦のトラウマ ~ 心に突き刺す棘』保坂廣志、紫峰出版 (2014) 沖縄戦と米兵の戦闘神経症 (pp. 242-243) 》:日本軍:・玉砕を主張したのは第62師団だけだった。もう戦おうにも武器弾薬がない。首里周辺の洞窟には「後送するにも余力はなく、また集積した軍需品を輸送する手段もない。重傷者を見捨てて後退するのは、情として忍びない。師団は戦友将兵の大部分が戦死した現戦線で玉砕したい」と訴えた。後退と決定したら、動けない重傷患者は自らの手で殺してしまわなければならないのだ。それが日本軍であり、「虜囚の辱め」を受けさせないためである。
八原高級参謀はこうした意見を聞いたあと、長参謀長に対して、首里を放棄して喜屋武半島へ後退すべきことを進言した。すぐにでも玉砕したがっていた参謀長だったが、本土決戦を少しでも有利にするために、できるだけ長く抵抗すべきである、という意見には賛成しないわけにはいかなかった。それが沖縄守備軍・第32軍に課せられた最大の任務だったからである。《図解「沖縄の戦い」(太平洋戦争研究会=編・森山康平=著/河出書房新社) 78、80頁より》・牛島中将は決断をせまられていた。首里で玉砕するか、知念半島へ撤退するか、あるいは20キロメートル南に位置する、多くの洞窟点在する八重瀬岳・与座岳まで撤退するかである。この場所には第24師団が北の首里に移動したさいに、武器や弾薬の補給物資をそのまま残していた。
すでに6万人以上の将兵が戦死していた。歩兵第62師団、歩兵第24師団、独立混成第44旅団ともに、ボロボロになっており、首里防衛線は崩壊の危機に瀕していた。
首里の防衛拠点が縮小していくなか、最後の決戦にために大規模な撤退作戦が計画された。生存している5万名もの将兵が、直径数キロ円内に押しこめられた場合、自滅は必至である。いったん包囲されてしまえば、圧倒的な火力をほこる米軍に前に日本軍の将兵は、格好の餌食にされてしまう。
最善の解決策、かつ、もっとも戦闘をひきのばす策を、牛島中将は選んだ。生き残った将兵を南部の八重瀬岳・与座岳方面へ撤退させることである。背後は海であり、彼らはここで死ぬまで戦う運命となった。《「沖縄 シュガーローフの戦い 米海兵隊 地獄の7日間」(ジェームス・H・ハラス/猿渡青児・訳/光人社NF庫) 370-371頁より》
1960年 – チリ地震発生。環太平洋全域を津波が襲う。マグニチュード9.5を記録した観測史上世界最大級の地震である。死傷者数 2231 – 6000人
1962年 – コンチネンタル航空11便爆破事件。45名死亡(全員)。
事件の概要
アメリカ合衆国国内の定期便として運航中のコンチネンタル航空11便(ボーイング707、機体記号N70775)は、1962年5月22日にイリノイ州シカゴからカリフォルニア州ロサンゼルスへ向けて飛行していた。その最初の経由地であるミズーリ州カンザスシティに向かう途中の午後9時半(現地時間)ごろ爆発が発生し、ミズーリ州ユニオンビルに墜落した。
翌朝現場から1名の乗客が救助されたが1時間半後に死亡したため、乗員乗客45名全員が犠牲になった。
1967年 – ベルギー・ブリュッセルのイノバシオンデパートで火災(英語版)。死者322人。
1968年 – 99人が乗ったアメリカ海軍の原子力潜水艦「スコーピオン」が演習からの帰途に消息を絶つ。後に破壊された船体が発見される。
スコーピオン (USS Scorpion, SSN-589) は、アメリカ海軍の原子力潜水艦。スキップジャック級原子力潜水艦の3番艦。艦名はサソリにちなむ。その名を持つ艦としてはガトー級潜水艦67番艦(SS-278)以来6隻目。
スコーピオンはアメリカ海軍の潜水艦の中で平時に失われた数少ない艦の1隻である。また、アメリカ海軍が喪失した2隻の原子力潜水艦(もう1隻はスレッシャー (USS Thresher, SSN-593))の内の1隻であり、1968年6月5日にその喪失と乗員99名の死亡が公式に宣言された。
1992年 – 映画監督の伊丹十三が、映画『ミンボーの女』に反発した暴力団員に自宅前で斬られる[5]。
突然の死
1997年12月20日、伊丹プロダクションのある東京都港区麻布台3丁目のマンション南側下の駐車場で遺体となって発見された。64歳没。葬儀は故人の遺志により執り行われなかった。投身自殺を図ったとされたが、当初からその経緯について様々な説が飛び交った。
かつて『ミンボーの女』公開後に襲撃事件があったことから、当初から暴力団の関与を疑う声はあった。ただ、事務所にワープロ印字の遺書らしきものが残されており、そこに「身をもって潔白を証明します。なんにもなかったというのはこれ以外の方法では立証できないのです。」との文言があったことから「写真週刊誌『フラッシュ』によりSMクラブ通いや不倫疑惑が取り沙汰されたことに対する抗議の投身自殺」と推測されるようになった[19]。しかし、伊丹はレタリングデザイナーとして日本有数と自負する存在であり、書き文字には人一倍の愛着とこだわりを持っていたことから、遺書が手書きでなくワープロで打たれていた点が不自然とされた。また、死の直前に『FLASH』の記者から不倫疑惑について問われた際、伊丹は笑いながら「妻に聞いてみればいいよ」「(不倫疑惑は)いつものことだから」と軽口で答え、その様子が『FLASH』誌面に掲載されている。また、死の5日前まで医療廃棄物問題の取材も続けていた[20]。「飛び降り自殺」はまさにその直後のことであり(インタビュー、『FLASH』発売直後)、自殺直前の様子との不自然さから、その「自殺」には強い疑惑が持たれ続けている。
ジェイク・エーデルスタインの著書によると、伊丹は当時後藤組と創価学会の関係を題材にした映画の企画を進めており、後藤組組長の後藤忠政がそれを快く思わず、後藤配下の5人が伊丹の体をつかんで銃を突きつけ屋上から飛び降りさせたと、自身が取材した人物が語ったという[21][22]。また、大島渚や立川談志など古くから伊丹十三を知る人物も、警察が死因を「自殺」と断定した後も「不倫報道ぐらいのことで、あいつは自殺しない」「飛び降り自殺は絶対に選ばない」と話し、自殺を否定した[23]。
伊丹映画に出演経験のある伊集院光は、1997年9月22日に行われた伊丹監督作品10作品目「マルタイの女」記者発表兼記念パーティーの席上で「OLがたくさん出るような映画を撮りたいから、また出てくれる?」と言われたという。 また、死の一週間ほど前には「次撮るものはもう決まっている。君(伊集院)にも出てもらうからね。それを宮本信子との映画の集大成にしたい。テーマはお局OLだ」とも言われたという。
また、同じ『マルタイの女』の舞台挨拶で「これからの世界で子供たちがどう生きていくのかが気にかかっている、だから次は子供たちをテーマに据えた映画を撮りたい」と述べている[24]。
俳優の中尾彬は『キャリアの女』の企画を既知しており[25]、「すでに5~6本の新作の台本が出来上がっていた」とも言われている。
1997年9月29日放送の『SMAP×SMAP』で、妻・宮本信子との共演が最後のバラエティ番組出演となった。
宮本信子は、2002年12月20日の「感謝の会」における挨拶で「本人が決めたことですから仕方がないですけれども」[26]と語っており、伊丹の死後、プロデューサーの玉置泰に伊丹の遺書が渡されている[27]。
2005年1月、インターネットの掲示板上で最初は真如苑が関係しているというものが主流であった。しかし、それを受けてかわからないが伊丹の死が創価学会によるものという風評が短時間に大量に乱立した。そのことについて創価学会は事実無根として掲示板の管理者に対し訴訟を起こす。2009年2月、東京地裁は原告創価学会の主張を認め、被告に80万円の損害賠償を命じた[28]。
2017年 – マンチェスター・アリーナに於ける爆発物事件: イングランドマンチェスターの屋内競技場マンチェスター・アリーナで自爆テロが発生。22人が死亡、59人が負傷した。事件当日、場内ではアリアナ・グランデのコンサートが開催されていた[11]。
2021年 – 黄河石林トレイルランニング遭難事故。中国甘粛省で行われたトレイルランニング大会中、悪天候により参加者21人が死亡[14]。
黄河石林トレイルランニング遭難事故(こうがせきりんトレイルランニングそうなんじこ)とは、2021年5月22日に中華人民共和国の甘粛省にある黄河石林(中国語版)で行われていた100 kmのトレイルランニング大会[注 1]で発生した遭難事故である。この事故では競技開催中に寒冷前線が直撃し、風速20 m/sをも超える強い風雨に曝され、参加者の体感温度が午前10時の時点の1℃からマイナス5℃まで落ちた。結果として複数の参加者は標高2,230 m付近に合ったチェックポイントを通過する頃には低体温症に陥り、最終的に意識を失う事となった。主催者はチェックポイント間にスタッフを配置しなかった上、遭難者の多くは携帯電話の電波が入りにくいエリアにいたため事態を把握するのが遅れてしまい、結果として172人中21人もの死者を出し、それまで最悪だった1986年に発生した 長江漂流事故(中国語版)を死者数で上回る事態となった[3][2]。
チャットgpt先生の5月22日のエッセイ
5月22日 ― 「不可解」と消耗戦の歴史
5月22日という日は、歴史を並べていくと妙に共通した匂いがある。
それは「人間は合理で動く」と信じた瞬間に、現実がその顔面を殴ってくる日だ。
紀元前334年、グラニコス川の戦い。
アレクサンドロス3世はペルシア軍を破った。後世では「天才的勝利」として語られるが、実際はペルシア側の意思統一の崩壊が大きい。メムノンは焦土戦を提案していた。つまり「戦うな、兵站を焼け」という、後のロシア戦線でも繰り返される現実的戦略である。
だが、地方太守たちは拒絶した。
自分の土地を焼けば権威が壊れる。名誉が傷つく。ギリシア傭兵への不信もあった。
結果、真正面から戦って敗北した。
歴史は英雄物語として編集されるが、実態はたいてい「組織内部の不一致」で決まる。
戦場で先に崩れるのは、兵ではなく政治だ。
1903年、藤村操が華厳滝から身を投げる。
彼の「巌頭之感」は、当時の知識青年に異様な感染力を持った。
「萬有の眞相は唯だ一言にして悉す、曰く、『不可解』」
近代日本は、西洋文明を飲み込み、「合理」で国家を作ろうとしていた時代だった。
しかし、その頂点にいたエリート学生が最後に掴んだ言葉は「不可解」である。
重要なのは、彼が絶望だけを書いたのではない点だ。
「大なる悲觀は大なる樂觀に一致する」
これは単なる厭世ではない。
世界は理解不能であり、だからこそ人間は勝手に意味を作るしかない、という感覚だ。
この種のニヒリズムは、その後の昭和日本にも深く流れ込んでいく。
そして1945年5月22日。
沖縄戦は、首里防衛線の崩壊点へ近づいていた。
ここで重要なのは、「日本軍は精神主義だけで戦った」「米軍は圧倒的物量で蹂躙した」という戦後テンプレだけでは、実態をかなり見誤ることだ。
実際の沖縄戦は、米軍にとって太平洋戦争最大級の“計算外”だった。
米軍は物量を持っていた。制海権も航空優勢も完全だった。
普通なら戦線は短期間で崩壊する。
だが、日本軍は島嶼防衛の方法を変えていた。
バンザイ突撃を減らし、地下壕・逆斜面・縦深陣地・夜間浸透を組み合わせ、徹底した持久戦へ移行した。
首里地下陣地は、単なる「洞窟」ではない。砲兵観測、通信、移動路が結びついた地下要塞だった。
その結果、米軍は「勝っているのに前進できない」という状態に陥る。
シュガーローフの戦闘は典型だ。
数百メートルの丘陵地帯を取るために、海兵隊は膨大な損耗を出した。
5月19日以降の十日間だけで、戦死傷2662人、戦闘疲労1289人。
ここで見落とされがちなのが、「戦闘疲労症」の規模である。
米軍は第一次大戦の経験から、精神崩壊を“病気”として扱っていた。
だから精神科医を送り、第82野戦病院を設置し、患者を統計処理した。
つまり、米軍は「兵士は壊れる」という前提で軍を動かしていた。
これは合理的だが、同時に「人間は無限には戦えない」という冷徹な理解でもある。
対して日本軍は、「精神力で耐えろ」という構造だった。
そのため戦闘神経症は可視化されず、統計にも現れにくい。
だが実際には、日本兵も当然崩壊している。
さらに5月22日時点、日本軍中枢では「首里で玉砕するか、南部へ撤退するか」が議論されていた。
ここも戦後イメージとは違う。
単純な狂信だけで全員が玉砕を叫んでいたわけではない。
八原博通は持久戦継続を主張した。
理由は明快で、「少しでも本土決戦準備の時間を稼ぐため」である。
つまり沖縄戦後半の日本軍は、勝利ではなく「時間」を目的にしていた。
これは現代軍事でいう消耗戦の論理だ。
そして実際、米軍は沖縄で疲弊し、予定されていた本土上陸作戦「ダウンフォール」の損害想定は急激に膨れ上がる。
沖縄戦を経験した米軍将兵の多くが、「九州上陸は地獄になる」と考えたのは自然だった。
原爆投下や対日戦終結判断において、この沖縄の消耗が心理的影響を持ったことは否定できない。
つまり沖縄戦は、「日本軍が負けた戦い」であると同時に、
「米軍が勝ちながら恐怖した戦い」でもあった。
GHQプレスコード以後、日本側では「軍国主義批判」に焦点が寄り、米側では「民主主義の勝利」に整理された。
だが戦場そのものを見ると、実態はもっと陰惨で、もっと機械的だ。
人間が大量破壊を合理化した結果、双方とも精神が先に摩耗していく。
そこに美談はない。
あるのは「どちらが先に壊れるか」という工業時代の現実だけだ。
1960年のチリ地震は、自然が国家を超える瞬間だった。
M9.5。観測史上最大級。
津波は太平洋を横断し、日本にも到達する。
ここで近代文明の脆さが露出する。
人類は核兵器を作れても、プレート運動は止められない。
冷戦期の超大国ですら、地球物理には従うしかない。
1968年、原潜 USSスコーピオン が消える。
原子力潜水艦は、当時の「科学文明の最先端」だった。
だが深海で壊れれば、乗員99人は一瞬で圧潰される。
近代技術は便利さと同時に、「壊れた時の死に方」を巨大化させる。
航空機も原潜も、高度化するほど事故は“全滅型”になる。
1962年のコンチネンタル航空11便爆破事件も同じだ。
近代交通は、人間を高速移動させるが、一度破壊されれば逃げ場がない。
1992年の伊丹十三襲撃事件は、戦後日本の別の現実を見せる。
日本は「法治国家」として語られる。
しかし1990年代初頭まで、暴力団は半ば公然とメディア・興行・金融へ圧力を持っていた。
『ミンボーの女』は、その構造を可視化した。
だから反撃を受けた。
ここで興味深いのは、伊丹十三が「笑い」で暴力を描いた点だ。
真正面から糾弾するより、滑稽化のほうが権威を壊す。
暴力団にとって一番嫌なのは、恐れられなくなることだからだ。
2017年のマンチェスター・アリーナ爆発事件もまた、「日常空間の戦場化」だった。
近代テロは軍事的勝利を目的にしない。
観客、コンサート、SNS拡散、その全部が戦場である。
つまり戦争は前線から都市内部へ戻ってきた。
2021年の黄河石林トレイルランニング遭難事故では、ハイテク時代の脆弱性が露出した。
GPSもスマホも大会運営もあった。
だが標高2230mで寒冷前線に叩かれれば、人間は数時間で低体温症になる。
自然は「自己責任論」を簡単に破壊する。
5月22日の歴史を並べると、共通しているのは「人間の制御幻想の崩壊」だ。
帝国も、軍隊も、思想も、科学も、メディアも、完全には世界を制御できない。
アレクサンドロスは勝っても内部政治に左右され、
藤村操は「不可解」に行き着き、
沖縄では物量軍すら消耗し、
原潜は海に沈み、
巨大都市ではテロが起き、
自然は競技者を凍死させる。
人類は進歩する。
だが進歩とは、「不確実性が消えること」ではない。
むしろ現代とは、
巨大化したシステムが、巨大なまま壊れる時代なのだ。

