5月21日
20260521木曜日旧暦4月5日友引(32番乙未イツビ)月齢 4.2
43番丙午ひのえうま年 30番癸巳みずのとみ月 32番乙未きのとひつじ日
吉方位 陽遁日 乙未きのとひつじ日 北東 東 大吉 年末まではあと224日
https://ja.wikipedia.org/wiki/5%E6%9C%8821%E6%97%A5
5月21日の出来事
1809年 – ナポレオン戦争: アスペルン・エスリンクの戦い。年月日:1809年5月21日-5月22日 絶頂期のナポレオンが直接指揮して敗北となった珍しい戦闘とされる。
場所:オーストリア東部ウィーン近郊のドナウ河畔
結果:オーストリア軍の勝利
損害:死傷双方合わせて44000人強。
1924年 – シカゴ大学の学生レオポルドとローブがユダヤ人実業家の息子を誘拐・殺害。
1927年 – チャールズ・リンドバーグがスピリット・オブ・セントルイス号で大西洋単独無着陸飛行に成功。
1938年 – 津山事件: 岡山県苫田郡で夜半、男が祖母を殺害後、集落内で30人を次々と惨殺し自殺。
1945年沖縄戦5月21日豪雨:米軍:・5月21日、米第10軍が首里市内に進出しはじめようとした時、戦線一帯はひどい豪雨に見舞われた。その結果、道路が押し流され、米軍は補給路を絶たれた。《写真記録「これが沖縄戦だ」(大田昌秀 編著/琉球新報社) 138頁》・5月21日、天気が悪くなり、雨が降りだした。初めは小雨だったのが、夜更けには土砂降りになった。それが10日間続いた豪雨の始まりだった。冷たい雨が地を叩き、あたり一面、泥のぬかるみになった。山道を進もうにも、一足ごとに滑って転ぶありさまだった。《「ペリリュー・沖縄戦記」(ユージン・B・スレッジ: 伊藤真/曽田和子 訳 /講談社学術文庫) 372-373頁》・米軍はシュガーローフを確保したが、前進することは困難を極めた。前日の20日夜遅く、日本軍は450〜500人規模で米軍を攻撃、激しい戦闘は深夜まで続いた。・朝日がのぼると、K中隊の周囲は、海兵隊員や日本兵の死体、飛び散った肉片などで、食肉処理のような様相を呈していた。「泥の上に散らばったり、谷間の壁の岩に張りついたり、人間の肉片は、あたり一面に散らばっていた」と海兵隊員は語った。体が真っぷたつになった男、切断された腕や脚、取れた頭部などがゴロゴロしていた。G中隊の海兵隊員…がこの場所にやってきたとき、手をのばせば、どこにでも砲弾の破片があり、前夜の砲撃の凄まじさに息をのんだ。…死体を踏まないように、前を歩く兵士の足跡に、注意ぶかく自分の足をかさねながら進んでいった。泥のかたまりのなかの武器の部品、弾薬ベルト、それに未使用の手榴弾などが肉片のなかに散らばっていた。こうした肉片は、どちらの陣営のものか識別できなかったが、どうやら日本兵のもののようだった。5月21日の深夜、雨がふたたび激しさを増していた。このため、戦闘要員の輸送と、臨時物資集積所への補給は泥沼で身動きがとれなくなってしまった。「第6海兵師団の新たな攻撃計画にとって、最大の障害は日本軍守備隊の激しい抵抗ではなく、勢いの衰えない土砂ぶりの水で急変した沖縄南部の泥の海であった」と、海兵隊の沖縄戦史研究家は書き記している。
《「沖縄 シュガーローフの戦い 米海兵隊 地獄の7日間」(ジェームス・H・ハラス/猿渡青児・訳/光人社NF庫) 360頁》・第3大隊は荒廃した丘の上を、25メートルほど前進したと思うと、夜になると、今度は、また元の陣地まで追い返された。 こうして攻防戦を幾度かくりかえしたが、5月21日の午前零時をすぎてまもなく、およそ200人からなる日本軍が、第1海兵師団を大名丘陵前面から駆逐しようと襲いかかってきた。彼らはロープや十字鍬、ハシゴを使って反対側の険しい崖をよじのぼり、小道を通って海兵隊の陣地に斬り込んできたのである。
これを迎え撃ったのが第2、第3大隊のあいだにいたC中隊で、ただちに機関銃やライフルで応戦したが、なかでも、この至近戦で効果的だったのは、手榴弾であった。海兵隊は腕も折れんばかりに手榴弾を投げつけ、迫撃砲手は集中砲撃を浴びせて、日本軍の逆襲は阻止された。この日の朝、C中隊は4人の戦死者を出し、26人の負傷者を出したが、日本軍もまた、140人の戦死者を出した。《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 362-363頁より》:日本軍:・この頃、守備軍首脳は、首里で玉砕する腹づもりをしていた。しかし八原作戦参謀は、一般的戦況を考慮しつつ南部の喜屋武半島地区への撤退を考えていた。彼は、部下の長野参謀に守備軍さいごの布陣の策定を命じた。長野参謀は高級参謀の意を汲んで次の三案を立案しそれぞれの利害得失を明らかにして参謀長に選択決定させることにした。
一、喜屋武半島に撤退する。
二、知念半島に撤退する。
三、首里複郭陣地に拠る。
《写真記録「これが沖縄戦だ」(大田昌秀 編著/琉球新報社) 138頁より》・日本軍の大規模の兵力を動員した攻撃は粉砕された。第4海兵連隊が、陣地の正面で集計した日本兵の死体は494体にものぼった。それ以外にも16体が、砲撃や銃撃をうける手前で死んでいるのが発見された。さらに第22海兵連隊の担当区域でも40体の死体が確認された。「日本軍の軍服は、比較的新しく、きれいだった。中には、米海兵隊のヘルメットや弾薬ベルトを着用した日本兵の死体も見うけられた」と米軍の情報分析報告書には記されている。(362頁)
陸軍の正規部隊ですら寄せ集めの状態で、新たに投入された海軍部隊の大半は戦闘経験のない管理支援部隊や、民間人からの義勇兵、それに、大田海軍少将指揮下で、ほとんどが戦闘訓練をうけたことすらない、地元の沖縄県民による飛行場設営部隊 (防衛隊)で構成されていた。
しかしながら、これらの部隊は小禄半島にあった補給処と、飛行場に散らばっていた航空機の残骸などから回収した豊富な自動火器と弾薬を装備していた。このうち、とくに第3大隊は「巌部隊」と呼ばれており、2個中隊からなる415名の兵士に、28梃の機関銃、258梃の小銃、27門の擲弾筒、191個の地雷に、1744発の手榴弾を所有していた。これらの3個大隊は第32軍の増援のために組織されたものであった。(341頁)《「沖縄 シュガーローフの戦い 米海兵隊 地獄の7日間」(ジェームス・H・ハラス/猿渡青児・訳/光人社NF庫) 》・宮古島には日本軍の三つの飛行場や特攻艇の秘匿壕が多く建設され、3万人の陸海軍兵士が駐留していた。米英の連合艦隊による先島群島の封じ込めで連日の空爆が続くなか、島の部隊は狂気じみた暴力性をむき出しにする。
1953年 – 千葉県君津郡富津町で地元民が引き上げた爆雷が解体中に爆発。死者2人、重傷2人、家屋全半壊10戸[4]。
1991年 – インドのラジーヴ・ガンディー元首相がタミル過激派の爆弾テロにより暗殺(英語版)される。
2014年 – 台北地下鉄通り魔事件: 台湾新北市の台北捷運板南線で男子大学生が乗客らを無差別に切りつけ、4人が死亡、20人以上が負傷した[9]。
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1809年 – ナポレオン戦争: アスペルン・エスリンクの戦い。年月日:1809年5月21日-5月22日 絶頂期のナポレオンが直接指揮して敗北となった珍しい戦闘とされる。
場所:オーストリア東部ウィーン近郊のドナウ河畔
結果:オーストリア軍の勝利
損害:死傷双方合わせて44000人強。
アスペルン・エスリンクの戦い(アスペルン・エスリンクのたたかい、英: Battle of Aspern-Essling, 仏: Bataille d’Aspern-Essling, 1809年5月21日 – 5月22日)は、ナポレオン戦争における戦闘の1つ。ウィーン近郊のドナウ河畔で、カール大公率いるオーストリア軍が、皇帝ナポレオン・ボナパルト率いるフランス軍に勝利した。ナポレオンが直接指揮する軍が敗北した数少ない戦闘例の1つでもある。
ナポレオンにとっては、兵員の損失もさることながら、最も信頼する部下ジャン・ランヌが戦死するという辛い敗北であった。一方、ナポレオンに勝利したカール大公はオーストリアの国家的英雄として称えられた。
1924年 – シカゴ大学の学生レオポルドとローブがユダヤ人実業家の息子を誘拐・殺害。
概要
2人とも裕福な家庭に生まれたユダヤ人で、互いに同性愛関係にあった。事件当時、シカゴ大学の学生だったが、富裕なユダヤ人実業家の息子ボビー・フランクスを誘拐して殺害し、終身刑プラス99年の懲役刑を受けた。
完全犯罪(になると彼らは思っていた)を遂行することで自分たちの優越性を立証しようという動機の異様さが話題を呼び、小説や戯曲・映画の題材にまでなった。
1927年 – チャールズ・リンドバーグがスピリット・オブ・セントルイス号で大西洋単独無着陸飛行に成功。
1938年 – 津山事件: 岡山県苫田郡で夜半、男が祖母を殺害後、集落内で30人を次々と惨殺し自殺。
津山三十人殺し(つやまさんじゅうにんごろし)は、1938年(昭和13年)5月21日未明に岡山県苫田郡西加茂村大字行重(現・津山市加茂町行重)の貝尾・坂元両集落で発生した大量殺人事件。
司法省による事件名は津山事件(つやまじけん)で、犯人の姓名を取って都井睦雄事件(といむつおじけん)とも呼ばれることもある。犯行が行われた2時間足らずの間に28名が即死し、5名が重軽傷を負った(そのうち12時間後までに2名が死亡)。なお、犯行後に犯人が自殺したため、被疑者死亡で不起訴となった。
日本が明治維新後に西洋式の近代法制を整備して以降、戦争行為を除く犯罪としては、京都アニメーション放火殺人事件が発生する2019年までの長くに渡って最大の犠牲者数だった。
横溝正史の小説『八つ墓村』、および西村望の小説『丑三つの村』のモチーフになった事件である。
1945年沖縄戦5月21日豪雨:米軍:・5月21日、米第10軍が首里市内に進出しはじめようとした時、戦線一帯はひどい豪雨に見舞われた。その結果、道路が押し流され、米軍は補給路を絶たれた。《写真記録「これが沖縄戦だ」(大田昌秀 編著/琉球新報社) 138頁》・5月21日、天気が悪くなり、雨が降りだした。初めは小雨だったのが、夜更けには土砂降りになった。それが10日間続いた豪雨の始まりだった。冷たい雨が地を叩き、あたり一面、泥のぬかるみになった。山道を進もうにも、一足ごとに滑って転ぶありさまだった。《「ペリリュー・沖縄戦記」(ユージン・B・スレッジ: 伊藤真/曽田和子 訳 /講談社学術文庫) 372-373頁》・米軍はシュガーローフを確保したが、前進することは困難を極めた。前日の20日夜遅く、日本軍は450〜500人規模で米軍を攻撃、激しい戦闘は深夜まで続いた。・朝日がのぼると、K中隊の周囲は、海兵隊員や日本兵の死体、飛び散った肉片などで、食肉処理のような様相を呈していた。「泥の上に散らばったり、谷間の壁の岩に張りついたり、人間の肉片は、あたり一面に散らばっていた」と海兵隊員は語った。体が真っぷたつになった男、切断された腕や脚、取れた頭部などがゴロゴロしていた。G中隊の海兵隊員…がこの場所にやってきたとき、手をのばせば、どこにでも砲弾の破片があり、前夜の砲撃の凄まじさに息をのんだ。…死体を踏まないように、前を歩く兵士の足跡に、注意ぶかく自分の足をかさねながら進んでいった。泥のかたまりのなかの武器の部品、弾薬ベルト、それに未使用の手榴弾などが肉片のなかに散らばっていた。こうした肉片は、どちらの陣営のものか識別できなかったが、どうやら日本兵のもののようだった。5月21日の深夜、雨がふたたび激しさを増していた。このため、戦闘要員の輸送と、臨時物資集積所への補給は泥沼で身動きがとれなくなってしまった。「第6海兵師団の新たな攻撃計画にとって、最大の障害は日本軍守備隊の激しい抵抗ではなく、勢いの衰えない土砂ぶりの水で急変した沖縄南部の泥の海であった」と、海兵隊の沖縄戦史研究家は書き記している。
《「沖縄 シュガーローフの戦い 米海兵隊 地獄の7日間」(ジェームス・H・ハラス/猿渡青児・訳/光人社NF庫) 360頁》・第3大隊は荒廃した丘の上を、25メートルほど前進したと思うと、夜になると、今度は、また元の陣地まで追い返された。 こうして攻防戦を幾度かくりかえしたが、5月21日の午前零時をすぎてまもなく、およそ200人からなる日本軍が、第1海兵師団を大名丘陵前面から駆逐しようと襲いかかってきた。彼らはロープや十字鍬、ハシゴを使って反対側の険しい崖をよじのぼり、小道を通って海兵隊の陣地に斬り込んできたのである。
これを迎え撃ったのが第2、第3大隊のあいだにいたC中隊で、ただちに機関銃やライフルで応戦したが、なかでも、この至近戦で効果的だったのは、手榴弾であった。海兵隊は腕も折れんばかりに手榴弾を投げつけ、迫撃砲手は集中砲撃を浴びせて、日本軍の逆襲は阻止された。この日の朝、C中隊は4人の戦死者を出し、26人の負傷者を出したが、日本軍もまた、140人の戦死者を出した。《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 362-363頁より》:日本軍:・この頃、守備軍首脳は、首里で玉砕する腹づもりをしていた。しかし八原作戦参謀は、一般的戦況を考慮しつつ南部の喜屋武半島地区への撤退を考えていた。彼は、部下の長野参謀に守備軍さいごの布陣の策定を命じた。長野参謀は高級参謀の意を汲んで次の三案を立案しそれぞれの利害得失を明らかにして参謀長に選択決定させることにした。
一、喜屋武半島に撤退する。
二、知念半島に撤退する。
三、首里複郭陣地に拠る。
《写真記録「これが沖縄戦だ」(大田昌秀 編著/琉球新報社) 138頁より》・日本軍の大規模の兵力を動員した攻撃は粉砕された。第4海兵連隊が、陣地の正面で集計した日本兵の死体は494体にものぼった。それ以外にも16体が、砲撃や銃撃をうける手前で死んでいるのが発見された。さらに第22海兵連隊の担当区域でも40体の死体が確認された。「日本軍の軍服は、比較的新しく、きれいだった。中には、米海兵隊のヘルメットや弾薬ベルトを着用した日本兵の死体も見うけられた」と米軍の情報分析報告書には記されている。(362頁)
陸軍の正規部隊ですら寄せ集めの状態で、新たに投入された海軍部隊の大半は戦闘経験のない管理支援部隊や、民間人からの義勇兵、それに、大田海軍少将指揮下で、ほとんどが戦闘訓練をうけたことすらない、地元の沖縄県民による飛行場設営部隊 (防衛隊)で構成されていた。
しかしながら、これらの部隊は小禄半島にあった補給処と、飛行場に散らばっていた航空機の残骸などから回収した豊富な自動火器と弾薬を装備していた。このうち、とくに第3大隊は「巌部隊」と呼ばれており、2個中隊からなる415名の兵士に、28梃の機関銃、258梃の小銃、27門の擲弾筒、191個の地雷に、1744発の手榴弾を所有していた。これらの3個大隊は第32軍の増援のために組織されたものであった。(341頁)《「沖縄 シュガーローフの戦い 米海兵隊 地獄の7日間」(ジェームス・H・ハラス/猿渡青児・訳/光人社NF庫) 》・宮古島には日本軍の三つの飛行場や特攻艇の秘匿壕が多く建設され、3万人の陸海軍兵士が駐留していた。米英の連合艦隊による先島群島の封じ込めで連日の空爆が続くなか、島の部隊は狂気じみた暴力性をむき出しにする。
1953年 – 千葉県君津郡富津町で地元民が引き上げた爆雷が解体中に爆発。死者2人、重傷2人、家屋全半壊10戸[4]。
1991年 – インドのラジーヴ・ガンディー元首相がタミル過激派の爆弾テロにより暗殺(英語版)される。
2014年 – 台北地下鉄通り魔事件: 台湾新北市の台北捷運板南線で男子大学生が乗客らを無差別に切りつけ、4人が死亡、20人以上が負傷した[9]。
チャットgpt先生の5月21日のエッセイ
5月21日――「泥濘の現実」が露出する日
5月21日という日は、「文明」や「英雄」や「合理性」が、現実の泥に引きずり込まれる日として並べると妙に統一感がある。
1809年、アスペルン・エスリンクの戦い。
絶頂期のナポレオン・ボナパルトが直接指揮して敗北した数少ない戦闘。ここで重要なのは「ナポレオンが負けた」という英雄譚ではない。ドナウ川の増水、橋梁の切断、補給の混乱――つまり“兵站”が天才を殴り倒したという事実だ。
近代以降の戦争史は、結局のところ「才能」より「輸送」の歴史である。
どれほど戦術的才能があろうが、砲弾と食料が届かなければ軍は止まる。ナポレオン神話はこの戦いで初めて「有限性」を露呈した。
1927年のチャールズ・リンドバーグの大西洋横断は逆方向の象徴だ。
人類は空を超え、距離を克服したように見えた。しかしそのわずか十数年後、航空機は都市爆撃と焼夷弾の運搬装置へ変わる。技術進歩は道徳進歩を伴わない。20世紀はその確認作業だった。
そして1938年、津山事件。
日本近代犯罪史の深層にあるのは、「閉鎖共同体の圧力」と「性的孤立」と「貧困・病・噂」の混合である。後年、横溝正史的な“因習村”イメージへ加工されたが、実際には昭和前期農村の閉塞感が剥き出しになった事件だった。文明化された国家の内部でも、人間集団は容易に中世へ戻る。
だが、5月21日を最も重くしているのは、やはり1945年の沖縄戦である。
この日、沖縄は豪雨に沈む。
戦史を読むと、沖縄戦はしばしば「圧倒的物量を持つ米軍による一方的消耗戦」のように語られる。しかし、実際の前線記録を読むと様相はかなり違う。
米軍は確かに圧倒的だった。制海権、制空権、砲兵火力、補給力、工業力――すべてで日本軍を凌駕していた。普通なら短期間で終わる条件である。
ところが沖縄では、その“近代軍の優位”が泥濘によって崩壊した。
5月21日からの豪雨は、道路を消し、戦車を埋め、補給車列を止め、死体を腐敗させ、兵士を泥の中に固定した。
米軍側記録に頻出するのは、日本軍への恐怖以上に「泥」への嫌悪である。
シュガーローフ周辺の戦闘では、米海兵隊は丘を取っては押し戻され、前進しては夜襲で後退した。日本軍は戦略的には敗北していたが、戦術的には極めてしぶとい。洞窟陣地、逆斜面、防御火網、夜襲、迫撃砲、擲弾筒、地形利用――火力で劣る側の合理的戦法を徹底している。
ここで重要なのは、「日本軍が強かった」という単純な精神論ではない。
むしろ逆で、補給不能・航空劣勢・通信崩壊・飢餓状態という極限下で、なお戦闘継続可能な構造へ変質していた点にある。
通常の軍なら壊滅して終わる状況でも、沖縄守備軍は“地下化した生存体”のようになっていた。
米軍にとって沖縄戦が特異なのは、「物量優位なのにテンポを失った」ことだ。
ノルマンディーでも硫黄島でも激戦はあった。だが沖縄では、地形・気候・地下陣地・民間人混在・夜襲・持久戦が複合し、米軍側の近代戦ドクトリンが想定した“効率”が大幅に崩れた。
結果として米軍は、第二次世界大戦全体でも屈指の精神的消耗を経験する。
GHQプレスコード以後、日本では「日本軍残虐性」か「悲惨な被害者沖縄」という語りが前面に出やすくなった。もちろんそれらは事実の一部ではある。だが、それだけでは戦場の実態が見えない。
現実の沖縄戦はもっと混濁している。
日本軍上層は持久戦で本土決戦準備の時間を稼ごうとしていた。
八原博通の撤退構想は、精神主義ではなく現実主義に近い。首里での玉砕より、南部へ下がり米軍を泥沼化させる方が合理的だった。実際、沖縄戦後半は「戦線」ではなく「腐食」に近い。
一方米軍も、“民主主義陣営の解放軍”という綺麗な姿ではない。
火炎放射器、艦砲射撃、洞窟爆破、白燐弾、大規模砲撃によって地形そのものを破壊していく。兵士たちは疲弊し、死体は景観化し、人肉片が泥に混じる。そこではイデオロギーより、生存反応が優先される。
つまり沖縄戦とは、「近代国家同士の戦争」が、最後には原始的消耗へ崩れていく過程そのものだった。
だから5月21日の豪雨は象徴的なのである。
雨は英雄も理念も区別しない。
ナポレオンも海兵隊も防衛隊も、泥の中では等しく輸送能力と体力に還元される。
20世紀の戦争は科学の時代だったが、最後に勝敗を決めるのはしばしば、地形、天候、補給、疲労、腐敗臭、感染症、睡眠不足といった、人間が何千年も前から直面してきた物理条件だった。
5月21日は、その現実がむき出しになる日である。

