6月11日
20260611木曜日旧暦4月26日大安(53番丙辰ひのえたつヘイシン)月齢 25.2入梅
43番丙午ひのえうま年 30番癸巳みずのとみ月 53番丙辰ひのえたつ日
吉方位 陽遁日 丙辰ひのえたつ日 南西 大吉 年末まであと203日
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6月11日の出来事
紀元前1184年 – トロイアが滅亡しトロイア戦争が終結。(エラトステネスの計算による)
1917年 – 日本海軍の駆逐艦「榊」が地中海でオーストリア潜水艦に雷撃され艦首を切断、艦長以下59人が戦死。
1945年-沖縄戦6月11日:米軍:・日本軍の後を追い、わずか1週間ほどの間に南風原、大里、豊見城、東風平、玉城を次々と突破し、南下を続けるアメリカ軍は、糸満から八重瀬岳を経て、具志頭へと至る線上まで迫り、包囲網を狭めます。<琉球朝日放送 報道制作部 ニュースQプラス » 65年前のきょうは1945年6月11日(月)>・日本軍 歩兵第32連隊第1大隊(大隊長・伊東孝一大尉)
6月11日を迎えると、敵は国吉台へ歩兵と戦車の大部隊で攻撃を開始した。これに対し、歩兵には機関銃や擲弾筒、小銃で猛射を浴びせ、打撃を与える。戦車には速射砲と師団砲兵の野砲それぞれ1門が有効な射撃を加えた。照屋北側高地と国吉台地の間には、幅700メートルほどの平坦地がある。そこを通過してくる敵は、あらん限りの火力で必死に反撃する伊東大隊にとって、格好の餌食となった。《「沖縄戦 二十四歳の大隊長 陸軍大尉 伊東孝一の闘い」(笹幸枝/Gakken) 238頁より》・沖縄県下の社寺建築の多くは、今次大戦で焼失しましたが、幸い観音寺は戦災を免れ、古い建築様式をとどめた貴重な木造建築として今日に至っています。<観音寺 | 金武町観光ポータルサイト – ビジット金武タウン>:日本軍:・… アメリカ海兵隊に包囲され孤立無援のまま4日から猛攻を受け続ける小禄飛行場周辺の海軍部隊は、南部撤退に備え大砲や重火器類を破壊していたため、効果的な反撃が行えないまま、またたくまに消耗していきます。
3000人とも5000人ともいわれる兵のほとんどは戦死。兵の3分の2は現地召集された沖縄県民。そして65年前のきょう、海軍司令官・大田少将の電文を最後に通信は断絶します。
「敵戦車群はわが司令部壕を攻撃中なり 根拠地隊は11日午後11時30分玉砕す 従前の厚誼を謝し健闘を祈る」<琉球朝日放送 報道制作部 ニュースQプラス » 65年前のきょうは1945年6月11日(月)>・衛生兵長の体験談:
「壕内の通路は運び込まれる負傷兵の悲鳴や唸り声で、阿鼻叫喚でした。治療の仕様がない患者も多く、最後の一言は皆『お母さぁーん』でしたねえ」
夜更け、米軍の攻撃の止み間を見て脱出、北部へ行こうと小禄地区と那覇市を隔てている国場川の、周囲15メートルぐらいの小さな中州に這い上がった。対岸は照明で昼間のように明々と照らし出され、敵のトラックがひっきりなしに通っているので、渡れない。結局、身動き出来ぬまま夜が明けてしまう。
「民間人が作った壕があったんやけど、岩の上に板を掛け、土をかぶせて阿檀の葉で擬装しただけのものでね。そこへ兵隊や民間人が30人近くも隠れたもんやから、すぐに見つかって擲弾筒を撃ち込まれ、県民が随分亡くなりました。可哀相に赤ちゃんも含めて。12日の昼頃、私らは中州へ上がってきた米兵7、8人の捕虜になりましたが、74高地の司令部壕は見ているのも辛い程、集中砲火を浴びていました」《「沖縄県民斯ク戦ヘリ 大田實海軍中将一家の昭和史」(田村洋三 / 光人社NF文庫) 444-445頁より》・八原高級参謀の回想:
小禄地区の戦闘は、当初すこぶる悲観的で、一挙に潰滅するのではないかと危ぶまれたが、漸次戦勢を持ち直し、金城、豊見城、75高地付近の一角でよく健闘し、その戦況報告は日々確実に軍司令部に到達した。しかし衆寡敵するはずもなく、敵の包囲圏は日々圧縮され、「敵はわが司令部洞窟を攻撃し始めた。これが最期である。無線連絡は11日2330を最後とする。陸軍部隊の健闘を祈る」の電報が11日夜遅く、我らの手にはいった。長恨限りなく、悲痛極まりなし。大田将軍、棚町、羽田、前川の各大佐に顔が目に浮かぶ。いくたびか戦いを議し、ともに飲み、談じた人々の数々の思い出こそ、哀れである。謹みて敬弔の誠を捧げるのみ。《「沖縄決戦 高級参謀の手記」(八原博通/中公文庫) 398頁より》
1955年 – ル・マン24時間レースで接触事故により車が爆発炎上。ドライバーと観客82人が死亡する、モータースポーツ史上最悪の事故となる[8]。
1981年 – イラン・ゴルバフ地方でマグニチュード6.7の地震。死者約3000人。
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紀元前1184年 – トロイアが滅亡しトロイア戦争が終結。(エラトステネスの計算による)
トロイア戦争(トロイアせんそう、Τρωικός πόλεμος, 英語: Trojan War)は、ギリシア神話に記述された、小アジアのトロイアに対して、ミュケーナイを中心とするアカイア人の遠征軍が行った戦争である。トロイ戦争、トロヤ戦争という表記もみられる[1][2][3][4]。
トロイア、あるいはトローアスという呼称は、後の時代にイーリオス一帯の地域につけられたものである。この戦争の記述から、古代ギリシアにおいて、ホメーロスの英雄叙事詩『イーリアス』、『オデュッセイア』のほか、『キュプリア』、『アイティオピス』、『イーリオスの陥落』などから成る「叙事詩環」が派生した。
ラテン詩人のウェルギリウスは、トロイア滅亡後のアイネイアースの遍歴を創作し、ラテン語叙事詩『アエネーイス』を造った。
1917年 – 日本海軍の駆逐艦「榊」が地中海でオーストリア潜水艦に雷撃され艦首を切断、艦長以下59人が戦死。
1945年-沖縄戦6月11日:米軍:・日本軍の後を追い、わずか1週間ほどの間に南風原、大里、豊見城、東風平、玉城を次々と突破し、南下を続けるアメリカ軍は、糸満から八重瀬岳を経て、具志頭へと至る線上まで迫り、包囲網を狭めます。<琉球朝日放送 報道制作部 ニュースQプラス » 65年前のきょうは1945年6月11日(月)>・日本軍 歩兵第32連隊第1大隊(大隊長・伊東孝一大尉)
6月11日を迎えると、敵は国吉台へ歩兵と戦車の大部隊で攻撃を開始した。これに対し、歩兵には機関銃や擲弾筒、小銃で猛射を浴びせ、打撃を与える。戦車には速射砲と師団砲兵の野砲それぞれ1門が有効な射撃を加えた。照屋北側高地と国吉台地の間には、幅700メートルほどの平坦地がある。そこを通過してくる敵は、あらん限りの火力で必死に反撃する伊東大隊にとって、格好の餌食となった。《「沖縄戦 二十四歳の大隊長 陸軍大尉 伊東孝一の闘い」(笹幸枝/Gakken) 238頁より》・沖縄県下の社寺建築の多くは、今次大戦で焼失しましたが、幸い観音寺は戦災を免れ、古い建築様式をとどめた貴重な木造建築として今日に至っています。<観音寺 | 金武町観光ポータルサイト – ビジット金武タウン>:日本軍:・… アメリカ海兵隊に包囲され孤立無援のまま4日から猛攻を受け続ける小禄飛行場周辺の海軍部隊は、南部撤退に備え大砲や重火器類を破壊していたため、効果的な反撃が行えないまま、またたくまに消耗していきます。
3000人とも5000人ともいわれる兵のほとんどは戦死。兵の3分の2は現地召集された沖縄県民。そして65年前のきょう、海軍司令官・大田少将の電文を最後に通信は断絶します。
「敵戦車群はわが司令部壕を攻撃中なり 根拠地隊は11日午後11時30分玉砕す 従前の厚誼を謝し健闘を祈る」<琉球朝日放送 報道制作部 ニュースQプラス » 65年前のきょうは1945年6月11日(月)>・衛生兵長の体験談:
「壕内の通路は運び込まれる負傷兵の悲鳴や唸り声で、阿鼻叫喚でした。治療の仕様がない患者も多く、最後の一言は皆『お母さぁーん』でしたねえ」
夜更け、米軍の攻撃の止み間を見て脱出、北部へ行こうと小禄地区と那覇市を隔てている国場川の、周囲15メートルぐらいの小さな中州に這い上がった。対岸は照明で昼間のように明々と照らし出され、敵のトラックがひっきりなしに通っているので、渡れない。結局、身動き出来ぬまま夜が明けてしまう。
「民間人が作った壕があったんやけど、岩の上に板を掛け、土をかぶせて阿檀の葉で擬装しただけのものでね。そこへ兵隊や民間人が30人近くも隠れたもんやから、すぐに見つかって擲弾筒を撃ち込まれ、県民が随分亡くなりました。可哀相に赤ちゃんも含めて。12日の昼頃、私らは中州へ上がってきた米兵7、8人の捕虜になりましたが、74高地の司令部壕は見ているのも辛い程、集中砲火を浴びていました」《「沖縄県民斯ク戦ヘリ 大田實海軍中将一家の昭和史」(田村洋三 / 光人社NF文庫) 444-445頁より》・八原高級参謀の回想:
小禄地区の戦闘は、当初すこぶる悲観的で、一挙に潰滅するのではないかと危ぶまれたが、漸次戦勢を持ち直し、金城、豊見城、75高地付近の一角でよく健闘し、その戦況報告は日々確実に軍司令部に到達した。しかし衆寡敵するはずもなく、敵の包囲圏は日々圧縮され、「敵はわが司令部洞窟を攻撃し始めた。これが最期である。無線連絡は11日2330を最後とする。陸軍部隊の健闘を祈る」の電報が11日夜遅く、我らの手にはいった。長恨限りなく、悲痛極まりなし。大田将軍、棚町、羽田、前川の各大佐に顔が目に浮かぶ。いくたびか戦いを議し、ともに飲み、談じた人々の数々の思い出こそ、哀れである。謹みて敬弔の誠を捧げるのみ。《「沖縄決戦 高級参謀の手記」(八原博通/中公文庫) 398頁より》
1955年 – ル・マン24時間レースで接触事故により車が爆発炎上。ドライバーと観客82人が死亡する、モータースポーツ史上最悪の事故となる[8]。
1955年のル・マン24時間レース(24 Heures du Mans 1955)は、23回目[1]のル・マン24時間レース、またスポーツカー世界選手権第4戦として、1955年6月11日から6月12日にかけてフランスのサルト・サーキットで行われた。
23回目となるこの大会では接触事故でメルセデス・ベンツ・300SLRが爆発炎上し、ドライバーのピエール・ルヴェーと観客83名[2][3][4]が死亡するというモータースポーツ史上最悪の惨事が発生した。
1981年 – イラン・ゴルバフ地方でマグニチュード6.7の地震。死者約3000人。
チャットgpt先生の6月11日のエッセイ
6月11日 ― 滅亡と持久戦の現実
6月11日という日は、不思議なほど「敗北の最終局面」が並ぶ。
伝承上ではこの日、トロイアは陥落したとされる。
神話の世界では木馬が有名だが、軍事史的に見ればトロイア戦争とは「正面攻撃で落ちない要塞をどう崩すか」という問題に対する古代人の回答である。英雄譚として語られる一方、その本質は補給線、同盟網、持久力の消耗戦だった。
三千年以上後の沖縄でも、本質は大きく変わらない。
1945年6月11日、沖縄本島南部では日本軍の敗北がほぼ確定していた。
だが「敗北が確定していること」と「戦闘能力が消滅していること」は別問題である。
後世のイメージでは、沖縄戦は圧倒的物量を持つ米軍が一方的に進撃した戦いのように描かれることが多い。しかし実際には、米軍自身の記録を読めば分かるように、沖縄戦は太平洋戦争において米軍が経験した最も困難な地上戦の一つだった。
日本軍は制空権も制海権も失っていた。
補給もない。
戦車も航空支援もほぼ存在しない。
普通なら軍隊として成立しない状態である。
それでも首里撤退後の南部戦線では、地形と地下陣地を最大限活用しながら持久戦を継続した。
国吉台や八重瀬岳周辺での戦闘を見ると、日本軍は依然として局地的反撃能力を維持していたことが分かる。
歩兵に対する機関銃射撃。
戦車に対する速射砲。
砲兵観測。
火点の分散。
どれも教科書的な防御戦術である。
米軍は圧倒的火力を持ちながらも、洞窟陣地と複雑な丘陵地形によって進撃速度を大きく削られた。
戦争とは兵器性能だけでは決まらない。
敵が「どこにいるか分からない」ことは、どんな最新兵器よりも厄介なのである。
沖縄戦が米軍を苦しめた理由はここにある。
日本軍は勝とうとしていたのではない。
可能な限り長く負けないことを目指していた。
戦略目標が異なれば戦術も変わる。
その結果、沖縄戦は米軍にとって極めて高価な勝利となった。
そして、その代償を最も支払ったのは沖縄住民だった。
ここでしばしば見落とされるのが、住民を巡る暴力の構造である。
戦後日本では長らくGHQプレスコードの影響もあり、日本軍の加害行為は強調され、米軍側の問題は比較的語られにくかった時期があった。
しかし実際の戦場はもっと混沌としている。
日本軍による住民への強制、処刑、スパイ視、集団死への圧力は確かに存在した。
一方で米軍側もまた、戦闘地域において無差別砲撃、誤射、捕虜化された住民への過酷な扱い、報復的殺害事例などを全く起こさなかったわけではない。
それは善悪というより、極限状態に置かれた軍隊がしばしば示す現象だった。
例えば住民が米軍捕虜となった場合、日本軍から見れば軍事情報漏洩の危険が生じる。
逆に米軍から見れば、住民と兵士の区別は極めて困難になる。
ゲリラ戦・持久戦の環境では、民間人は意図せず双方の軍事システムの中に組み込まれていく。
リアリズムの視点では、そこに道徳は後から与えられる説明であり、まず存在するのは生存と軍事合理性である。
だからこそ沖縄戦は悲劇だった。
誰か一方だけが悪かったからではない。
軍事合理性が徹底して追求された結果、人間の生活空間そのものが戦場に変わったからである。
同じ6月11日には1955年のル・マン大事故も起きている。
83人が死亡したモータースポーツ史上最大の惨事である。
ここにも共通点がある。
人類は常に限界を追求する。
戦争なら勝利のために。
レースなら速度のために。
その結果として生じる犠牲は、当事者が望んだものではない。
しかしシステム全体から見れば、ある意味で予測可能な帰結でもある。
トロイアも、沖縄も、ル・マンも同じだ。
巨大な力と巨大な意思が衝突するとき、最後に問われるのは正しさではない。
どちらがより長く耐え、より多くの資源を維持し、より大きな損失を受容できるかである。
6月11日は、その冷徹な現実が歴史の異なる場所で繰り返し現れた日と言えるのかもしれない。
英雄譚の陰にも、悲劇の記憶の陰にも、歴史を動かしてきたのは結局のところ「人間の意思」と「物量」と「持久力」だったのである。

