5月17日
20260517日曜日旧暦4月1日仏滅(28番辛卯かのとうシンボウ)月齢 0.2
43番丙午ひのえうま年 30番癸巳みずのとみ月 28番辛卯かのとう日
吉方位 陽遁日 辛卯かのとう日 西 大吉 年末まであと228日
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5月17日の出来事
1931年 – 群馬県金古町(現高崎市)の仮設映画館で火災。火元はフィルム。14人が死亡、37人が重軽傷[1]。
1939年 – 福岡市で大日本航空球磨号墜落事故が発生。6人が死亡[2]。
1945年 – 富山地方鉄道本線越中三郷駅 – 東新庄駅間で、電車正面衝突事故。乗客ら45人が死亡、重傷者85人、軽傷者115人。
1945年沖縄戦5月17日米軍総攻撃7日目:米軍:・日本陸軍の中飛行場は、いまや米軍嘉手納飛行場として拡張された。・5月17日の時点で、日本軍の支配する地域は沖縄の、ほんの一部しか残されていなかった。しかし、米軍はわずかな支配地域を奪い、ひろげるために途方もない代償を支払っていた。沖縄戦がはじまって以来この日までに、米第10軍は3964名の戦死者と、1万8258名の負傷者、302名の行方不明者、それにくわえて9265名の非戦闘損耗死傷病者を出していた。沖合に展開している海軍もまた4千名をこえる戦死傷者を出していた。《「沖縄 シュガーローフの戦い 米海兵隊 地獄の7日間」(ジェームス・H・ハラス/猿渡青児・訳/光人社NF庫) 309-310頁より》・F中隊の1小隊も稜線沿いに西のほうに進もうとしたが、これも小隊長が戦死したため、小隊は、迫撃砲の猛火のもとを退却せざるを得なかった。E中隊は、3回も頂上制圧をこころみ、2回とも白兵戦で追い返され、3回目にやっと日本兵を撃退できたが、そのときすでに海兵隊は弾薬を使い果していた。中隊はまたも退却せざるを得なくなった。その日の戦闘で160人の死傷者を出したあげく、海兵隊は陣地を放棄したのである。《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 348頁より》:日本軍:・17日、米軍は戦法を変え、2コ大隊で52高地の東の拠点を奪いとり、返す刀で、もう1コ大隊を支援し、52高地に突入しようとしたが、頂上までのぼると、そこで救援に駈けつけてきたわが15連隊第1大隊に追い落され、またまた敗退。
もうこのころになると、戦場は、相貌を一変していた。両軍の砲弾の炸裂で、緑という緑は吹きとび、丘、台地、すべてが月の表面を見るように、弾痕だらけになっていた。第6海兵師団は、西から首里に迫ろうとしており、そのためにはどうあってもここを突破しなければならず、したがって日本軍としては、どうあってもここを守りとおさねばならなかった。
ただ問題は、兵力量の差。後方補給の差であった。日本軍は、死傷者続出によって、刻々に人が減っていく。補充ができない。米軍は、もともと兵力が大きい(米軍5コ師団、日本軍2コ師、1コ旅。ただし、このころは、62師団はほとんど戦力を失ない、24師団も兵力半減。両軍戦力のバランスは、5対1といってよい)のに、それがさらに大きくなっていた。とすれば、戦闘がつづき、時間がたてばたつほど、日本軍が決定的に不利となるのは自然であった。
《「沖縄 Z旗のあがらぬ最後の決戦」(吉田俊雄/オリオン出版社) 262-263頁より》
1978年 – 海上自衛隊のPS-1が高知県梼原町の山中に墜落。13人死亡[4]。
1987年 – アメリカ海軍のフリゲート「スターク」にイラク軍機が発射したミサイルが命中し、37名の死者を出す。
1991年 – 暗黒の5月事件。タイ王国でスチンダー・クラープラユーン将軍の首相就任に反発した国民が抗議デモ。軍部が武力で鎮圧し、300名以上の死者が出る。
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1931年 – 群馬県金古町(現高崎市)の仮設映画館で火災。火元はフィルム。14人が死亡、37人が重軽傷[1]。
1939年 – 福岡市で大日本航空球磨号墜落事故が発生。6人が死亡[2]。
大日本航空球磨号墜落事故(だいにっぽんこうくうくまごうついらくじこ)とは1939年(昭和14年)に発生した、民間航空機による航空事故(離陸失敗事故)である。
事故の概要
1939年5月17日、大日本航空のロッキード スーパーエレクトラ「球磨号」(双発レシプロ機、機体記号:J-BCOZ)は福岡から朝鮮の京城(現:大韓民国・ソウル)を経由し中華民国の北京に向かう下り便として運航されるはずであった。
午前11時21分に和白村にあった雁ノ巣飛行場(福岡第一飛行場、現:福岡市雁の巣レクリエーションセンター)から離陸したが、直後に左エンジンがトラブルを起こして出力が低下したため失速、きりもみ状態で海岸近くのマツ林に墜落。墜落と同時にガソリンが爆発、マツ林に延焼した[1]。この事故で乗員3名乗客8名のうち乗員2名乗客4名の6名が犠牲となり、5名が重軽傷を負う惨事となった。
1945年 – 富山地方鉄道本線越中三郷駅 – 東新庄駅間で、電車正面衝突事故。乗客ら45人が死亡、重傷者85人、軽傷者115人。
1945年沖縄戦5月17日米軍総攻撃7日目:米軍:・日本陸軍の中飛行場は、いまや米軍嘉手納飛行場として拡張された。・5月17日の時点で、日本軍の支配する地域は沖縄の、ほんの一部しか残されていなかった。しかし、米軍はわずかな支配地域を奪い、ひろげるために途方もない代償を支払っていた。沖縄戦がはじまって以来この日までに、米第10軍は3964名の戦死者と、1万8258名の負傷者、302名の行方不明者、それにくわえて9265名の非戦闘損耗死傷病者を出していた。沖合に展開している海軍もまた4千名をこえる戦死傷者を出していた。《「沖縄 シュガーローフの戦い 米海兵隊 地獄の7日間」(ジェームス・H・ハラス/猿渡青児・訳/光人社NF庫) 309-310頁より》・F中隊の1小隊も稜線沿いに西のほうに進もうとしたが、これも小隊長が戦死したため、小隊は、迫撃砲の猛火のもとを退却せざるを得なかった。E中隊は、3回も頂上制圧をこころみ、2回とも白兵戦で追い返され、3回目にやっと日本兵を撃退できたが、そのときすでに海兵隊は弾薬を使い果していた。中隊はまたも退却せざるを得なくなった。その日の戦闘で160人の死傷者を出したあげく、海兵隊は陣地を放棄したのである。《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 348頁より》:日本軍:・17日、米軍は戦法を変え、2コ大隊で52高地の東の拠点を奪いとり、返す刀で、もう1コ大隊を支援し、52高地に突入しようとしたが、頂上までのぼると、そこで救援に駈けつけてきたわが15連隊第1大隊に追い落され、またまた敗退。
もうこのころになると、戦場は、相貌を一変していた。両軍の砲弾の炸裂で、緑という緑は吹きとび、丘、台地、すべてが月の表面を見るように、弾痕だらけになっていた。第6海兵師団は、西から首里に迫ろうとしており、そのためにはどうあってもここを突破しなければならず、したがって日本軍としては、どうあってもここを守りとおさねばならなかった。
ただ問題は、兵力量の差。後方補給の差であった。日本軍は、死傷者続出によって、刻々に人が減っていく。補充ができない。米軍は、もともと兵力が大きい(米軍5コ師団、日本軍2コ師、1コ旅。ただし、このころは、62師団はほとんど戦力を失ない、24師団も兵力半減。両軍戦力のバランスは、5対1といってよい)のに、それがさらに大きくなっていた。とすれば、戦闘がつづき、時間がたてばたつほど、日本軍が決定的に不利となるのは自然であった。
《「沖縄 Z旗のあがらぬ最後の決戦」(吉田俊雄/オリオン出版社) 262-263頁より》
1978年 – 海上自衛隊のPS-1が高知県梼原町の山中に墜落。13人死亡[4]。
1987年 – アメリカ海軍のフリゲート「スターク」にイラク軍機が発射したミサイルが命中し、37名の死者を出す。
1991年 – 暗黒の5月事件。タイ王国でスチンダー・クラープラユーン将軍の首相就任に反発した国民が抗議デモ。軍部が武力で鎮圧し、300名以上の死者が出る。
チャットgpt先生の5月17日のエッセイ
5月17日――「押し切れない戦場」の現実
5月17日という日付を並べてみると、そこには一つの共通点が浮かぶ。
それは「技術優位や物量優位が、必ずしも即座の勝利を保証しない」という現実である。
1931年の群馬の仮設映画館火災は、可燃性フィルムという当時の技術文明の危険性を象徴していた。映画は近代娯楽の象徴だったが、セルロイドは火薬に近い危険物でもあった。人が密集し、避難導線が弱い仮設施設では、一度火が回れば逃げ場がない。近代化の速度に安全思想が追いついていなかった。
1939年の大日本航空「球磨号」墜落事故も同じで、航空技術そのものは華々しく発展していたが、エンジン信頼性や運航安全はまだ脆弱だった。双発機で片肺停止は、現代ほど「対処可能なトラブル」ではない。離陸直後の低高度で出力低下が起これば、操縦士にはほとんど選択肢が残されていなかった。
1945年の富山地方鉄道正面衝突事故になると、戦争末期特有の「制度疲労」が見えてくる。熟練職員不足、設備疲弊、過密運行、確認能力低下。戦争は前線だけではなく、国内の交通網や日常運営そのものを摩耗させていた。
しかし、5月17日を語るうえで最大の重みを持つのは、やはり沖縄戦である。
沖縄戦後、日本社会には長く「圧倒的物量の米軍に、日本軍はなすすべなく蹂躙された」という単純化されたイメージが流布した。これは完全な虚構ではないが、実戦の詳細を見ると、かなり粗い理解でもある。
実際の沖縄戦、とくに首里防衛線周辺の戦闘は、米軍側にとって太平洋戦争屈指の悪夢だった。
1945年5月17日頃のシュガーローフ、52高地周辺では、米軍は制空権・制海権・砲兵・補給の全てを握っていた。それでも突破できない。海兵隊は丘を奪っては撃退され、また奪っては砲撃で吹き飛ばされる。数十メートルの高地の奪取に何百人単位の死傷者を出していた。
米軍は「物量で押せば崩れる」という従来の太平洋戦線の成功体験を持っていた。ガダルカナル以降、多くの日本軍守備隊は補給断絶後に急速に弱体化した。しかし沖縄では違った。
日本軍は地下陣地化を極限まで進めていた。
砲爆撃しても壕が残る。
制圧したと思った丘から逆襲を受ける。
前進すると迫撃砲で削られる。
夜になると浸透してくる。
しかも沖縄本島南部の地形は、米軍機甲戦力の長所を殺した。泥濘、石灰岩地形、細かい高低差、洞窟陣地。戦車は行動を制限され、歩兵が露出する。結果として、最終的には「歩兵が丘を一つずつ潰す」第一次大戦的戦闘へ回帰していった。
この時期の米軍は、ヨーロッパでもドイツ軍と戦っていたが、沖縄の近接戦闘は質が違った。ドイツ軍は機動、防御、火力で優れていたが、日本軍のような徹底した地下陣地・死守戦法とは異なる。沖縄では「敵を撃破しても前線が消えない」。壕が残る限り、防衛線が再生した。
米軍内部でも沖縄戦は衝撃だった。
戦後の海兵隊研究では、シュガーローフ周辺戦は「海兵隊史上最悪級の局地戦」の一つとして扱われる。
ここで重要なのは、「日本軍が優勢だった」という話ではないことだ。
現実には、日本軍は補給不能で、人的消耗を補えず、時間経過とともに確実に崩壊へ向かっていた。引用文にある通り、後方補給の差は致命的だった。米軍は損耗しても補充されるが、日本軍は減るだけだった。
つまり沖縄戦は、「戦術的抵抗」と「戦略的敗北」が同時進行していた戦場だった。
この二重構造を無視すると、戦争理解は浅くなる。
戦術レベルでは、日本軍は極めて粘り強く、局地的には米軍を何度も撃退している。特に首里防衛線は、地下陣地構築・地形利用・夜間逆襲の組み合わせによって、米軍に莫大な損害を与えた。
しかし戦略レベルでは、制海権も航空優勢も工業力も失っており、最終的な逆転可能性はほぼ存在しなかった。
沖縄戦とは、「勝てないが、簡単にも負けない戦争」の典型だったのである。
1978年の海上自衛隊PS-1墜落、1987年のフリゲート「スターク」被弾事件も、また別の意味で同じ構図を示している。
高度な軍事技術は、時として脆い。
PS-1のような大型飛行艇でも山岳地形と気象には勝てない。
「スターク」は高度なレーダーと防御装備を持ちながら、実戦で対艦ミサイルを防ぎ切れなかった。
1991年のタイ「暗黒の5月事件」では、近代国家の軍事力が、そのまま政治的安定を意味しないことが示された。武力鎮圧は短期的制圧はできても、統治正統性までは保証しない。
5月17日に並ぶ出来事を見ていると、人類史は「優位側が想定したほど簡単には進まない」という記録の積み重ねに見えてくる。
巨大な軍隊。
航空技術。
国家権力。
近代文明。
それらは確かに強力だ。
しかし現実の摩擦、地形、人間の執念、補給、偶発事故、制度疲労が介在すると、計画通りには動かない。
沖縄戦が今なお研究対象であり続けるのも、そのためだろう。
あれは単なる「日本軍の玉砕」でも、「米軍の圧勝」でもない。
圧倒的優位を持つ側が、それでもなお前進一つに巨大な代償を支払わされた、「近代戦の限界」が露出した戦場だったのである。

