kagamimochi-nikki 加賀美茂知日記
慶祝と美とグノ-シスの弥増す日々
日々の過去の出来事

今日という日5月11日 1945空母バンカーヒル特攻機により大破、ほか写真wikipedia消火活動する海兵隊員

5月11日

20260511月曜日旧暦3月25日先負(22番乙酉きのととりイツユウ)月齢 23.6

43番丙午ひのえうま年 30番癸巳みずのとみ月 21番乙酉きのととり日

吉方位 陽遁日 乙酉きのととり日 南 南西 大吉 年末まではあと234日

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5月11日の出来事
1745年 – オーストリア継承戦争: フォントノワの戦い 戦争:オーストリア継承戦争
年月日:1745年5月11日 場所:現ベルギー、トゥルネー南東フォントノワ
結果:フランスの勝利 損害:フランス軍52000人中 死傷6000人 イングランド連合
50000人中 12000人。

1812年 – イギリス首相スペンサー・パーシヴァルが暗殺される。
1891年 – 大津事件: 琵琶湖を遊覧したロシア皇太子(後のロシア皇帝ニコライ2世)が、大津にて警護にあたっていた滋賀県警察巡査の津田三蔵に斬りつけられ、頭部を負傷[6]。
1939年 – 満州国とモンゴル人民共和国の間に軍事衝突が起こる。(ノモンハン事件) 
機械化にてソ連軍は日本の戦力比 四倍。
戦争:日ソ国境紛争
年月日:1939年5月11日 – 9月16日
場所:満蒙国境、ハルハ川付近(N47.6348146, E118.5990811)
結果:ソ連側の勝利[1] 損害:日本、満州国 総兵力7万人中戦闘参加2万人 戦死8000人 不明1000人 ソ連 戦死10000人。
1940年 – 北海道枝幸村で発生した山火事が市街地へと延焼。死者16人、家屋焼失547戸[8]。
1945年 – 第二次世界大戦: アメリカ海軍の空母「バンカー・ヒル」が日本の特攻攻撃により大破。戦死者・行方不明者は396名、負傷者は264名。

1945年沖縄戦5月11日米軍総攻撃開始:米軍:・第1、第6海兵師団を加えた4コ師団、プラス予備軍1コ師団。米の本領である砲撃、銃爆撃、戦車(火焔戦車)を惜しみなく注ぎ込んだ、力攻めがはじまった。《「沖縄 Z旗のあがらぬ最後の決戦」(吉田俊雄/オリオン出版社) 255-256頁より》・第6海兵師団工兵隊は、5月10日の夜から11日に深夜にかけて、熾烈な砲火のなかを安謝川にベイリー・ブリッジを架け、攻撃支援部隊の戦車や重砲類を渡河させた。《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 339頁より》・首里の高地から安謝の海岸はまる見えである。日本軍は、首里西部の丘陵地帯の砲兵陣地から、ずっと撃ちまくり、また歩兵も、砲兵と相呼応して激しく抵抗してきた。この砲火のなかを、海兵隊は進撃していかねばならなかった。第1大隊の一中隊長が、安謝の南方800メートルの地点にある丘の頂上に一分隊をひきつれて登ったが、防備は固く、ついに火炎放射器の射手1人をのぞいて全員が死傷した。

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 339-340頁より》・… この日、米軍第3大隊は、とうとう33人の死傷者をだしたまま、前の夜の米軍戦線まで後退せざるをえなかった。(374-375頁)《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 374-375頁より》


1955年 – 国鉄宇高連絡船・紫雲丸が第三宇高丸に衝突し沈没、修学旅行中の児童ら168人が死亡する紫雲丸事故が発生[9]。この大惨事が瀬戸大橋建設のきっかけになった[10]。
1960年 – ブエノスアイレスに潜伏していたアドルフ・アイヒマンがイスラエルの諜報機関モサッドによって捕えられる[11]。

1985年 – イギリス・ブラッドフォードのサッカー場で火災が発生し、死者50人以上を出す。(ブラッドフォード・サッカー場火災)

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1745年 – オーストリア継承戦争: フォントノワの戦い 戦争:オーストリア継承戦争
年月日:1745年5月11日 場所:現ベルギー、トゥルネー南東フォントノワ
結果:フランスの勝利 損害:フランス軍52000人中 死傷6000人 イングランド連合
50000人中 12000人。

1812年 – イギリス首相スペンサー・パーシヴァルが暗殺される。

生年月日                 1762年11月1日

出生地    グレートブリテン王国の旗 グレートブリテン王国、メイフェア

没年月日                 1812年5月11日(49歳没)

死没地    イギリスの旗 イギリス、ロンドン

出身校    ハーロー校

ケンブリッジ大学トリニティ・カレッジ

リンカーン法曹院

所属政党                 トーリー党

イギリス史上唯一の暗殺された首相。
1891年 – 大津事件: 琵琶湖を遊覧したロシア皇太子(後のロシア皇帝ニコライ2世)が、大津にて警護にあたっていた滋賀県警察巡査の津田三蔵に斬りつけられ、頭部を負傷[6]。

大津事件(おおつじけん)は、1891年(明治24年)5月11日に日本を訪問中のロシア帝国皇太子・ ニコライ・アレクサンドロヴィチ・ロマノフ (後の皇帝ニコライ2世)が、滋賀県滋賀郡大津町(現・大津市)で警察官・津田三蔵に突然斬りつけられ負傷した暗殺未遂事件である[1][2]。湖南事件(こなんじけん)とも呼ばれる[3][4]。

当時の列強の一つであるロシア帝国の艦隊が神戸港にいる中で事件が発生し、まだ発展途上であった日本が武力報復されかねない緊迫した状況下で、行政の干渉を受けながらも司法の独立を維持し、三権分立の意識を広めた近代日本法学史上重要な事件とされる。裁判で津田は死刑を免れ無期徒刑となったが収監の翌々月に死亡した。日本政府内では外務大臣・青木周蔵と内務大臣・西郷従道が引責辞任し、6月には司法大臣・山田顕義が病気を理由に辞任した。

1939年 – 満州国とモンゴル人民共和国の間に軍事衝突が起こる。(ノモンハン事件) 
機械化にてソ連軍は日本の戦力比 四倍。
戦争:日ソ国境紛争
年月日:1939年5月11日 – 9月16日
場所:満蒙国境、ハルハ川付近(N47.6348146, E118.5990811)
結果:ソ連側の勝利[1] 損害:日本、満州国 総兵力7万人中戦闘参加2万人 戦死8000人 不明1000人 ソ連 戦死10000人。

ノモンハン事件(ノモンハンじけん)は、1939年5月から同年9月にかけて、満洲国とモンゴル人民共和国の間の国境線を巡って発生した紛争。第一次(1939年5月 – 6月)と第二次(同年7月 – 9月)の二期に分かれる。

1930年代に、満洲国、後に日本(大日本帝国)と、満洲国と国境を接するモンゴルを衛星国にしていたソビエト連邦の間で断続的に発生した日ソ国境紛争(満蒙国境紛争)の一つが、両国の後ろ盾の大日本帝国陸軍とソビエト赤軍との間で最大規模の軍事衝突となった[20]。

日本軍は決して惨敗したのではなく、むしろ兵力、武器、補給の面で圧倒的優位に立っていたソ連軍に対して、ねばり強く勇敢に戦った、勝ってはいなくても「ソ連軍の圧倒的・一方的勝利であったとは断定できない」との見解が学術的には一般化したと三代史研究会は主張[567]している。歴史家秦郁彦も「一般にノモンハン事件は日本軍の惨敗だったと言われるが、ペレストロイカ以後に旧ソ連側から出た新資料によれば、実態は引き分けに近かった」として、ほか「損害の面では、確かに日本軍のほうが少なかった」「領土に関していえば、一番中心的な地域では、ソ連側の言い分通りに国境線が決まったが、停戦間際、日本軍はその南側にほぼ同じ広さを確保」と戦闘開始時の目標をソ連は達成したが日本も同等の領土が得たこと、「それがいまだに中国とモンゴルの国境問題の種になっています」と指摘している[568]。一方で「勝敗の判定は何よりも戦争目的を達成したかで決まる。そうだとすれば戦闘の主目標はノモンハン地区の争奪だから、それを失った日本軍の敗北と評するほかない」としつつも、ジューコフが一方的な勝利を演出するため、自軍の損害を半分以下、日本軍に与えた損害を実際の5倍以上であったと吹聴した、とも指摘している[569]。

1940年 – 北海道枝幸村で発生した山火事が市街地へと延焼。死者16人、家屋焼失547戸[8]。
1945年 – 第二次世界大戦: アメリカ海軍の空母「バンカー・ヒル」が日本の特攻攻撃により大破。戦死者・行方不明者は396名、負傷者は264名。

バンカー・ヒル (USS Bunker Hill, CV/CVA/CVS-17, AVT-9) は、アメリカ海軍のエセックス級航空母艦の一隻で[1]、4番目に就役した。太平洋戦争ではマリアナ沖海戦(フィリピン海海戦)、レイテ沖海戦(レイテ湾海戦)、沖縄戦など主要な戦いに参加し、「ホリデー・エクスプレス」の愛称で呼ばれた[注釈 1]。1945年5月11日、沖縄方面で神風特別攻撃隊の零戦2機に突入されて大破、多数の死傷者を出す。アメリカ本土で修理中に日本の降伏を迎えた。

1945年沖縄戦5月11日米軍総攻撃開始:米軍:・第1、第6海兵師団を加えた4コ師団、プラス予備軍1コ師団。米の本領である砲撃、銃爆撃、戦車(火焔戦車)を惜しみなく注ぎ込んだ、力攻めがはじまった。《「沖縄 Z旗のあがらぬ最後の決戦」(吉田俊雄/オリオン出版社) 255-256頁より》・第6海兵師団工兵隊は、5月10日の夜から11日に深夜にかけて、熾烈な砲火のなかを安謝川にベイリー・ブリッジを架け、攻撃支援部隊の戦車や重砲類を渡河させた。《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 339頁より》・首里の高地から安謝の海岸はまる見えである。日本軍は、首里西部の丘陵地帯の砲兵陣地から、ずっと撃ちまくり、また歩兵も、砲兵と相呼応して激しく抵抗してきた。この砲火のなかを、海兵隊は進撃していかねばならなかった。第1大隊の一中隊長が、安謝の南方800メートルの地点にある丘の頂上に一分隊をひきつれて登ったが、防備は固く、ついに火炎放射器の射手1人をのぞいて全員が死傷した。

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 339-340頁より》・… この日、米軍第3大隊は、とうとう33人の死傷者をだしたまま、前の夜の米軍戦線まで後退せざるをえなかった。(374-375頁)《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 374-375頁より》

1955年 – 国鉄宇高連絡船・紫雲丸が第三宇高丸に衝突し沈没、修学旅行中の児童ら168人が死亡する紫雲丸事故が発生[9]。この大惨事が瀬戸大橋建設のきっかけになった[10]。

1955年(昭和30年)5月11日午前6時56分、上り第8便で運航中、同じ宇高連絡船・下り153便大型貨車運航船「第三宇高丸」と衝突して沈没。最大の被害を出した事故であり、国鉄戦後五大事故の1つでもある。「紫雲丸事故」といった場合はこの事故を指すことが多い。修学旅行中の広島県豊田郡木江町立南小学校(現・豊田郡大崎上島町立木江小学校)の児童などを中心に死者168名を出した。

1960年 – ブエノスアイレスに潜伏していたアドルフ・アイヒマンがイスラエルの諜報機関モサッドによって捕えられる[11]。
オットー・アドルフ・アイヒマン(ドイツ語: Otto Adolf Eichmann[1]、1906年3月19日 – 1962年6月1日)は、ドイツの親衛隊隊員。最終階級は親衛隊中佐。

ゲシュタポのユダヤ人移送局長官で、アウシュヴィッツ強制収容所 (収容所所長はルドルフ・フェルディナント・ヘス (=ルドルフ・へース)) へのユダヤ人大量移送に関わった[2]。「ユダヤ人問題の最終的解決」 (ホロコースト) に関与し、数百万人におよぶ強制収容所への移送に指揮的役割を担った。

第二次世界大戦後はアルゼンチンで逃亡生活を送ったが、1960年にモサドによって拘束され、イスラエルに連行された。1961年4月より人道に対する罪や戦争犯罪の責任などを問われて裁判にかけられ、同年12月に有罪、死刑判決が下され、翌年6月1日未明に絞首刑に処された。

処刑

1961年12月15日、すべての訴因で有罪が認められた結果、アイヒマンに対し死刑の判決が下された[56]。翌1962年6月1日未明にラムラの刑務所で絞首刑が行われた。5月31日から6月1日の真夜中 (イスラエルが死刑を行使する唯一の時間) 刑執行後、遺体は裁判医が確認するまで、1時間ほど絞首台にぶら下がったままだったという[56]。イスラエルでは通常犯罪には死刑は適用されず、反逆罪や人道に対する罪にのみ適用されるため、建国以来同国で執行された2例目かつ、2023年時点では最後の死刑(英語版)である。

執行後、遺体は焼却されて遺灰は地中海に撒かれた[56]。

最期の言葉は「ドイツ万歳。アルゼンチン万歳。オーストリア万歳。この3つの国は私が最も親しく結びついていた国々です。これからも忘れることはありません。妻、家族、そして友人たちに挨拶を送ります。私は覚悟はできています。全ての人の運命がそうであるように、我々はいずれまた会うでしょう。私は神を信じながら死にます」であった[57][58]。

1985年 – イギリス・ブラッドフォードのサッカー場で火災が発生し、死者50人以上を出す。(ブラッドフォード・サッカー場火災)
1996年 – バリュージェット航空592便墜落事故。アメリカ 110名死亡(全員)。

チャットgpt先生の5月11日のエッセイ

5月11日という日付を並べてみると、時代も地域も違う出来事が奇妙に似た輪郭を持っていることに気づく。勝敗や善悪ではなく、「人間の判断と現実の摩擦」が露出した日だ。

18世紀のフォントノワの戦いでは、フランス軍がイングランド連合軍を打ち破った。兵力は拮抗していたが、結果は損害比で大きく開いた。ここで見えるのは、戦争が単純な数の勝負ではないという基本だ。指揮、地形、士気、タイミング――どれか一つでも噛み合えば、数字は裏切る。

19世紀に入ると、国家の中枢そのものが脆さを見せる。スペンサー・パーシヴァルは1812年に暗殺される。大国イギリスの首相が議会内で撃たれるという事実は、制度の強さと同時に「完全な安全など存在しない」ことを示している。個人の動機が国家を揺らす余地は、どれだけ制度が整っても消えない。

日本に目を移すと、1891年の大津事件は別の緊張を浮かび上がらせる。列強ロシアの皇太子を警護側が襲うという、最悪に近い外交事故。ここで日本は「法を優先するか、政治的配慮で処断するか」の選択を迫られた。結果として司法の独立を守ったことは理想的に語られがちだが、現実には「報復されなかった」という外部要因にも大きく依存している。正義が通るかどうかは、力関係と切り離せない。

そして20世紀。5月11日は戦争の「理屈と現実の乖離」が最も濃く出る。ノモンハン事件では、日本軍は局地的には善戦しながらも、最終的な目的――係争地の確保――を達成できなかった。後年、「引き分けに近い」という評価も出るが、それは損害や戦術の話であって、戦略目的という基準では敗北になる。このズレは重要で、「現場の強さ」と「国家の勝ち」は別物だという現実を示している。

その延長線上にあるのが、1945年の沖縄戦だ。一般的には「米軍の圧倒的物量勝利」と説明されるが、実際の戦闘の中身を見ると単純ではない。米軍は確かに兵力・補給・火力で優越していた。しかし、それでもなお進撃は遅滞し、局地的には押し戻され、損害も予想を上回った。

特に5月の総攻撃段階では、火砲・艦砲射撃・航空攻撃・戦車を組み合わせた“理想的な近代戦”を実行している。それでも日本軍は地形(首里周辺の丘陵・壕陣地)と持久戦術で抵抗し、米軍に「消耗を強制」した。ここで見えるのは、物量があっても「時間」と「損害」をゼロにはできないという現実だ。

GHQのプレスコードを差し引いて見ると、戦後に流布した「一方的な圧勝」というイメージは単純化されすぎている。実際には、米軍にとっても沖縄は“計算通りには進まなかった戦場”であり、本土決戦を想定した際の損害見積もりに強い影響を与えた。つまり、戦術的には優勢でも、「これを日本本土でやるのか」というコスト計算が現実的な問題として浮上した戦いだった。

同じ日には、USSバンカー・ヒルが特攻で大破している。制空権を握っていた側の空母が、わずか数機の攻撃で大損害を受ける。ここにも非対称性がある。圧倒的優位の側でも、「完全な安全圏」は存在しない。

戦争から離れても、この日の出来事は似た構造を持つ。1955年の紫雲丸事故は、日常の運行の中で起きた大惨事だし、1960年のアドルフ・アイヒマン拘束は、国家が長い時間をかけて個人を追跡し続けた例だ。どちらも「システムは万能ではないが、無力でもない」という中間の現実を示している。

5月11日を通して見えるのは、極端な物語――圧勝、惨敗、正義の完全勝利――がいかに現実を取りこぼすかという点だ。実際の歴史はもっと粘りつくようなもので、優位な側も苦しみ、劣位な側も爪痕を残す。判断は常に不完全な情報の中で行われ、その結果は後から整えられる。

結局のところ、この日付が教えるのはシンプルだ。
「強さ」は単一の尺度では測れないし、「勝ち」もまた一枚岩ではない。現場、戦略、政治、そして時間――それぞれで別々の答えが出る。そのズレこそが、歴史の実体に一番近い。