kagamimochi-nikki 加賀美茂知日記
慶祝と美とグノ-シスの弥増す日々
日々の過去の出来事

今日という日5月5日 1842ハンブルグ大火、ほか写真wikipedia燃える市街

5月5日

20260505火曜日旧暦3月19日先負(16番己卯つちのとうキボウ)月齢 17.6

43番丙午ひのえうま年 30番癸巳みずのとみ月 16番己卯つちのとう日

吉方位 陽遁日 己卯つちのとう日 東 中吉 年末まではあと240日

https://ja.wikipedia.org/wiki/5%E6%9C%885%E6%97%A5

5月5日の出来事

1180年(治承4年4月9日) – 以仁王が平氏追討の令旨を発する。
1842年 – ハンブルク大火発生。、1842年5月5日から5月8日にかけてハンブルクの旧市街 (de:Hamburg-Altstadt) の大部分を破壊した、大規模な都市火災である。51人死亡。
1945年 – 第二次世界大戦: 日本から飛来した風船爆弾の不発弾がアメリカ・オレゴン州で爆発し、民間人6人が死亡。第二次大戦でのアメリカ本土での唯一の死者となる。
1945年 – 熊本県・大分県境にB-29が墜落。米兵4人が殺害され、残り6人も九州帝国大学で生体解剖される。(九州大学生体解剖事件)

1945年沖縄戦5月5日-米軍:・前田高地 浦添丘陵 ハクソーリッジ 5日から反対側の丘腹は徐々に占領され、洞窟は破壊されるか封鎖されるかした。しかし、この日の夜から6日の真夜中にかけて、日本軍は丘陵奪回のため、幾度にわたって反撃してきた。そのうち一つはとくに激しく、第307連隊の第3大隊に奇襲してきたが、白兵戦で250名の戦死者を出した末、撃退されたのである。《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 294-296頁より》・前田高地の戦闘で、とくにめざましい働きぶりを示したのは、B中隊の衛生兵ドス一等兵であった。彼はセブンスデー・アドバンチスト教会の信者で、信教上、銃は持たないことになっていた。そのため衛生兵に回されたわけだ、…《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 296頁より》・【訳】彼らが臆病者とみなし部隊に損害を与えると感じた男を排除するため、幾つかの試みを行った。指揮官はドスを精神病で除隊させようとしたが、彼は、自己の宗教的理由のために除隊には同意できないと拒否した。… 別の将校は、ライフルを保持することを拒否したとして彼を軍法会議にかけようとしたが失敗した。… Private First Class Desmond Thomas Doss Medal of Honor | The National WWII Museum | New Orleans・5月5日、前田高地でドス一等兵は75人の負傷兵を最後の一人まで残らず救出した。:日本軍:・5月2日の夜、酒を飲みかわしながら決定した総攻撃計画は、5月3日の夜も「戦勝前祝会」と称し酒宴がもたれた。しかしその攻撃でおよそ5000人の戦死者を出す。すでにこの時点で沖縄守備軍の兵力は75%を喪失していた。・総攻撃は一日で大失敗に終わった。陣地をでた日本兵は米軍の火力の敵ではなかった。戦死約5000人。第24師団は歩兵の実に60パーセント近くをこの攻撃で失い、砲兵団も米軍の反撃で大損害をこうむり、3分の1になってしまった。この攻勢の失敗により第32軍は、それまでせっかく温存していた第24師団をすりつぶしてしまった。この結果に大本営陸軍部(=参謀本部)も大いに失望し、沖縄作戦への期待を失ってしまった。以後、大本営の感心は沖縄から離れ、完全に本土決戦準備へと移っていく。《新装版「沖縄戦 国土が戦場になったとき」(藤原彰 編著/青木書店) 83-84頁より》

八原高級参謀の回想:

5月5日18時、自席に座して依然黙座する私を参謀長ではなく、軍司令官が直接お呼びになった。重い足どりで参謀長室の前まで来ると、奥の司令官室から「八原大佐!高級参謀ちょっとこい」と牛島将軍の声がする。私はそれ!いよいよ最後の突撃命令か? いよいよ最後かなと、はっ!とした。参謀長に黙って敬礼して傍らを過ぎ、静かに、司令官の前に直立不動の姿勢で立つ。

将軍は、平素の如く、畳の上に膝組んでおられる。やや暫し、沈痛な面持ちで、しげしげと私を見ておられたが、ようやくにして、静かに口を開かれた。

「八原大佐。貴官の予言通り、攻撃は失敗した。貴官の判断は正しい。開戦以来、貴官の手腕を掣肘し続けたので、さぞかしやりにくかったろう。予は攻撃中止に決した。濫りに玉砕することは予の本意ではない。予が命を受けて、東京を出発するに当たり、陸軍大臣、参謀総長は軽々に玉砕してはならぬと申された。軍の主戦力は消耗してしまったが、

なお残存する兵力と足腰の立つ島民とをもって、最後の一人まで、そして沖縄の島の南の崖、尺寸の土地の存する限り、戦いを続ける覚悟

である。今後は、一切を貴官に委せる。予の方針に従い、思う存分自由にやってくれ」

軍の戦力尽きんとする今日、司令官の言は何事ぞ!すでに手遅れである。憤怒の情さらに新たなるものがあったが、真情を吐露して訥々と語られる将軍の素直な人格に打たれ、ともに軍の運命を悲しむ気持ちに変わった。

いかなる重大事も参謀長以下に任せ、いささかの疑いも挟まぬこの将軍をして、今のようなことを述べねばならん苦境に突き落としたのは、結局私の補佐が十分でなかったからである。真に軍の安危にかかわると信じたならば、死を賭しても、その主張を貫くべきではなかったか。もちろん私は、全力を尽くしたと信ずる。しかし必死の誠意に欠けるものがあったことを、悔いずにはおられぬ。

《「沖縄決戦 高級参謀の手記」(八原博通/中公文庫) 286-287頁より》

悲憤のあまり、私はメモ帳に次の文句を記した。

ー 日本軍高級将校 ー

先見洞察力不十分――航空優先の幻影に捉われ、一般作戦思想、兵力配置、戦闘指導ことごとくこの幻影より発する。感情的衝動的勇気はあるが、冷静な打算や意志力に欠ける。心意活動が形式的で、真の意味の自主性がない。地上戦闘に対する認識が浅い。支那軍相手や太平洋戦争初期の戦闘経験に捉われ、比較を絶する強大な火力部隊に対する心構えが乏しく不十分だ。死を賛美し過ぎ、死が一切を美しく解決すると思い込んでいる。「武士道は死ぬことと見つけたり」との葉隠論語の主義は、一面の真理である。が、それは目的ではなく、手段である。勝利や任務の達成を忘れた死は無意味だ。

ー 日本軍幕僚 ー

主観が勝って、客観が弱い。自信力が強過ぎる。戦術が形式的技巧に走って、本質を逸する。軍隊の体験が乏しい。等々技巧は良いがデザインは下手。感情に走って大局を逸し、本来の目的本質を忘れる。形式に生き形式に死ぬる。形式の徹底は、軍隊に必要であるが、しかし形式からは真の力が出てこない。人間として幅広さ、強さが足りぬ。人間が幼稚なのである。アメリカ軍が日本軍を評して、兵は優秀、中堅幹部は良好、高級首脳部は愚劣といったが、必ずしも的を外れた言葉とは申されないであろう。軍の攻撃態勢――攻撃活動はすでに実質的に死滅し、格好ばかりの攻撃態勢となっている――は五月四日夜からさらに五日に続いた。

 《「沖縄決戦 高級参謀の手記」(八原博通/中公文庫) 》


1980年 – 駐英イラン大使館占拠事件: イギリス陸軍の特殊部隊SASが大使館に突入し、犯人6人のうち5人を射殺、人質26人を解放。

2023年 – 世界保健機関が2019コロナウイルス感染症(COVID-19)の緊急事態宣言終了を発表。事実上の収束宣言。

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1180年(治承4年4月9日) – 以仁王が平氏追討の令旨を発する。

以仁王の挙兵(もちひとおうのきょへい)は、治承4年(1180年)に高倉天皇の兄宮である以仁王と源頼政が、平家打倒のための挙兵を計画し、諸国の源氏や大寺社に蜂起を促す令旨を発した事件。

計画は準備不足のために露見して追討を受け、以仁王と頼政は宇治平等院の戦いで敗死、早期に鎮圧された。しかしこれを契機に諸国の反平家勢力が兵を挙げ、全国的な動乱である治承・寿永の乱が始まる。以仁王の乱、源頼政の挙兵とも呼ばれる。

1842年 – ハンブルク大火発生。、1842年5月5日から5月8日にかけてハンブルクの旧市街 (de:Hamburg-Altstadt) の大部分を破壊した、大規模な都市火災である。51人死亡。

ハンブルク大火(ハンブルクたいか、ドイツ語: Hamburger Brand)は、1842年5月5日から5月8日にかけてハンブルクの旧市街 (de:Hamburg-Altstadt) の大部分を破壊した、大規模な都市火災である。ハンブルクの郷土史に触れる文脈においては、単に「大火災(der Große Brand)」と呼ばれる場合も多い。この火災は、50キロ離れた場所からも見ることができた[1]。

影響

大火後の新建築。

大火は当時の市域の1/4以上を荒廃させた。51名が犠牲となる。また20,000名以上が住居を失い、破壊された家屋は41か所の通りでおよそ1700棟に上ると推定されている。同様に倉庫102棟、2か所の中央教会(聖ニコライ教会および聖ペトリ教会)を含む教会3棟、市庁舎、公文書館および旧証券取引所を含む商業施設 (Commerzium) にも被害が及んだ。

1945年 – 第二次世界大戦: 日本から飛来した風船爆弾の不発弾がアメリカ・オレゴン州で爆発し、民間人6人が死亡。第二次大戦でのアメリカ本土での唯一の死者となる。

1945年 – 熊本県・大分県境にB-29が墜落。米兵4人が殺害され、残り6人も九州帝国大学で生体解剖される。(九州大学生体解剖事件

九州大学生体解剖事件(きゅうしゅうだいがくせいたいかいぼうじけん)は、第二次世界大戦中の1945年に福岡県福岡市の九州帝国大学(現九州大学)医学部の解剖実習室で、アメリカ軍捕虜8人に生体解剖[要曖昧さ回避](被験者が生存状態での解剖)が施術された事件。相川事件ともいわれる。8人は全員死亡した[1]。

大学が組織として関わったものではないとの主張もあるが、B級戦犯裁判ならびにその後の関係者の証言、関係者の反倫理的行為への意図的な隠蔽と否認などから、医学部と軍部の両方による計画的実行であったとする見解もある[2](#九州帝国大学の組織的関与についてを参照)。

熊本県阿蘇郡の南小国町や産山村に7名が降下、うち1名は機銃掃射で落下傘の糸が切れ墜落死、ワトキンス中尉ら3名は大分県竹田町周辺に降下。阿蘇郡では三八式歩兵銃や村田銃、竹やり、日本刀、草切鎌で武装した地元住民や警防団員によって2名が殺害され、囲まれた1名(ジョンソン伍長)が自殺した。竹田町周辺に降下したとみられるシングルデッカー少尉は、住民に撃たれ重傷を負ったとされるが、その後の消息は不明[7][6]。中には駐在巡査の制止や、地元獣医や日露戦争従軍者が守ったケースもあったが[6]、生存者の多くや遺体には住民により繰り返し暴行が加えられた。唯一、終始冷静沈着だった機長のワトキンス中尉だけは頭を殴られるだけで済んだ[6]。

生き残ったのは「42-65305」号7名、「42−93953」号4名の計11名であったが、東京からの暗号命令で「東京の捕虜収容所は満員で、情報価値のある機長だけ東京に送れ。後は各軍司令部で処理しろ」とする命令により、ワトキンス機長のみが東京へ移送された。残り10名の捕虜の処遇に困った西部軍司令部は、裁判をせずに死刑とすることにした。このことを知った九州帝国大学卒で病院詰見習士官の小森卓軍医は、石山福二郎主任外科部長(教授)と共に、8名を生体解剖に供することを軍に提案した。これを軍が認めたため、うち8名は九州帝国大学へ引き渡された。8名の捕虜は収容先が病院であったため健康診断を受けられると思い、「サンキュー」と言って医師に感謝したという。

生体解剖に回されなかったカルヴィン一等兵、コーリス伍長の2名は福岡大空襲翌日の6月20日、前後に捕虜となったB-29搭乗員6名とともに福岡高等女学校校庭で斬首刑に処された(西部軍事件)。

最終的なGHQの調査で、捕虜の処理に困った佐藤吉直大佐が小森に相談し、石山に持ちかけ実行されたことが判明したが、企画者のうち小森は空襲で死亡、石山は自殺したため、1948年8月に横浜軍事法廷で以下の5名が絞首刑とされ、立ち会った医師18人が有罪となった。

西部軍関係者

佐藤吉直大佐

横山勇中将

九大関係者

鳥巣太郎助教授

平尾健一助教授

森好良雄講師

その後、朝鮮戦争が勃発し、アメリカは対日感情に配慮したことから獄中自殺した1名を除き、恩赦によって減刑されその多くが釈放された。ただし、人肉食事件など自白の一部は強要によって捏造されたという見解もある(後述)。

実験目的と方法

実験手術の目的は、主に次のようなものであった。

不足する代用血液の開発のための実験

結核の治療法の確立のための実験

人間の生存に関する探求

新しい手術方法の確立のための実験

手術方法は、主に次のとおりであった。

血管へ薄めた海水を注入する実験

肺の切除実験

心臓の停止実験

その他の脳や肝臓などの臓器等の切除実験

どれだけ出血すれば人間が死ぬかを見るための実験

1945年沖縄戦5月5日-米軍:・前田高地 浦添丘陵 ハクソーリッジ 5日から反対側の丘腹は徐々に占領され、洞窟は破壊されるか封鎖されるかした。しかし、この日の夜から6日の真夜中にかけて、日本軍は丘陵奪回のため、幾度にわたって反撃してきた。そのうち一つはとくに激しく、第307連隊の第3大隊に奇襲してきたが、白兵戦で250名の戦死者を出した末、撃退されたのである。《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 294-296頁より》・前田高地の戦闘で、とくにめざましい働きぶりを示したのは、B中隊の衛生兵ドス一等兵であった。彼はセブンスデー・アドバンチスト教会の信者で、信教上、銃は持たないことになっていた。そのため衛生兵に回されたわけだ、…《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 296頁より》・【訳】彼らが臆病者とみなし部隊に損害を与えると感じた男を排除するため、幾つかの試みを行った。指揮官はドスを精神病で除隊させようとしたが、彼は、自己の宗教的理由のために除隊には同意できないと拒否した。… 別の将校は、ライフルを保持することを拒否したとして彼を軍法会議にかけようとしたが失敗した。… Private First Class Desmond Thomas Doss Medal of Honor | The National WWII Museum | New Orleans・5月5日、前田高地でドス一等兵は75人の負傷兵を最後の一人まで残らず救出した。:日本軍:・5月2日の夜、酒を飲みかわしながら決定した総攻撃計画は、5月3日の夜も「戦勝前祝会」と称し酒宴がもたれた。しかしその攻撃でおよそ5000人の戦死者を出す。すでにこの時点で沖縄守備軍の兵力は75%を喪失していた。・総攻撃は一日で大失敗に終わった。陣地をでた日本兵は米軍の火力の敵ではなかった。戦死約5000人。第24師団は歩兵の実に60パーセント近くをこの攻撃で失い、砲兵団も米軍の反撃で大損害をこうむり、3分の1になってしまった。この攻勢の失敗により第32軍は、それまでせっかく温存していた第24師団をすりつぶしてしまった。この結果に大本営陸軍部(=参謀本部)も大いに失望し、沖縄作戦への期待を失ってしまった。以後、大本営の感心は沖縄から離れ、完全に本土決戦準備へと移っていく。《新装版「沖縄戦 国土が戦場になったとき」(藤原彰 編著/青木書店) 83-84頁より》

八原高級参謀の回想:

5月5日18時、自席に座して依然黙座する私を参謀長ではなく、軍司令官が直接お呼びになった。重い足どりで参謀長室の前まで来ると、奥の司令官室から「八原大佐!高級参謀ちょっとこい」と牛島将軍の声がする。私はそれ!いよいよ最後の突撃命令か? いよいよ最後かなと、はっ!とした。参謀長に黙って敬礼して傍らを過ぎ、静かに、司令官の前に直立不動の姿勢で立つ。

将軍は、平素の如く、畳の上に膝組んでおられる。やや暫し、沈痛な面持ちで、しげしげと私を見ておられたが、ようやくにして、静かに口を開かれた。

「八原大佐。貴官の予言通り、攻撃は失敗した。貴官の判断は正しい。開戦以来、貴官の手腕を掣肘し続けたので、さぞかしやりにくかったろう。予は攻撃中止に決した。濫りに玉砕することは予の本意ではない。予が命を受けて、東京を出発するに当たり、陸軍大臣、参謀総長は軽々に玉砕してはならぬと申された。軍の主戦力は消耗してしまったが、

なお残存する兵力と足腰の立つ島民とをもって、最後の一人まで、そして沖縄の島の南の崖、尺寸の土地の存する限り、戦いを続ける覚悟

である。今後は、一切を貴官に委せる。予の方針に従い、思う存分自由にやってくれ」

軍の戦力尽きんとする今日、司令官の言は何事ぞ!すでに手遅れである。憤怒の情さらに新たなるものがあったが、真情を吐露して訥々と語られる将軍の素直な人格に打たれ、ともに軍の運命を悲しむ気持ちに変わった。

いかなる重大事も参謀長以下に任せ、いささかの疑いも挟まぬこの将軍をして、今のようなことを述べねばならん苦境に突き落としたのは、結局私の補佐が十分でなかったからである。真に軍の安危にかかわると信じたならば、死を賭しても、その主張を貫くべきではなかったか。もちろん私は、全力を尽くしたと信ずる。しかし必死の誠意に欠けるものがあったことを、悔いずにはおられぬ。

《「沖縄決戦 高級参謀の手記」(八原博通/中公文庫) 286-287頁より》

悲憤のあまり、私はメモ帳に次の文句を記した。

ー 日本軍高級将校 ー

先見洞察力不十分――航空優先の幻影に捉われ、一般作戦思想、兵力配置、戦闘指導ことごとくこの幻影より発する。感情的衝動的勇気はあるが、冷静な打算や意志力に欠ける。心意活動が形式的で、真の意味の自主性がない。地上戦闘に対する認識が浅い。支那軍相手や太平洋戦争初期の戦闘経験に捉われ、比較を絶する強大な火力部隊に対する心構えが乏しく不十分だ。死を賛美し過ぎ、死が一切を美しく解決すると思い込んでいる。「武士道は死ぬことと見つけたり」との葉隠論語の主義は、一面の真理である。が、それは目的ではなく、手段である。勝利や任務の達成を忘れた死は無意味だ。

ー 日本軍幕僚 ー

主観が勝って、客観が弱い。自信力が強過ぎる。戦術が形式的技巧に走って、本質を逸する。軍隊の体験が乏しい。等々技巧は良いがデザインは下手。感情に走って大局を逸し、本来の目的本質を忘れる。形式に生き形式に死ぬる。形式の徹底は、軍隊に必要であるが、しかし形式からは真の力が出てこない。人間として幅広さ、強さが足りぬ。人間が幼稚なのである。アメリカ軍が日本軍を評して、兵は優秀、中堅幹部は良好、高級首脳部は愚劣といったが、必ずしも的を外れた言葉とは申されないであろう。軍の攻撃態勢――攻撃活動はすでに実質的に死滅し、格好ばかりの攻撃態勢となっている――は五月四日夜からさらに五日に続いた。

 《「沖縄決戦 高級参謀の手記」(八原博通/中公文庫) 》

1980年 – 駐英イラン大使館占拠事件: イギリス陸軍の特殊部隊SASが大使館に突入し、犯人6人のうち5人を射殺、人質26人を解放。

駐英イラン大使館占拠事件(ちゅうえいイランたいしかんせんきょじけん)とは、1980年4月30日にイギリスのロンドンにある駐英イラン大使館が、6名の反ホメイニ派イラン人テロリストにより占拠されたテロ事件である。この事件により4名の犠牲者が出たが、イギリス陸軍SAS(特殊空挺部隊)の対革命戦中隊(CRW Wing/対テロ・人質救出専門部隊)の隊員らが突入し、犯行グループ6名のうち5名を射殺した。

2023年 – 世界保健機関が2019コロナウイルス感染症(COVID-19)の緊急事態宣言終了を発表。事実上の収束宣言。

チャットgpt先生の5月5日のエッセイ

5月5日という日付を眺めると、祝日としての軽やかさとは裏腹に、人間の行動原理がむき出しになった出来事が並んでいる。理想や正義ではなく、「状況に押し出された判断」と「その結果」が連鎖している日だ。

まず、1180年の以仁王の挙兵。これは高邁な志というより、権力構造の歪みに対する“最後の賭け”だった。準備不足で即座に潰えたが、重要なのはその成否ではなく、局所的な無謀が広域の連鎖反応を引き起こした点だ。結果として全国規模の内戦(治承・寿永の乱)に発展する。歴史はしばしば「勝者の計画」で動くのではなく、「敗者の衝動」で加速する。

1842年のハンブルク大火も同様に、制御不能の連鎖の典型だ。都市構造、建材、消防体制の限界が重なり、数日の火災で都市の4分の1が消える。ここに善悪はない。あるのは「脆弱なシステムに火種が入った時の必然的崩壊」だけだ。災害は突発的に見えて、実際は長年の設計の帰結である。

そして1945年。5月5日は、戦争という極限環境の“現実”が最も露骨に現れている。
九州大学生体解剖事件は、その象徴だ。倫理崩壊というより、組織と命令系統が「例外状態」を常態化させた結果と言える。現場は合理性の言葉を使いながら、取り返しのつかない一線を越えた。戦争ではしばしば「合理」と「狂気」が同じ顔をしている。

同じ日付に起きたもう一つの事例、風船爆弾によるアメリカ本土の死者も、戦争の非対称性を示す。戦略的には限定的でも、心理的・象徴的な影響は無視できない。コストと効果の釣り合いは、戦場だけで決まらない。

そして沖縄戦。ここは少し視点を絞る必要がある。
一般的には「物量で圧倒した米軍」と語られがちだが、実態はそれほど単純ではない。沖縄戦は、米軍にとっても想定外に消耗の激しい戦闘だった。上陸後の進撃は、洞窟陣地・逆斜面配置・徹底した持久戦によって極端に鈍化する。前田高地(ハクソー・リッジ)周辺の戦闘では、制圧と奪回が反復され、局地的には白兵戦にまで至った。

ここで注目すべきは、双方の“合理性”だ。
日本軍は戦略的勝利が不可能であることを前提に、時間稼ぎと損害強要に徹した。一方、米軍は圧倒的火力を持ちながらも、地形と戦術に拘束され、歩兵の損耗を避けきれなかった。つまり、「物量=即勝利」ではなく、「物量+適応」によってようやく前進した戦いだった。結果として米軍は勝利するが、その過程は“効率的な戦争”とは程遠い。

さらに踏み込めば、戦場の個別エピソードも単純な英雄譚ではない。例えば衛生兵のデズモンド・ドスの行動は確かに異例だが、それが際立つのは周囲が極限状態だったからだ。彼の存在は人間性の証明というより、「極限環境でも例外は生まれる」という事実を示しているに過ぎない。

1980年の駐英イラン大使館占拠事件では、国家は交渉ではなく即応的な暴力で決着をつけた。ここでも理想より優先されたのは「迅速な事態収束」と「統治能力の誇示」だ。

そして2023年、世界保健機関がCOVID-19の緊急事態終了を宣言する。これもまた「終息」というより、「継続コストに対する現実的な区切り」だ。完全な解決ではなく、社会が許容できる状態に落ち着いたという判断に近い。

5月5日を通して見えるのは一貫している。
人間は理想で動くのではなく、制約の中で“選べる選択肢”を取る。その選択は後から意味づけされるが、当時の現場では常に不完全で、しばしば不可逆だ。

歴史は美化も断罪もできるが、現実として残るのは、選択と結果の積み重ねだけである。