4月6日
20260406月曜日旧暦2月19日友引(47番庚戌かのえいぬコウジュツ)月齢 18
43番丙午ひのえうま年 29番壬辰みずのえたつ月 47番庚戌かのえいぬ日
年末まであと269日
吉方位 陽遁日 庚戌かのえいぬ日 南 大吉
https://ja.wikipedia.org/wiki/4%E6%9C%886%E6%97%A5
4月6日の出来事
1199年 – イングランド王リチャード1世(獅子心王)が死去。後継に指名された弟のジョンが即位。
1633年(寛永10年2月28日) – 第一次鎖国令。江戸幕府が、奉書船以外で海外渡航・海外に長期在住した日本人の帰国を禁止。
1921年 – 東京の浅草で大火[4]。 住家や店舗1227戸全焼、同73戸半焼。市民が494人、消防隊50人が負傷[5]。
1941年 – 琵琶湖遭難事故: 旧制四高漕艇部員11名が琵琶湖で練習中に突風で遭難。流行歌「琵琶湖哀歌」の題材となる。ボート部11人死亡。
1945年-沖縄戦4月6日・海軍特攻 日本海軍は「菊水作戦」を始動する。… 海軍では、航空部隊と水上部隊の全力特攻に踏み切った。
《「沖縄 Z旗のあがらぬ最後の決戦」(吉田俊雄/オリオン出版社) 169頁より》
1977年 – イランのエスファハーン近郊を震源とする地震が発生。死者500人を超す被害となった[8]。
2009年 – ラクイラ地震が発生。 309人が死亡、6万人以上が被災した[13]。
——————————–
1199年 – イングランド王リチャード1世(獅子心王)が死去。後継に指名された弟のジョンが即位。
リチャード1世(Richard I, 1157年9月8日 – 1199年4月6日[1])は、プランタジネット朝(アンジュー朝)第2代のイングランド王(在位:1189年 – 1199年)。
生涯の大部分を戦闘の中で過ごし、その勇猛さから獅子心王(Richard the Lionheart、フランス語ではCœur de Lion)と称され、中世ヨーロッパにおいて騎士の模範とたたえられたが、10年の在位中イングランドに滞在することわずか6か月で、その統治期間のほとんどは戦争と冒険に明け暮れた[2]。
逸話
・イングランドで生まれたが、アンジューおよびアキテーヌで育ち、イングランドに滞在することは少なく、英語(中英語、アングロ=サクソン語)もほとんど話せなかった[4]。
・自分を撃ったシャリュ城の若い射手(名前はピエール・バジル(英語版)あるいはベルトラン、John Sabrozとも)に理由を尋ねると、「陛下は私の父親と2人の兄弟を殺しました。どうぞ私も処刑なさってください、敵を討ったことを後悔はしていません」と答えた。話を聞き終わったリチャードは「おまえの命は助けてやる」と言い、正当な戦闘行為によるものだから、たとえ自分が死ぬことになっても、この男のことは許すようにと周りに命じ、報奨金まで与えて放免した[6]。しかし、リチャードがジョンを後継者として亡くなると、この射手は捕らえられ皮剥ぎの刑に処された。
・強敵には敬意を払った。敵将サラディンを「間違いなく最も強力かつ偉大なサラセンの指導者」と賞賛している[7]。
その勇猛さは敵となったムスリムからも評価されていた。サラディンに仕えその伝記を著したバハーウッディーン・イブン・シャッダード(英語版)はリチャードについて「イングランド王の進軍の知らせに、ムスリムたちは震えあがった……戦場に何度も赴き、勇猛な戦いぶりがよく知られていたので、彼ら〈フランク人〉[注釈 1]の目にはフランス王より下の地位にあったとはいえ、富の豊かさ、それに軍事的手腕と勇猛さでは断然上だった」と記した[8]。また同時代のあるムスリムは「彼ほど豪胆な敵、また頭の切れる敵とは、これまで対戦したことがない」と書いている[9]。
1633年(寛永10年2月28日) – 第一次鎖国令。江戸幕府が、奉書船以外で海外渡航・海外に長期在住した日本人の帰国を禁止。
一般的には1639年(寛永16年)の南蛮(ポルトガル)船入港禁止から、1854年(嘉永7年)の日米和親条約締結までの期間を「鎖国」 (英: closed country) と呼ぶ。
1631年(寛永8年)奉書船制度の開始。朱印船に朱印状以外に老中の奉書が必要となった。
1633年(寛永10年)「第1次鎖国令」。奉書船以外の渡航を禁じる。また、海外に5年以上居留する日本人の帰国を禁じた。
1634年(寛永11年)「第2次鎖国令」。第1次鎖国令の再通達。長崎に出島の建設を開始。
1635年(寛永12年)「第3次鎖国令」。中国・オランダなど外国船の入港を長崎のみに限定。東南アジア方面への日本人の渡航及び日本人の帰国を禁じた[13]。
1636年(寛永13年)「第4次鎖国令」。貿易に関係のないポルトガル人とその妻子(日本人との混血児含む)287人をマカオへ追放、残りのポルトガル人を出島に移す。
1637年(寛永14年)〜1638年(寛永15年)の寛永年間の島原•天草の乱。幕府に武器弾薬をオランダが援助した。
1639年(寛永16年)「第5次鎖国令」。ポルトガル船の入港を禁止。それに先立ち幕府はポルトガルに代わりオランダが必需品を提供できるかを確認している[14]。
1640年(寛永17年)マカオから通商再開依頼のためポルトガル船来航。徳川幕府、使者61名を処刑。
1921年 – 東京の浅草で大火[4]。 住家や店舗1227戸全焼、同73戸半焼。市民が494人、消防隊50人が負傷[5]。
1941年 – 琵琶湖遭難事故: 旧制四高漕艇部員11名が琵琶湖で練習中に突風で遭難。流行歌「琵琶湖哀歌」の題材となる。ボート部11人死亡。
1945年-沖縄戦4月6日・海軍特攻 日本海軍は「菊水作戦」を始動する。… 海軍では、航空部隊と水上部隊の全力特攻に踏み切った。
《「沖縄 Z旗のあがらぬ最後の決戦」(吉田俊雄/オリオン出版社) 169頁より》
海軍は6日、米機動部隊に対し、96機、輸送船団に対し179機を出撃させる。陸軍も九州から54機を出撃、台湾方面より28機を出撃させた。第32軍からの報告ではこの日の攻撃で、沈没は戦艦2、輸送艦5など15隻、撃破は戦艦1駆逐艦1など19隻となっている*1。最終決戦と臨む海軍と本土決戦までの持久戦である陸軍の思惑は違うが、帝国陸海軍史上最大の航空作戦であり、未曾有の特攻作戦でもあった。
《「沖縄に散った最後の陸軍大将 牛島満の生涯・魂還り魂還り皇国護らん」(将口泰浩/海竜社) 166頁より》
4月6日に大和と他9隻から成る艦隊は広島県三田尻沖を出撃した。しかし出港した2時間後には米潜水艦が無線傍受、7時間後には潜水艦に追尾、米軍はおびき寄せるように艦隊が九州から離れるのを待った。
・32軍何度目かの総攻撃中止-沖縄守備軍は、4月8日の夜を期し、全軍の総力を挙げて攻勢に転じ、北・中飛行場地区の米軍を撃滅する計画に基づき、牛島司令官は、4月6日、配下の各師団長に軍の企図を説明した。こうして攻撃命令は、下級部隊へくまなく伝えられた。が、八原作戦参謀は、いぜんとして攻勢案に疑問をいだき何とか元の防衛態勢に復する機会を狙っていた。それで、連合艦隊が出撃するという電報を受け取ったときも、かれはすぐ軍司令官の承認をえて「沖縄周辺の敵海空軍の情勢は、これを許さずと判断せらるるにつき、出撃を中止されたし」と返電を送ったほどであった。そこへ、4月6日の夜、あらたに「百隻余の敵船団が沖縄島西南地区に近接中」という電報が舞い込み、二度目の攻勢案もあっさり中止されることになった。その結果、大本営や上級部隊は怒り、攻撃準備に忙殺されていた第一線各部隊には大きな混乱をもたらし、将兵の士気にも悪い影響を与えた。
《写真記録「これが沖縄戦だ」(大田昌秀 編著/琉球新報社) 91頁より》
1977年 – イランのエスファハーン近郊を震源とする地震が発生。死者500人を超す被害となった[8]。
2009年 – ラクイラ地震が発生。 309人が死亡、6万人以上が被災した[13]。
ラクイラ地震 (terremoto dell’Aquila) は、2009年1月から4月にかけてイタリア アブルッツォ州 ラクイラ県のラクイラ付近で発生した群発地震、およびその終盤の4月6日3時32分(中央ヨーロッパ夏時間、JST-7)に発生したマグニチュード6.3の地震のこと[3]。同年4月30日までに300人以上の死亡が確認されており[4]、6万人以上が家を失って避難生活を強いられた。アブルッツォ・ラーツィオ地震 (terremoto di Abruzzo e Lazio) とも
チャットgpt先生の4月6日のエッセイ
4月6日という日は、歴史を俯瞰すると「理想」と「現実」の距離がむき出しになる日である。
象徴的なのは、1199年に没したリチャード1世だろう。彼は騎士道の化身として語られるが、実態は戦場を主軸に生きた遠征王であり、統治者としてのイングランドにはほとんど不在だった。敵に対する寛容や勇猛さの逸話は後世の理想像を形作ったが、その死後、彼が助命した射手が処刑された事実が示すのは、個人の美徳と体制の論理がまったく別物であるという現実だ。英雄の意志よりも、権力構造のほうが一貫して冷徹である。
同じく国家の論理が前面に出るのが、1633年の第一次鎖国令である。これは「閉じた国」という理念的な言葉で語られがちだが、実態は統治の安定を優先した情報・人流の管理政策だった。海外との接触は利益ももたらすが、同時に統制不能な要素を持ち込む。幕府はそれを許容しなかった。結果として、日本は数世紀にわたり限定的な窓だけを外に開く体制を維持することになるが、それは理想でも孤立でもなく、単にリスク管理の選択だったと見る方が実態に近い。
20世紀に入ると、4月6日はより直接的に「制御不能な現実」を突きつける。1921年の浅草の大火は都市の密集構造の脆弱さを露呈し、1941年の琵琶湖遭難事故は自然条件の急変が人間の技量や経験を容易に無効化することを示した。ここには美談も理念もなく、ただ環境と人間の力関係がある。
その極点が1945年の菊水作戦である。これは意思決定の合理性というより、状況の逼迫が選択肢を削り取った結果の作戦だった。大規模な航空特攻は戦術的効果を狙ったものではあるが、同時に戦力の持続的運用が不可能になった側の「残された手段」でもあった。ここでは勇敢さや悲壮さといった言葉よりも、資源・時間・情報の不足が意思決定をどこまで追い詰めるかが重要になる。現場では攻勢と防勢の方針が揺れ、命令の変更が混乱と士気低下を招いた。理想的な統制など存在せず、現実は常に不完全な情報と矛盾した判断の連続で進む。
さらに1977年のイラン地震、2009年のラクイラ地震といった災害は、人間の制度や計画が自然現象の前では容易に崩れることを繰り返し示している。被害規模や対応の評価は後から語られるが、発生の瞬間においては、ただ物理法則が優先されるだけである。
こうして並べると、4月6日は一貫して「人間の意思がどこまで現実に影響できるか」という限界を露出させる日だと言える。英雄の徳も、国家の政策も、組織の作戦も、自然の前提条件や構造的制約の上に成り立っているに過ぎない。そしてその制約は、多くの場合、後からしか理解されない。
歴史はしばしば理念や物語で装飾されるが、4月6日に起きた出来事を並べると、むしろ逆だ。装飾を剥がしたあとに残るのは、力関係、資源配分、偶然、そして不可逆な結果である。そこでは「どうあるべきか」ではなく、「何が可能だったのか」がすべてを決めている。

