kagamimochi-nikki 加賀美茂知日記
慶祝と美とグノ-シスの弥増す日々
日々の過去の出来事

今日という日3月13日 1945第一回大阪大空襲、ほか写真wikipedia空襲後大阪市街

3月13日

20260313金曜日旧暦1月25日先勝(23番丙戌ひのえいぬヘイジュツ)月齢 23.6

丙午ひのえうま年 辛卯かのとう月 丙戌ひのえいぬ日 年末まであと293日

吉方位 陽遁日 丙戌ひのえいぬ日 南西 大吉

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3月13日の出来事
1807年 – ニコライ・レザノフ、外交官(* 1764年)享年44歳。
1809年 – 第二次ロシア・スウェーデン戦争敗戦の責任を問われていたスウェーデン王グスタフ4世アドルフがグリプスホルム城に幽閉され、王位を剥奪される。

1848年 – オーストリア三月革命によって、オーストリア宰相メッテルニヒが失脚、ロンドンに亡命。
1881年(ユリウス暦3月1日) – ロシア皇帝アレクサンドル2世が投げつけられた爆弾により暗殺される。

1933年 – ドイツで国民啓蒙・宣伝省が発足、ヨーゼフ・ゲッベルスが大臣に就任。

1934年 – 新潟県糸魚川市の姫川第六水力発電所工事現場にて雪崩が発生。9人死亡。
1945年 – 第二次世界大戦・大阪大空襲: 大阪市が初めて空襲され、一晩でおよそ4千人が亡くなった[4]。
1954年 – 第一次インドシナ戦争: ディエンビエンフーの戦いが始まる。年月日:1953年11月 - 1954年5月7日[2] 場所:ベトナム、ディエンビエンフー[2] 結果:ベトミン軍の決定的勝利 フランス軍の降伏[2] 損害:ベトミン軍 100000人中 戦死8000人 フランス軍、ベトナム政府軍、アメリカ軍 20000人中 2200人戦死 10000人捕虜。

1996年 – イギリスのスコットランドにあるダンブレーン小学校(英語版)に男が侵入し、児童と教師合わせて16人を拳銃で殺害。

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1807年 – ニコライ・レザノフ、外交官(* 1764年)享年44歳。

ニコライ・ペトロヴィッチ・レザノフ(Nikolai Petrovich Rezanov, 露:ニコラーィ・ペトローヴィチ・レザーノフ, ロシア語: Никола́й Петро́вич Реза́нов, 1764年4月8日(ユリウス暦3月28日) – 1807年3月13日)は、ロシア帝国の外交官。極東およびアメリカ大陸への進出に関わり、ロシアによるアラスカおよびカリフォルニアの植民地化を推進した。

日本通商交渉

露米会社(ロシア領アメリカ毛皮会社)を設立したほか、クルーゼンシュテルンによるロシア初の世界一周航海(1803年)を後援し、自ら隊長として日本まで同行した。この日本来航(1804年、文化元年)はアダム・ラクスマンに続く第2次遣日使節としてのものである。露日辞書のほか多くの著書は、自身も会員だったサンクトペテルブルクのロシア科学アカデミーの図書館に保存されている。彼は40代で死んだが、その短い生涯はロシアおよびアメリカ大陸の運命に大きな影響を与えた。

航海中、旗艦ナジェージタ号の艦長クルーゼンシュテルンと激しく対立しつつ、レザノフは津太夫と同じ日本人漂流民の善六から日本語を学び辞書を作った。1804年(文化元年)9月に長崎の出島に来航する。交渉相手の定信は朝廷との尊号一件により老中職から失脚し、幕府は外交能力を失っており、代わりに老中土井利厚が担当した。土井から意見を求められた林述斎は、ロシアとの通商は「祖宗の法」に反するために拒絶すべきであるが、ラクスマンの時に信牌を与えた経緯がある以上、礼節をもってレザノフを説得するしかないと説いた。だが、土井はレザノフに「腹の立つような乱暴な応接をすればロシアは怒って二度と来なくなるだろう。もしもロシアがそれを理由に武力を行使しても日本の武士はいささかも後れはとらない」と主張したという(東京大学史料編纂所所蔵「大河内文書 林述斎書簡」)。その結果、レザノフたちは半年間出島近くに留め置かれることになる(当初は長崎周辺の海上で待たされ、出島付近に幕府が設営した滞在所への上陸が認められたのは来航から約2か月後だった[8])。この間、奉行所の検使がレザノフらのもとを訪問しており、その中には長崎奉行所に赴任していた大田南畝もいた[8]。翌年には長崎奉行所において長崎奉行遠山景晋(遠山景元の父)から、唐山(中国)・朝鮮・琉球・紅毛(オランダ)以外の国と通信・通商の関係を持たないのが「朝廷歴世の法」で議論の余地はない[9]として、装備も食料も不十分のまま通商の拒絶を通告される。

病死

クラスノヤルスクにあるレザノフの墓所に立てられた記念碑。1831年建立、ソ連時代に壊された後、2007年に再建

クラスノヤルスクにあるレザノフ像

レザノフはアラスカからすぐにカムチャツカへと戻った。彼は長崎での交渉が膠着した経験から「日本に対しては武力をもっての開国以外に手段はない」と上奏したが、のち撤回した。しかし部下のニコライ・フヴォストフ(ロシア語版)が単独で[要出典]、1806年に樺太の松前藩の番所、1807年に択捉港ほか各所を襲撃する(フヴォストフ事件、文化露寇)。

フヴォストフが日本の北方を襲撃しているころ、レザノフはスペインとの条約を皇帝に諮るため、カムチャツカから出てペテルブルクに向けてシベリアを横断中であった(彼はコンセプシオンとの結婚の許可をローマ教皇およびスペイン王に懇願する手紙も携えていた)。しかし、長年の過酷な航海およびシベリア横断により疲労し健康を害しており、1807年5月8日クラスノヤルスクで病死した[12]。42歳没。

1809年 – 第二次ロシア・スウェーデン戦争敗戦の責任を問われていたスウェーデン王グスタフ4世アドルフがグリプスホルム城に幽閉され、王位を剥奪される。

グスタフ4世は1796年11月に親政した[2]。彼はすぐに不人気な大臣グスタフ・アドルフ・ロイターホルムを罷免して人気を得たが、フランス革命を忌み嫌ったため極端な反動政策をとり、議会を招集しなくて済むように戴冠式を数年延期したほどだった[1]。しかし、1798年と1799年の不作、さらに長引くフランス革命戦争により財政が悪化したため1800年3月にノーショーピングで議会を招集することを余儀なくされ、同年4月3日には戴冠式が行われた[1]。

1804年にフランスでアンギャン公ルイ・アントワーヌが逮捕・処刑されると、グスタフ4世は同年12月3日に率先して第三次対仏大同盟に加入、オランダとハノーファー選帝侯領の奪回に向けて大陸ヨーロッパへの陸軍派遣を約束したが、プロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム3世との争いによりスウェーデン軍はスウェーデン領ポメラニアから出発できなかった[3]。1805年12月にようやく6千人の軍勢を率いてエルベ川に向けて行軍を開始したものの、この時点では対仏大同盟軍がすでにウルムの戦いとアウステルリッツの戦いで敗れて崩壊しており、スウェーデンの援軍は役に立たなかった[3]。翌年にはプロイセンとの間で開戦寸前の情勢になったが、プロイセンが第四次対仏大同盟に参加してフランスからの攻撃を受けたためスウェーデン・プロイセン間の戦争は回避された[3]。イエナ・アウエルシュタットの戦いでプロイセンが敗北した後はフランス皇帝ナポレオン・ボナパルトがスウェーデンを味方に引き入れようとしたが、グスタフ4世が全て拒否したため、スウェーデン領ポメラニアをフランスに占領される結果となった[3]。

ロシア皇帝アレクサンドル1世は1807年のティルジットの和約でスウェーデンを大陸封鎖令に参加させることを約束した[3]。アレクサンドル1世はグスタフ4世に対し、バルト海を封鎖してイギリスに対抗することをもちかけ、グスタフ4世は当然ながら拒否したが、同時にフィンランドの守備を増強せず、1808年から1809年にかけてのロシア・スウェーデン戦争でフィンランドを失う結果となった[3]。

1808年までにグスタフ4世は人気を完全に失い、1809年のクーデター(英語版)を引き起こすに至った[1]。このクーデターにおいて、グスタフ4世は1809年3月13日に宮殿で逮捕され、グリプスホルム城に連行された[1]。セーデルマンランド公カールが臨時政府の長を務めることに同意、議会もクーデターを承認した[1]。グスタフ4世は3月29日に退位して、息子グスタフに王位を譲ろうとしたが、議会は5月10日にグスタフ4世だけでなくその子女も王位を放棄したと宣言、6月5日にはセーデルマンランド公がカール13世としてスウェーデン王に即位した[1]。同年12月、グスタフ4世一家はドイツに追放された[1]。

1848年 – オーストリア三月革命によって、オーストリア宰相メッテルニヒが失脚、ロンドンに亡命。

クレーメンス・ヴェンツェル・ロータル・ネーポムク・フォン・メッテルニヒ=ヴィネブルク・ツー・バイルシュタイン(Klemens Wenzel Lothar Nepomuk von Metternich-Winneburg zu Beilstein [ˈkleːməns fɔn ˈmɛtɐnɪç]、1773年5月15日 – 1859年6月11日[1])は、オーストリア帝国及びプロイセン王国の外交官、政治家。コブレンツ(現:ドイツ・ラインラント=プファルツ州の都市)出身。オーストリアの外相としてウィーン会議を主宰したほか、のちオーストリア宰相に就任し、ナポレオン戦争後の国際秩序であるウィーン体制を支えた。

メッテルニヒが追求した前近代的な国際秩序は、1820年代より動揺していった。中南米の独立運動に対しては反対の姿勢をとったが、イギリスやアメリカ合衆国が独自の立場から独立を支持し、中南米に多くの共和制国家が成立した。オスマン帝国からのギリシア独立も静観する姿勢をみせていたが、最終的にはロシア・イギリス・フランスがこれに介入、独立を果たした。さらに、1830年代よりヨーロッパ大陸でも工業化が本格化すると、新興のブルジョワジーが自由主義的改革を掲げるようになり、各国内部で反体制運動が激化していった。1848年2月に起こったフランス二月革命は、いわゆる「諸国民の春」を生じさせ、オーストリアでは三月革命(ドイツ語版、英語版)が勃発した。これによりメッテルニヒは宰相を辞任し、イギリスのロンドンに亡命した。

晩年のメッテルニヒ

1848年革命の熱狂は、欽定憲法の制定などの成果を残したものの、オーストリアでは反動側のヴィンディシュ=グレーツ軍が勢力を奪回(ウィーン十月蜂起)、自由主義的改革は進展しなかった。こうした中で、1851年にはオーストリアへの帰国を許された。1859年6月11日、ウィーンで死去した。

メッテルニヒは金髪の巻き毛をした美男の伊達男で、フランスの玉璽官サヴィアル侯爵の娘コンスタンス・ド・ラフォルス、ロシアのピョートル・バグラチオン将軍の亡妻カタリーナ・バグラチオン、ザーガン公爵夫人、アブランテス公爵夫人など、数多くの女性たちと浮名を流した。また、ナポレオンの妹カロリーヌ・ボナパルトと浮名を流したこともあり、ナポレオンが失脚した後、落ち込む彼女のためにオーストリアに隠居用の別荘を作ってやったという。

1871年に来日し『オーストリア外交官の明治維新―世界周遊記日本篇』の著書もある元外交官アレクサンダー・フォン・ヒューブナー男爵もメッテルニヒの子(庶子)である[5]。

1881年(ユリウス暦3月1日) – ロシア皇帝アレクサンドル2世が投げつけられた爆弾により暗殺される。

家庭
→詳細は「マリア・アレクサンドロヴナ (ロシア皇后)」を参照

皇帝の公式の家族、皇后マリア(右)と皇太子アレクサンドル(中央)

皇帝のもう一つの家庭、「カーチャ」ことエカチェリーナ・ドルゴルーカヤ公爵令嬢と二人の子供(ゲオルギー、オリガ)
1841年、ヘッセン大公ルートヴィヒ2世の末娘マリーと恋愛結婚した。マリーはその母親ヴィルヘルミーネの不義の子だったが、彼女に一目惚れしたアレクサンドルはそれを承知の上で妻に迎え、マリーは改宗してマリア・アレクサンドロヴナと名乗った。間に6男2女を儲けたが、体の弱いマリアは度重なる出産で疲弊し、その後医師に性行為を禁じられた。結婚後も他の貴族女性たちとの性的関係を繰り返していたアレクサンドルは、妻の体調の悪化に伴い更に妻以外の女性との関わりを深めていった。

1865年に長男である皇太子ニコライが21歳の若さで急死したことは皇帝夫妻に最終的な打撃を与えた。特に長男を愛していたマリアは全く立ち直ることができず、傷心したアレクサンドルは癒しを求めエカチェリーナ・ドルゴルーコヴァ公爵令嬢との不倫に走るようになった。

→詳細は「エカチェリーナ・ミハイロヴナ・ドルゴルーコヴァ」を参照
1866年、48歳のアレクサンドル2世は、没落貴族の娘でスモーリヌイ女学院の女学生だったエカチェリーナ・ドルゴルーコヴァ公爵令嬢(愛称・カーチャ)と不倫関係になった。二人はカーチャがスモーリヌイ女学院を卒業するのを待って恋愛関係になり、4人の子供が生まれて幸福な「家庭」生活を築いた。当然ながらこの関係は明るみに出て、皇太子アレクサンドルを始めとする多くの人々の非難を受けた。

1880年5月に皇后マリアが没すると、皇帝は教会法や家族の反対を無視し、カーチャと再婚(貴賤結婚)するに至った。当然ながらこの結婚はロマノフ家の人々の容認するところとならず、皇帝の死後、カーチャとその子供たちは340万ルーブルの年金を与えられ、ニースに追い払われた。

暗殺 アレクサンデル2世暗殺事件

1933年 – ドイツで国民啓蒙・宣伝省が発足、ヨーゼフ・ゲッベルスが大臣に就任。

1934年 – 新潟県糸魚川市の姫川第六水力発電所工事現場にて雪崩が発生。9人死亡。

1945年 – 第二次世界大戦・大阪大空襲: 大阪市が初めて空襲され、一晩でおよそ4千人が亡くなった[4]。

大阪大空襲(おおさかだいくうしゅう)は、第二次世界大戦末期にアメリカ軍が実施した、大阪府大阪市を中心とする地域への空襲である。

1945年3月13日深夜から翌日未明(日本時間、以下同様)にかけて最初の大阪空襲が行われ、その後、6月1日、6月7日、6月15日、6月26日、7月10日、7月24日、8月14日に空襲が行われた。これらの空襲で10,000人以上の一般市民が死亡したと言われている。

第1回大阪大空襲
1945年3月13日23時57分 – 14日3時25分の約3時間半にわたり行われ、274機のB-29が襲来した。グアムからの第314航空団の43機が23時57分 – 14日1時にかけて大阪市上空に達した。アメリカ軍の照準点は、北区扇町、西区阿波座、港区市岡元町、浪速区塩草で、都心部を取り囲む住宅密集地を標的にしており、夜間低空爆撃として約2,000メートルの低空からの一般家屋をねらった夜間爆撃だった。先導機がナパーム弾(大型の焼夷弾)を港区市岡の照準点に投下し大火災発生。他の機はそれを目印に次々とクラスター焼夷弾(内蔵した38個の小型焼夷弾が空中で分散して落下する)を投下した。続いてテニアンから第313航空団の107機が14日0時10分から3時25分にかけて爆撃。浪速区塩草を照準点として投弾した。さらにサイパンから第73航空団の124機が14日0時20分から2時25分にかけて爆撃。照準点は北区扇町と西区阿波座。すでに大火災が発生している中で、北区はアメリカ軍のねらい通りには爆撃できず、他の場所に被害が広がった。中心市街地を焼き尽くしたこの空襲では、3,987名の死者と678名の行方不明者が出た。山を挟んだ奈良県や亀岡盆地側では、火炎が山の向こうに夕焼けのように見えたという[1]。

1954年 – 第一次インドシナ戦争: ディエンビエンフーの戦いが始まる。年月日:1953年11月 - 1954年5月7日[2] 場所:ベトナム、ディエンビエンフー[2] 結果:ベトミン軍の決定的勝利 フランス軍の降伏[2] 損害:ベトミン軍 100000人中 戦死8000人 フランス軍、ベトナム政府軍、アメリカ軍 20000人中 2200人戦死 10000人捕虜。
、第一次インドシナ戦争中最大の戦闘。フランスからの独立とベトナム民主共和国建国を宣言していたベトミンの軍隊(ベトナム人民軍)が、フランス外人部隊などフランス軍を破り、インドシナからの撤退に追い込んだ。両軍合わせて約1万人の戦死者を出した。

1996年 – イギリスのスコットランドにあるダンブレーン小学校(英語版)に男が侵入し、児童と教師合わせて16人を拳銃で殺害。

チャットgpt先生の3月13日のエッセイ

3月13日は、歴史のうねりの中で「体制の転換」と「力の行使」が幾度も表面化した日である。

1809年のこの日、スウェーデン王グスタフ4世アドルフはクーデターによって廃位された。ナポレオン戦争という激動の時代にあって、彼は信念を貫いたが、その強硬さは国を孤立させ、ついにはフィンランドを失う結果を招いた。理想を掲げ続けることと、国を守ること。その均衡を欠いたとき、王権ですら崩れ落ちる。

その61年前、1848年の3月13日には、ウィーン体制の象徴とも言うべき宰相クレメンス・フォン・メッテルニヒが三月革命の嵐の中で失脚した。ナポレオン戦争後の秩序を築いた老練な外交家も、自由と民族を求める民衆の熱には抗えなかった。歴史はしばしば、安定を築いた人物自身を、その安定を揺るがす波の中へと押し流す。

さらに1881年、ロシア皇帝アレクサンドル2世が爆弾によって暗殺される。農奴解放という大改革を断行した「解放皇帝」は、しかし専制体制の枠を完全には壊さなかった。その中途半端さが、急進的な革命運動を招いたとも言われる。改革と抑圧、その間の綱渡りは常に危うい。

20世紀に入ると、力はより直接的な暴力の形をとる。1933年、ナチス・ドイツで宣伝省が発足し、ヨーゼフ・ゲッベルスが大臣に就任した。言葉と映像が国家権力の武器となり、世論は統制され、やがて破滅的な戦争へと突き進む。

その戦争のさなか、1945年3月13日深夜、大阪の空は炎に包まれた。大阪大空襲。焼夷弾が住宅地に降り注ぎ、一夜で数千人の命が奪われた。都市が火の海と化す光景は、近代戦争が「前線」だけでなく、日常そのものを戦場に変えたことを示している。

そして1954年、インドシナの地で始まったディエンビエンフーの戦いは、植民地支配の終焉を決定づけた。山間の要塞に籠もったフランス軍は包囲され、独立を求めるベトミンが勝利する。帝国の時代は確実に幕を下ろしつつあった。

しかし3月13日は、国家や戦争だけの日ではない。1996年、スコットランドの小学校で起きた銃撃事件は、平穏な日常が一瞬で壊れる現実を突きつけた。大きな歴史の転換も、個々の人生の悲劇も、同じ暦の一日に重なっている。

振り返れば、3月13日は「秩序」と「変革」が衝突する日であり、「権力」と「民衆」、「理想」と「現実」が交錯する日でもある。王が退き、宰相が逃れ、皇帝が倒れ、都市が燃え、植民地が独立へ向かう。そこには常に、人間の選択とその帰結がある。

歴史は特定の日を選んで出来事を起こすわけではない。それでも同じ日付を並べてみると、私たちは問いかけられる。力とは何か。守るべきものは何か。変えるべきものは何か。

3月13日は、過去の炎と転換の記憶を静かに映し出す鏡のような一日なのである。