kagamimochi-nikki 加賀美茂知日記
慶祝と美とグノ-シスの弥増す日々
日々の過去の出来事

今日という日3月7日  664玄奘三蔵没、ほか写真wikipediaナーランダ僧院跡

3月7日

20260307土曜日旧暦1月19日先勝(17番庚辰かのえたつコウシン)月齢 17.6

丙午ひのえうま年 辛卯かのとう月 庚辰かのえたつ日  年末まであと299日

吉方位 陽遁日 庚辰かのえたつ日 北西 大吉

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3月7日の出来事
紀元前322年 – アリストテレス、古代ギリシアの哲学者(* 紀元前384年)享年62歳。
664年(麟徳元年2月5日) – 玄奘三蔵、三蔵法師、四大訳経家の1人(* 602年)
享年62歳

1788年(天明8年1月30日) – 天明の大火: 東山の団栗辻子から出火し、2日間にわたって京都市街を焼き尽くした京都最大の火災。3万7000軒の家屋が焼失し、御所や二条城、東西の本願寺も焼失[1]。後桜町上皇は青蓮院を仮御所として避難される[2]。

1932年 – 東京都墨田区玉の井の「お歯黒どぶ」から男のバラバラ死体発見(玉の井バラバラ殺人事件)。「バラバラ殺人」の表現の嚆矢。

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紀元前322年 – アリストテレス、古代ギリシアの哲学者(* 紀元前384年)享年62歳。
アリストテレス(アリストテレース、古希: Ἀριστοτέλης[注釈 1]、羅: Aristotelēs、前384年 – 前322年[1])は、古代ギリシアの哲学者である。
プラトンの弟子であり、ソクラテス、プラトンとともに、しばしば西洋最大の哲学者の一人とされる。知的探求つまり科学的な探求全般を指した当時の哲学を、倫理学、自然科学を始めとした学問として分類し、それらの体系を築いた業績から「万学の祖」とも呼ばれる[2]。特に動物に関する体系的な研究は古代世界では東西に類を見ない。様々な著書を残し、イスラーム哲学や中世スコラ学、さらには近代哲学・論理学に多大な影響を与えた。また、マケドニア王アレクサンドロス3世(通称アレクサンドロス大王)の家庭教師であったことでも知られる。
アリストテレスは、人間の本性が「知を愛する」ことにあると考えた。ギリシャ語ではこれをフィロソフィア[注釈 2]と呼ぶ。フィロは「愛する」、ソフィアは「知」を意味する。この言葉がヨーロッパの各国の言語で「哲学」を意味する言葉の語源となった。著作集は日本語版で17巻に及ぶが、内訳は形而上学、倫理学、論理学といった哲学関係のほか、政治学、宇宙論、天体学、自然学(物理学)、気象学、博物誌学的なものから分析的なもの、その他、生物学、詩学、演劇学、および現在でいう心理学なども含まれており多岐にわたる。アリストテレスはこれらをすべてフィロソフィアと呼んでいた。アリストテレスのいう「哲学」とは知的欲求を満たす知的行為そのものと、その行為の結果全体であり、現在の学問のほとんどが彼の「哲学」の範疇に含まれている[3]。
664年(麟徳元年2月5日) – 玄奘三蔵、三蔵法師、四大訳経家の1人(* 602年)
享年62歳
玄奘(げんじょう、602年 – 664年3月7日)は、唐代の中国の訳経僧。玄奘は戒名であり、俗名は陳褘(ちんい)。諡は大遍覚[1]で、尊称は法師、三蔵など。玄奘三蔵と呼ばれ、鳩摩羅什と共に二大訳聖、あるいは真諦と不空金剛を含めて四大訳経家とされる。
629年にシルクロード陸路でインドに向かい、ナーランダ僧院などへ巡礼や仏教研究を行って645年に経典657部や仏像などを持って帰還。以後、翻訳作業で従来の誤りを正し、法相宗の開祖となった。また、インドへの旅を地誌『大唐西域記』として著した。
帰国後
帰国した玄奘は、持ち帰った膨大な経典の翻訳に余生の全てを捧げた。太宗の勅命により、玄奘は貞観19年(645年)2月6日から弘福寺の翻経院で翻訳事業を開始した。この事業の拠点は後に大慈恩寺に移った。さらに、持ち帰った経典や仏像などを保存する建物の建設を次の皇帝・高宗に進言し、652年、大慈恩寺に大雁塔が建立された。その後、玉華宮に居を移したが、翻訳作業はそのまま玄奘が亡くなる直前まで続けられた。麟徳元年2月5日(664年3月7日)、玄奘は経典群の中で最も重要とされる『大般若経』の翻訳を完成させた百日後に玉華宮で寂した。
日中戦争当時の、1942年(昭和17年)に、南京市の中華門外にある雨花台で、旧日本軍が玄奘の墓を発見した。それは、縦61cm横79cm高さ58cmの石槨で、中には縦49cm横49cm高さ31cmの石棺が納められていた。石棺の内部には、北宋代の1027年(天聖5年)と明の1386年(洪武19年)の葬誌が彫られていた。石棺内に納められていたのは、頭骨であり、その他に多数の副葬品も見つかった。
この玄奘の霊骨の扱いには関しては、日中で応酬を経た後、分骨することで決着を見た[要出典]。中国側は、北平の法源寺内・大遍覚堂に安置された。その他、各地にも分骨され、南京の霊谷寺や成都の浄慈寺など、数ヶ寺に安置される他、南京博物院にも置かれている。
日本へ渡った遺骨は、当初日本仏教連合会があった増上寺に安置されたが、第二次世界大戦中で空襲の拡大から、一時的に三学院(埼玉県蕨市)[注釈 1]に移され、後に慈恩寺(さいたま市岩槻区)に疎開させた。戦後正式に慈恩寺に奉安され、1953年(昭和28年)5月には「玄奘塔」が落慶した。1955年(昭和30年)には台湾・玄奘寺、1981年(昭和56年)には薬師寺(奈良市)の「玄奘三蔵院」へ分骨されている。
ただ、南京で発見されたものが頭骨だけであったため、他の骨は散逸したとも、そもそも興教寺から持ち去られたのは頭骨だけであるともされるが、詳細は不明である。

1788年(天明8年1月30日) – 天明の大火: 東山の団栗辻子から出火し、2日間にわたって京都市街を焼き尽くした京都最大の火災。3万7000軒の家屋が焼失し、御所や二条城、東西の本願寺も焼失[1]。後桜町上皇は青蓮院を仮御所として避難される[2]。
1932年 – 東京都墨田区玉の井の「お歯黒どぶ」から男のバラバラ死体発見(玉の井バラバラ殺人事件)。「バラバラ殺人」の表現の嚆矢。
玉の井バラバラ殺人事件(たまのいバラバラさつじんじけん)は、1932年(昭和7年)3月7日に東京府南葛飾郡寺島町(現在の東京都墨田区)で発覚した殺人事件。この事件によって、殺害された被害者の遺体を切り刻む猟奇殺人の名称として「バラバラ殺人」が定着した。

チャットgpt先生の3月7日のエッセイ

3月7日という日――「知」をつなぐ人びと

3月7日という日は、歴史のなかで不思議な響きをもっている。
この日は、古代ギリシアの哲学者 アリストテレス が没した日(紀元前322年)であり、唐代の訳経僧 玄奘 が寂した日(664年)でもある。遠く離れた地と時代に生きた二人が、奇しくも同じ日に生涯を閉じている。

アリストテレスは、「人間は本性において知ることを欲する」と語った。彼にとって哲学(フィロソフィア)とは、単なる思索ではなく、世界のあらゆる現象を分類し、理解し、秩序づけようとする営みだった。倫理学、政治学、自然学、生物学、詩学――今日では細分化された学問領域を、彼は一つの「知への愛」として抱え込んだ。その姿勢ゆえに「万学の祖」と呼ばれる。

一方、玄奘は命がけでシルクロードを越え、インドへ渡り、膨大な経典を携えて帰国した。彼の偉業は単なる翻訳にとどまらない。思想を正確に伝えるために、言葉を研ぎ澄まし、概念を整え、誤訳を正し、思想の骨格そのものを築き直した。彼の訳業と著作『大唐西域記』は、仏教理解のみならず、東アジア世界の知的地図を書き換えた。

アリストテレスは「知の体系化」を行い、玄奘は「知の架橋」を行った。
一人は世界を分類し、一人は世界を結んだ。方法は違えど、どちらも人間の「知りたい」という衝動を極限まで推し進めた存在である。

同じ3月7日には、1788年の 天明の大火 が起き、京都の町並みは灰となった。1932年には 玉の井バラバラ殺人事件 が発覚し、社会に衝撃を与えた。知の光があれば、破壊や闇もまた歴史の一部として刻まれる。人間の営みは、崇高さと残酷さを同時に抱えている。

だからこそ、アリストテレスや玄奘の存在が際立つ。
世界が混沌や悲劇を生み出すときであっても、人は理解しようとし、伝えようとする。燃え尽きた町も、断ち切られた命も、記録され、語られ、やがて教訓となる。そこにもまた「知」が働いている。

3月7日は、単なる日付ではない。
それは「知を求める人間」の姿を思い出させる日だ。国境を越え、時代を越え、言葉を越えて、知は受け渡される。私たちが今日手にしている多くの思想や学問は、こうした営みの積み重ねの上にある。

春の気配が近づくこの時期、少しだけ立ち止まり、自分の中の「知りたい」という気持ちに耳を澄ませてみる。
3月7日は、そんな静かな問いを投げかけてくる日なのかもしれない。