kagamimochi-nikki 加賀美茂知日記
慶祝と美とグノ-シスの弥増す日々
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今日という日1月5日  ナンシーの戦い、ほか写真wikipedia戦場のブルゴーニュ公の虐殺遺体

1月5日

20260105月曜日旧暦11月17日先負(己卯つちのとうキボウ)月齢 16

乙巳きのとみ年 己丑つちのとうし月 己卯つちのとう日 年末まであと360日

吉方位 隠遁日 己卯つちのとう日

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1月5日の出来事
1477年 – ブルゴーニュ戦争: ナンシーの戦い[1]。ブルゴーニュ公シャルルが戦死し、ブルゴーニュ戦争が終結、ブルゴーニュ公国が消滅。年月日:1477年1月5日
場所:ナンシー郊外
結果:ルネの決定的勝利。ブルゴーニュ公シャルル戦死。ブルゴーニュ戦争の終結と、ブルゴーニュ公国の解体。
損害:ロレーヌ公国軍20000人中 僅少 ブルゴーニュ公国8000人中 ほぼ全滅と推測される。戦死傷8000人としておく。
1757年 – ロベール=フランソワ・ダミアンがフランス王ルイ15世の暗殺未遂事件を起こす。
1919年 – ドイツ労働者党(国家社会主義ドイツ労働者党〈ナチス〉の前身)結成。

1924年 – 北海道歌志内市の上歌志内炭鉱でガス爆発事故。76人死亡、9人負傷[5]。
1939年 – 福井県北西郷村(現、美浜町)村の沖合でブリ漁を行っていた伝馬船2隻が転覆。漁師55人が行方不明[5]。
1940年 – 北海道大学山岳部部員が日高山系ペテガリ岳で雪崩に遭遇。8人が死亡。
1948年 – 名鉄瀬戸線脱線転覆事故が発生。39人が死亡、200人が負傷[6]。

1969年 – 大型ばら積み貨物船「ぼりばあ丸」が千葉県野島崎沖で船体が二つに折れ、沈没。(ぼりばあ丸ショック)。31人死亡。

1988年 – 六本木のディスコ「トゥーリア」で照明器具が落下し、3人が死亡、14人負傷。(六本木ディスコ照明落下事故)
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1477年 – ブルゴーニュ戦争: ナンシーの戦い[1]。ブルゴーニュ公シャルルが戦死し、ブルゴーニュ戦争が終結、ブルゴーニュ公国が消滅。年月日:1477年1月5日
場所:ナンシー郊外
結果:ルネの決定的勝利。ブルゴーニュ公シャルル戦死。ブルゴーニュ戦争の終結と、ブルゴーニュ公国の解体。
損害:ロレーヌ公国軍20000人中 僅少 ブルゴーニュ公国8000人中 ほぼ全滅と推測される。戦死傷8000人としておく。

ナンシーの戦い(ナンシーのたたかい、仏:Bataille de Nancy)は、1477年1月5日、ロレーヌ公国の都市ナンシー郊外で、ブルゴーニュ公シャルルとロレーヌ公ルネ2世との間で起こったブルゴーニュ戦争最後の戦い。決戦となったこの戦いではルネの軍勢が勝利した。切り刻まれたシャルルの遺体が確認されたのは3日後だった。

戦闘

戦いの後発見されたシャルル突進公の遺体。作者未詳(1862年)
およそ2時間にわたる行軍の後、主力部隊はブルゴーニュ陣営のすぐ後方の斜面の茂みからくさび形の方陣を組んで現れた[1]。スイス軍の角笛が3回鳴り響き、スイス軍はブルゴーニュ陣営に向けて坂を下って突撃した[2] 。大砲は対主力部隊向けに再訓練を受けていたが実戦で十分な威力を発揮出来ず、一度の一斉射撃で殺されたのは2人だった。ブルゴーニュ軍右翼の騎兵はスイス歩兵の集団を撃退したが、数に勝るスイス歩兵との多勢に無勢の一方的な戦いで、ブルゴーニュ歩兵の方陣は引かざるを得なかった。前衛部隊はブルゴーニュ軍左翼を撃退し、砲兵を敗走させた。シャルルと指揮官は最後まで崩れた軍勢を立て直そうと努力をしたが、成功しなかった。彼の小隊は敗走したが、最後にはスイス軍の一団に取り囲まれた。斧槍兵が素早い一振りをシャルルの頭に浴びせ、致命的な一撃をヘルメットに与えた[3]。シャルルが倒れる姿は見えたが、その周囲は戦いでごった返していた。その変わり果てた遺体が見つかり、虐殺された残骸から本人であると特定されるまで3日かかった。こうしてヴァロワ=ブルゴーニュ家の事実上最後のブルゴーニュ公は戦死した。

1757年 – ロベール=フランソワ・ダミアンがフランス王ルイ15世の暗殺未遂事件を起こす。

ロベール=フランソワ・ダミアン(Robert-François Damiens、1715年1月9日 – 1757年3月27日)は、フランス王ルイ15世暗殺未遂の罪によって八つ裂きの刑になった人物である。

すぐにコンシェルジュリーに移されたが、 コンシェルジュリーでは、150年程前の王殺し、アンリ4世刺殺犯であるフランソワ・ラヴァイヤックと同じ独房に幽閉され、拷問を受けた。まもなくパリ高等法院によりフランスで最も重い刑罰である八つ裂きの刑による死刑判決が下された。場所は、グレーヴ広場 (現在のパリ市役所前広場, Place de l’Hôtel-de-Ville – Esplanade de la Libération) で執行されることになった。

3月27日、死刑執行人シャルル=アンリ・サンソンとニコラ=シャルル・ガブリエル・サンソンにより、刑の執行が始まった。まず罪を犯した右腕を罰するために右腕を焼かれ、ペンチで体の肉を引きちぎられ、傷口に沸騰した油や溶けた鉛を注ぎ込まれたあと、手足に切れ込みを入れて八つ裂きにされて絶命し、胴体は焼かれた(シャルル=アンリは、処刑の詳細を記録している)。処刑を目撃した人物は、彼を、イングランドにおいて同様の罪で処刑されたガイ・フォークスになぞらえた。

処刑後、ダミアンの家は完全に破壊され更地になり、兄弟と姉妹は改名を強要され、父と妻と娘はフランスから追放された。

1919年 – ドイツ労働者党(国家社会主義ドイツ労働者党〈ナチス〉の前身)結成。

起源
ドイツ労働者党(DAP)は、バイエルン革命期の1919年1月5日、ミュンヘンの「ホテル四季(Fürstenfelder Hof)」にてトゥーレ協会のメンバー、ディートリヒ・エッカート、カール・ハラーおよび政治活動家、アントン・ドレクスラー、実業家ゴットフリート・フェーダーによって設立された。これは、ハラーおよびドレクスラーが設立し率いていた「良き和平のための自由労働者委員会(ドイツ語: Freien Arbeiterausschuss für einen guten Frieden)」の発展であった。

最初のメンバーのほとんどはミュンヘン鉄道補給所に勤めるドレクスラーの同僚であった。彼らは、汎ゲルマン主義の政治団体「全ドイツ団(ドイツ語版)」の指導者でもあった彼の師匠のパウル・タフェル(ドイツ語版)や、アウクスブルク・ニュルンベルク機械工場の部長や、トゥーレ協会のメンバーなどによってDAPの設立を促され、そして彼の望みは、中産階級の政党とは異なり大衆とナショナリストの両方に接触する政党であった。当初のメンバーは約40名であった[5]。

ヒトラーの入党

後に偽造された「会員番号7」と書かれたヒトラーのDAP会員証
1919年6月、戦争から復員したアドルフ・ヒトラーは、軍の情報将校であるカール・マイヤー大尉にスカウトされ、政党や政治団体へのスパイ、および軍内で反共主義・民族主義を流布する役目を与えられた。ヒトラーはマイヤーよりDAPへのスパイを命じられ、街中のビアホールで開かれた会合に参加した[6]が、やがて彼はドレクスラーの反ユダヤ的・反資本主義的な主張に感銘を受けた。ある時、彼は客の1人であった大学教授アダルベルト・バウマンとの論争が過熱し、暴力沙汰に発展した。この事件の後、ドレクスラーもヒトラーの雄弁に感銘を受けて、入党を勧めた。いくつかの出来事の後でヒトラーは陸軍を去って招待を受け、9月12日に入党した。

ヒトラーが入党した時点では、党員番号や党員証は存在しなかった。1920年1月に初めて番号が発行されたが、それはアルファベット順で、ヒトラーは555番を受け取った。実際には55番目の党員だったが、党を大きく見せるために数字は501番から開始されていた。後にヒトラーは自身の会員番号は7番で、創立メンバーの1人であったと吹聴した。また著作『我が闘争』でも、番号7番の会員証を受け取ったという同様の主張をした。確かに彼は「番号7番」ではあったが、7番目というのは党委員としての序列で、より上位にドレクスラーやハラーがおり、彼の後には軍人出身メンバーの党委員が続いた[7]。

10月16日に行われた会合で、ヒトラーは最初の演説を行い、すぐにDAPの中で頭角を現していった。ヒトラーと後続の委員・党員たちの要求により、ハラーは1920年1月5日にDAPを追放され[8]、それとともにトゥーレ協会との直接の上下関係も途絶えることになった[7]。

1924年 – 北海道歌志内市の上歌志内炭鉱でガス爆発事故。76人死亡、9人負傷[5]。

1939年 – 福井県北西郷村(現、美浜町)村の沖合でブリ漁を行っていた伝馬船2隻が転覆。漁師55人が行方不明[5]。
1940年 – 北海道大学山岳部部員が日高山系ペテガリ岳で雪崩に遭遇。8人が死亡。
1948年 – 名鉄瀬戸線脱線転覆事故が発生。39人が死亡、200人が負傷[6]。

当日は熱田神宮の初えびすの日で初詣客などで大混雑し、すし詰め状態だったことで被害がさらに大きくなった。事故現場には、乗客の物と思われる晴れ着やお餅が散らばっていた[3]。

1948年(昭和23年)5月には法輪寺の住職江口耕雲が発起人となり事故現場に交通安全地蔵が建立され、1949年(昭和24年)1月には事故の一周忌で当時の名古屋鉄道社長神野金之助の筆により「殉難の碑」が建立された。その後、事故現場付近などで曲線改良が実施された。

1969年 – 大型ばら積み貨物船「ぼりばあ丸」が千葉県野島崎沖で船体が二つに折れ、沈没。(ぼりばあ丸ショック)。31人死亡。

1988年 – 六本木のディスコ「トゥーリア」で照明器具が落下し、3人が死亡、14人負傷。(六本木ディスコ照明落下事故

事故の概略
事故発生の場所は東京都港区六本木7-13-7にあったディスコ「トゥーリア」である。

このディスコの2階天井には、天井の巻取ドラムから直径6mmのワイヤ8本で吊られた可動式大型照明装置があった。ストロボスコープやスポットライトが取り付けられ、上下に動かすことができ、長さ5.5m、幅3.5m、厚さ1.5mの楕円形で重量約1.8tであった。アメリカ製のバリライトであると称していたが、この事故で国産のコピー品と判明している。

1988年(昭和63年)1月5日21時40分頃、ワイヤを巻き取るドラムとモーターを結ぶチェーンが切断し[1]、吹き抜けとなっている地下1階のダンスフロアまで8.2m落下するに至った。床から2mの高さでストッパーが掛かる設計になっていたがあまりの落下速度にストッパーは掛からなかった。

女性13名・男性4名の計17名が照明装置の下敷きになり、目黒区の看護自衛官(21歳女性)、桐生市の予備校職員(26歳女性)、世田谷区の会社員(24歳男性)の3名が死亡、14名が負傷した。落下した照明装置は楕円形で中央部には何もない形状であったため、落下時に中央にいた来店客は運よく難を逃れた。当時このディスコのフロア内には約200人がおり、プロ野球選手の桑田真澄と当時スポーツメーカーカドヤスポーツの販売促進課長だった中牧昭二、さらに女優の相楽晴子がいたと報道された[2]。

昇降動作の頻度は設計上4回/日であったが実際には15 – 20回昇降動作させていた[注釈 1]。当初は店員の操作ミスのように報道されたが、上下動の際はワイヤーに約3.2tの荷重がかかるところ、1t程度の荷重にしか耐えられない設計であったとして、照明器具を施工した会社社長が執行猶予付きの有罪判決を受けており、店側の関係者は不起訴となった[3]。

事故の影響
この事故を受け懸垂物安全指針・同解説が取りまとめられた。

事故で負傷した一人の21歳学生は障害が残ったものの年金非加入であったことから無年金障害者となり[注釈 2]、国民年金未加入を理由に障害基礎年金が支給されないのは憲法違反[注釈 3]だとして、国側に不支給処分の取り消しと国家賠償を求め訴訟を起こした。

なお本訴訟は平成19年9月28日、最高裁判所にて棄却判決となっている。(平成17(行ツ)246)

チャットgpt先生の1月5日のエッセイ

1月5日という日――終わりと始まりが同時に刻まれる日

1月5日は、暦の上ではまだ年の始まりの余韻に包まれている。しかし史実をたどると、この日は不思議なほど「終焉」と「転換」が重なっていることに気づく。静かな正月気分の裏側で、時代の歯車が大きく軋み、折れ、そして新しい方向へ回り始める日――それが1月5日である。

1477年1月5日、ナンシー郊外でブルゴーニュ公シャルルが戦死した。彼の死は一人の武将の最期にとどまらず、ブルゴーニュ公国という一大勢力そのものの消滅を意味した。わずか数時間の戦闘ののち、遺体は切り刻まれ、三日後にようやく確認されたという事実は、権力や栄華の脆さを冷酷なまでに物語っている。どれほどの富と軍事力を誇ろうとも、時代の流れに抗えなければ、一瞬で歴史の側へと押し流される。

同じく1月5日、1757年にはフランス王ルイ15世暗殺未遂事件が起こった。ロベール=フランソワ・ダミアンの行為は失敗に終わり、その代償として彼は想像を絶する残虐な刑に処された。ここにあるのは、絶対王政の時代が抱えていた恐怖と緊張であり、やがて訪れる革命前夜の不穏な空気である。1月5日は、表面上は秩序が保たれていても、その下で制度が軋み始めていることを示す日でもある。

1919年1月5日、ドイツ労働者党が結成された。この時点では小さな集会体に過ぎなかったこの政党が、後に世界史を大きく揺るがす存在へと変貌することを、当時どれほどの人が予想しただろうか。歴史はしばしば、取るに足らない始まりを装って現れる。1月5日は、「何気ない発足」が、後に取り返しのつかない結果へつながる可能性を秘めていることを静かに示している。

一方、日本の1月5日は、事故と災害の記録が痛ましいほど多い。炭鉱のガス爆発、漁船の転覆、雪崩、列車事故、船の沈没、そして六本木のディスコで起きた照明落下事故。これらに共通するのは、人間の営みと安全への過信、そして「まさか」という油断である。初詣の雑踏、娯楽の空間、日常の労働――どれも本来は生を祝う場でありながら、一瞬で死と隣り合わせになる。その現実は、1月5日が決して安穏な日ではないことを語りかけてくる。

暦を見ると、先負、月齢16、隠遁日。急ぐよりも慎み、表に出るより内にこもるほうがよいとされる日であるのは、偶然とは思えない。1月5日は「進め」と背中を押す日ではなく、「立ち止まれ」「足元を見よ」と諭す日なのだろう。

年の初めにこの日があるということは、私たちにとって重要な意味を持つ。希望や計画を描くだけでなく、失敗や崩壊、過去の犠牲を直視した上で、一年をどう生きるのかを問われているのだ。栄華は永遠ではなく、技術も制度も万能ではない。だからこそ、慎重さと謙虚さを携えて歩む必要がある。

1月5日は、祝祭の裏にある現実を思い出させる日である。終わりを知ってこそ、始まりは軽くならない。その重みを胸に刻むこと――それが、この日を記憶する意味なのだと思う。