6月16日
20250616月曜日旧暦5月21日先勝(丙辰ひのえたつヘイシン)月齢 19.9
乙巳きのとみ年壬午みずのえうま月丙辰ひのえたつ日 年末まであと198日
吉方位 陽遁日 丙辰ひのえたつ日 南西 大吉
https://ja.wikipedia.org/wiki/6%E6%9C%8816%E6%97%A5
6月16日の出来事
1662年(寛文2年5月1日) – 寛文近江・若狭地震起こる。
1746年 – オーストリア継承戦争: ピアチェンツァの戦い。
年月日:1746年6月16日
場所:パルマ公国、ピアチェンツァ
結果:オーストリアの決定的な勝利[1][2]
損害:スペインフランス連合 4万人中 戦死傷13000人 オーストリアハプスブルク 4万5千人中 戦死傷3400人。
1815年 – 1815年フランス戦役: カトル・ブラの戦い、リニーの戦い
戦争:ナポレオン戦争
年月日:1815年6月16日
場所:ベルギー中部のカトル・ブラ
結果:英蘭連合軍の戦術的勝利[1]
フランス軍の戦略的勝利[2]
損害:フランス軍 2万人中 戦死傷4140人 対仏大同盟イギリス軍 4万4千人中 戦死傷4800人。
戦争:ナポレオン戦争 リニ―戦
年月日:1815年6月16日
場所:ベルギー中部のリニー
結果:フランス軍の勝利
損害:フランス軍6万8千人中 戦死傷10000人 プロイセン軍 8万4千人中 戦死傷20000人
2005年 – 日本で介護保険法改正法案可決。
—————–
1662年(寛文2年5月1日) – 寛文近江・若狭地震起こる。
寛文近江・若狭地震(かんぶんおうみ・わかさじしん)は江戸時代前期の寛文2年5月1日(1662年6月16日)に近畿地方北部を中心に発生した大地震で、2つの地震が連続して発生した地震と考えられている[† 1][3]。
本地震は近江国や若狭国において地震動が特に強く甚大な被害が発生したが、震源域に近く、当時約41万人の人口を有し依然として国内第二の大都市があった京都盆地北部においても被害が多発した[4]。京都の被害状況から寛文京都地震、従来、震源域が琵琶湖西岸付近であるとする考えがあったことから、琵琶湖西岸地震と呼ばれることもある。
損害
『殿中日記』には京都において二条城の御番衆小屋などが悉く破損、町屋が千軒余潰れ、死人200人余、伏見城も各所で破損したとある。
また同日記には、近江では、佐和山(現・彦根市)で城がゆがみ石垣が5、6百間崩れ、家千軒余潰れ、死人30人あまり、大溝(現・高島市)では家1,022軒潰れ、死人38人、牛馬も多く死に、朽木谷(現・高島市)は特に激しい地震動に見舞われ家が潰れ出火により辺りが残らず焼失したと記されている。膳所や大津(現・大津市)も被害が多く、水口城でも門、塀、御殿が破損した。
『落穂雑談一言集』には伏見で町屋320軒余倒壊、死人4人、近江志賀、辛崎(現・大津市)では田畑85町余がゆり込み、並家1,570軒が倒壊したとある。
1746年 – オーストリア継承戦争: ピアチェンツァの戦い。
年月日:1746年6月16日
場所:パルマ公国、ピアチェンツァ
結果:オーストリアの決定的な勝利[1][2]
損害:スペインフランス連合 4万人中 戦死傷13000人 オーストリアハプスブルク 4万5千人中 戦死傷3400人。
ピアチェンツァの戦い(ピアチェンツァのたたかい、イタリア語: Battaglia di Piacenza)は、オーストリア継承戦争中の1746年6月16日に戦われた、フランス=スペイン連合軍とオーストリア軍の間の戦闘。戦闘は戦争後期にイタリア北部のピアチェンツァで行われ、ヨーゼフ・ヴェンツェル・フォン・リヒテンシュタイン率いるオーストリア軍が勝利した。
1815年 – 1815年フランス戦役: カトル・ブラの戦い、リニーの戦い
戦争:ナポレオン戦争
年月日:1815年6月16日
場所:ベルギー中部のカトル・ブラ
結果:英蘭連合軍の戦術的勝利[1]
フランス軍の戦略的勝利[2]
損害:フランス軍 2万人中 戦死傷4140人 対仏大同盟イギリス軍 4万4千人中 戦死傷4800人。
カトル・ブラの戦い (カトル・ブラのたたかい、仏:Bataille des Quatre Bras、英:Battle of Quatre Bras、蘭:Slag bij Quatre-Bras )は、1815年6月16日にベルギー中部のカトル・ブラ付近で行われた戦い。ウェリントン率いるイギリス・オランダ連合軍が、ミシェル・ネイ率いるフランス軍を撃退した。ナポレオン最後の戦いとなったワーテルローの戦いの前哨戦のひとつである。
戦争:ナポレオン戦争 リニ―戦
年月日:1815年6月16日
場所:ベルギー中部のリニー
結果:フランス軍の勝利
損害:フランス軍6万8千人中 戦死傷10000人 プロイセン軍 8万4千人中 戦死傷20000人
リニーの戦い (リニーのたたかい、仏:Bataille de Ligny、独:Schlacht bei Ligny )は、1815年6月16日にベルギー中部の村リニー付近で行われた戦い。フランス皇帝ナポレオン1世率いるフランス軍が、ブリュッヘル率いるプロイセン軍を破った。ナポレオン最後の戦いとなったワーテルローの戦いの前哨戦のひとつであり、ナポレオンが最後の勝利を飾った戦いでもある。
2005年 – 日本で介護保険法改正法案可決。
介護保険法(かいごほけんほう、平成9年12月17日法律第123号)は、要介護者(同法7条3項)等について、介護保険制度を設け、その行う保険給付等に関して必要な事項を定めることを目的とする法律である(同法1条)。
成立 1997年12月9日
公布 1997年12月17日
施行 2000年4月1日
歴史的背景
老人福祉法の財政の破綻、医療分野を切り離して老人保健法を制定したものの、これも破綻した。そのため、新たに高齢者福祉を扱うシステムが必要となった。そこで登場したのが介護保険法である。それ以外に老人の社会的入院が非常に多く、介護分野において新たな社会保険方式が必要となったという経緯もある。
地域保健のなかの介護保険
介護保険は市町村が直接、住民に行う制度である。老人保健や母子保健では市町村保健センターが行うと主体が異なる。
チャットgpt先生の6月16日のエッセイ
六月十六日 ― 時を越えて交差する運命の地図
六月十六日。初夏の陽射しが色濃くなり、梅雨の雲間から差す光が街を照らすこの日、私たちは過去に起こった数々の出来事に思いを馳せる。
歴史は、六月十六日という日を、ただの暦の一日とはしなかった。
江戸の昔、1662年のこの日。京の都を襲ったのは、地を裂くような大地震――寛文近江・若狭地震である。二条城は破損し、京都の町屋は千軒余も潰れ、伏見城すら被害を免れなかった。大地は、私たちの足元が永遠ではないと告げる。大溝では家が千を超えて崩れ、火災が朽木谷を焼き尽くした。自然の猛威は、時に歴史の筆先を奪い、静寂の中に破壊の音を刻む。
それから約80年後、遠くイタリアのピアチェンツァでも人の歴史が大きく動いた。1746年、オーストリア継承戦争のさなか、ピアチェンツァの戦いがこの日に行われた。4万人のスペイン=フランス連合軍が、ヨーゼフ・ヴェンツェル率いるオーストリア軍に敗れる。戦場には数えきれぬ命が散り、だがそれすら戦史の一節として記されるだけになる。戦勝の歓声と、静かに横たわる兵士たちの影――栄光と犠牲の記憶は常に一対である。
さらにまた時を進めて1815年。ナポレオンの最後の戦役「百日天下」における前哨戦、カトル・ブラとリニー――二つの戦いが同じ日に勃発した。カトル・ブラでは英蘭連合軍が踏ん張り、リニーではナポレオンがプロイセン軍に勝利した。この二つの戦いが三日後のワーテルローへとつながり、皇帝ナポレオンの時代が終わりを告げる。六月十六日は、帝国の黄昏に響く太鼓の音だった。
そして、現代――2005年の日本。この日、介護保険法の改正法案が可決された。かつて刀で戦い、城を築き、国を争ったこの国の子孫たちは、今や「老い」と共に生きる社会を法で支えようとしている。超高齢化社会への準備は、かつての戦とは異なる戦いだが、未来への挑戦であることに変わりはない。
六月十六日。この日は偶然以上の何かを孕んでいるように思える。地震、戦争、法の制定――命の危機と国家の節目。年を超えて、この日には「転機」が訪れる。空に浮かぶ月は十九夜を過ぎ、満ちた光から徐々に欠けゆく最中、私たちは今日という日の重さを、ほんの少し意識してみてもよいのかもしれない。
この六月十六日を、未来の誰かがどう記憶するかは、今を生きる私たち次第である。静かに、確かに、歴史は今も積み重ねられているのだから。