kagamimochi-nikki 加賀美茂知日記
慶祝と美とグノ-シスの弥増す日々
日々の過去の出来事

今日という日3月13日 1945第一回大阪大空襲、ほか写真wikipedia空襲後大阪市街

3月13日
20250313木曜日旧暦2月14日先負(辛巳かのとみシンシ)月齢 13
乙巳きのとみ年己卯つちのとう月辛巳かのとみ日  年末まであと293日
吉方位 陽遁日
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3月13日の出来事
1807年 – ニコライ・レザノフ、外交官(* 1764年)享年44歳。
1809年 – 第二次ロシア・スウェーデン戦争敗戦の責任を問われていたスウェーデン王グスタフ4世アドルフがグリプスホルム城に幽閉され、王位を剥奪される。
1881年(ユリウス暦3月1日) – ロシア皇帝アレクサンドル2世が投げつけられた爆弾により暗殺される。
1945年 – 第二次世界大戦・大阪大空襲: 大阪市が初めて空襲され、一晩でおよそ4千人が亡くなった[4]。
1954年 – 第一次インドシナ戦争: ディエンビエンフーの戦いが始まる。年月日:1953年11月 - 1954年5月7日[2] 場所:ベトナム、ディエンビエンフー[2] 結果:ベトミン軍の決定的勝利 フランス軍の降伏[2] 損害:ベトミン軍 100000人中 戦死8000人 フランス軍、ベトナム政府軍、アメリカ軍 20000人中 2200人戦死 10000人捕虜。

1996年 – イギリスのスコットランドにあるダンブレーン小学校(英語版)に男が侵入し、児童と教師合わせて16人を拳銃で殺害。

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1807年 – ニコライ・レザノフ、外交官(* 1764年)享年44歳。

ニコライ・ペトロヴィッチ・レザノフ(Nikolai Petrovich Rezanov, 露:ニコラーィ・ペトローヴィチ・レザーノフ, ロシア語: Никола́й Петро́вич Реза́нов, 1764年4月8日(ユリウス暦3月28日) – 1807年3月13日)は、ロシア帝国の外交官。極東およびアメリカ大陸への進出に関わり、ロシアによるアラスカおよびカリフォルニアの植民地化を推進した。

日本通商交渉

露米会社(ロシア領アメリカ毛皮会社)を設立したほか、クルーゼンシュテルンによるロシア初の世界一周航海(1803年)を後援し、自ら隊長として日本まで同行した。この日本来航(1804年、文化元年)はアダム・ラクスマンに続く第2次遣日使節としてのものである。露日辞書のほか多くの著書は、自身も会員だったサンクトペテルブルクのロシア科学アカデミーの図書館に保存されている。彼は40代で死んだが、その短い生涯はロシアおよびアメリカ大陸の運命に大きな影響を与えた。

航海中、旗艦ナジェージタ号の艦長クルーゼンシュテルンと激しく対立しつつ、レザノフは津太夫と同じ日本人漂流民の善六から日本語を学び辞書を作った。1804年(文化元年)9月に長崎の出島に来航する。交渉相手の定信は朝廷との尊号一件により老中職から失脚し、幕府は外交能力を失っており、代わりに老中土井利厚が担当した。土井から意見を求められた林述斎は、ロシアとの通商は「祖宗の法」に反するために拒絶すべきであるが、ラクスマンの時に信牌を与えた経緯がある以上、礼節をもってレザノフを説得するしかないと説いた。だが、土井はレザノフに「腹の立つような乱暴な応接をすればロシアは怒って二度と来なくなるだろう。もしもロシアがそれを理由に武力を行使しても日本の武士はいささかも後れはとらない」と主張したという(東京大学史料編纂所所蔵「大河内文書 林述斎書簡」)。その結果、レザノフたちは半年間出島近くに留め置かれることになる(当初は長崎周辺の海上で待たされ、出島付近に幕府が設営した滞在所への上陸が認められたのは来航から約2か月後だった[8])。この間、奉行所の検使がレザノフらのもとを訪問しており、その中には長崎奉行所に赴任していた大田南畝もいた[8]。翌年には長崎奉行所において長崎奉行遠山景晋(遠山景元の父)から、唐山(中国)・朝鮮・琉球・紅毛(オランダ)以外の国と通信・通商の関係を持たないのが「朝廷歴世の法」で議論の余地はない[9]として、装備も食料も不十分のまま通商の拒絶を通告される。

病死

クラスノヤルスクにあるレザノフの墓所に立てられた記念碑。1831年建立、ソ連時代に壊された後、2007年に再建

クラスノヤルスクにあるレザノフ像

レザノフはアラスカからすぐにカムチャツカへと戻った。彼は長崎での交渉が膠着した経験から「日本に対しては武力をもっての開国以外に手段はない」と上奏したが、のち撤回した。しかし部下のニコライ・フヴォストフ(ロシア語版)が単独で[要出典]、1806年に樺太の松前藩の番所、1807年に択捉港ほか各所を襲撃する(フヴォストフ事件、文化露寇)。

フヴォストフが日本の北方を襲撃しているころ、レザノフはスペインとの条約を皇帝に諮るため、カムチャツカから出てペテルブルクに向けてシベリアを横断中であった(彼はコンセプシオンとの結婚の許可をローマ教皇およびスペイン王に懇願する手紙も携えていた)。しかし、長年の過酷な航海およびシベリア横断により疲労し健康を害しており、1807年5月8日クラスノヤルスクで病死した[12]。42歳没。

1809年 – 第二次ロシア・スウェーデン戦争敗戦の責任を問われていたスウェーデン王グスタフ4世アドルフがグリプスホルム城に幽閉され、王位を剥奪される。

1881年(ユリウス暦3月1日) – ロシア皇帝アレクサンドル2世が投げつけられた爆弾により暗殺される。

家庭
→詳細は「マリア・アレクサンドロヴナ (ロシア皇后)」を参照

皇帝の公式の家族、皇后マリア(右)と皇太子アレクサンドル(中央)

皇帝のもう一つの家庭、「カーチャ」ことエカチェリーナ・ドルゴルーカヤ公爵令嬢と二人の子供(ゲオルギー、オリガ)
1841年、ヘッセン大公ルートヴィヒ2世の末娘マリーと恋愛結婚した。マリーはその母親ヴィルヘルミーネの不義の子だったが、彼女に一目惚れしたアレクサンドルはそれを承知の上で妻に迎え、マリーは改宗してマリア・アレクサンドロヴナと名乗った。間に6男2女を儲けたが、体の弱いマリアは度重なる出産で疲弊し、その後医師に性行為を禁じられた。結婚後も他の貴族女性たちとの性的関係を繰り返していたアレクサンドルは、妻の体調の悪化に伴い更に妻以外の女性との関わりを深めていった。

1865年に長男である皇太子ニコライが21歳の若さで急死したことは皇帝夫妻に最終的な打撃を与えた。特に長男を愛していたマリアは全く立ち直ることができず、傷心したアレクサンドルは癒しを求めエカチェリーナ・ドルゴルーコヴァ公爵令嬢との不倫に走るようになった。

→詳細は「エカチェリーナ・ミハイロヴナ・ドルゴルーコヴァ」を参照
1866年、48歳のアレクサンドル2世は、没落貴族の娘でスモーリヌイ女学院の女学生だったエカチェリーナ・ドルゴルーコヴァ公爵令嬢(愛称・カーチャ)と不倫関係になった。二人はカーチャがスモーリヌイ女学院を卒業するのを待って恋愛関係になり、4人の子供が生まれて幸福な「家庭」生活を築いた。当然ながらこの関係は明るみに出て、皇太子アレクサンドルを始めとする多くの人々の非難を受けた。

1880年5月に皇后マリアが没すると、皇帝は教会法や家族の反対を無視し、カーチャと再婚(貴賤結婚)するに至った。当然ながらこの結婚はロマノフ家の人々の容認するところとならず、皇帝の死後、カーチャとその子供たちは340万ルーブルの年金を与えられ、ニースに追い払われた。

暗殺 アレクサンデル2世暗殺事件

1945年 – 第二次世界大戦・大阪大空襲: 大阪市が初めて空襲され、一晩でおよそ4千人が亡くなった[4]。

大阪大空襲(おおさかだいくうしゅう)は、第二次世界大戦末期にアメリカ軍が実施した、大阪府大阪市を中心とする地域への空襲である。

1945年3月13日深夜から翌日未明(日本時間、以下同様)にかけて最初の大阪空襲が行われ、その後、6月1日、6月7日、6月15日、6月26日、7月10日、7月24日、8月14日に空襲が行われた。これらの空襲で10,000人以上の一般市民が死亡したと言われている。

第1回大阪大空襲
1945年3月13日23時57分 – 14日3時25分の約3時間半にわたり行われ、274機のB-29が襲来した。グアムからの第314航空団の43機が23時57分 – 14日1時にかけて大阪市上空に達した。アメリカ軍の照準点は、北区扇町、西区阿波座、港区市岡元町、浪速区塩草で、都心部を取り囲む住宅密集地を標的にしており、夜間低空爆撃として約2,000メートルの低空からの一般家屋をねらった夜間爆撃だった。先導機がナパーム弾(大型の焼夷弾)を港区市岡の照準点に投下し大火災発生。他の機はそれを目印に次々とクラスター焼夷弾(内蔵した38個の小型焼夷弾が空中で分散して落下する)を投下した。続いてテニアンから第313航空団の107機が14日0時10分から3時25分にかけて爆撃。浪速区塩草を照準点として投弾した。さらにサイパンから第73航空団の124機が14日0時20分から2時25分にかけて爆撃。照準点は北区扇町と西区阿波座。すでに大火災が発生している中で、北区はアメリカ軍のねらい通りには爆撃できず、他の場所に被害が広がった。中心市街地を焼き尽くしたこの空襲では、3,987名の死者と678名の行方不明者が出た。山を挟んだ奈良県や亀岡盆地側では、火炎が山の向こうに夕焼けのように見えたという[1]。

1954年 – 第一次インドシナ戦争: ディエンビエンフーの戦いが始まる。年月日:1953年11月 - 1954年5月7日[2] 場所:ベトナム、ディエンビエンフー[2] 結果:ベトミン軍の決定的勝利 フランス軍の降伏[2] 損害:ベトミン軍 100000人中 戦死8000人 フランス軍、ベトナム政府軍、アメリカ軍 20000人中 2200人戦死 10000人捕虜。
、第一次インドシナ戦争中最大の戦闘。フランスからの独立とベトナム民主共和国建国を宣言していたベトミンの軍隊(ベトナム人民軍)が、フランス外人部隊などフランス軍を破り、インドシナからの撤退に追い込んだ。両軍合わせて約1万人の戦死者を出した。

1996年 – イギリスのスコットランドにあるダンブレーン小学校(英語版)に男が侵入し、児童と教師合わせて16人を拳銃で殺害。

チャットgpt先生の3月13日のエッセイ

3月13日—歴史の影にある物語

3月13日は、歴史の中で多くの出来事が刻まれた日である。それは一国の運命を変えた戦いの日であり、悲劇の日でもあり、また新たな歴史が生まれる転換点の日でもあった。

この日、1807年にロシアの外交官ニコライ・レザノフが44歳で亡くなった。彼はロシア帝国のアメリカ大陸進出を推進し、日本との通商交渉にも関与した人物である。日本との通商を求めたものの、幕府によって拒絶され、最終的には極東からシベリアを横断する過酷な旅の末に命を落とした。彼の志はロシアの拡張政策として受け継がれ、その後の日本との関係にも影響を与えた。

また、1809年にはスウェーデン王グスタフ4世アドルフが王位を剥奪され、幽閉された。彼の失脚はスウェーデン王政の大きな転換点となり、その後の政治構造の変化を促した。

1881年にはロシア皇帝アレクサンドル2世が爆弾によって暗殺された。彼は農奴解放令を出し、ロシアの近代化を推し進めたが、反動勢力の強い反発を受けた。彼の死はロシアの政治を混乱させ、その後の革命の遠因ともなった。

さらに、1945年のこの日、大阪大空襲が発生し、一晩で約4千人の命が失われた。B-29による無差別爆撃は都市を焼き尽くし、戦争の悲惨さを如実に示した。この大空襲を含め、日本各地で行われた空襲は、戦争の終焉を早める一方で、民間人に甚大な犠牲を強いた。

1954年にはディエンビエンフーの戦いが始まった。この戦闘はフランス植民地軍とベトミン軍の間で繰り広げられ、最終的にはベトミンの決定的な勝利となり、フランスはインドシナから撤退を余儀なくされた。これはベトナム独立の第一歩であり、後のベトナム戦争へとつながる歴史的な戦闘だった。

そして1996年、スコットランドのダンブレーン小学校で銃乱射事件が発生し、無辜の子どもたちと教師が犠牲となった。この事件はイギリスの銃規制を大幅に厳格化させる契機となり、法律が社会をどのように変えうるかを示す一例となった。

このように、3月13日は歴史のうねりの中で重要な役割を果たしてきた日である。国の命運を分けた戦い、人間の愚かさがもたらした悲劇、そして制度の変革を促した事件。私たちはこの日に起こった出来事から、歴史の教訓を学び、未来への道筋を考えなければならない。