kagamimochi-nikki 加賀美茂知日記
慶祝と美とグノ-シスの弥増す日々
日々の過去の出来事

今日という日3月10日 1945東京大空襲、ほか写真wikipedia松坂屋から仲見世焼け跡を臨む

3月10日
20250310月曜日旧暦2月11日赤口(戊寅つちのえとらボイン)月齢 10
乙巳きのとみ年己卯つちのとう月戊寅つちのえとら日  年末まであと296日
吉方位 陽遁日
https://ja.wikipedia.org/wiki/3%E6%9C%8810%E6%97%A5
3月10日の出来事
1793年 – フランス革命: 国民公会が政治犯を審理するために革命裁判所をパリに設置。
1905年 – 日露戦争: 奉天会戦が日本軍の勝利で終結。損害:日本軍 戦死15892人 ロシア軍 戦死36000人強 捕虜22000人。1945までこの日が陸軍記念日。
1945年 – 第二次世界大戦・日本本土空襲: 東京大空襲。死者10万人以上。
1945年 – 第二次世界大戦・日本本土空襲: 第1回平空襲。死者12名。福島県いわき市平地区空襲。
1978年 – 新潟市の雑居ビルで火災が発生(今町会館ビル火災)。死者11人、軽症者2人[9]。
2008年 – チベット騒乱が始まる。4月29日チベット政府発表 死者数203人、負傷者は1千人以上、5715人以上が拘束。

2019年 – エチオピア、ボレ国際空港発のエチオピア航空302便が墜落事故。乗客乗員157人全員が死亡(エチオピア航空302便墜落事故)[13]。

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1793年 – フランス革命: 国民公会が政治犯を審理するために革命裁判所をパリに設置。
1905年 – 日露戦争: 奉天会戦が日本軍の勝利で終結。損害:日本軍 戦死15892人 ロシア軍 戦死36000人強 捕虜22000人。1945までこの日が陸軍記念日。
1945年 – 第二次世界大戦・日本本土空襲: 東京大空襲。死者10万人以上。

東京大空襲(とうきょうだいくうしゅう)は、第二次世界大戦(太平洋戦争)末期にアメリカ合衆国により行われた、東京都区部に対するM69焼夷弾などの焼夷弾を用いた大規模な戦略爆撃の総称。日本各地に対する日本本土空襲、アメリカ軍による広島・長崎に対する原爆投下、沖縄戦と並んで、東京の都市部を標的とした無差別爆撃によって、市民に大きな被害を与えた。爆撃被災者は約310万人、死者は11万5千人以上[注 1][注 2]、負傷者は15万人以上、損害家屋は約85万戸以上の件数となった[4]。

M47焼夷爆弾(AN-M47A2)。100ポンド(45㎏)のナパーム弾(ゲル化ガソリン)でアメリカ軍最初の焼夷弾。鉄製の弾筒内にゼリー状に加工した油脂約18㎏を封入し、弾頭に火薬を装填した。屋根を突き破って屋内に入り爆発してナパーム剤を円錐状に飛散させた[16]

M50焼夷弾(AN-M50A2)。4ポンド(1.8㎏)のマグネシウム焼夷弾で、イギリス軍のM2焼夷弾をアメリカ陸軍が制式化したもので、アルミニウム粉末と酸化鉄を六角形の形をした筒状の金属製容器に充填している。直径5cm、長さ35cm、重量2㎏で小型の焼夷弾であり、34発が収束されていたが、一定の高度でバラバラになって落下した。元々はドイツのコンクリート建造物を破壊する目的で製造されたが、木造の家屋によく適していた[16][17]

M69焼夷弾(AN-M69)。6.2ポンド(2.7㎏)ナパーム弾。1942年に開発されたM56尾部点火式爆弾の改良型。直径8cm、長さ50㎝、でM50焼夷弾と同様に、六角形の金属製容器にゼリー状のナパーム剤とマグネシウムが充填されてあったが、通常38発が収束されてE46-500ポンド収束爆弾(クラスター爆弾)として投下された。一定の高度でバラバラになって落下したが、他の焼夷弾との相違点は水平安定板がなく、代わりに1.2mの「ストリーマー」と呼ばれる綿製のリボンが落下時に尾部から飛び出して、姿勢の安定と落下速度の調整を行った。日本家屋の瓦屋根を貫通させるためには激突時の速度をあまり早くする必要はなく、ストリーマーによる減速で M50焼夷弾の1/4の速度に抑えられた。このストリーマーに火がついて燃えながら落下してくることが多かったので、あたかも“火の雨”が降ってくるように見えたという。六角形の金属製容器が建物の屋根を突き破ると、導火線が作動し5秒以内にTNT火薬が炸裂、その後に混入されたマグネシウム粒子によって、布袋に入ったナパーム剤を点火し、その推力で六角形の金属製容器を30m飛ばして半径27mもの火の輪を作り周囲を焼き尽くした[18][17]。内部に詰められたゼリー状のナパーム剤から、この焼夷弾は「goop bomb」(ベトベト爆弾)と呼ばれていた[19]。

アメリカ軍はM69焼夷弾の開発にあたって、1943年3月にダグウェイ実験場(ユタ州)での実戦さながらの実験を行っている。その実験というのは演習場に日本式家屋が立ち並ぶ市街地を建設し、そこで焼夷弾の燃焼実験を行うといった大規模なものであったが、日本家屋の建築にあたっては、日系人の多いハワイからわざわざ資材を取り寄せ、日本に18年在住した建築家が設計するといった凝りようであり、こうして建てられた日本家屋群には日本村という名前が付けられた[20]。M69焼夷弾のナパーム剤で炎上した日本式家屋は、日本の消防隊を正確に再現した消防隊の装備では容易に消火できず、日本に最適の焼夷弾と認定された[19]。

3月10日の大規模空爆で使用されたナパーム弾は、ロッキーマウンテン兵器工場で製造された[21]。

空襲の経過

背景

フィリピン海(図中央)の東に位置するマリアナ諸島。南端はグアムで、北には小笠原諸島があり、伊豆・小笠原・マリアナ島弧を形成している。

「日本本土空襲」および「ドーリットル空襲」を参照

1942年4月18日に、アメリカ軍による初めての日本本土空襲となるドーリットル空襲が航空母艦からのB-25爆撃機で行われ、東京も初の空襲を受け、荒川区、王子区、小石川区、牛込区が罹災した[26][27]。死者は39人[28]。

「マリアナ・パラオ諸島の戦い」および「サイパンの戦い」を参照

1943年8月27日、アメリカ陸軍航空軍司令官ヘンリー・アーノルド大将は日本打倒の空戦計画を提出、日本都市産業地域への大規模で継続的な爆撃を主張、焼夷弾(ナパーム弾)の使用に関しても言及[29]。この時、アーノルドは科学研究開発局長官ヴァネヴァー・ブッシュから「焼夷攻撃の決定の人道的側面については高レベルで行われなければならない」と注意されていたが、アーノルドが上層部へ計画決定要請を行った記録はない[30]。

1944年からのマリアナ・パラオ諸島の戦いでマリアナ諸島に進出したアメリカ軍は、6月15日にサイパンの戦いでサイパン島に上陸したわずか6日後、まだ島内で激戦が戦われている最中に、日本軍が造成したアスリート飛行場を占領するや、砲爆撃で開いていた600個の弾着穴をわずか24時間で埋め立て、翌日にはP-47戦闘機部隊を進出させている。その後、飛行場の名称を上陸3日前にサイパンを爆撃任務中に日本軍に撃墜され戦死したロバート・H・イズリー中佐に因んでコンロイ・イズリー飛行場(現在サイパン国際空港)改名、飛行場の長さ・幅を大幅な拡張工事を行い新鋭爆撃機B-29の運用が可能な飛行場とし、10月13日に最初のB-29がイズリー飛行場に着陸した[31]。同様に、グアムでも8月10日にグアムの戦いでアメリカ軍が占領すると、日本軍が造成中であった滑走路を利用してアンダーセン空軍基地など3か所の飛行場が建設され、8月1日に占領したテニアン島にもハゴイ飛行場(現・ノースフィールド飛行場)とウエストフィールド飛行場(現在テニアン国際空港)が建設された。ドーリットル空襲後、東京への空襲は途絶えていたが、これらの巨大基地の建設によりB-29の攻撃圏内に東京を含む日本本土のほぼ全土が入るようになった[32]。日本ではマリアナ諸島陥落の責任を東条内閣に求め、1944年7月18日に内閣総辞職した[32]。

被害規模

火葬が間に合わないので仮埋葬するため上野公園の両大師脇に下谷・浅草から運ばれた遺体
当時の警視庁の調査での被害数は以下の通り。

死亡:83,793人[26]
負傷者:40,918人
被災者:1,008,005人
被災家屋:268,358戸[26]
人的被害の実数はこれよりも多く、死者約8万-10万、負傷4万-11万名ともいわれる。上記警視庁の被害数は、早期に遺体が引き取られた者を含んでおらず、またそれ以外にも行方不明者が数万人規模で存在する。民間団体や新聞社の調査では死亡・行方不明者は10万人以上と言われており、単独の空襲による犠牲者数は世界史上最大である。両親を失った戦災孤児が大量に発生した。外国人、および外地出身者の被害の詳細は不明。

また当時東京に在住していた朝鮮人97632人中、戦災者は41300人で、死者は1万人を軽く越すと見られている[98][99]。

この空襲で一夜にして、東京市街地の東半部、実に東京35区の3分の1以上の面積にあたる約41平方キロメートルが焼失した。爆撃による火災の煙は高度1万5000メートルの成層圏にまで達し、秒速100メートル以上という竜巻並みの暴風が吹き荒れ、火山の大噴火を彷彿とさせた。午前2時37分にはアメリカ軍機の退去により空襲警報は解除されたが、想像を絶する大規模な火災は消火作業も満足に行われなかったため10日の夜まで続いた。当時の東京の消防システムは充実しており、東京への空襲を見越して、学生などから急遽採用された年少消防官を含む8,100人の訓練を受けた消防士に1,117台の消防車が配備されており、そのうちの716台が電動化されていた。防火の貯水槽や手押しポンプ、バケツも多数住宅地に設置されてあった[100]。しかし、発生した火災の規模は想定を遥かに超えており、消防システムは空襲開始30分で早くも機能不全に陥り、95台の消防車が破壊されて125人の消防士が殉職した[101]。

当夜の冬型の気圧配置という気象条件による強い季節風(いわゆる空っ風)は、火災の拡大に大きな影響を及ぼした。強い北西の季節風によって火勢が煽られ延焼が助長され、規模の大きい飛び火も多発し、特に郊外地区を含む城東地区や江戸川区内で焼失区域が拡大する要因となった。さらに後続するアメリカ軍編隊が爆撃範囲を非炎上地域にまで徐々に広げ、当初の投下予定地域ではなかった荒川放水路周辺や、その外側の足立区や葛飾区、江戸川区の一部の、当時はまだ農村地帯だった地区の集落を含む地域にまで焼夷弾の実際の投下範囲が広げられたことにより、被害が拡大した。これは早い段階で大火災が発生した投下予定地域の上空では火災に伴う強風が生じたため、低空での操縦が困難になったためでもあった。

爆撃の際には火炎から逃れようとして、隅田川や荒川に架かる多くの橋や、燃えないと思われていた鉄筋コンクリート造の学校などに避難した人も多かった。しかし火災の規模が常識をはるかに超えるものだったため、至る所で巨大な火災旋風が発生し、あらゆる場所に竜の如く炎が流れ込んだり、主な通りは軒並み「火の粉の川」と化した。そのため避難をしながらもこれらの炎に巻かれて焼死してしまった人々や、炎に酸素を奪われて窒息によって命を奪われた人々も多かった。焼夷弾は建造物等の目標を焼き払うための兵器だが、この空襲で使われた焼夷弾は小型の子弾が分離し大量に降り注ぐため、避難民でごった返す大通りに大量に降り注ぎ子供を背負った母親や、上空を見上げた人間の頭部・首筋・背中に突き刺さり即死させ、そのまま爆発的に燃え上がり周囲の人々を巻き添えにするという凄惨な状況が多数発生した。また、川も水面は焼夷弾のガソリンなどの油により引火し、さながら「燃える川」と化し、水中に逃れても冬期の低い水温のために凍死する人々も多く、翌朝の隅田川・荒川放水路等は焼死・凍死・溺死者で川面があふれた。これら水を求めて隅田川から都心や東京湾・江戸川方面へ避難した集団の死傷率は高かった一方、内陸部、日光街道・東武伊勢崎線沿いに春日部・古河方面へ脱出した人々には生存者が多かった。また、空襲を避ける為各地で防空壕が設けられそこに避難した人々も多かったが、防空壕の換気が不十分の為酸欠状態となりそこで窒息死する人々も多かった[102]。医師として聖路加国際病院で治療に当たった日野原重明はトラックで運ばれてくる大量の怪我人をチャペルや廊下にベニヤ板を敷くなどして受け入れたが、場所が足りずに治療できないまま屋外で亡くなった人も多かったことを教訓に、新病棟の建設時には大量の被災者発生に対応した設計とした[103]。

日本の総理大臣小磯國昭(小磯内閣)はこの空襲を「もっとも残酷、野蛮なアメリカ人」と激しく非難し[104]、国民に対しては「都民は空襲を恐れることなく、ますます一致団結して奮って皇都庇護の大任を全うせよ」と呼びかけた[105]。ラジオ東京は空襲を「虐殺」と断じ、ルメイを現代のローマ皇帝ネロと比喩し「東京の住宅街と商業街を囲む炎の海は、皇帝ネロによるローマ大火の大虐殺を彷彿とさせる」とも報じた[106]。この惨禍はこれから日本全土に広がっていくこととなり、ルメイは、その後も3月11日、B-29の310機で名古屋(名古屋大空襲)、3月13日、295機で大阪(大阪大空襲)、3月16日、331機で神戸(神戸大空襲)、3月18日、310機で再度名古屋を東京大空襲と同様に、夜間低空でのM69焼夷弾による無差別爆撃を行った[107]。日本全土に被害が広がると、日本のマスコミはルメイに対する舌戦をさらに激化させ、朝日新聞などは「元凶ルメー、思ひ知れ」という記事で「やりをったな、カーチス・ルメー」「暴爆専門、下劣な敵将」「嗜虐性精神異常者のお前は、焼ける東京の姿に舌舐めづりして狂喜してゐるに相違ない」「われわれはどうあつてもこのルメーを叩つ斬らねばなるまい」などと思いつく限りの誹謗と罵倒を新聞紙上で浴びせている[108]。

ルメイの叙勲について

NHK取材では戦争責任についての問いにルメイは勲章を示して見せた[174]。

爆撃直後にルメイは「近代航空戦史で画期的なできごととなった」と空襲の成果に胸をはったが、民間人の大量虐殺については、「幸せな気分になれなかった」としつつも、日本軍がフィリピンでアメリカ兵やフィリピンの民間人に対して行ったとされる残虐行為を引き合いに出して、「(大量虐殺が)私の決心を何ら鈍らせなかった」と回想したり[175]、「我々は軍事目標を狙っていた。単なる殺戮のために民間人を殺戮する目的などはなかった…我々が黒焦げにしたターゲットの一つに足を向けてみれば、どの家の残骸からもボール盤が突き出ているのが見えたはずだ。国民全員が戦争に従事し、飛行機や弾薬を造るために働いていたのだ…大勢の女性や子供を殺すことになるのはわかっていた、だが、我々はやらねばならなかった」と当時の日本工業生産の特徴でもあった家内工業のシステムの破壊が目的であり、仕方なかったとも述べている[176]。

また、ルメイは日本爆撃に道徳的な考慮は影響したかと質問され、「当時日本人を殺すことについてたいして悩みはしなかった。私が頭を悩ませていたのは戦争を終わらせることだった」「もし戦争に敗れていたら私は戦争犯罪人として裁かれていただろう。幸運なことにわれわれは勝者になった」「答えは“イエス”だ。軍人は誰でも自分の行為の道徳的側面を多少は考えるものだ。だが、戦争は全て道徳に反するものなのだ」と答えた[177]。ルメイは「我々は日本降伏を促す手段として火災しかなかったのだ」とも述懐している[97]。兵士に向けては「戦争とはどんなものか教えてやろう。君たちは人間を殺さなければならない。そして、できるだけ多く殺したときに、敵は戦いをやめるのだ」とも語っている[178]。

1945年 – 第二次世界大戦・日本本土空襲: 第1回平空襲。死者12名。福島県いわき市平地区空襲。
1978年 – 新潟市の雑居ビルで火災が発生(今町会館ビル火災)。死者11人、軽症者2人[9]。
2008年 – チベット騒乱が始まる。4月29日チベット政府発表 死者数203人、負傷者は1千人以上、5715人以上が拘束。

2008年のチベット騒乱(にせんはちねんのチベットそうらん)は、2008年3月10日に中華人民共和国チベット自治区ラサ市において、チベット独立を求めるデモをきっかけとして発生した暴動を指す。

ラサ市内の暴動は3月16日までに鎮圧されたが、チベット民族が居住する四川省・青海省・甘粛省などに暴動が飛び火し、欧米や日本、インド、ネパール等でもチベット難民とその支援者達による中国への抗議活動が繰り広げられた。

2019年 – エチオピア、ボレ国際空港発のエチオピア航空302便が墜落事故。乗客乗員157人全員が死亡(エチオピア航空302便墜落事故)[13]。

チャットgpt先生の3月10日のエッセイ
3月10日

3月10日。この日付を見て、何を思い浮かべるだろうか。

桜の開花が待たれる季節。寒さの残る朝に、春の兆しを感じるころ。だが、かつてこの日、日本の空を埋め尽くしたのは、希望ではなく、無数のB-29爆撃機と、炎の嵐だった。

1945年3月10日未明、東京の空が赤く染まった。アメリカ軍による大規模空襲、「東京大空襲」が実施されたのだ。334機のB-29爆撃機が投下した焼夷弾は、火の雨となり、木造家屋が密集する下町を瞬く間に飲み込んだ。火災旋風が発生し、熱と煙が逃げ場を奪い、推定10万人もの命が奪われた。これは、一夜にして起こった、人類史上最大規模の空襲である。

戦略爆撃という言葉がある。戦争において、敵国の産業や軍需施設を標的にし、戦争遂行能力を削ぐ攻撃手法だ。しかし、3月10日の空襲は、工場だけでなく、民間人が暮らす街全体を標的とした。戦争の終結を早めるためだったとされるが、その代償はあまりに大きかった。

焼け野原となった東京に立ち尽くした人々は、何を思っただろう。家族を失い、すべてを失い、崩れ落ちた街の中で、それでも生きねばならない現実に、どのように立ち向かったのだろうか。

戦後、日本は復興を遂げ、東京は世界有数の都市となった。しかし、その発展の影には、3月10日に失われた無数の命がある。この日を語る人は年々少なくなり、記憶は薄れつつある。だが、焼け焦げた街に立ち尽くした人々の痛み、炎の中で消えた声を、私たちは忘れてはならない。

3月10日。それは、過去の出来事ではなく、現在と未来に問いかける日である。この日を迎えるたびに、戦争の悲劇と、平和の尊さを思い返し、語り継いでいくことが、私たちにできる責務ではないだろうか。