7月19日
20260719日曜日旧暦6月6日大安(31番甲午きのえうまコウゴ)月齢 4.7
43番丙午ひのえうま年 32番乙未きのとひつじ月 31番甲午きのえうま日
吉方位 隠遁日 甲午きのえうま日 東 大吉 年末まであと165日
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7月19日の出来事
1864年(同治3年6月16日) – 太平天国の乱: 曽国藩が天京(南京)を占領し、天京攻防戦が終結。太平天国が清に敗れ、14年に及ぶ太平天国の乱が事実上終結。
戦争:清で起きた大規模な宗教反乱
年月日:1851年1月 – 1864年8月
場所:中国南部
結果:清による鎮圧
損害:太平天国軍 500万人中 戦死数十万人 清軍 300万人中 数十万人 民間含めて総死亡者数は2000万人以上といわれる。
1870年 – 普仏戦争勃発。約1年終戦までで フランス死傷28万人 プロイセン13万人。
1919年 – 寛城子事件かんじょうしじけん。満洲の寛城子で日中両軍が衝突。日本軍で18人が死亡。
・日本守備隊約50名と中国兵約1,500名との間に行われたものであったため衆寡敵せざることとなった[8]。・森田領事は高士儐師長らとともに、20時には寛城子守備隊兵営に赴き、高俊峯旅長、斉藤大佐、林守備隊長、橋本警視等らとともに死体を検死、中国軍幕営付近で殺害された日本側の犠牲者は眼球をえぐり出され、耳を削がれ、顔面を切り刻まれるなどして惨殺されたことを確認した[11]。
1945年-沖縄戦7月19日・<M> ひどい食糧難が続き、栄養失調で倒れる者も続出した。だから元気のある者はみんな本部 (本部半島) まで食糧を取りに来た。当時、それは越境と呼ばれていたが、重い荷物を担いで三五キロから四〇キ口も行列をなして通ったものであった。その苦労はたいへんなもので、久志に着くと三日ぐらいは歩く気もしなかったほどである。
ところが、久志の入口にはCP(民間の臨時督官)が待ち構えていて、せっかく運んで来た食糧を没収することもあった。二度も三度も被害をこうむった人々もいたので、私たちはそいつらを “島巡査グヮ” (CPの蔑称)と呼んで、その理不尽な行為を憎んでいた。
それから、その食糧運搬のさいに米兵に襲われた婦人がたくさんいた。男たちと一緒に歩いていても、男装で薄汚い格好をしていても、手あたり次第に奪い去るのであった。男がたくさんいても、武器を所持している連中に反抗できるわけがなかったので、そのつど泣寝入りするよりしかたがなかった。だから、あとになると女性は殆んど食糧を取りに来なくなったし、男たちもわざわざ暗くなってから山道を通るようになった。
そして明治山まで来ると、道端に突然敗残兵が現われ、熱心に恵みを乞うのであった。気の毒になって分けてやることもあったけれど、時にはついムカッとなり、我々にだって帰りを待ちわびている妻子があるんだ、栄養失調気味の子供たちがいるんだぞ、などとどなりつけて断ることもあった。<沖縄戦証言 本部 – Battle of Okinawa>
1946年 – 渋谷事件。東京都渋谷区で渋谷警察署・暴力団の連合隊と在日台湾人が銃撃戦。双方で死傷者43人。
1989年 – ユナイテッド航空232便不時着事故。死者112人。生存184人。
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1864年(同治3年6月16日) – 太平天国の乱: 曽国藩が天京(南京)を占領し、天京攻防戦が終結。太平天国が清に敗れ、14年に及ぶ太平天国の乱が事実上終結。
戦争:清で起きた大規模な宗教反乱
年月日:1851年1月 – 1864年8月
場所:中国南部
結果:清による鎮圧
損害:太平天国軍 500万人中 戦死数十万人 清軍 300万人中 数十万人 民間含めて総死亡者数は2000万人以上といわれる。
1870年 – 普仏戦争勃発。約1年終戦までで フランス死傷28万人 プロイセン13万人。
普仏戦争(ふふつせんそう、独: Deutsch-Französischer Krieg、仏: Guerre franco-allemande de 1870)は、フランス第二帝政期の1870年7月19日に起こり、1871年5月10日まで続いたフランス帝国とプロイセン王国の間で行われた戦争である。
プロイセンは北ドイツ連邦のみならず、南ドイツのバーデン大公国・ヴュルテンベルク王国・バイエルン王国と同盟を結び、フランスに圧勝した[1]。この戦争を契機に、すでに旧ドイツ連邦の解体で除外が濃厚となっていた議長国オーストリア帝国を除いたドイツ統一が達成され、フランス第二帝政は崩壊した。
ドイツ諸邦もプロイセン側に立って参戦したため独仏戦争とも呼ぶ他、フランス側では1870年戦争と呼称する。なお、日本の世界史の教科書ではプロイセン=フランス戦争と呼称する例もある[2]。
1919年 – 寛城子事件。満洲の寛城子で日中両軍が衝突。日本軍で18人が死亡。
・日本守備隊約50名と中国兵約1,500名との間に行われたものであったため衆寡敵せざることとなった[8]。・森田領事は高士儐師長らとともに、20時には寛城子守備隊兵営に赴き、高俊峯旅長、斉藤大佐、林守備隊長、橋本警視等らとともに死体を検死、中国軍幕営付近で殺害された日本側の犠牲者は眼球をえぐり出され、耳を削がれ、顔面を切り刻まれるなどして惨殺されたことを確認した[11]。
1945年-沖縄戦7月19日・<M> ひどい食糧難が続き、栄養失調で倒れる者も続出した。だから元気のある者はみんな本部 (本部半島) まで食糧を取りに来た。当時、それは越境と呼ばれていたが、重い荷物を担いで三五キロから四〇キ口も行列をなして通ったものであった。その苦労はたいへんなもので、久志に着くと三日ぐらいは歩く気もしなかったほどである。
ところが、久志の入口にはCP(民間の臨時督官)が待ち構えていて、せっかく運んで来た食糧を没収することもあった。二度も三度も被害をこうむった人々もいたので、私たちはそいつらを “島巡査グヮ” (CPの蔑称)と呼んで、その理不尽な行為を憎んでいた。
それから、その食糧運搬のさいに米兵に襲われた婦人がたくさんいた。男たちと一緒に歩いていても、男装で薄汚い格好をしていても、手あたり次第に奪い去るのであった。男がたくさんいても、武器を所持している連中に反抗できるわけがなかったので、そのつど泣寝入りするよりしかたがなかった。だから、あとになると女性は殆んど食糧を取りに来なくなったし、男たちもわざわざ暗くなってから山道を通るようになった。
そして明治山まで来ると、道端に突然敗残兵が現われ、熱心に恵みを乞うのであった。気の毒になって分けてやることもあったけれど、時にはついムカッとなり、我々にだって帰りを待ちわびている妻子があるんだ、栄養失調気味の子供たちがいるんだぞ、などとどなりつけて断ることもあった。<沖縄戦証言 本部 – Battle of Okinawa>
1946年 – 渋谷事件。東京都渋谷区で渋谷警察署・暴力団の連合隊と在日台湾人が銃撃戦。双方で死傷者43人。
渋谷事件
同日午後9時、在日台湾人のジープが先頭に立って渋谷警察署の前を通過した。2台のトラックが通過し、3台目のトラックが渋谷警察署前にいた土田精の直前に来たとき、突然銃声が響いた。何者かの発砲により芳賀弁蔵巡査部長が胸部を撃たれた。この件に関して、「埼玉県連絡会」第17号記事抜粋によれば、林歳徳は「警察とヤクザ連合が、台湾人を襲撃してきた」と主張している[4]。芳賀巡査部長は病院に運ばれる途中で死亡した。
高橋岩太郎らは後続の在日台湾人のトラックに向けて発砲した。万年東一も発砲しながら飛び出していった。最後尾のトラックの運転手・范が頭部を撃たれて死亡した。運転手を撃たれたトラックは、渋谷警察署前の道路の反対側にあった民家に突っ込み横転して炎上した。他のトラックに乗っていた在日台湾人が、横転したトラックに乗っていた同胞を助けようと荷台から降りた。高橋岩太郎の戦闘部隊や万年東一一派は、トラックから降りてきた在日台湾人に斬り込んだ。その後、在日台湾人は逃げた。高橋岩太郎たちは捕まえた在日台湾人を渋谷警察署に引き渡した。渋谷警察署は在日台湾人28人を逮捕し、拳銃3丁と実弾30発、鉄棒4本、ジャックナイフや棍棒、火炎瓶などを押収した。土田精は渋谷警察署署員を走らせ、高橋岩太郎にMPが来るのですぐに立ち去るように伝えた。高橋岩太郎たちは、渋谷警察署裏の氷川神社に移動した。それから、高橋岩太郎たちは恵比寿駅前の事務所に戻った。万年東一たちは日本刀を氷川神社や國學院の地中に埋めてから、中野の万年の自宅に戻った。
同日午後11時ごろ、高橋岩太郎たちは事務所に到着した。警察側の拳銃発砲者は、土田精を始め90人で警察側が発砲した実弾は245発だった。村上義弘目黒警察署巡査が腰に被弾し、重傷を負った。警察側の死者は、芳賀弁蔵1人だった。在日台湾人の死者は、全部で7人(当日の死者は運転手・范を含めて2人)、重軽傷者は34人だった
1989年 – ユナイテッド航空232便不時着事故。死者112人。生存184人。
ユナイテッド航空232便不時着事故(ユナイテッドこうくう232びんふじちゃくじこ、英語: United Airlines Flight 232)は、1989年7月19日に、ユナイテッド航空の旅客便が飛行中に殆ど制御不能に陥り、アメリカ合衆国のスー・ゲートウェイ空港に緊急着陸を試みて大破炎上した航空事故である。
チャットgpt先生の7月19日のエッセイ
7月19日――「勝敗は戦場で決まり、その後の記憶は政治が決める」
7月19日を眺めると、一つの構造が見えてくる。
この日に並ぶ出来事は、太平天国の終焉、普仏戦争の開戦、寛城子事件、沖縄戦後の混乱、渋谷事件、ユナイテッド航空232便事故である。一見無関係に見えるが、共通するのは「制度が限界に達した瞬間、人間社会は暴力・混乱・即興へ戻る」という現実である。
1864年、太平天国は南京陥落によって事実上終焉した。十四年間続いた戦争は二千万人を超える犠牲者を出したとも推計される。軍隊同士の勝敗だけでは説明できない。飢餓、疫病、住民虐殺、都市崩壊が死者の大半を占める。近代以前の戦争では、兵士より民間人が圧倒的に多く死ぬ構造が既に完成していたのである。
六年後の1870年、普仏戦争が始まる。ここでは鉄道、電信、参謀本部制度が決定的な役割を果たした。戦術よりも国家全体の動員能力が勝敗を左右する時代へ入った。フランス軍は勇敢さで劣ったわけではない。プロイセンが国家そのものを巨大な軍事機械として組み立てていたことが勝因だった。近代戦とは英雄の戦争ではなく、組織設計の戦争なのである。
1919年の寛城子事件も同じ構造を持つ。五十名ほどの日本守備隊が千五百名規模の中国軍と衝突した。人数差だけ見れば敗北は当然である。しかし事件後に確認された遺体の損傷は、単なる軍事衝突ではなく感情が暴力へ転化した典型例だった。戦場では敵兵は「人間」ではなく「敵」という記号へ変化する。だから戦闘終了後でも残虐行為は止まらない。これは民族性ではなく、多くの戦争で繰り返される普遍的構造である。
1945年7月19日の沖縄は、さらに複雑である。
一般には「住民被害」という視点で語られることが多い。しかし実際には、戦闘終了後も社会は戦争状態の延長線上にあった。
証言にあるように、人々は何十キロも歩いて食糧を運び、途中で没収され、敗残兵に分け与えるか葛藤し、女性は性暴力を恐れて山道を夜に移動するようになる。これは国家も市場も警察も十分機能しない社会では、ごく自然に発生する現象である。
沖縄戦は米軍の圧倒的物量だけで説明できる戦いではない。
米軍は制空権・制海権・砲兵・補給・工兵・航空支援の全てで世界最高水準だった。それでも攻略には予想を大きく超える時間と損害を要した。日本軍は戦略的勝利の可能性を持たなかったが、防御陣地、地下壕、逆斜面配置、持久戦によって米軍を史上最大級に苦しめた戦闘の一つとなった。
このため米軍自身も、沖縄を本土決戦の縮図として分析し、本土侵攻計画に莫大な損害予測を反映させている。
一方で、日本側にも暗部は存在した。
軍命による住民統制、自決の強制・誘導、食糧徴発、防諜活動などがあり、住民が軍事組織に組み込まれた現実は否定できない。
しかし、それだけでも全体像にはならない。
米軍側にも捕虜となった住民への報復殺害、投降者への誤射・射殺、性的暴力、略奪など、占領軍として公表されにくかった事例が存在する。個々の証言には史料批判が必要だが、「勝者にも戦争犯罪は存在する」という構造自体は、第二次世界大戦全体を見れば例外ではない。
戦後、日本ではGHQプレスコードによって占領軍への否定的報道は厳しく制限された。そのため、日本軍の加害は比較的多く共有され、連合軍側の負の側面は長く周辺へ追いやられた。一方で戦後保守側では逆に日本側だけを正当化する傾向も生まれた。
どちらも戦争を全体として理解するには不十分である。
戦争とは善悪の物語ではなく、「極限状態では全ての組織が一定確率で残虐化する」という人間社会の現象として見るほうが実態に近い。
1946年の渋谷事件も、終戦から一年後でありながら、その延長線上にあった。
警察だけでは秩序を維持できず、暴力団が半ば治安機関として動員される。占領軍が最終的な権力を持ち、各民族コミュニティも独自に武装する。国家権力が完全には回復していない社会では、暴力市場が空白を埋める。この構図は世界中の戦後地域で何度も繰り返されてきた。
1989年のユナイテッド航空232便事故は性質が異なるように見える。
しかし、ここでも重要なのは構造である。
エンジン破損によって通常の操縦系統をすべて失った航空機は、本来なら制御不能だった。それでも乗員は左右エンジン推力だけで操縦し、多数の命を救った。
つまり、設計の想定外でも、人間は即興で新しいシステムを構築できることを示した事故だった。
7月19日に並ぶ出来事を俯瞰すると、歴史は英雄や悪人によって動くよりも、「制度が崩壊した時に何が代わりを埋めるか」という構造で説明できる。
巨大宗教国家が崩壊すれば飢餓が広がる。近代国家が成熟すれば動員能力が勝敗を決める。国境では憎悪が残虐行為へ変わる。戦場では兵士も住民も極限状態に置かれる。国家が弱まれば暴力組織が空白を埋める。そして機械が壊れても、人間は最後まで新しい秩序を作ろうとする。
歴史の表面に残るのは勝者の記録である。しかし、その下で社会を動かしている構造は、時代が変わっても驚くほど変わらないのである。

