kagamimochi-nikki 加賀美茂知日記
慶祝と美とグノ-シスの弥増す日々
日々の過去の出来事

今日という日6月15日  1944サイパンの戦い7月9日まで、写真wikipedia海兵隊員上陸

6月15日

20260615月曜日旧暦5月1日大安(57番庚申かのえさるコウシン)月齢 0

43番丙午ひのえうま年 30番癸巳みずのとみ年月 57番庚申かのえさる日

吉方位 陽遁日 庚申かのえさる日 北東 大吉 年末まであと199日

https://ja.wikipedia.org/wiki/6%E6%9C%8815%E6%97%A5

6月15日の出来事

1189年(文治5年閏4月30日) – 衣川の戦い: 源義経追捕の宣旨により藤原泰衡が衣川館を襲う。源義経は自害。

1864年 – 南北戦争: リッチモンド・ピータースバーグ方面作戦が始まる。

時             1864年6月15日 – 1865年3月25日

場所        バージニア州ピーターズバーグ

結果        北軍の勝利

損害  北軍 53386人戦死 南軍 30000人戦死

1904年 – 日露戦争: 常陸丸事件が起こる。輸送船常陸丸ほかロシアに撃沈される。1334人死亡。

1904年 – ニューヨークの遊覧船ジェネラル・スローカムがイースト川で火災。1,031人が死亡。

1944年 – 第二次世界大戦: アメリカ合衆国軍がサイパン島への上陸を開始し、サイパンの戦いが始まる。

年月日:1944年6月15日から7月9日

場所:マリアナ諸島、サイパン

結果:アメリカの勝利

戦力

日本 40000人(陸軍30000+海軍10000)

米軍 160000人(内上陸部隊70000)

損害 

日本 戦死35000+自決5000=40000 つまり全滅 致死率100%

米軍 戦死3500 戦傷13000 合計16500 死傷率 10% 

サイパンの戦い(サイパンのたたかい)は太平洋戦争中の1944年6月15日から7月9日にかけてサイパン島で行われた、アメリカ軍と日本軍の戦闘。

斎藤義次中将が指揮する第43師団を主力とした日本軍が守備するサイパン島に、ホーランド・スミス中将指揮のアメリカ軍第2海兵師団、第4海兵師団、第27歩兵師団(英語版)が上陸し、戦闘の末に日本軍は全滅した。このサイパンの戦いにともない、海上ではマリアナ沖海戦(6月19日 – 20日)が発生した。

1945年―沖縄戦6月15日:米軍:・「沖縄戦は峠を越した。あとは最後の追い込み戦だけだ」

バックナー中将は、6月15日、沖縄戦をこう観測した。米軍戦線の将兵も、牛島中将の第32軍の崩壊が、差し迫っているのを感じとっていた。それは、何も日本軍の一人一人の戦意におとろえが見えた、というのではなく、日本軍の戦争遂行に必要な物資が尽き、部隊間の協調や連絡がきかず、さらには兵器を十分に利用し得ない、という点に現れていた。全体としてみて、十分といえる抗戦力は、日本軍にはもうなかったのだ。《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 495頁より》・…朝、われわれは与座岳にいる第1連隊第1大隊の救援に向かった。道沿いを進むうちに、枝が残らず砲弾に吹き飛ばされたやせた木の横を通った。その木には通信用電線が何本もさまざまな角度で引っかかっており、大きなモップを逆さに立てたように見えた。私と前を行く兵士とのあいだを銃弾が唸りを生じて跳ね飛び、道ばたの乾いた茂みに突っ込んで、わずかな砂塵を巻き上げた。またあの人肉粉砕機の中に逆戻りするのか。そう思いながら、激しい銃声や砲声の轟く山腹へと登っていった。

与座岳はいかにも恐ろしげに見えた。…右手に国吉丘陵、左手には八重瀬岳の急斜面が見える。陸軍の戦車隊が、機関銃や75ミリ砲の攻撃をかいくぐって、八重瀬岳に肉薄しようとしていた。われわれが与座岳で散発的な反撃を受けているころ、国吉では第5連隊第2大隊が第7連隊に加わって、丘陵の残りを制圧すべく過酷な戦闘に挑んでいた。日本軍の砲座や洞窟は猛烈な砲撃にさらされた。《「ペリリュー・沖縄戦記」(ユージン・B・スレッジ: 伊藤真/曽田和子 訳 /講談社学術文庫) 443-444頁》・B-29スーパーフォートレス用滑走路の建設

… 沖縄は、日本本土への最終攻撃のための広大な空軍、海軍、地上軍の基地となることが期待されていた。上陸直後、GHQ 太平洋陸軍 (AFPAC) の主任技術者が偵察を行い、すでに予定されていた大規模な飛行場建設計画に、超重爆撃機の基地を追加することを提案した。全部で26の航空工兵大隊が降伏前に沖縄に到着し、陸軍建設部隊と海軍建設大隊とともにAFPACの指揮の下で任務に就いた。… 沖縄に到着すると、経験豊富な航空技術者の多くは、まず快適なキャンプを慎重に確保し、飛行場建設に備えて整地を開始し、採石場を開き、アスファルト工場を設置した。7月に始まり、戦争が終わる頃には沖縄は恐るべき基地へと変貌しつつあった。<Army Air Forces in WWII: Volume VII: Services Around the World [Chapter 10]>:日本軍:・大本営に対し沖縄への「一大航空攻撃」を具申するために東京へと派遣されることになった神 (じん) 直道航空参謀は、5月30日、防衛隊員として召集されていた糸満の漁夫6人が漕ぐ刳舟で沖縄島から脱出し、6月9日ごろまでには、徳之島に到着した。その後、神参謀は東京を目指し、16日、ついに大本営にて報告に至る。しかし沖縄住民を盾にした第32軍の持久戦のただなかにあっても、大本営の沖縄戦への関心はすでに冷ややかなものだった。6月15日、見事に大本営にいたり沖縄の戦況を報告するが、そこで初めて大本営が沖縄作戦を「本土決戦」にきりかえたのを知り愕然とした。<引用サイト原注>・2日後、神参謀は、長参謀長から「追腹を切る覚悟を以って航空出撃を強調すべし」という親展電報を受け取った。そして約2時間ものあいだ大本営に航空軍の出撃を懇願したが、彼がえたのは「この期に及んで出撃強請とは何事か」という冷たい答えだけであった。《写真記録「これが沖縄戦だ」(大田昌秀 編著/琉球新報社) 129頁より》・永岡隊に看護要員として加わった県立第一高等女学校生の翁長安子 (15歳) さん証言

その後、私たちは糸洲の壕にとどまることが出来なくなりました。キビ畑でキビを取っている人、芋を掘っている人も、戦車、火炎放射器で焼かれていきました。避難民も、どこに逃げればよいのか、道なのか、畑なのか、人の群れなのかわからないほど、昼間は身動きできません、夕方になると避難民の人の波で一杯になりました。避難民の様子も様々です。おぶっている子が生きているのか、死んでいるのか、わからないような状態です。お爺さんが、もっこの一方には死んだ子供を、もう一方には鍋釜を乗せて移動している。道端には、死んだお母さんのおっぱいを吸う子ども。もう、表現のしようがありません。木の枝には、爆弾で吹き飛ばされた死体がぶら下がっている。あの情景は言葉では表現できなくて、本当に人間の行動の醜さというんですか、弾が人間を皆殺しにするというような情景は表現できません。《広島市立大学 翁長安子さん講話記録 (2019年) pdf 》・摩文仁付近には多くの自然壕があり、そこには民間人も数多くいた。夕方になると…水くみ場には多くの人たちが集まって来た。艦砲射撃も〝休息〟に入り、戦場でわずかに許されたのどかな時間だった。それがある日を境に一変した。

県出身将校の証言:

「6月の15、6日ごろだと思うが、水くみ場に集まるのを米軍が知って初めて艦砲射撃を受けた。多数の犠牲者が出て、住民もその時から他へ移動を始めた」

琉球新報・戦禍を掘る「32軍司令部壕」 (1984年) – Battle of Okinawa

翌日また水くみに行ったらね、泉の周辺は全部死体だった。頭を井戸の中に突っ込んで血だらけの水になっていた。<未来に伝える沖縄戦>命懸けの井戸の水くみ 吉嶺全一さん(81)下 – 琉球新報

1963年 – 坂本九の「上を向いて歩こう (SUKIYAKI)」がアメリカのヒットチャートビルボードの週間ランキングで1位を獲得。

—————-  

1189年(文治5年閏4月30日) – 衣川の戦い: 源義経追捕の宣旨により藤原泰衡が衣川館を襲う。源義経は自害。

五百騎と十数人 義経と妻子の自害。武蔵坊弁慶、亀井重清、鈴木重家ら郎党の戦死、自害。

1864年 – 南北戦争: リッチモンド・ピータースバーグ方面作戦が始まる。

時             1864年6月15日 – 1865年3月25日

場所        バージニア州ピーターズバーグ

結果        北軍の勝利

損害  北軍 53386人戦死 南軍 30000人戦死

リッチモンド・ピーターズバーグ方面作戦(リッチモンド・ピーターズバーグほうめんさくせん、英:Richmond-Petersburg Campaign、またはピーターズバーグ包囲戦、英Siege of Petersburg)は、南北戦争の1864年6月9日から1865年3月25日にかけて、バージニア州ピーターズバーグ周辺で行われた一連の戦闘である。一般にはピーターズバーグ包囲戦と呼ばれるが、町が完全に包囲されて補給も遮断されるような古典的な包囲戦ではなく、ピーターズバーグに限定した戦いでも無かった。これは9ヶ月を超える塹壕戦であり、ユリシーズ・グラント中将が率いる北軍がピーターズバーグを攻めあぐねた結果、塹壕線を構築して、最終的に町の東の郊外から始まり東部と南部の郊外を囲む30マイル (48 km)にも及ぶ戦線が形成された。ピーターズバーグは南軍のロバート・E・リー将軍とアメリカ連合国の首都リッチモンドにとって重要な補給拠点であった。ピーターズバーグを通ってリッチモンドに至る鉄道を遮断するために数多の攻勢が実施され、この多くが塹壕線の延伸をもたらし、アメリカ連合国の物資窮乏に拍車を掛けた。

リーは最終的に圧力に屈した。1865年3月25日には補給線が遂に切断されて本当の包囲戦が始まり、このためリーは1865年4月にはリッチモンドとピーターズバーグを放棄し、これは更なる撤退とアポマトックス・コートハウスにおける降伏に繋がった。ピーターズバーグ包囲戦は第一次世界大戦で常態化した塹壕戦の先例として軍事史の中で特筆される。また南北戦争の中でアフリカ系アメリカ人の兵士を最も大量に投入した戦いであり、彼らはクレーターの戦いやチャフィン農園の戦いなどで大きな犠牲を出した。

1904年 – 日露戦争: 常陸丸事件が起こる。輸送船常陸丸ほかロシアに撃沈される。1334人死亡。

常陸丸事件(ひたちまるじけん)とは、日露戦争中の1904年(明治37年)6月15日に玄界灘を西航中の陸軍徴傭運送船3隻が、ロシア帝国海軍ウラジオストク巡洋艦隊(ウラジオ艦隊)所属の3隻の装甲巡洋艦、「ロシア」、「リューリク」および「グロモボーイ」によって相次いで攻撃され、降伏拒否などにより撃沈破された事件である。特に、陸軍徴傭運送船「常陸丸」(日本郵船、6,172トン)の喪失は日本の国内世論を憤激させ、連合艦隊、特に日本海の海上警備を担当していた上村彦之丞中将の第二艦隊に対して非難の声が向けられることとなり、第二艦隊は事件から2か月後の8月14日に起こった蔚山沖海戦でウラジオ艦隊を事実上壊滅させるまでの間、強い批判にさらされた。

1904年 – ニューヨークの遊覧船ジェネラル・スローカムがイースト川で火災。1,031人が死亡。

ジェネラル・スローカム (General Slocum) は、アメリカ合衆国、ニューヨーク港を回っていた遊覧船。就航中に何度も座礁や衝突を起こしていたが、1904年6月15日にイースト川で火災を起こし、1031人が死亡した。

1944年 – 第二次世界大戦: アメリカ合衆国軍がサイパン島への上陸を開始し、サイパンの戦いが始まる。

年月日:1944年6月15日から7月9日

場所:マリアナ諸島、サイパン

結果:アメリカの勝利

戦力

日本 40000人(陸軍30000+海軍10000)

米軍 160000人(内上陸部隊70000)

損害 

日本 戦死35000+自決5000=40000 つまり全滅 致死率100%

米軍 戦死3500 戦傷13000 合計16500 死傷率 10% 

サイパンの戦い(サイパンのたたかい)は太平洋戦争中の1944年6月15日から7月9日にかけてサイパン島で行われた、アメリカ軍と日本軍の戦闘。

斎藤義次中将が指揮する第43師団を主力とした日本軍が守備するサイパン島に、ホーランド・スミス中将指揮のアメリカ軍第2海兵師団、第4海兵師団、第27歩兵師団(英語版)が上陸し、戦闘の末に日本軍は全滅した。このサイパンの戦いにともない、海上ではマリアナ沖海戦(6月19日 – 20日)が発生した。

1945年―沖縄戦6月15日:米軍:・「沖縄戦は峠を越した。あとは最後の追い込み戦だけだ」

バックナー中将は、6月15日、沖縄戦をこう観測した。米軍戦線の将兵も、牛島中将の第32軍の崩壊が、差し迫っているのを感じとっていた。それは、何も日本軍の一人一人の戦意におとろえが見えた、というのではなく、日本軍の戦争遂行に必要な物資が尽き、部隊間の協調や連絡がきかず、さらには兵器を十分に利用し得ない、という点に現れていた。全体としてみて、十分といえる抗戦力は、日本軍にはもうなかったのだ。《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 495頁より》・…朝、われわれは与座岳にいる第1連隊第1大隊の救援に向かった。道沿いを進むうちに、枝が残らず砲弾に吹き飛ばされたやせた木の横を通った。その木には通信用電線が何本もさまざまな角度で引っかかっており、大きなモップを逆さに立てたように見えた。私と前を行く兵士とのあいだを銃弾が唸りを生じて跳ね飛び、道ばたの乾いた茂みに突っ込んで、わずかな砂塵を巻き上げた。またあの人肉粉砕機の中に逆戻りするのか。そう思いながら、激しい銃声や砲声の轟く山腹へと登っていった。

与座岳はいかにも恐ろしげに見えた。…右手に国吉丘陵、左手には八重瀬岳の急斜面が見える。陸軍の戦車隊が、機関銃や75ミリ砲の攻撃をかいくぐって、八重瀬岳に肉薄しようとしていた。われわれが与座岳で散発的な反撃を受けているころ、国吉では第5連隊第2大隊が第7連隊に加わって、丘陵の残りを制圧すべく過酷な戦闘に挑んでいた。日本軍の砲座や洞窟は猛烈な砲撃にさらされた。《「ペリリュー・沖縄戦記」(ユージン・B・スレッジ: 伊藤真/曽田和子 訳 /講談社学術文庫) 443-444頁》・B-29スーパーフォートレス用滑走路の建設

… 沖縄は、日本本土への最終攻撃のための広大な空軍、海軍、地上軍の基地となることが期待されていた。上陸直後、GHQ 太平洋陸軍 (AFPAC) の主任技術者が偵察を行い、すでに予定されていた大規模な飛行場建設計画に、超重爆撃機の基地を追加することを提案した。全部で26の航空工兵大隊が降伏前に沖縄に到着し、陸軍建設部隊と海軍建設大隊とともにAFPACの指揮の下で任務に就いた。… 沖縄に到着すると、経験豊富な航空技術者の多くは、まず快適なキャンプを慎重に確保し、飛行場建設に備えて整地を開始し、採石場を開き、アスファルト工場を設置した。7月に始まり、戦争が終わる頃には沖縄は恐るべき基地へと変貌しつつあった。<Army Air Forces in WWII: Volume VII: Services Around the World [Chapter 10]>:日本軍:・大本営に対し沖縄への「一大航空攻撃」を具申するために東京へと派遣されることになった神 (じん) 直道航空参謀は、5月30日、防衛隊員として召集されていた糸満の漁夫6人が漕ぐ刳舟で沖縄島から脱出し、6月9日ごろまでには、徳之島に到着した。その後、神参謀は東京を目指し、16日、ついに大本営にて報告に至る。しかし沖縄住民を盾にした第32軍の持久戦のただなかにあっても、大本営の沖縄戦への関心はすでに冷ややかなものだった。6月15日、見事に大本営にいたり沖縄の戦況を報告するが、そこで初めて大本営が沖縄作戦を「本土決戦」にきりかえたのを知り愕然とした。<引用サイト原注>・2日後、神参謀は、長参謀長から「追腹を切る覚悟を以って航空出撃を強調すべし」という親展電報を受け取った。そして約2時間ものあいだ大本営に航空軍の出撃を懇願したが、彼がえたのは「この期に及んで出撃強請とは何事か」という冷たい答えだけであった。《写真記録「これが沖縄戦だ」(大田昌秀 編著/琉球新報社) 129頁より》・永岡隊に看護要員として加わった県立第一高等女学校生の翁長安子 (15歳) さん証言

その後、私たちは糸洲の壕にとどまることが出来なくなりました。キビ畑でキビを取っている人、芋を掘っている人も、戦車、火炎放射器で焼かれていきました。避難民も、どこに逃げればよいのか、道なのか、畑なのか、人の群れなのかわからないほど、昼間は身動きできません、夕方になると避難民の人の波で一杯になりました。避難民の様子も様々です。おぶっている子が生きているのか、死んでいるのか、わからないような状態です。お爺さんが、もっこの一方には死んだ子供を、もう一方には鍋釜を乗せて移動している。道端には、死んだお母さんのおっぱいを吸う子ども。もう、表現のしようがありません。木の枝には、爆弾で吹き飛ばされた死体がぶら下がっている。あの情景は言葉では表現できなくて、本当に人間の行動の醜さというんですか、弾が人間を皆殺しにするというような情景は表現できません。《広島市立大学 翁長安子さん講話記録 (2019年) pdf 》・摩文仁付近には多くの自然壕があり、そこには民間人も数多くいた。夕方になると…水くみ場には多くの人たちが集まって来た。艦砲射撃も〝休息〟に入り、戦場でわずかに許されたのどかな時間だった。それがある日を境に一変した。

県出身将校の証言:

「6月の15、6日ごろだと思うが、水くみ場に集まるのを米軍が知って初めて艦砲射撃を受けた。多数の犠牲者が出て、住民もその時から他へ移動を始めた」

琉球新報・戦禍を掘る「32軍司令部壕」 (1984年) – Battle of Okinawa

翌日また水くみに行ったらね、泉の周辺は全部死体だった。頭を井戸の中に突っ込んで血だらけの水になっていた。<未来に伝える沖縄戦>命懸けの井戸の水くみ 吉嶺全一さん(81)下 – 琉球新報

1963年 – 坂本九の「上を向いて歩こう (SUKIYAKI)」がアメリカのヒットチャートビルボードの週間ランキングで1位を獲得。

チャットgpt先生の6月15日のエッセイ


6月15日――「消耗戦の現実」

6月15日という日は、不思議なほど「長期的な消耗戦」と結びついている。

1189年、衣川で源義経は滅ぶ。

英雄譚として語られることが多いが、現実には奥州藤原氏が生き残りを図った結果である。藤原泰衡にとって義経は保護すべき客人ではなく、鎌倉政権との対立を招く戦略的負債となった。忠義や友情より、権力構造が優先された。

歴史はしばしばこう動く。


1864年6月15日にはピーターズバーグ方面作戦が始まる。

これは南北戦争版の第一次世界大戦だった。

両軍は塹壕を掘り、補給線を巡り、9か月以上にわたり消耗を続ける。

戦術的な華々しい勝利より、

「相手の補給能力を先に枯らした方が勝つ」

という近代戦の原則が露骨に現れた戦いだった。

最終的に南軍は兵士不足ではなく、鉄道・食料・弾薬不足によって敗北する。

戦場での勇敢さだけでは国家総力戦には勝てない。


1904年の常陸丸事件も同じ構図である。

撃沈された輸送船そのものより重要なのは、輸送能力が攻撃対象になったことだった。

近代戦においては前線の兵士よりも、

「兵士を前線へ送り続ける仕組み」

の方が重要になる。

兵站を破壊された軍隊は戦う前に敗北する。

後の大戦で潜水艦戦や戦略爆撃が重視される理由もここにある。


同じ1904年のジェネラル・スローカム火災も興味深い。

事故原因は火災だけではない。

救命胴衣の腐敗、避難訓練不足、管理体制の欠陥。

つまり災害の本質は火ではなくシステムの崩壊だった。

大規模事故の多くは一つのミスでは起こらない。

複数の欠陥が同時に重なった時に起こる。


そして1944年6月15日。

サイパン島への米軍上陸。

ここで太平洋戦争は決定的段階に入る。

日本軍守備隊はほぼ壊滅する。

だが米軍も決して楽な戦いではなかった。

サイパンで米軍が得たのは勝利以上のものだった。

「日本軍は補給が尽きても降伏しない」

という現実認識である。

以後の沖縄戦計画にも大きな影響を与える。


そして1945年6月15日。

沖縄戦は最終局面に入る。

一般には米軍圧勝、日本軍惨敗として理解される。

しかし戦史的に見ると、それだけでは実態を捉えきれない。

沖縄戦は米軍にとって太平洋戦争最大級の苦戦だった。

ノルマンディー上陸以後の西部戦線を含めても、米軍地上部隊がこれほど長期間にわたり損害を出し続けた戦闘は多くない。

米軍は制海権、制空権、火力、補給力のすべてを持っていた。

それでも日本軍は洞窟陣地と地下陣地によって抵抗を続けた。

砲撃しても消えない。

爆撃しても消えない。

占領したと思った地点から再び射撃を受ける。

米軍兵士の回想録には「人肉粉砕機」「地獄」「悪夢」という表現が頻繁に登場する。

物量優位があっても、地形と陣地構築がそれを相殺したのである。


ただし、日本軍が戦術的に成功していたかといえば別問題である。

戦略的には敗北していた。

補給は枯渇し、通信は断絶し、航空支援も海軍支援もほぼ存在しなかった。

兵士たちは戦い続けたが、戦争を継続するためのシステムは既に崩壊していた。

バックナー中将が6月15日に感じた「勝敗は決した」という認識は、その意味では正しかった。

個々の日本兵は戦えても、軍隊全体は戦えなくなっていた。


沖縄戦を語る際、民間人問題も避けられない。

ここでは善悪ではなく構造で見るべきだろう。

日本軍は住民を後方へ避難させる能力を失っていた。

一方で米軍に投降する住民も増えていた。

この状況は日本軍にとって重大な軍事問題となる。

住民が米軍に保護されれば、日本軍陣地や部隊配置に関する情報が流出する可能性がある。

結果として、一部では投降者や捕虜化した住民への報復殺害が発生した。

現代の価値観から見れば非人道的行為である。

しかし軍事史的には、

「崩壊しつつある組織が情報漏洩を恐れて内部統制を強化する」

という現象として理解できる。

革命、内戦、包囲戦でも繰り返し見られる構造である。

これは正当化ではなく、発生理由の分析である。


同時に米軍も純粋な解放者ではなかった。

沖縄を占領後の対日侵攻基地として利用する構想は早くから存在した。

飛行場建設、港湾整備、大規模兵站基地建設は戦闘中から進められている。

米軍にとって沖縄は沖縄そのものが目的ではない。

日本本土攻略の発射台だった。

その意味では沖縄住民も日本軍兵士も、巨大な戦略構想の中に組み込まれた存在だった。


6月15日を眺めると、衣川もピーターズバーグもサイパンも沖縄も共通点が見えてくる。

勝敗を決めるのは英雄の勇気だけではない。

補給、輸送、組織、情報、工業力。

そして、それらが崩壊した瞬間に戦局は決まる。

人は最後まで戦える。

だが組織は最後まで戦えない。

6月15日に起きた多くの出来事は、その冷徹な事実を示している。

歴史を動かしたのは勇敢さだけではなく、消耗に耐える能力だったのである。