5月6日
20260506水曜日旧暦3月20日仏滅(17番庚辰かのえたつコウシン)月齢 18.6
43番丙午ひのえうま年 30番癸巳みずのとみ月 17番庚辰かのえたつ日
吉方位 陽遁日 庚辰かのえたつ日 年末まではあと239日
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5月6日の出来事
1542年 – フランシスコ・ザビエルがポルトガル領インドの首府ゴアに到達。
1757年 – 七年戦争: プラハの戦い。戦争:七年戦争 年月日:1757年5月6日 場所:現チェコ、プラハ城外 結果:プロイセンの勝利 損害:双方6万人強の軍にて プロイセン14000人死傷 オーストリア12000人死傷 5000人捕虜。
1935年 – 北海道赤平市の茂尻炭鉱でガス爆発事故。死者・行方不明者94人[1]。
1937年 – ドイツの飛行船ヒンデンブルク号爆発事故。乗員・乗客35人と地上の作業員1名、合計36名が死亡し多くの乗客が重傷を負った。
1945年 – 第二次世界大戦: ナチス・ドイツで連合国向けプロパガンダ放送をしていた枢軸サリーことミルドレッド・エリザベス・シスクが最後の放送を行う。
1945年沖縄戦5月6日-米軍:米軍は、沖縄戦で占領した北(読谷)、中(嘉手納)、伊江島飛行場を整備し、そこから米軍機を飛ばし、南西諸島全域や九州方面の爆撃を実施した。また、航空機に魚雷を搭載し、日本海軍艦船を攻撃した。・情報戦『琉球週報』5月6日の「琉球週報・第二号」では、ヒトラーの殺害から沖縄戦の戦況、また4月28日に米軍の捕虜収容所でおこなわれた日本将兵と沖縄人女性のプロパガンダ結婚式が写真入りで掲載された。・情報戦のビラ制作は、投降した捕虜からの反応と投降者数の統計をフィードバックしながら進められ、その後の米軍の心理戦略 (psyop) の足掛かりとなった。・日本軍第32軍も司令部壕近くの「留魂壕」において印刷所と新聞社「沖縄新報」、また学徒「千早隊」を抱えていた。・あなた方の空母 70%、 戦艦の73%が沈没し、15万人 が死傷したのをご存じでしょう。 亡くなられた大統領のみならず、(米軍の) 誰でもが、こうした壊滅的な損害を聞き、悩み苦しみのあまり死んでいくでしょう。・日本軍の誇張された誤情報は、フィードバックのない閉じられた日本社会の情報環境とは異り、米軍内では末端の米軍兵士にも通用しないものであった。・5月6日の夜は明けた。第307連隊の全大隊が、いまや187高地に南側から隊伍をととのえて進撃していった。浦添丘陵の戦闘はついに終わったのである。… 浦添丘陵での米軍の損害は大きかった。36時間もつづいた一回の戦闘で、第307連隊の第1大隊は、少なくとも8名の中隊長を失ったこともあった。また、4月29日、800名で丘陵を攻めたてた部隊が、戦いすんで、5月7日に、丘をおりるときは、324名に減っていることもあった。だが、この戦いで日本軍は推定3千の兵を失ったのである。《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 296頁より》・5月2日の夜、第32軍が決定した総攻撃計画は、3日の夜に「戦勝前祝会」の酒宴が持たれるが、その総攻撃の結果として兵力は四分の三にまで減じ、5日、持久戦に舞いもどった。
1976年 – イタリアでフリウリ地震が発生。死者は990人だった
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1542年 – フランシスコ・ザビエルがポルトガル領インドの首府ゴアに到達。
フランシスコ・ザビエル(スペイン語: Francisco de Xavier または Francisco de Jasso y Azpilicueta, 1506年4月7日 – 1552年12月3日[1])は、スペインのナバラ王国生まれのカトリック教会の司祭、宣教師。イエズス会の創設メンバーの1人。バスク人
ポルトガル王ジョアン3世の依頼でインドのゴアに派遣され、その後1549年(天文18年)に日本に初めてキリスト教を伝えたことで特に有名である。また、日本やインドなどで宣教を行い、聖パウロを超えるほど多くの人々をキリスト教信仰に導いたといわれている。カトリック教会の聖人で、記念日は12月3日。
当初より世界宣教をテーマにしていたイエズス会は、ポルトガル王ジョアン3世の依頼で、会員を当時ポルトガル領だったインド西海岸のゴアに派遣することになった。しかし、当初派遣される予定だったニコラス・ボバティリャとシモン・ロドリゲスのうち前者が出発直前に熱病にかかったため、急遽代わりの宣教師として、当時ロヨラの秘書で布教先が未定だったザビエルに白羽の矢が立った。ザビエルはインドに行くことを即座に承諾し、1540年3月15日に慌ただしくローマを出発した。ザビエルは先に出発していたシモン・ロドリゲスとともにポルトガル経由でインドに発つ予定であったが、ロドリゲスがリスボンで引き止められたため、彼は他の3名のイエズス会員(ミセル・パウロ、フランシスコ・マンシリアス、ディエゴ・フェルナンデス)とともに1541年4月7日にリスボンを出発した(ちなみにこの日は彼の35歳の誕生日である)。8月にアフリカのモザンビークに到着、秋と冬を過して1542年2月に出発、5月6日ゴアに到着。そこを拠点にインド各地で宣教し、1545年9月にマラッカ、さらに1546年1月にはモルッカ諸島に行き宣教活動を続け、多くの人々をキリスト教に導いた。マラッカに戻り、1547年12月に出会った鹿児島出身の武士ヤジロウ(アンジロー〈音訳 安次郎〉)はザビエルに日本に来るようにすすめた。[4]
1757年 – 七年戦争: プラハの戦い。戦争:七年戦争 年月日:1757年5月6日 場所:現チェコ、プラハ城外 結果:プロイセンの勝利 損害:双方6万人強の軍にて プロイセン14000人死傷 オーストリア12000人死傷 5000人捕虜。
プラハの戦い(ドイツ語: die Schlacht von Prag, Schlacht bei Šterboholy, チェコ語: bitva u Štěrbohol, bitvou u Prahy)は、1757年5月6日にプラハ城外で行われた、七年戦争におけるプロイセン軍とオーストリア軍との会戦である。プロイセン軍が勝利した。
1935年 – 北海道赤平市の茂尻炭鉱でガス爆発事故。死者・行方不明者94人[1]。
1937年 – ドイツの飛行船ヒンデンブルク号爆発事故。乗員・乗客35人と地上の作業員1名、合計36名が死亡し多くの乗客が重傷を負った。
ヒンデンブルク号爆発事故(ヒンデンブルクごうばくはつじこ、Hindenburg Disaster)は、1937年5月6日にアメリカ合衆国ニュージャージー州マンチェスター・タウンシップにあるレイクハースト海軍飛行場で発生した、ドイツの硬式飛行船・LZ129 ヒンデンブルク号の爆発[1]・炎上事故を指す。
この事故で、乗員・乗客35人と地上の作業員1名、合計36名が死亡し多くの乗客が重傷を負った。映画、写真、ラジオなどの各メディアで広く報道されたことで、大型硬式飛行船の安全性に疑問が持たれ、飛行船時代に幕が降ろされるきっかけとなった。
1912年4月14日に起きたイギリスの豪華客船タイタニック号沈没事故、1986年1月28日に起きたアメリカのスペースシャトル・チャレンジャー号爆発事故などとともに、20世紀の世界を揺るがせた大事故の一つとして知られている。
1969年に発売されたレッド・ツェッペリンのデビューアルバム『レッド・ツェッペリン I』、1989年に発売された井上陽水のシングル『最後のニュース』の各ジャケットには、当該爆発事故の写真が使用されているほか、『最後のニュース』の歌詞中には、この事故を想起させるフレーズが折り込まれている。
1945年 – 第二次世界大戦: ナチス・ドイツで連合国向けプロパガンダ放送をしていた枢軸サリーことミルドレッド・エリザベス・シスクが最後の放送を行う。
枢軸サリー(すうじくサリー、Axis Sally、1900年11月29日 – 1988年6月25日)は、第二次世界大戦にドイツによって連合国向けに行われたプロパガンダ放送で、アナウンサーを務めた女性の、連合軍における通称である。本名はミルドレッド・エリザベス・シスク(Mildred Elizabeth Sisk)、あるいはミルドレッド・ギラース(Mildred Gillars)と言い、アメリカ・メイン州ポートランド出身である。
プロフィール
ミルドレッドは母の再婚に際して改名し、ニューヨークに移住。女優を夢見てオハイオ・ウェスリアン大学に入学し演劇を学んだが、挫折する。1935年、ドイツ・ベルリンの外国語学校で英語教師を務めた後、ベルリン放送に採用され、ナチス政権が崩壊するまでの間、女優・アナウンサーとしてナチスの宣伝活動に従事した。
その官能的なアナウンスは連合国軍の中でもよく知られた存在となり、彼女に「枢軸サリー」(Axis Sally、女性名である”Sally”には英語で「挑発」「からかい」も意味する)の異名を与えた。
彼女の有名な放送として、1944年5月11日、俗にD-Dayと呼ばれるノルマンディー上陸作戦の前に行われたラジオドラマが挙げられる。これはイギリス海峡の戦闘で息子を亡くす夢を見たアメリカ人の母親を描いたものである。その台詞には意味深なメッセージを込めてこうあった。
“The D of D-Day stands for doom… disaster… death… defeat… Dunkerque or Dieppe.”
「D-DayのD、それは運命、災難、死、敗北、ダンケルク、そしてディエップ・・・。」
戦後「枢軸サリー」は捕えられ、1948年アメリカに送還された。裁判で彼女は10件の容疑で反逆罪に問われた。このうち彼女は8つの訴因は否認した。検察側は「彼女がナチスに忠誠を誓うサインをし、国際赤十字の活動に従事するふりをして米兵の肉声を収集し、宣伝に活用した」と指摘した。これに対し弁護側は「彼女の放送は連合軍に否定的な内容であったが反逆罪を問うほどのものではない。ニューヨークの大学で知り合ったドイツ人の煽動に乗ったに過ぎない」と主張した。
特異なことに、彼女の裁判はわずか6週間を費やしただけで1949年3月8日に結審し、反逆罪としてはわずか1つの訴因のみ認められ懲役10年〜30年の判決を受けた。これは同様に反逆罪に問われ処刑された「ホーホー卿」ことウィリアム・ジョイスのケースとは好対照であった。
1959年に仮釈放が可能となったが、更に2年を経た後に釈放。その後は、オハイオ州コロンバスのカトリック学校で幼稚園児に音楽を教える傍ら、1973年には学位を取得するためにオハイオ・ウェスリアン大学に復学した。
1945年沖縄戦5月6日-米軍:米軍は、沖縄戦で占領した北(読谷)、中(嘉手納)、伊江島飛行場を整備し、そこから米軍機を飛ばし、南西諸島全域や九州方面の爆撃を実施した。また、航空機に魚雷を搭載し、日本海軍艦船を攻撃した。・情報戦『琉球週報』5月6日の「琉球週報・第二号」では、ヒトラーの殺害から沖縄戦の戦況、また4月28日に米軍の捕虜収容所でおこなわれた日本将兵と沖縄人女性のプロパガンダ結婚式が写真入りで掲載された。・情報戦のビラ制作は、投降した捕虜からの反応と投降者数の統計をフィードバックしながら進められ、その後の米軍の心理戦略 (psyop) の足掛かりとなった。・日本軍第32軍も司令部壕近くの「留魂壕」において印刷所と新聞社「沖縄新報」、また学徒「千早隊」を抱えていた。・あなた方の空母 70%、 戦艦の73%が沈没し、15万人 が死傷したのをご存じでしょう。 亡くなられた大統領のみならず、(米軍の) 誰でもが、こうした壊滅的な損害を聞き、悩み苦しみのあまり死んでいくでしょう。・日本軍の誇張された誤情報は、フィードバックのない閉じられた日本社会の情報環境とは異り、米軍内では末端の米軍兵士にも通用しないものであった。・5月6日の夜は明けた。第307連隊の全大隊が、いまや187高地に南側から隊伍をととのえて進撃していった。浦添丘陵の戦闘はついに終わったのである。… 浦添丘陵での米軍の損害は大きかった。36時間もつづいた一回の戦闘で、第307連隊の第1大隊は、少なくとも8名の中隊長を失ったこともあった。また、4月29日、800名で丘陵を攻めたてた部隊が、戦いすんで、5月7日に、丘をおりるときは、324名に減っていることもあった。だが、この戦いで日本軍は推定3千の兵を失ったのである。《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 296頁より》・5月2日の夜、第32軍が決定した総攻撃計画は、3日の夜に「戦勝前祝会」の酒宴が持たれるが、その総攻撃の結果として兵力は四分の三にまで減じ、5日、持久戦に舞いもどった。
1988年6月25日、老衰のため死去。87歳。
1976年 – イタリアでフリウリ地震が発生。死者は990人だった
チャットgpt先生の5月6日のエッセイ
5月6日という日付を並べてみると、華やかな出来事よりも「現実の重さ」が前面に出てくる。理想や理念より、現場の制約や偶然、そして物量や判断の差が結果を決めた一日だ。
16世紀、フランシスコ・ザビエルがゴアに到達した出来事は、宗教的情熱の象徴として語られることが多い。しかし実態は、ポルトガル王権の海上支配と交易ネットワークの延長線上にあった。宣教は精神の問題であると同時に、地政学と物流の産物でもある。海を越えられる者だけが「世界」を語れた時代、その現実的条件がまず先にあった。
18世紀のプラハの戦いも同様だ。戦術や勇敢さ以上に、兵站と指揮統制の差が勝敗を分けた。双方とも数万規模の損害を出しており、「勝利」とは消耗の上に成り立つ相対的な結果に過ぎないことがよく分かる。ここには英雄譚よりも、計算と誤算の積み重ねがある。
20世紀に入ると、その現実はさらに露骨になる。ヒンデンブルク号爆発事故は、技術楽観の終焉を象徴した。巨大飛行船はロマンの象徴だったが、水素というリスクを抱えたまま運用されていた。事故そのものより重要なのは、その後一気に「飛行船という選択肢」が消えた点だ。技術は一度の失敗で歴史から退場することがある。
そして同じく5月6日を含む局面としての沖縄戦。ここは理想論を排して見た方が実態に近い。
米軍は圧倒的な物量、制空権、制海権を持っていた。それでも戦闘は「簡単」には終わらなかった。理由は単純で、日本軍が徹底して防御に特化し、地形と地下陣地を最大限に利用したからだ。首里防衛線や浦添丘陵の戦闘は、機動戦ではなく消耗戦に引きずり込む設計だった。これは戦略的には敗北前提の遅滞戦術だが、戦術レベルでは非常に合理的でもある。
米軍側から見れば、火力優位がそのまま突破力に直結しない典型例だった。砲撃と爆撃で地表は制圧できても、地下壕や洞窟に潜る防御側を完全に無力化するには歩兵の接近が必要になる。その瞬間に損害が跳ね上がる。結果として、米軍は「勝ちながら消耗する」状態に置かれた。物量は勝利を保証するが、損害の大きさまでは保証しない。
一方、日本側は情報戦でも現実との乖離が大きかった。誇張された戦果や損害報告は、閉じた情報環境の中では維持できても、実際の戦場では機能しない。対照的に米軍は捕虜や現場データをもとに心理戦を更新し続けた。ここには単なる善悪ではなく、「フィードバックの有無」という構造的な差があった。
つまり沖縄戦は、「物量 vs 精神」という単純な図式ではない。物量側も苦しみ、精神側も現実に押し潰される。その中で、より現実に適応した側が最終的に上に立つ。米軍が勝利したのは物量だけでなく、補給・情報・戦術の更新を含めた総合力だった。一方で、その勝利が「楽勝」でなかったこともまた事実であり、むしろ太平洋戦争の中でも最もコストの高い戦闘の一つになった。
5月6日に並ぶ出来事を通して見えるのは、理想や物語ではなく「条件の積み重ね」で歴史が動くという事実だ。宗教も戦争も技術も、結局は現場の制約の中で形を変える。そこにロマンを見出すことはできるが、結果を決めるのはいつも冷徹な現実の側にある。

