kagamimochi-nikki 加賀美茂知日記
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今日という日5月31日 1970年ペルーのアンカシュ地震、ほか写真wikipedia壊滅的被害のユンガイ

5月31日

20260531日曜日旧暦4月15日赤口(42番乙巳きのとみイッシ)月齢 14.2

43番丙午ひのえうま年 30番癸巳みずのとみ月 42番乙巳きのとみ日

吉方位 陽遁日 乙巳きのとみ  南西 大吉 年末まであと214日

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5月31日の出来事

1223年 – チンギス・カンの西征: カルカ河畔の戦い。モンゴル帝国軍がキプチャク・ルーシ連合軍に勝利。ルーシ軍 35000人中戦死25000人。

1862年 – 南北戦争: セブンパインズの戦い。

時             1862年5月31日-6月1日

場所        バージニア州ヘンリコ郡

結果        決着付かず 

損害 4万対4万中 双方5千人以上の戦死傷。つまり合計10000人強の戦死者。

1921年 – タルサ人種虐殺が勃発。翌日までに沈静化。死亡者 推定人数75から100人または150から300人 (死亡報告書などが存在したのは39人)(2001年調査委員会)

1945年 – 第二次世界大戦: 台北大空襲。日本統治下の台湾・台北市を米軍機が無差別爆撃。死者3000人以上。

1945年沖縄戦5月31日戦いはまだ続く:米軍:・「牛島は首里戦線撤退にあたって船に乗り遅れた」・・バックナー中将は、5月31日、第32軍撃滅のために最後の追い込みをかけようと軍を再編しながらこういった。

「もう戦いはすんだ。あとは、あちこちにたてこもっている抵抗軍の掃討戦だ。だが、これは、もう激しい戦闘はないということではないが、敵は二度と戦線を確立することはできないだろうということだ」

ほかの将校たちも同じ意見だった。日本軍には、もう秩序だった撤退作戦を行う能力があるとは思っていなかったのだ。だが、こういう楽観論は、その後まもなく、まったく根拠のないものであることが証明された。日本軍は、みごとに首里を撤退し、ときをうつさず南部で新たな戦線を確立したということがわかってきた。(448頁)  《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 448、451頁より》・だが、… 5月31日の夜 …、第96師団と第7師団が … 進撃したときには、牛島中将の軍隊は、ひどい泥や、通信もきかない困難を克服して、みごとに撤退したあとだった … 。米軍は日本軍を分裂させようと思っていたが、それがみごとにはずれ、米軍将兵のあいだに明らかに失望の色が見えだした。そこで第10軍は作戦を変更せざるをえなくなり、第3上陸軍団には西海岸沿いを、第7師団には東海岸寄りを南進させることになった。(451頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 421、451頁より》・5月末における海兵2個師団の損害は、首里戦線での約ひと月近くの戦闘もふくめると、戦死1718人、負傷8852人、行方不明101人であった。また、第24軍団のほうでは、首里戦線を主とした2ヵ月間の戦闘で戦死2871人、負傷1万2千319人、行方不明183人をだした。陸軍第24軍団と第3上陸軍団の損害を合計すると、戦死傷者、行方不明者は、2万6044人であった。

…戦病者は数えきれぬほどだった。その多くが、神経病、つまり〝戦闘疲労症〟であった。この種の患者は、海兵2個師団で6315人、陸軍4個師団で7762人もあった。最大原因は、もちろん日本軍の猛烈な大砲や迫撃砲による集中砲撃だ。それは、米軍がこれまで太平洋戦争で経験したこともない、ものすごい量だった。このほかに、米兵の神経に障害を与えたものに、日本軍の狂信的な、しかもたえまなく行われる肉弾戦があった。《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 419頁より》:日本軍:

・… 5月の末までには、牛島中将麾下の沖縄守備隊の精鋭は、ほとんど撃滅されていた。… 報告によると、5月の末日までに日本軍の戦死者は、6万2548人を数えた。そのほか、推定9529人が、戦死していた。戦死者は北部戦線で3214人、伊江島で4856人でているのにくらべ、6万4千人が首里の第1防衛線、第2防衛線で戦死していると報告されていた。… こういう日本軍の損害についてに報告には、もちろん多少の誇張はあったろうが、沖縄の守備隊、なかでも歩兵の戦闘部隊が手ひどくやられたことは疑いない。ひかえ目にみても、日本軍の精鋭部隊が5月末までには、首里戦線で5千もやられたとみてよいだろう。また砲兵陣地にしても一門一門撃滅されたり、あるいは艦砲射撃、砲撃、または爆撃によって毎日毎日、目に見えて弱体化していった。《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 417-418頁より》・首里退却時の陸軍兵力は、主戦力であった第62師団(通称・石兵団、当初兵力・8315人)が3分の1強の2923に、同じく第24師団(同・山兵団、同1万4120)は6割の8567に激減していたほか、独混第44旅団3867、軍砲兵隊約3000、その他約5000、沖縄県民の防衛召集兵と鉄血勤皇隊約1万7000を加えても約4万。八原高級参謀は「退却中における損耗約1万、喜屋武陣地に集結し得た兵力は約3万と判定した。3万の兵は相当のものであるが、実質を検討すれば、軍の戦力は尽きたりと長大息せざるを得なかった」と告白している。それでもなお、彼は沖縄の軍・官・民を地獄の底へと引きずり込んだ。《「沖縄の島守 内務閣僚かく戦えり」(田村洋三/中央公論新社) 354頁より》

1970年 – ペルー北部でアンカシュ地震が発生。死者47,000人。

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1223年 – チンギス・カンの西征: カルカ河畔の戦い。モンゴル帝国軍がキプチャク・ルーシ連合軍に勝利。ルーシ軍 35000人中戦死25000人。

カルカ河畔の戦い(カルカかはんのたたかい)は、1223年にジェベ、スブタイ両将軍率いるモンゴル軍とポロヴェツ・ルーシ連合軍との間で行われた戦い。連合軍は数で上回っていたにもかかわらずモンゴル軍に惨敗した。

ルス諸国軍 兵力35000 死者25000、モンゴル軍 最大兵力20000 死者 少数

1862年 – 南北戦争: セブンパインズの戦い。

時             1862年5月31日-6月1日

場所        バージニア州ヘンリコ郡

結果        決着付かず 

損害 4万対4万中 双方5千人以上の戦死傷。つまり合計10000人強の戦死者。

セブンパインズの戦い(セブンパインズのたたかい、英:Battle of Seven Pines、またはフェアオークスの戦い、英:Battle of Fair Oaks、またはフェアオークス駅の戦い、英:Fair Oaks Station)は、南北戦争初期の1862年5月31日と6月1日、バージニア州ヘンリコ郡で、半島方面作戦の一部として行われた戦闘である。北軍ジョージ・マクレラン少将がバージニア半島を登って攻勢を掛けた頂点をなすものであり、そのポトマック軍はリッチモンド郊外まで達した。

5月31日、南軍のジョセフ・ジョンストン将軍はチカホミニー川の南で孤立しているように見えた北軍2個軍団を圧倒しようとした。南軍の攻撃は協調が取れていなかったものの、北軍第4軍団を後退させ、大きな損失を出させた。両軍は補強を行い次々と部隊を戦闘に投入した。北軍は第3軍団とエドウィン・V・サムナー准将の第2軍団下のジョン・セジウィック少将師団(雨で膨れ上がった川をグレープバイン橋で渉った)に支援され、その陣地を安定させることができた。ジョンストン将軍はこの戦闘中に重傷を負い、南軍の指揮は一時的にグスタヴス・ウッドソン・スミスが執った。6月1日、南軍はさらに援軍を得て、北軍に対する攻撃を再開したが、あまり進展は無かった。両軍ともに勝利を宣言した[2]。

この戦闘は戦術的に引き分けだったが、その時までの東部戦線では最大の戦い(西部戦線のシャイローの戦いが損失の多さで最大であり、それに次ぐものだった)であり、北軍の攻勢が終わり、これに続く6月後半には七日間の戦いと北軍の撤退に繋がった。

1921年 – タルサ人種虐殺が勃発。翌日までに沈静化。死亡者 推定人数75から100人または150から300人 (死亡報告書などが存在したのは39人)(2001年調査委員会)

タルサ人種虐殺(タルサじんしゅぎゃくさつ、英: Tulsa race massacre)は、1921年にアメリカ合衆国オクラホマ州タルサ市グリーンウッド地区で、白人暴徒が黒人住民を殺害し、黒人経営の商業施設を攻撃、破壊した虐殺事件である[1][9][10][11][12][13][14]。特定の人種に対する暴力として、アメリカ合衆国史上最悪の事件と称される[15]が、事件から80年近く歴史から忘れられていた。タルサ人種暴動、グリーンウッドの虐殺、ブラック・ウォール街の虐殺とも呼ばれる。

1945年 – 第二次世界大戦: 台北大空襲。日本統治下の台湾・台北市を米軍機が無差別爆撃。死者3000人以上。

1945年沖縄戦5月31日戦いはまだ続く:米軍:・「牛島は首里戦線撤退にあたって船に乗り遅れた」・・バックナー中将は、5月31日、第32軍撃滅のために最後の追い込みをかけようと軍を再編しながらこういった。

「もう戦いはすんだ。あとは、あちこちにたてこもっている抵抗軍の掃討戦だ。だが、これは、もう激しい戦闘はないということではないが、敵は二度と戦線を確立することはできないだろうということだ」

ほかの将校たちも同じ意見だった。日本軍には、もう秩序だった撤退作戦を行う能力があるとは思っていなかったのだ。だが、こういう楽観論は、その後まもなく、まったく根拠のないものであることが証明された。日本軍は、みごとに首里を撤退し、ときをうつさず南部で新たな戦線を確立したということがわかってきた。(448頁)  《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 448、451頁より》・だが、… 5月31日の夜 …、第96師団と第7師団が … 進撃したときには、牛島中将の軍隊は、ひどい泥や、通信もきかない困難を克服して、みごとに撤退したあとだった … 。米軍は日本軍を分裂させようと思っていたが、それがみごとにはずれ、米軍将兵のあいだに明らかに失望の色が見えだした。そこで第10軍は作戦を変更せざるをえなくなり、第3上陸軍団には西海岸沿いを、第7師団には東海岸寄りを南進させることになった。(451頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 421、451頁より》・5月末における海兵2個師団の損害は、首里戦線での約ひと月近くの戦闘もふくめると、戦死1718人、負傷8852人、行方不明101人であった。また、第24軍団のほうでは、首里戦線を主とした2ヵ月間の戦闘で戦死2871人、負傷1万2千319人、行方不明183人をだした。陸軍第24軍団と第3上陸軍団の損害を合計すると、戦死傷者、行方不明者は、2万6044人であった。

…戦病者は数えきれぬほどだった。その多くが、神経病、つまり〝戦闘疲労症〟であった。この種の患者は、海兵2個師団で6315人、陸軍4個師団で7762人もあった。最大原因は、もちろん日本軍の猛烈な大砲や迫撃砲による集中砲撃だ。それは、米軍がこれまで太平洋戦争で経験したこともない、ものすごい量だった。このほかに、米兵の神経に障害を与えたものに、日本軍の狂信的な、しかもたえまなく行われる肉弾戦があった。《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 419頁より》:日本軍:

・… 5月の末までには、牛島中将麾下の沖縄守備隊の精鋭は、ほとんど撃滅されていた。… 報告によると、5月の末日までに日本軍の戦死者は、6万2548人を数えた。そのほか、推定9529人が、戦死していた。戦死者は北部戦線で3214人、伊江島で4856人でているのにくらべ、6万4千人が首里の第1防衛線、第2防衛線で戦死していると報告されていた。… こういう日本軍の損害についてに報告には、もちろん多少の誇張はあったろうが、沖縄の守備隊、なかでも歩兵の戦闘部隊が手ひどくやられたことは疑いない。ひかえ目にみても、日本軍の精鋭部隊が5月末までには、首里戦線で5千もやられたとみてよいだろう。また砲兵陣地にしても一門一門撃滅されたり、あるいは艦砲射撃、砲撃、または爆撃によって毎日毎日、目に見えて弱体化していった。《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 417-418頁より》・首里退却時の陸軍兵力は、主戦力であった第62師団(通称・石兵団、当初兵力・8315人)が3分の1強の2923に、同じく第24師団(同・山兵団、同1万4120)は6割の8567に激減していたほか、独混第44旅団3867、軍砲兵隊約3000、その他約5000、沖縄県民の防衛召集兵と鉄血勤皇隊約1万7000を加えても約4万。八原高級参謀は「退却中における損耗約1万、喜屋武陣地に集結し得た兵力は約3万と判定した。3万の兵は相当のものであるが、実質を検討すれば、軍の戦力は尽きたりと長大息せざるを得なかった」と告白している。それでもなお、彼は沖縄の軍・官・民を地獄の底へと引きずり込んだ。《「沖縄の島守 内務閣僚かく戦えり」(田村洋三/中央公論新社) 354頁より》

1970年 – ペルー北部でアンカシュ地震が発生。死者47,000人。

アンカシュ地震(アンカシュじしん)は、1970年5月31日にペルー北部アンカシュ県の高原地帯で発生した地震。現在に至るまで記録上ペルーで最も被害の大きかった地震でもある。

チャットgpt先生の5月31日のエッセイ

5月31日 ― 「終わったはずの戦争」が最も危険になる日

5月31日という日は、不思議なほど「勝者が早すぎる勝利宣言をした日」と重なる。

1223年のカルカ河畔。
数で優勢だったルーシ連合軍は、機動・統制・偽装退却を極限まで使いこなしたモンゴル軍に粉砕された。3万5千のうち2万5千を失う壊滅だった。ここで重要なのは、モンゴル軍が単に強かったという話ではない。敵が「勝てる」と思い込んだ瞬間を狙っていたことだ。

1862年のセブンパインズでも似た構図がある。
南軍は北軍の突出部を叩き、北軍は「あと一押しでリッチモンド」という局面で止められた。戦術的には引き分けでも、戦略的には北軍の勢いが折れた。大量動員と工業力を持つ側が、必ずしも短期決戦で勝てるわけではないことを示した戦いだった。

そして1945年5月31日の沖縄戦。
この日は、「米軍が日本軍の組織的抵抗は終わった」と誤認した日として極めて象徴的だ。

「もう終わった」という誤認

バックナー中将らは、首里戦線崩壊を見て、日本軍は潰走段階に入ったと考えた。
実際、数字だけ見ればそう判断しても不思議ではない。

日本軍主力は壊滅寸前。
砲兵は沈黙し、補給は崩壊し、航空支援も海軍支援も存在しない。制空・制海・火力・補給、すべてを米軍が握っていた。

普通の軍隊なら終わっている。

だが沖縄の日本軍は、「壊滅後も戦闘を継続する軍」だった。

米軍が本当に読み違えたのはそこだった。

首里撤退は、外形だけ見れば敗走に見える。
しかし実態は、泥濘と砲撃の中で行われた大規模な夜間離脱であり、統制崩壊した軍には不可能な行動だった。米軍は包囲殲滅に失敗した。

つまり5月31日は、

「日本軍は終わった」と米軍が判断した日であり、
「だが終わっていなかった」と直後に思い知らされた日

だった。

これは沖縄戦全体の本質でもある。

米軍にとっての沖縄戦の異質さ

太平洋戦争で米軍は圧倒的物量を持っていた。
艦砲射撃、航空爆撃、補給、衛生、輸送、通信、工兵能力、どれも日本軍を凌駕している。

だが沖縄では、その「物量優位」がそのまま勝利速度に転化しなかった。

理由は単純で、日本軍が“消耗前提”で戦術設計していたからだ。

通常、軍隊は戦力維持を考える。
沖縄では違った。

  • 陣地は破壊される前提
  • 部隊は全滅前提
  • 補給断絶前提
  • 指揮系統寸断前提

つまり「戦力保存」という概念を途中から半ば放棄していた。

これは合理性を失った狂気とも言えるが、一方で「米軍の優位を相殺する唯一の方法」でもあった。

米軍の火力は巨大だったが、洞窟陣地と地下壕に潜る敵には、即効性を持ちにくい。
しかも日本軍は決戦より遅滞を選んだ。

結果、米軍は毎日少しずつ前進するしかなくなった。

沖縄戦で米軍に大量発生した「戦闘疲労症」は、この構造と直結している。

敵が見えない。
砲撃は止まらない。
前進しても洞窟からまた出てくる。
夜になると肉薄攻撃が来る。

しかも民間人が戦場空間に大量混在していた。

米軍は欧州戦線でも激戦を経験していたが、沖縄は「戦線後方」という概念が存在しない。島全体が前線だった。

この種の戦場は、兵士の精神を異常に摩耗させる。

沖縄戦の「暗部」をどう見るか

GHQプレスコード下では、沖縄戦は長く「日本軍の狂気」と「住民被害」の一方向で語られやすかった。
もちろんそれは事実の一部だ。

だが、冷徹に構造を見るなら、米軍側もまた極限状態で変質していた。

住民が米軍捕虜になった場合、日本軍側から「スパイ」「投降者」とみなされ、報復殺害が起きた。これはイデオロギーというより、戦場構造の問題でもある。

沖縄戦では、軍と民間人の境界が崩壊していた。

  • 防衛召集
  • 学徒隊
  • 住民動員
  • 壕の共有
  • 食糧共有
  • 情報共有

これにより、「民間人」が純粋な非戦闘員として存在しにくくなった。

そして日本軍側は、住民の投降が増えれば、

  • 陣地情報
  • 兵力状況
  • 移動経路
  • 壕位置

が米軍へ流れることを恐れた。

だから報復殺害が発生する。

これは倫理的に擁護できる話ではない。
しかし、極限戦場では「恐怖による統制」が発生するのは歴史上珍しくない。

同時に米軍側も、住民と兵士の識別に苦しみ、疑心暗鬼が強まった。
沖縄戦は、双方が「民間人」を戦争機構の内部へ巻き込み、境界線を失った戦場だった。

そこに「善悪二元論」を当てても、実態は見えにくい。

5月31日という日

5月31日に並ぶ事件を見ると、共通するのは「秩序崩壊の瞬間」ではなく、「崩壊したはずなのに終わらなかった瞬間」だ。

  • カルカ河畔では、数的優位が無意味化した。
  • セブンパインズでは、攻勢限界が露呈した。
  • タルサでは、法秩序が一夜で消えた。
  • 台北大空襲では、都市防空の限界が露呈した。
  • 沖縄では、圧倒的物量でも戦争を短縮できなかった。
  • アンカシュ地震では、一瞬で社会基盤が消滅した。

つまり5月31日は、「システムが機能しなくなる日」だ。

軍事、都市、民族秩序、国家、文明。
それらは平時には巨大で強固に見える。

だが実際には、ある閾値を超えると急速に壊れる。

そして恐ろしいのは、壊れた後も、人間はなお戦い続けることだ。

沖縄戦の5月31日は、その象徴だった。
米軍は「終わった」と思った。
日本軍は「まだ終われない」と考えた。

その認識のズレが、戦争をさらに地獄へ延長した。