5月27日
20260527水曜日旧暦4月11日友引(38番辛丑かのとうしシンチュウ)月齢 10.2
43番丙午ひのえうま年 30番癸巳みずのとみ月 38番辛丑かのとうし日
吉方位 陽遁日 辛丑かのとうし日 西 大吉 年末まではあと218日
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5月27日の出来事
1177年(安元3年/治承元年4月28日) – 安元の大火。(足軽焼亡)
1905年 – 日露戦争: 東郷平八郎が率いる日本海軍聯合艦隊とロシア海軍バルチック艦隊との日本海海戦(28日にかけて)。日本沈没3隻 戦死117名、戦傷583名、ロシア沈没21隻拿捕抑留12隻 戦死4,830名、捕虜6,106名
1941年 – 第二次世界大戦: ドイツ海軍の戦艦ビスマルクが沈没。乗員2206人中 生存115人。死亡1191人。
1945年沖縄戦5月27日:米軍:・5月27日、…強力な威力偵察部隊が、戦線全域にわたって送り出された。頑強な日本軍の抵抗にあった偵察隊からの情報で情報部は、日本軍は依然として首里防衛線を維持しているとの結論に達した。この日の偵察隊の典型的な報告は「日本軍が撤退した兆候は見られない」あるいは「抵抗はまったく衰えていない」と記されていた。《「沖縄 シュガーローフの戦い 米海兵隊 地獄の7日間」(ジェームス・H・ハラス/猿渡青児・訳/光人社NF庫) 391頁》・5月27日、那覇市へ侵攻した第6海兵師団は、市街地が完全に放棄されているのを発見した。(392頁) … 第22海兵連隊第2大隊の1個中隊が、5月27日、安里川を渡り、偵察中隊のいる前を通って那覇の西側を奥深く進んでいった。(404頁)《「沖縄 シュガーローフの戦い 米海兵隊 地獄の7日間」(ジェームス・H・ハラス/猿渡青児・訳/光人社NF庫) 》:日本軍:・この時期、沖縄は本土より約1カ月早い梅雨入りの季節だった。平年の梅雨の総雨量は530ミリ前後で、6月中旬にもっともよく降るのが通例だが、この年は4月下旬から〝走り梅雨〟現象が現れるなど、一段と早かった。5月7日ごろから降ったり止んだりしていた雨は同21日から本格的になり、5月の最後の10日間だけで、総雨量の6割に近い約300ミリもの雨が降った。南部・島尻への撤退と避難は、そんな大雨と泥濘の中で行なわれ、敗残の将兵と県民をいっそう惨めにした。まさに涙雨であった。《「沖縄一中鉄血勤皇隊 学徒の盾となった隊長 篠原保司」(田村洋三/光人社NF文庫) 318-319頁より》・八原高級参謀の回想:
かねて、最期の地と思い定めていた首里山に、別れを告げるときはきた。
… さしも諸施設完備した軍司令部の大洞窟も、数日来の豪雨で、すっかり水攻めにされ、深いところは膝を没するほどだ。所々に、まだ残る電灯の光で、わずかにその陰惨さが救われている。
薄暗になっても、敵の砲撃は衰えない。恰も、退却せんとするわが軍を、追い立てるかのように、巨弾は首里全山を揺るがして、炸裂している。「第4梯団は、第5坑道に集合!」の声に、軍司令官は地下足袋、巻脚絆の軽装で、扇子片手に自室を出られる。私、吉野専属副官も遅れじと続行する。参謀室に残るのは、木村、三宅の両参謀のみ。向かい側の旅団司令部は、全員引き揚げて、付近一帯がらんとしている。
両参謀は、残ったビールを処理するのも、残務処理の一つだと、盛んに飲み、かつ気焰をあげている。一切の書類を整理し、そしてアメリカ軍の手に渡った際、あまりに見苦しくては、名誉にかかわるとばかり、注意してきちんとあと始末を終わった。参謀室よ、さらば!
じゃぶじゃぶと、水浸しになった坑道を思い切って歩く。… 第4、第5坑道の分岐点の所は、水脈にあたるのか、地下水が滝のように、天井から勢いよく流下している。第5坑道の階段を降りたあたりから、出発を待つ将兵が充満している。各梯団の出発は、混雑せぬよう、時間で規制してあったが、砲弾の間断を見ての出発だから、なかなか計画通りにはゆかぬ。将兵らは完全武装したうえに、弁慶の七つ道具よろしく持てるだけの物を持っている。屈強な兵士は、一人で23貫も背負っている。摩文仁では、弾薬、糧秣、日用品等すべて思うようにならぬと知らされているからである。《「沖縄決戦 高級参謀の手記」(八原博通/中公文庫) 344-345頁より》
1980年 – 光州事件: 大韓民国の陸軍部隊が戦車で光州市中心部に進出し、市内全域を制圧。市民に多数の死傷者が出る。死者 154人ないし198人(軍発表数字)[1]
負傷者 3028人
1982年 – 藤沢市母娘ら5人殺害事件(警察庁広域重要指定112号事件):神奈川県藤沢市辻堂神台二丁目の住宅で母娘3人が刺殺される事件が発生した。
1997年 – 神戸連続児童殺傷事件: 神戸市須磨区で小学6年男児の切断された頭部が「酒鬼薔薇聖斗」による犯行声明文とともに見つかる。
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1177年(安元3年/治承元年4月28日) – 安元の大火。(足軽焼亡)
1905年 – 日露戦争: 東郷平八郎が率いる日本海軍聯合艦隊とロシア海軍バルチック艦隊との日本海海戦(28日にかけて)。日本沈没3隻 戦死117名、戦傷583名、ロシア沈没21隻拿捕抑留12隻 戦死4,830名、捕虜6,106名
13時39分、「三笠」は北東微北の針路に進むバルチック艦隊を艦首方向真正面に視認し、三笠は戦闘旗を掲揚して戦闘開始を命令した。直後の13時40分、直進を改め、右に大きく変針し北西微北へ向かった。これは、基本戦策にしたがい、必要な北側横距離を確保し有利な位置取りを行うためである。
13時55分、「三笠」は左に変針して針路を西に取り、改めてほぼ反航航路に入った。その時、両艦隊の距離は約7海里(≒13,000m)。東郷は「三笠」へのZ旗の掲揚を指示、すなわち全麾下に「皇国ノ興廃、コノ一戦ニ在リ。各員一層奮励努力セヨ」と号令を掛けた[注釈 17]。
結果
バルチック艦隊はこの海戦によって戦力のほぼ全てを失った。ウラジオストクに到着したのは「陽炎」の追跡を振り切って30日に到着した「グローズヌイ」と、28日以降日本側に発見されなかった二等巡洋艦「アルマース」(29日到着)、駆逐艦「ブラーヴイ」(30日到着)の3隻のみであった。
病院船である「アリョール」と「コストローマ」は臨検の結果、「アリョール」に「オールドハミヤ」の乗員4名が拘留されていたことによって条約違反とされ、「アリョール」は拿捕されて「楠保丸」として日本海軍に編入された。「コストローマ」は問題が無かったため解放されて本国へ帰還している。
バルチック艦隊の艦船の損害は沈没21隻(戦艦6隻、他15隻、捕獲を避けるため自沈したものを含む)、被拿捕6隻、中立国に抑留されたもの6隻で、兵員の損害は戦死4,830名、捕虜6,106名であり、捕虜にはロジェストヴェンスキーとネボガトフの両提督が含まれていた。連合艦隊の損失は水雷艇3隻沈没のみ、戦死117名、戦傷583名と軽微であり、大艦隊同士の艦隊決戦としては現在においてまで史上稀に見る一方的勝利となった。
負傷し捕虜となったロジェストヴェンスキーは長崎県佐世保市の海軍病院に収容され、東郷の見舞いを受けた。東郷は軍服ではなく白いシャツという平服姿であった。病室に入るとロジェストヴェンスキーを見下ろす形にならないよう、枕元の椅子にこしかけ、顔を近づけて様子を気遣いながらゆっくり話し始めた。この時、極端な寡黙で知られる東郷が、付き添い将校が驚くほどに言葉を尽くし、苦難の大航海を成功させたにもかかわらず惨敗を喫した敗軍の提督を労った。ロジェストヴェンスキーは「敗れた相手が閣下であったことが、私の最大の慰めです」と述べ、涙を流した。ロジェストヴェンスキーは回復して帰国し、1906年軍法会議にかけられたが、戦闘中に重傷を負い指揮権を持っていなかったとして、無罪となり60歳まで生きた。
1941年 – 第二次世界大戦: ドイツ海軍の戦艦ビスマルクが沈没。乗員2206人中 生存115人。死亡1191人。
沈没
艦と運命を共にした艦長エルンスト・リンデマン
午前10時20分頃より、自沈用に設置された爆薬が艦底で起爆したとされている。同じ頃、ビスマルクへの魚雷攻撃を命じられたドーセットシャーから、2度に分けて3本の魚雷が発射された(ノーフォークとロドニーは魚雷を撃ち尽くしていた)。
魚雷は右舷艦橋下と右舷機械室、左舷司令塔下に命中した。この魚雷命中の衝撃でビスマルクの艦尾が切断して脱落するのが目撃された。このドーセットシャーの雷撃がビスマルクにとどめを刺し、ビスマルクは撃沈された[6]。ビスマルクは急速に沈下して左舷への傾斜を増し、艦首を持ち上げて午前10時40分に沈没した。フッドの沈没から76時間後のことであった。
ドーセットシャーおよび駆逐艦は漂流中の乗組員の救助に当たったが、Uボートの接近と思われる聴音(実際には当時その海域には存在しなかった)により途中で救助を断念した。結局2,206名の乗組員のうち、救助されたのは115名であった。エルンスト・リンデマン艦長は甲板に残り、ビスマルクと運命を共にした。
1945年沖縄戦5月27日:米軍:・5月27日、…強力な威力偵察部隊が、戦線全域にわたって送り出された。頑強な日本軍の抵抗にあった偵察隊からの情報で情報部は、日本軍は依然として首里防衛線を維持しているとの結論に達した。この日の偵察隊の典型的な報告は「日本軍が撤退した兆候は見られない」あるいは「抵抗はまったく衰えていない」と記されていた。《「沖縄 シュガーローフの戦い 米海兵隊 地獄の7日間」(ジェームス・H・ハラス/猿渡青児・訳/光人社NF庫) 391頁》・5月27日、那覇市へ侵攻した第6海兵師団は、市街地が完全に放棄されているのを発見した。(392頁) … 第22海兵連隊第2大隊の1個中隊が、5月27日、安里川を渡り、偵察中隊のいる前を通って那覇の西側を奥深く進んでいった。(404頁)《「沖縄 シュガーローフの戦い 米海兵隊 地獄の7日間」(ジェームス・H・ハラス/猿渡青児・訳/光人社NF庫) 》:日本軍:・この時期、沖縄は本土より約1カ月早い梅雨入りの季節だった。平年の梅雨の総雨量は530ミリ前後で、6月中旬にもっともよく降るのが通例だが、この年は4月下旬から〝走り梅雨〟現象が現れるなど、一段と早かった。5月7日ごろから降ったり止んだりしていた雨は同21日から本格的になり、5月の最後の10日間だけで、総雨量の6割に近い約300ミリもの雨が降った。南部・島尻への撤退と避難は、そんな大雨と泥濘の中で行なわれ、敗残の将兵と県民をいっそう惨めにした。まさに涙雨であった。《「沖縄一中鉄血勤皇隊 学徒の盾となった隊長 篠原保司」(田村洋三/光人社NF文庫) 318-319頁より》・八原高級参謀の回想:
かねて、最期の地と思い定めていた首里山に、別れを告げるときはきた。
… さしも諸施設完備した軍司令部の大洞窟も、数日来の豪雨で、すっかり水攻めにされ、深いところは膝を没するほどだ。所々に、まだ残る電灯の光で、わずかにその陰惨さが救われている。
薄暗になっても、敵の砲撃は衰えない。恰も、退却せんとするわが軍を、追い立てるかのように、巨弾は首里全山を揺るがして、炸裂している。「第4梯団は、第5坑道に集合!」の声に、軍司令官は地下足袋、巻脚絆の軽装で、扇子片手に自室を出られる。私、吉野専属副官も遅れじと続行する。参謀室に残るのは、木村、三宅の両参謀のみ。向かい側の旅団司令部は、全員引き揚げて、付近一帯がらんとしている。
両参謀は、残ったビールを処理するのも、残務処理の一つだと、盛んに飲み、かつ気焰をあげている。一切の書類を整理し、そしてアメリカ軍の手に渡った際、あまりに見苦しくては、名誉にかかわるとばかり、注意してきちんとあと始末を終わった。参謀室よ、さらば!
じゃぶじゃぶと、水浸しになった坑道を思い切って歩く。… 第4、第5坑道の分岐点の所は、水脈にあたるのか、地下水が滝のように、天井から勢いよく流下している。第5坑道の階段を降りたあたりから、出発を待つ将兵が充満している。各梯団の出発は、混雑せぬよう、時間で規制してあったが、砲弾の間断を見ての出発だから、なかなか計画通りにはゆかぬ。将兵らは完全武装したうえに、弁慶の七つ道具よろしく持てるだけの物を持っている。屈強な兵士は、一人で23貫も背負っている。摩文仁では、弾薬、糧秣、日用品等すべて思うようにならぬと知らされているからである。《「沖縄決戦 高級参謀の手記」(八原博通/中公文庫) 344-345頁より》
那覇から国頭村へ避難、捕虜となって辺土名収容所に収容された家族
5月中旬、ついに捕虜になり、那覇から来た30人ほどの避難民は、桃原の空家に収容されました。食糧も支給され、ようやくほっとした数日後。海軍記念日の27日。悪夢が襲い掛かります。…
真夜中に山から降りてきた日本兵が、母屋に黄燐弾を投げ込みました父親はとっさに騏一さんを窓の外に逃がします。高嶺騏一さん「黄燐団投げられて。二発3発くらいじゃないですか。今度僕のうちに小銃3発。2発はおふくろに当たって一発は僕に当たった。ここに」「隣のうちはね、二人は火ダルマ。燃えてました。全身。全身で燃えてましたよ、髪の毛も」母屋にいたおじさん夫婦と騏一さんの母は即死。日本軍に家族を殺され、半狂乱になった父は日本兵を追いかけました。「父は もう、なたもってね、敵打つんだと言って、こっちから山に向って走っていきよったですよこの道を」従妹の姉妹は全身やけど。騏一さんは腕をえぐられ、3人は宜野座の野戦病院に運ばれました。
やがて腕の怪我が回復した騏一さんは、孤児院に移されました。あまりのショックで、言葉の出ない子になっていました。桃原では留守中に起きたこの虐殺事件を知る人はいません。しかし、アメリカ軍の報告書には事件の詳細が記録されています。「日本兵らは不意打ちを食らわせて逃げる、という得意の戦法でアメリカ軍に協力している住民に罰を与えているつもりなのだ」と分析しています。父はその後、この敗残兵について調べ、家族を殺したのは 運天港にいた海軍魚雷艇隊だったと話していました。<特集 島は戦場だった 敗残兵に家族を奪われ – QAB NEWS Headline>
1980年 – 光州事件: 大韓民国の陸軍部隊が戦車で光州市中心部に進出し、市内全域を制圧。市民に多数の死傷者が出る。死者 154人ないし198人(軍発表数字)[1]
負傷者 3028人
光州事件[2][注釈 1](こうしゅうじけん、クァンジュじけん)は、1980年5月18日から27日にかけて大韓民国(韓国)の全羅南道の道庁所在地だった光州市(現:光州広域市)を中心に起きた市民による軍事政権に対する民主化要求の蜂起である[1][2]。
第二次大戦後の1948年建国以降発生した「済州島四・三事件」や「保導連盟事件」と同様に、韓国軍が自国民を大量虐殺した事件の一つであり、軍による一斉射撃などで一般市民に多数の死者を出した[1][2]。この光州事件では市民側の目的である民主化達成と軍事政権を倒すことはできなかったが、7年後、1987年に軍事政権側が「6・29民主化宣言」を出し、言論の自由と大統領の直接選挙を認めた[1]。
1982年 – 藤沢市母娘ら5人殺害事件(警察庁広域重要指定112号事件):神奈川県藤沢市辻堂神台二丁目の住宅で母娘3人が刺殺される事件が発生した。
概要
藤沢市母娘ら5人殺害事件の位置(日本の本州中央部内)1. X事件1. X事件2. 母娘3人殺害事件2. 母娘3人殺害事件3. Y事件3. Y事件
各殺人事件現場
本事件は以下4つの事件からなる[7]。
1981年10月6日未明、神奈川県横浜市戸塚区中田町[注 2]で男性X(元少年院仲間 / 4. の窃盗共犯者)を殺害した事件(殺人罪)[7] – 以下「X事件」もしくは「横浜事件」
1982年5月27日夜、神奈川県藤沢市内で交際に応じなかった女子高生Aら母娘3人(Aと妹B・母親C)を殺害した事件(殺人罪)[7] – 以下「藤沢事件」もしくは「母娘3人殺害事件」
2.の事件後となる1982年6月5日夜、少年Y(藤沢事件の共犯者 / 元少年院仲間)を兵庫県尼崎市内で殺害した事件(殺人罪)[7] – 以下「Y事件」もしくは「尼崎事件」
単独、もしくはXと共謀して10回にわたり窃盗を繰り返し、被害総額321万円あまりを出した事件(窃盗罪)[7]
母娘3人を含め5人が殺害された一連の事件は当時、第二次世界大戦後に神奈川県内を舞台とした殺人事件としては死者数が最多で[注 3][16]、いずれも加害者Fの「裏切り者は消す」という論理が動機だった[17]。
1997年 – 神戸連続児童殺傷事件: 神戸市須磨区で小学6年男児の切断された頭部が「酒鬼薔薇聖斗」による犯行声明文とともに見つかる。
神戸連続児童殺傷事件(こうべれんぞくじどうさっしょうじけん)は、1997年(平成9年)2月から5月にかけて兵庫県神戸市須磨区で発生した連続殺傷事件(少年犯罪)である。
中学3年生の男子生徒が相次いで小学生5人を殺傷し2人が死亡、2人が重軽傷を負った[5]。男子生徒は酒鬼薔薇聖斗(さかきばらせいと)と名乗り犯行声明を出したことから、酒鬼薔薇事件、酒鬼薔薇聖斗事件とも呼ばれる。
2022年(令和4年)10月、当事件記録について、神戸家庭裁判所は保存期間満了後、2011年にすべての記録を廃棄されたことが報道機関の取材により発覚した。
チャットgpt先生の5月27日のエッセイ
5月27日――「撤退」と「殲滅」の日
5月27日という日は、日本史でも世界史でも、奇妙なほど「もう勝敗は決しているのに、戦闘だけは終わらない」という場面が集中している。
1177年の安元の大火は、京都という木造巨大都市の脆弱性を露呈した。
1905年の日本海海戦では、バルチック艦隊は事実上壊滅し、1941年にはビスマルクが沈んだ。
1945年沖縄では首里防衛線が崩壊しつつあり、1980年の光州では軍が市街を再制圧した。
いずれも「制度」「国家」「軍事組織」が臨界点を超えた瞬間である。
特に1945年5月27日の沖縄戦は、近代戦史の本質がむき出しになった局面だった。
沖縄戦を「悲惨な民間被害」だけで語ると、実態をかなり見誤る。
実際には、米軍はこの時点で異様なほど苦戦していた。
アメリカ軍は制海権・制空権・砲兵力・補給力のすべてを握っていた。通常なら、これほど戦力差があれば戦線は短期間で崩壊する。しかし首里防衛線はそうならなかった。
理由は単純で、日本軍が「勝利」を目的にしていなかったからである。
第32軍は、海岸での決戦を避け、地下壕網と逆斜面陣地による持久戦へ移行した。これはドイツ軍的な機動戦でも、ソ連軍的な縦深防御でもない。「敵の時間と精神を削る」ことだけを目的にした遅滞戦術だった。
その結果、米軍は圧倒的火力を持ちながら、地形と地下陣地によって火力優位を相殺される。
シュガーローフ、馬乗り高地、首里周辺では、陣地を取っても夜襲で奪われ、再び砲撃し、また奪うという反復になる。
米軍側記録にある「日本軍が撤退した兆候は見られない」という報告は、単なる誇張ではない。
実際、米軍は沖縄で精神的疲弊が極限に達した。
太平洋戦争における米軍は、通常「前進し続ける軍隊」だった。だが沖縄では違う。前進しているのに、戦況感覚としては「泥に沈み込んでいる」。豪雨、腐乱死体、洞窟陣地、夜襲、狙撃、砲撃、そして見えない敵。物量で勝っているのに、戦場の感触だけは敗者に近い。
沖縄戦が「米軍史上最大の苦戦」と言われるのは、単なる損害率ではない。
巨大な工業国家が、局地の地下陣地に神経を削り切られた点にある。
5月27日は、その均衡が崩れ始めた日でもある。
那覇市街が放棄され、首里撤退が始まる。
八原博通の回想にある、水没した坑道を撤退していく描写は、敗戦軍の現実を非常に正確に示している。
重要なのは、日本軍中枢がこの段階で「勝てない」と完全に理解していたことだ。
しかし彼らはなお戦闘継続を選ぶ。
これは狂気ではなく、戦略的計算だった。
沖縄戦の目的は、米軍を可能な限り消耗させ、本土決戦への政治的・軍事的条件を整えることに変質していた。つまり沖縄守備軍は、国家戦略上「消耗材」として扱われていた。
ここで重要なのは、住民もまた戦略体系の一部に組み込まれたことである。
戦後日本では長く、「日本軍=住民保護を放棄」「米軍=解放者」という単純図式が流通した。これはGHQプレスコード下で形成された戦争叙述の影響をかなり受けている。
しかし実態はもっと混濁している。
米軍は確かに住民保護政策を進め、収容所運営や食糧供給も行った。だが同時に、砲爆撃・艦砲射撃・火炎放射器による地域殲滅を徹底している。民間被害は「副次的」ではなく、作戦構造に組み込まれていた。
一方、日本軍側は住民を「軍民一体」として動員しながら、捕虜化した住民を敵協力者視する構造を持った。
5月27日前後に起きた、収容住民への報復襲撃は、この構造の必然だった。
ここで重要なのは、「残虐性」よりも「論理」である。
敗残兵から見ると、米軍収容所へ入った住民は、情報提供者にも労務提供者にもなり得る存在だった。しかも日本軍は、この時点で組織的統制を急速に失っている。補給崩壊、指揮断絶、飢餓、極限疲労の中で、敵味方識別は急速に粗暴化する。
つまり、
- 正規軍としての統制は崩壊
- しかし「防諜意識」だけは残存
- 住民はもはや非戦闘員ではなく「戦場流動人口」
という状態になっていた。
その結果、「敵に接触した住民」への暴力が発生する。
これは倫理以前に、崩壊局面の軍隊がしばしば示す構造的挙動である。
ドイツ東部戦線でも、ソ連内戦でも、中国大陸でも類例は多い。
沖縄戦の恐ろしさは、日本軍が住民を守れなかったことだけではない。
住民が、日米双方の軍事合理性の間で“戦場資源”に変わった点にある。
1905年の日本海海戦では、東郷平八郎は敗将ロジェストヴェンスキーを礼遇した。
1941年、リンデマン艦長はビスマルクと共に沈んだ。
1945年沖縄では、そのような「海軍的騎士道」はほぼ消滅している。
総力戦が極限に達すると、戦争は人格を剥奪する。
個々の勇敢さや名誉は残っていても、システム全体は、人間を「遅滞」「消耗」「収容」「処理」の対象へ変えていく。
5月27日とは、その変化が歴史の各地点で露出した日なのかもしれない。

