kagamimochi-nikki 加賀美茂知日記
慶祝と美とグノ-シスの弥増す日々
日々の過去の出来事

今日という日6月2日 1098十字軍アンティオキア陥落、ほか写真wikipediaアンティオキアの虐殺

6月2日

20260602火曜日旧暦4月17日友引(44番丁未ひのとひつじテイビ)月齢 16.2

43番丙午ひのえうま年 30番癸巳みずのとみ月 44番丁未ひのとひつじ日

吉方位 陽遁日 丁未ひのとひつじ日 北 中吉 年末まであと212日

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6月2日の出来事

1098年 – 第1回十字軍: アンティオキア攻囲戦で十字軍がアンティオキアの城内に突入しアンティオキアが陥落。攻城25000対防衛75000。 屠城。

1183年(寿永2年5月11日) – 治承・寿永の乱: 倶利伽羅峠の戦い。源氏3万対平氏4万にて平氏壊滅と。

1793年 – フランス革命: ジャコバン派の群衆が国民公会を包囲し、ジロンド派幹部の議員29名と大臣2名の追放と逮捕を議決させる。ジャコバン派による独裁・恐怖政治が始まる。のべ約2万人の処刑。

1945年沖縄戦6月2日:米軍:・追撃作戦の初日以後というものは、降りつづく雨の方が、かえって日本軍の反撃より米軍の頭痛のたねとなった。第184歩兵連隊のほうは、南へ、そして東へ、雨を吸い込んで、やわらかくなった知念半島の緑の連丘を、苦心しながら乗り越えていった。そこでは、たいした抵抗もなく、明らかに日本軍としては、そこら一帯を防備する計画がないことを示していた。《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 453頁より》・私は沖縄戦直後、宝物を避難させてあった跡をこの目で確かめ、又、避難させてあった宝物の一部が1953年にアメリカから返還されたのもこの目で確かめております。そこでいえることは宝物を避難させてあった場所の殆どが直接砲撃されていませんので首里での戦がすんだ時点では大部分の宝物が確かに残っていたといえます。ただ残念でならないのは心ない者によって宝物が持ち出されたことであります。それで私は宝物の一部がアメリカに流出していると確信し、軍政府に宝物の捜索願を出したわけであります。《真栄平房敬、平川信幸「沖縄戦で流出した旧王家の宝物」沖縄史料編集紀要 2017-03 p. 11. 》・… アメリカ国務省は、ナチスドイツと戦った後のヨーロッパ大戦中の1944年に、文化的価値を持つ物は、戦利品として持ち帰ったり、取ってはいけないという命令を出していたからです。このような命令が出された背景には、当時のアメリカのアート市場に、特にアメリカ東部のさまざまな都市において、盗まれた美術品や宗教的な品々が急激に市場に出回ったことにあります。

しかし沖縄戦において、この命令は厳守されませんでした。残念なことに、沖縄戦で破壊されることなく残った文化財の多くは、盗まれてしまったのです。写真や旗、銃や武器などを戦利品として持ち帰ることは許されていましたが、沖縄の港では軍の検査官が配置され、沖縄を出発する兵士たちの荷物を検査し、軍事的かつ諜報的な価値を持つものを含め、歴史的、文化的価値を持つものがないか調査していました。

しかし、不幸なことに、沖縄から文化財を盗むために自分の地位や特権を利用した軍人もいました。第6海兵隊司令官ルミュエル・シェファード少将がお寺の古い鐘と大黒様の像を持ち帰ったという事実が、そのことをよく表しています。 …<非営利活動法人 琉米歴史研究会  NPO Incorporated Ryukyu America Historical Research Society>:日本軍:・6月2日、空襲が激しくなった八重山では、山岳地への住民避難が始まりました。台湾へ疎開せずに石垣島に残った住民は5月までは空襲があっても自分の家で生活をしていましたが5月末からはアメリカ軍の攻撃が激しさを増してきます。(引用元ブログ註・八重山ではイギリス太平洋艦隊とアメリカ海軍が連携し強力に封じ込めを行っていた。)八重山旅団司令部は前日の6月1日、「官公庁職員は5日までに、一般住民は10日までに指定地に避難するよう」命令を出しました。軍の命令を受けた県八重山支庁職員は2日から、住民とともに山岳地の白水へ避難を開始しました。白水一帯はマラリアの有病地帯として住民に知られていましたが、軍の命令で避難せざるを得ず、それが多くの犠牲者を出した石垣島の戦争マラリアの悲劇の幕あけでした。<65年前のきょうは1945年6月2日 – QAB NEWS Headline>

2008年 – 在パキスタン・デンマーク大使館前で爆発。8名が死亡,約30人が負傷した[2]。

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1098年 – 第1回十字軍: アンティオキア攻囲戦で十字軍がアンティオキアの城内に突入しアンティオキアが陥落。攻城25000対防衛75000。 屠城。

飢餓

食糧不足のため、アンティオキアを包囲する十字軍の宿営内では飢餓が発生し、人間も馬もばたばたと死んでいった。全軍で7人のうち1人は飢えで死に、軍馬は700頭しか残らなかった。民衆十字軍の生き残りであり隠者ピエールに率いられて陣営にいた特に貧しい兵士たちのうちから、死んだ敵兵の死体を食べる人肉食に走る者が現われた。騎士らのうちにはあえて飢えを耐えようとする者もあった。しかし多くは馬の死体などを食べた。

シリアのキリスト教徒や、追放されてキプロス島にいた正教会のエルサレム総主教シモンらは十字軍へ食糧を送ろうとしたが、これも飢餓を和らげることはできなかった。翌1098年1月には、騎士や兵士の中から脱走者が出始めた。その中には隠者ピエールもおり、すぐさま発見されてタンクレードによって宿営に連れ戻された。十字軍に参加した兵や民衆から崇拝されていた彼の権威は、ここに来て地に墜ちた。

6月2日、長引く包囲戦に耐えかねたブロワ伯エティエンヌらが、ついに陣営を出て十字軍を離脱し、タルスス方面に戻ってしまった。しかしこの同じ日、ボエモンらによる市内潜入が始まろうとしていた。フィルーズはボエモンに、近くまで迫っているケルボガに面会するふりをして行軍に出てアンティオキア城内の守備隊を油断させ、そのまま夜にアンティオキアに戻ってきて城壁にはしごをかけて登るよう指示した。同日夜、潜入は成功した。フィルーズは城門を開け放ち、たちまち十字軍が市内になだれ込み虐殺が始まった。市内にいたキリスト教徒も呼応して他の城門を開け放ち、そのままテュルク人守備隊に対する虐殺に加わった。しかし十字軍はムスリムの市民だけでなくキリスト教徒の市民に対しても虐殺を行った。犠牲者の中にはフィルーズの兄弟も含まれていた。ヤギ=シヤーンは混乱に陥ったアンティオキアを脱出したが、市外でシリア人キリスト教徒に捕まり、断首され、その首はボエモンの元に届けられた。

1183年(寿永2年5月11日) – 治承・寿永の乱: 倶利伽羅峠の戦い。源氏3万対平氏4万にて平氏壊滅と。

『平家物語』等の軍記物は入京後の義仲が孤立していったのは義仲個人の資質-「戦には強いが政事には疎かった悲劇の英雄」という性格-によるものとし、後世の史家も『平家物語』の提示する史観を踏襲してきた[28]。しかし久保は、「平家を討って京を奪還する」という共通の目的で義仲と協力体制にあった摂津源氏・土岐源氏が、入京後に後白河院方に復帰してしまったことにより「義仲個人の」軍事力・正当性が弱体化してしまったという側面を有していることを指摘している[9]。『平家物語』は幾多の英雄物語によって構成されており、義仲物語もその一つであるが、このような英雄物語から零れ落ちた歴史事実が存在することに注意を払うべきである、と久保は述べている[30]。

1793年 – フランス革命: ジャコバン派の群衆が国民公会を包囲し、ジロンド派幹部の議員29名と大臣2名の追放と逮捕を議決させる。ジャコバン派による独裁・恐怖政治が始まる。のべ約2万人の処刑。

ロベスピエール派

ロベスピエール派は革命反対派、穏健派、過激派など反対派の人物を次々と処刑し、恐怖時代(英語版)をもたらした。ジョルジュ・ダントン、カミーユ・デムーラン、ジャック・ルネ・エベール、アントワーヌ・ラヴォアジェ、リュシル・デュプレシなど多数が殺された。

恐怖政治が行われた間、パリだけで約1,400名、フランス全体では約2万人が処刑された。処刑方法には銃殺刑が多かったが、ギロチン(断頭台)による刑がよく知られている。ただし、プレリアール22日法の制定によって、司法手続きが大きく簡略化されたため、正統な裁判なしでの死刑や獄中死も多く、それらを含めると犠牲者は4万人を超えるものと思われる[要出典]。

ジャン=ジャック・ルソーの著作で述べられている社会を目指したことでも知られている。当初、山岳派はサン・キュロットら市民に支持を受け、恐怖政治下においてもそれは認められていたが、一般市民にも逮捕が及び、また、比較的平和に近づいてくると、恐怖政治は支持を失っていった。この政治形態は、1794年7月27日に行われたテルミドールのクーデターで、ロベスピエール派が失脚するまで続いた。

開始

1793年3月10日、革命裁判所(革命裁)が設置された。革命裁には上訴審がなく、簡略にして強力な決定権をもつ、危険な機関であった。告発検事にはフーキエ・タンヴィルが任命された。同年3月21日から4月2日にかけて、議会は各コミューンに反革命派取締のための監視委員会の設置、9人から成る公安委員会の設置を決定した。そして4月6日、革命裁判所の最初の法廷が開かれ、公安委員会が発足、恐怖政治への道を開いた。

この頃ジャコバン派では、ジロンド派と山岳派が決裂し、ジャン=ポール・マラーやロベスピエールはジロンド派を裏切り者として攻撃した。当時、食糧難や経済の混乱から各地で民衆のデモが頻発しており、ロベスピエールはこの人民を利用する計画を立て、集会に参加するサン・キュロットに金が支払われ、人民を扇動する方策が講じられた。

5月25日、ロベスピエールは人民の蜂起を求める演説をおこなった。5月31日、ロベスピエールの計画に基づきジロンド派の追い落としが開始された。33のセクションの代表者が集められコミューンと協力し、人民軍の指揮はアンリオがとることになった。6月1日、ジロンド派のロラン夫人が逮捕、ジロンド派の新聞は禁止された。翌日、アンリオは武装した群衆を率いて国民公会を包囲、逃亡しようとする議員に議事の進行を要求、ジロンド派幹部の議員29名と大臣2名の追放と逮捕が議決された。のちに29人のうち20人が地方へ逃げたが、そのうち数人は処刑され、2人は自殺した。こうして6月2日からジャコバン派独裁が開始される。

1945年沖縄戦6月2日:米軍:・追撃作戦の初日以後というものは、降りつづく雨の方が、かえって日本軍の反撃より米軍の頭痛のたねとなった。第184歩兵連隊のほうは、南へ、そして東へ、雨を吸い込んで、やわらかくなった知念半島の緑の連丘を、苦心しながら乗り越えていった。そこでは、たいした抵抗もなく、明らかに日本軍としては、そこら一帯を防備する計画がないことを示していた。《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 453頁より》・私は沖縄戦直後、宝物を避難させてあった跡をこの目で確かめ、又、避難させてあった宝物の一部が1953年にアメリカから返還されたのもこの目で確かめております。そこでいえることは宝物を避難させてあった場所の殆どが直接砲撃されていませんので首里での戦がすんだ時点では大部分の宝物が確かに残っていたといえます。ただ残念でならないのは心ない者によって宝物が持ち出されたことであります。それで私は宝物の一部がアメリカに流出していると確信し、軍政府に宝物の捜索願を出したわけであります。《真栄平房敬、平川信幸「沖縄戦で流出した旧王家の宝物」沖縄史料編集紀要 2017-03 p. 11. 》・… アメリカ国務省は、ナチスドイツと戦った後のヨーロッパ大戦中の1944年に、文化的価値を持つ物は、戦利品として持ち帰ったり、取ってはいけないという命令を出していたからです。このような命令が出された背景には、当時のアメリカのアート市場に、特にアメリカ東部のさまざまな都市において、盗まれた美術品や宗教的な品々が急激に市場に出回ったことにあります。

しかし沖縄戦において、この命令は厳守されませんでした。残念なことに、沖縄戦で破壊されることなく残った文化財の多くは、盗まれてしまったのです。写真や旗、銃や武器などを戦利品として持ち帰ることは許されていましたが、沖縄の港では軍の検査官が配置され、沖縄を出発する兵士たちの荷物を検査し、軍事的かつ諜報的な価値を持つものを含め、歴史的、文化的価値を持つものがないか調査していました。

しかし、不幸なことに、沖縄から文化財を盗むために自分の地位や特権を利用した軍人もいました。第6海兵隊司令官ルミュエル・シェファード少将がお寺の古い鐘と大黒様の像を持ち帰ったという事実が、そのことをよく表しています。 …<非営利活動法人 琉米歴史研究会  NPO Incorporated Ryukyu America Historical Research Society>:日本軍:・6月2日、空襲が激しくなった八重山では、山岳地への住民避難が始まりました。台湾へ疎開せずに石垣島に残った住民は5月までは空襲があっても自分の家で生活をしていましたが5月末からはアメリカ軍の攻撃が激しさを増してきます。(引用元ブログ註・八重山ではイギリス太平洋艦隊とアメリカ海軍が連携し強力に封じ込めを行っていた。)八重山旅団司令部は前日の6月1日、「官公庁職員は5日までに、一般住民は10日までに指定地に避難するよう」命令を出しました。軍の命令を受けた県八重山支庁職員は2日から、住民とともに山岳地の白水へ避難を開始しました。白水一帯はマラリアの有病地帯として住民に知られていましたが、軍の命令で避難せざるを得ず、それが多くの犠牲者を出した石垣島の戦争マラリアの悲劇の幕あけでした。<65年前のきょうは1945年6月2日 – QAB NEWS Headline>

2008年 – 在パキスタン・デンマーク大使館前で爆発。8名が死亡,約30人が負傷した[2]。

チャットgpt先生の6月2日のエッセイ

6月2日 ― 包囲、崩壊、そして「統制不能」の日

6月2日という日は、歴史を並べると奇妙な共通項が浮かぶ。
それは「秩序が維持不能になった瞬間」である。

1098年、アンティオキア攻囲戦。
1183年、倶利伽羅峠の戦い。
1793年、ジャコバン派独裁の開始。
そして1945年、沖縄戦。

どれも単なる勝敗ではない。
「組織が限界を超えた時、人間集団がどう変質するか」の記録である。

アンティオキアでは、十字軍は飢餓で崩壊寸前だった。
騎士道も信仰も、補給線が切れれば維持できない。
食糧不足は理念を最初に殺す。
人肉食の発生は残虐性というより、「軍事システム崩壊」の兆候だった。

しかし興味深いのは、その極限状態に置かれた軍が、城内突入に成功した瞬間に急速に攻勢へ転化したことだ。
飢えた軍は最も危険になる。
なぜなら「略奪による補給」が始まるからである。

アンティオキア陥落後、虐殺は宗教的熱狂だけでは説明できない。
補給崩壊状態の軍隊が都市を奪取した時、兵站確保と報酬回収が同時進行する。
中世における屠城は、しばしば軍事経済の延長だった。


倶利伽羅峠の戦いもまた、日本史的「美談」で語られすぎている。

一般には木曾義仲の奇策とされる。
だが実際には、平氏軍はすでに政治的にも補給的にも疲弊していた。
大軍を維持するには、兵糧、地方武士の忠誠、朝廷との連携が必要になる。

つまり平氏は、戦場で敗れる前に「システム疲労」で崩れていた。

義仲自身もまた、京に入った後に急速に孤立した。
『平家物語』はこれを「田舎武者の政治力不足」という英雄譚に変換したが、現実には河内源氏・摂津源氏・院政勢力の離反による権力再編である。

中世日本でも、「武力で勝つこと」と「統治できること」は別問題だった。


1793年6月2日のジャコバン派独裁の開始になると、この構造はさらに露骨になる。

恐怖政治は、理想主義が暴走した結果ではない。
むしろ逆で、国家崩壊寸前の非常事態に対する「戦時統制」である。

革命フランスは外敵に包囲され、国内では反乱、食糧不足、インフレ、物流崩壊が進行していた。
ロベスピエールは理念家として語られるが、実務的には「動員国家」を作ろうとしていた。

恐怖政治とは、革命理念ではなく、統制コスト削減の技術だった。

通常裁判は時間がかかる。
証拠も必要。
反論も許される。
だが国家総力戦では、それは遅い。

だから革命裁判所は簡略化される。
大量処刑は狂気だけではなく、「行政処理速度」の問題でもあった。

これは近代国家の暗部であり、20世紀の全体主義も本質的には同じ系譜にある。


そして1945年6月2日、沖縄戦。

ここで重要なのは、戦後日本の「悲劇化された沖縄戦」だけでも、「米軍無双神話」だけでも現実を見誤るという点である。

沖縄戦は、米軍が物量優勢でありながら、異常なレベルで消耗した戦いだった。

米軍は制海権・制空権・火力・補給能力の全てを握っていた。
普通なら戦闘は短期間で終わる。
しかし実際には、南部戦線で米軍は泥濘、地形、壕陣地、梅雨、疲労、神経消耗に苦しみ続けた。

特に6月段階では、「勝っている側」が精神的疲弊を起こしている。

米軍記録に頻出するのは、日本軍の突撃への恐怖より、雨と泥と腐敗臭への疲労である。
沖縄は火力戦でありながら、同時に消耗戦だった。

欧州戦線では突破可能だった機械化戦力が、沖縄では地形と気候で拘束された。
つまり米軍は、「物量が万能ではない」という現実に直面した。

この経験が本土上陸予測を極端に悲観化させた。


一方、日本軍側もまた、従来の「玉砕美談」では全く説明できない。

沖縄守備軍は、本土決戦準備のため「時間稼ぎ」を主任務としていた。
つまり作戦思想としては、最初から持久による出血強要である。

この戦略は軍事的には一定の成功を収めた。
米軍は想定以上の損害を受け、本土侵攻時の被害予測は激増した。

しかし同時に、その遅滞戦術は住民地域を戦場化する。

軍が壕に入れば砲撃が来る。
補給が崩壊すれば住民食糧に依存する。
住民が捕虜化すれば情報漏洩を恐れる。

その結果、「米軍捕虜になった住民への報復虐殺」という現象も発生する。

これは単なる狂気ではない。
持久戦構造の帰結である。

日本軍は、住民を完全な民間人として扱っていなかった。
半ば軍事資源、半ば潜在的情報漏洩源として見ていた。

逆に米軍も、住民保護を全面優先していたわけではない。
沖縄戦は“救出戦”ではなく、あくまで攻略戦だった。

さらに戦後、GHQプレスコードによって、日本側残虐行為だけでなく、米軍側の文化財略奪や住民被害、戦利品化の問題も長く可視化されにくくなった。

だから沖縄戦史は長年、「日本軍絶対悪 vs 米軍解放軍」という単純構図にも、「日本軍玉砕美談」にも回収され続けた。

現実はもっと陰惨で、もっと構造的で、もっと相互破壊的だった。


6月2日に並ぶ出来事を見ていると、歴史は理想ではなく「限界管理」で動いていることが分かる。

補給が切れれば信仰は崩れる。
統治が壊れれば恐怖政治になる。
持久戦になれば民間人と兵士の境界は溶ける。

そして国家も軍隊も、極限状態では驚くほど現実主義的になる。

歴史の残酷さは、人間が残酷だからではない。
むしろ逆で、人間集団が「生存を優先するほど」、構造的に残酷化していく点にある。