kagamimochi-nikki 加賀美茂知日記
慶祝と美とグノ-シスの弥増す日々
日々の過去の出来事

今日という日5月19日 地獄の七日間シュガーローフの戦い終わる、ほか写真wikipedia安里第52高地

5月19日

20260519火曜日旧暦4月3日赤口(30番癸巳みずのとみキシ)月齢 2.2

43番丙午ひのえうま年 30番癸巳みずのとみ月 30番癸巳みずのとみ日

吉方位 陽遁日 癸巳みずのとみ日 南 大吉 年末まであと226日

https://ja.wikipedia.org/wiki/5%E6%9C%8819%E6%97%A5

5月19日の出来事
802年(延暦21年4月15日) – 蝦夷の頭領・アテルイが征夷大将軍・坂上田村麻呂に降伏。
1293年(正応6年4月12日) – 鎌倉大地震が発生[1]。数千から数万死亡。
1546年(天文15年4月20日) – 河越夜戦。年月日:天文15年4月20日(1546年5月19日)
場所:武蔵国河越城
結果:北条軍の勝利、扇谷上杉の滅亡、山内上杉家、古河公方、関東管領家の弱体化
損害:上杉方 3000人戦死。
1936年 – 埼玉県北葛飾郡の中川で渡船が転覆して乗客ら10人が死亡[5]。

1945年沖縄戦5月19日地獄のシュガーローフ戦終結:米軍:・日本軍には、海兵隊のただなかを通って自殺行為に近い退却で陣地を放棄するか、万歳突撃でアメリカ軍を急襲するかのどちらかしか選択肢がなかった。ある一団は急造爆弾を背中に縛りつけて壕から飛び出したが、海兵隊の機関銃の弾が背中に縛りつけられた弾薬に点火、激しい爆発とともにすぐに視界から消えた。この状態の中、海兵隊は逃走する日本兵を容赦なく銃撃した。ドナルド・R・ピノー中尉は「日本軍が (シュガーローフの) 頂上から駆け下り始める」のを見た。「150人はいたはずです。私たちは発砲し、彼らをあたり一面に吹き飛ばした。」

戦闘後、疲れ果てた海兵隊員は厳重な警戒を続けたが、狂気の7日間を経て、傷だらけで荒廃した高地は彼らのものとなった。一見無害にみえる土と岩のかたまりに見えた土地を求め戦った第6師団海兵隊は、2,662名の死傷者を出した。これらの行動によりシュガーローフの戦いは終結し、何日にもわたる混乱の末、シュガーローフはついに沈黙した。

Sugar Loaf Hill Survival: U.S. Marines in the Okinawa Campaign

・The crest of Sugar Loaf Hill as seen from the southwestern slope. Notice the extent to which the soil of the hill has been pounded by bombardment and the few remaining tree stumps.【訳】南西の傾斜地からシュガーローフヒルの頂上を眺める。爆撃による猛攻撃を受け、ほとんど木の根っこも残っていない。<写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館>

・海兵隊員の野戦病院への転送が決まると、今度は病院が患者で溢れかえる現場が出てきた。すなわち、「シュガーローフの攻撃、そしてそのから確保に至る10日間の戦闘で、第6海兵師団は、実に2662人の戦死傷者をだし、1289人の戦闘疲労症を出した。(中略) 非戦闘病者はおびただしい数になった。その多くが神経精神病、つまり『戦闘疲労症』であった。この種の患者は、海兵2個師団 ( 第1、第6)で、6315人、陸軍4個師団(第7、第27、第77、第96)で7762人を数えた」という。《『沖縄戦のトラウマ ~ 心に突き刺す棘』保坂廣志、紫峰出版 (2014) 沖縄戦と米兵の戦闘神経症 (pp. 242-243) 》・耳を聾するわが軍の攻撃は何時間も、何日間も、いつ果てるともなく続いた。日本軍の反撃もやむことはなかった。私はしつこい頭痛に悩まされた。延々と続く砲火の轟きに頭がしびれ、なかば朦朧となってしまう。こんな経験は生まれて初めてだった。

これほどの喧騒と混乱の真っ只中に昼も夜もなく投げ出されて、平気な人間がいるとは思えなかった。それでも、砲声の大部分はわが軍のものだったし、われわれは手ごろな壕にも恵まれていた。日本兵はこんな猛攻にいったいどうやって耐えていたのだろう。彼らはじっと洞窟の奥に立てこもり、こちらの攻撃が小休止するとうじゃうじゃ出てきて、すかさず反撃に転じる。ペリリューのときと同じだった。こちらの戦法としては、砲撃と空爆で洞窟をつぶすか、周到に固められた守備陣形を切り崩すしかなかった。《「ペリリュー・沖縄戦記」(ユージン・B・スレッジ: 伊藤真/曽田和子 訳 /講談社学術文庫) 366-367頁》

:日本軍:・先の大戦中、戦場でのストレスなどが原因で精神疾患を発症した兵士たちがいました。しかし、その存在は「皇軍の恥」とされ、ひた隠しにされてきました。 <精神疾患に苦しんだ兵士たちの心の傷「50年間、口外してはならない」極秘調査|千葉県の戦跡 薄れる戦争の記憶 NHK>・米軍の軍医が、敵味方関係なく人を救う役目を負った一方で、日本軍の軍医は軍の負担となる兵士を「処分」する役目も負っていた。・精神的に不安定になった「護郷隊」の少年兵を銃殺した軍医

また小隊まで帰るために下の方の谷間を通ったわけ。そしたら、谷間の崖に誰かをこうして座らせて、毛布をかぶらせてるので何かなと行ってみたら、パンと音するわけよ。この人は毛布かぶってたのを取って、あはははと笑うわけよ。この人ちょっと頭おかしいと思って。また上等兵が行ってかぶせて二回目にやったから、もう何もなかった。そのままシーンとした。それをやるのは軍医さんね。軍医は中尉だったですよ。《三上智恵『証言・沖縄スパイ戦史』集英社、2020年 電子版》
1951年 – 北海道厚岸郡浜中村(現浜中町)の大原劇場(映画館)で火災。小・中学生ら39名が焼死[8][9]。

2016年 – エジプト航空804便墜落事故[13]。乗客乗員全員66名死亡。

2024年 – 東アーザルバーイジャーン州ヘリコプター墜落事故が発生。イラン北西部でエブラーヒーム・ライースィー大統領らを乗せたヘリコプターが墜落し、全員が死亡したことが確認された。死者9名(全員)。

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802年(延暦21年4月15日) – 蝦夷の頭領・アテルイが征夷大将軍・坂上田村麻呂に降伏。
1293年(正応6年4月12日) – 鎌倉大地震が発生[1]。数千から数万死亡。

鎌倉大地震(かまくらだいじしん)とは、正応6年4月12日(ユリウス暦1293年5月19日, 以下の西暦換算はユリウス暦)以降に関東地方南部に被害をもたらした地震。震源域は鎌倉周辺、規模はM7以上と推定される。永仁の関東地震、鎌倉強震地震、永仁鎌倉地震、建長寺地震などさまざまな名で呼ばれている。

概要

正応6年4月12日(1293年5月19日)、関東地方南部で地震が発生。建長寺を代表として多数の神社仏閣が倒壊し、多数の死者が発生した。『鎌倉大日記』では、翌日にも余震と思われる地震の記述が残されており、建造物の倒壊のほか多数の土砂災害などが発生、23,034人もの死者が発生したとされている(『武家年代記裏書』)。また、この震災による混乱を契機とし、鎌倉幕府執権・北条貞時は、当時幕府内で専横を振るっていた平頼綱(杲円)邸への襲撃を命令し、頼綱父子の討伐に成功した(平禅門の乱)。朝廷では、地震の発生や、この後(6月から8月)発生した干魃等を重視し、同年8月5日(9月6日)に永仁への改元を行っている[1]。

平成20年(2008年)、東京大学地震研究所では、三浦半島小網代湾の堆積物に着目、分析を進めた結果、13世紀頃に発生したと推定される大津波の痕跡を見いだしている[2][3]。

この地震の約36年前の正嘉元年8月23日(1257年10月2日)にも関東地方南部に被害をもたらせた正嘉鎌倉地震(M7.0 – 7.5)が発生している。

1546年(天文15年4月20日) – 河越夜戦。年月日:天文15年4月20日(1546年5月19日)
場所:武蔵国河越城
結果:北条軍の勝利、扇谷上杉の滅亡、山内上杉家、古河公方、関東管領家の弱体化
損害:上杉方 3000人戦死。

河越城の戦い(かわごえじょうのたたかい)は、戦国時代に、武蔵国の枢要な城であった河越城(現・埼玉県川越市)の争奪を巡って、河越城周辺で争われた一連の戦いである。

北条早雲の嫡男、後北条氏の2代目当主北条氏綱は武蔵国征服のため、武蔵国を支配していた上杉氏の居城・河越城に侵攻、天文4年(1535年)から北条氏綱・氏康と扇谷上杉朝定・山内上杉憲政との間で複数回にわたる争奪戦が展開された。

1936年 – 埼玉県北葛飾郡の中川で渡船が転覆して乗客ら10人が死亡[5]。

1945年沖縄戦5月19日地獄のシュガーローフ戦終結:米軍:・日本軍には、海兵隊のただなかを通って自殺行為に近い退却で陣地を放棄するか、万歳突撃でアメリカ軍を急襲するかのどちらかしか選択肢がなかった。ある一団は急造爆弾を背中に縛りつけて壕から飛び出したが、海兵隊の機関銃の弾が背中に縛りつけられた弾薬に点火、激しい爆発とともにすぐに視界から消えた。この状態の中、海兵隊は逃走する日本兵を容赦なく銃撃した。ドナルド・R・ピノー中尉は「日本軍が (シュガーローフの) 頂上から駆け下り始める」のを見た。「150人はいたはずです。私たちは発砲し、彼らをあたり一面に吹き飛ばした。」

戦闘後、疲れ果てた海兵隊員は厳重な警戒を続けたが、狂気の7日間を経て、傷だらけで荒廃した高地は彼らのものとなった。一見無害にみえる土と岩のかたまりに見えた土地を求め戦った第6師団海兵隊は、2,662名の死傷者を出した。これらの行動によりシュガーローフの戦いは終結し、何日にもわたる混乱の末、シュガーローフはついに沈黙した。

Sugar Loaf Hill Survival: U.S. Marines in the Okinawa Campaign

・The crest of Sugar Loaf Hill as seen from the southwestern slope. Notice the extent to which the soil of the hill has been pounded by bombardment and the few remaining tree stumps.【訳】南西の傾斜地からシュガーローフヒルの頂上を眺める。爆撃による猛攻撃を受け、ほとんど木の根っこも残っていない。<写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館>

・海兵隊員の野戦病院への転送が決まると、今度は病院が患者で溢れかえる現場が出てきた。すなわち、「シュガーローフの攻撃、そしてそのから確保に至る10日間の戦闘で、第6海兵師団は、実に2662人の戦死傷者をだし、1289人の戦闘疲労症を出した。(中略) 非戦闘病者はおびただしい数になった。その多くが神経精神病、つまり『戦闘疲労症』であった。この種の患者は、海兵2個師団 ( 第1、第6)で、6315人、陸軍4個師団(第7、第27、第77、第96)で7762人を数えた」という。《『沖縄戦のトラウマ ~ 心に突き刺す棘』保坂廣志、紫峰出版 (2014) 沖縄戦と米兵の戦闘神経症 (pp. 242-243) 》・耳を聾するわが軍の攻撃は何時間も、何日間も、いつ果てるともなく続いた。日本軍の反撃もやむことはなかった。私はしつこい頭痛に悩まされた。延々と続く砲火の轟きに頭がしびれ、なかば朦朧となってしまう。こんな経験は生まれて初めてだった。

これほどの喧騒と混乱の真っ只中に昼も夜もなく投げ出されて、平気な人間がいるとは思えなかった。それでも、砲声の大部分はわが軍のものだったし、われわれは手ごろな壕にも恵まれていた。日本兵はこんな猛攻にいったいどうやって耐えていたのだろう。彼らはじっと洞窟の奥に立てこもり、こちらの攻撃が小休止するとうじゃうじゃ出てきて、すかさず反撃に転じる。ペリリューのときと同じだった。こちらの戦法としては、砲撃と空爆で洞窟をつぶすか、周到に固められた守備陣形を切り崩すしかなかった。《「ペリリュー・沖縄戦記」(ユージン・B・スレッジ: 伊藤真/曽田和子 訳 /講談社学術文庫) 366-367頁》

:日本軍:・先の大戦中、戦場でのストレスなどが原因で精神疾患を発症した兵士たちがいました。しかし、その存在は「皇軍の恥」とされ、ひた隠しにされてきました。 <精神疾患に苦しんだ兵士たちの心の傷「50年間、口外してはならない」極秘調査|千葉県の戦跡 薄れる戦争の記憶 NHK>・米軍の軍医が、敵味方関係なく人を救う役目を負った一方で、日本軍の軍医は軍の負担となる兵士を「処分」する役目も負っていた。・精神的に不安定になった「護郷隊」の少年兵を銃殺した軍医

また小隊まで帰るために下の方の谷間を通ったわけ。そしたら、谷間の崖に誰かをこうして座らせて、毛布をかぶらせてるので何かなと行ってみたら、パンと音するわけよ。この人は毛布かぶってたのを取って、あはははと笑うわけよ。この人ちょっと頭おかしいと思って。また上等兵が行ってかぶせて二回目にやったから、もう何もなかった。そのままシーンとした。それをやるのは軍医さんね。軍医は中尉だったですよ。《三上智恵『証言・沖縄スパイ戦史』集英社、2020年 電子版》

1951年 – 北海道厚岸郡浜中村(現浜中町)の大原劇場(映画館)で火災。小・中学生ら39名が焼死[8][9]。
2016年 – エジプト航空804便墜落事故[13]。乗客乗員全員66名死亡。

経過

左:804便の飛行経路(緑線)。黄線は予定飛行経路、赤い★はADS-B信号が途絶えた位置 右:飛行速度(オレンジ色)と高度(青色)

804便は5月18日の現地時間午後11時9分にパリ=シャルル・ド・ゴール空港を離陸した[4]。その後、午前2時30分にエジプト沿岸から約280km北の地中海上空37,000フィートを飛行中にレーダーから消失した[4][5]。当時、天候は良好であった[6]。

カイロには午前3時15分頃に到着予定であった[4][7]。当初、失踪から約2時間後の午前4時26分にエジプト軍が航空機に搭載されている無線機から発信された遭難信号を受信したとも報じられたが[7]、エジプト軍やエジプト当局は報道を否定した[8][9]。

5月19日、ギリシャのパノス・カンメノス(英語版)国防相は事故機はまず左に90度、そして右に360度旋回し、高度37,000フィート (11,000 m)から15,000フィート (4,600 m)まで急降下したと述べた[4][10]。しかし5月23日、エジプト国営航空管制当局の責任者は事故機は失踪するまで高度37,000フィートを維持しており、異常な動きはなかったと述べた[11]。エジプトのレーダーは事故機から遠く離れており、ギリシャのレーダーと同じ精度で追跡できなかったためとの見方もある[12]。6月14日、エジプト当局はギリシャ当局の声明を認めた[13]。元調査官によると、最初の左旋回の際に機体の構造限界を超えていた可能性がある[13]。

事故調査

2017年5月7日、フランス当局は、犠牲者の遺体から爆発物の痕跡は発見されなかったと発表した[82]。

2018年7月6日、BEAは、コックピットで急速に火災が広がった可能性が高いと発表した[83]。

2022年4月、イタリアの新聞「コリエーレ・デラ・セラ」が、入手した航空専門家が作成した134ページの報告書の内容を明らかにした。それによると、墜落の原因は操縦室で乗務員が吸っていたタバコが、非常用の酸素供給マスクから漏れた酸素に不注意で引火し、コックピット内で火災が発生したことだった。2016年当時コックピット内での喫煙は禁止されていなかった[84]。

2024年 – 東アーザルバーイジャーン州ヘリコプター墜落事故が発生。イラン北西部でエブラーヒーム・ライースィー大統領らを乗せたヘリコプターが墜落し、全員が死亡したことが確認された。死者9名(全員)。

チャットgpt先生の5月19日のエッセイ

5月19日 ― 崩れる秩序と、最後まで残る現実

5月19日を並べて見ると、この日は妙に「限界の露呈」が多い。

802年、蝦夷の頭領 アテルイ が降伏した。
単なる「朝廷の勝利」ではない。律令国家は東北支配に数十年単位で苦しみ続け、莫大な兵站費と人的損耗を抱えた末、ようやく軍事的決着に辿り着いた。中央政権は常に「文明側」の顔をするが、辺境戦争では結局、継戦能力と補給能力がすべてになる。ここは後の帝国日本とも、アメリカ軍とも繋がっていく。

1293年の 鎌倉大地震 も同じだ。
地震そのものより興味深いのは、その直後に権力闘争が激化した点である。災害は人を平等に苦しめるが、政治は平等ではない。死体と瓦礫の上で、北条貞時は平頼綱を討った。秩序は災害で崩れるのではなく、「崩れた瞬間に誰が主導権を取るか」で再編される。

1546年の 河越夜戦 は、日本軍事史でも異様な戦いだ。
包囲された後北条軍が、兵力劣勢から夜襲で大軍を崩壊させた。戦国時代は「兵数が多い方が勝つ」と単純化されやすいが、実際には統制崩壊の速度が勝敗を決める。河越では上杉方三千が討死し、扇谷上杉は事実上滅亡した。
つまり「強い側」が負けたのではない。「指揮系統が先に壊れた側」が消えたのである。

そして1945年5月19日。
沖縄戦、シュガーローフ。

ここは感傷より先に、まず軍事的事実を置くべきだろう。

沖縄戦は、日本軍の勝利可能性が既に消滅した段階の戦争だった。制空権も制海権も失われ、補給も崩壊していた。通常なら短期間で潰れる条件である。だが実際には、米軍は沖縄で想定以上に消耗した。

特に シュガーローフの戦い は、アメリカ海兵隊が「物量だけでは突破できない地形防御」に直面した典型だった。

GHQプレスコード以後、日本では「アメリカ軍=圧倒的・合理的・無傷に近い勝者」という像が強く流通した。しかし実態はもっと泥臭い。
米軍側記録を読むと、海兵隊は精神的にもかなり追い込まれている。

砲撃、豪雨、泥濘、洞窟陣地、死角射撃。
制圧したと思った丘から、数時間後にはまた日本兵が湧き出る。
「火力優勢=即勝利」ではなかった。

ペリリューでも沖縄でも、日本軍は「生還」ではなく「時間稼ぎ」に戦略目的を切り替えていた。これは残酷だが合理的である。持久防御に徹した地下陣地戦は、米軍の火力優位を減衰させた。
シュガーローフで第6海兵師団が受けた損耗は、まさにその結果だった。

重要なのは、米軍が苦戦した理由を「日本精神論」に回収しないことだ。
実際には、

  • 洞窟陣地
  • 相互支援火点
  • 逆斜面配置
  • 夜間浸透
  • 砲撃耐性
  • 湿地と高低差

という、極めて近代的な防御戦術の問題だった。

だからこそ米軍は、硫黄島・沖縄を通じて「日本本土上陸」の被害予測を急激に上方修正した。
原爆投下やソ連参戦以前から、「本土侵攻は異常な流血になる」という認識はかなり強まっていたのである。

ただ同時に、日本側も崩壊していた。

兵士の戦闘神経症。
少年兵。
処分される精神疾患者。
補給断絶。
自爆突撃。

米軍が極限状態だったのは事実だが、日本軍側はさらに「国家として末期症状」に近かった。
ここを美化すると現実を見失う。

沖縄戦後半になると、日本軍は戦術としては巧妙でも、戦略としては完全に詰んでいた。
勝てない戦争を、どこまで人的損耗で引き延ばせるか。
実態としてはそれに近い。

だが皮肉なのは、その「負け戦の異常な粘り」が、戦後世界の意思決定を変えてしまった点だ。

つまり沖縄戦とは、

「米軍最強神話」を補強した戦いであると同時に、
「米軍ですら真正面から行きたくない」と思わせた戦いでもあった。

ここには戦史のねじれがある。

2016年の エジプト航空804便墜落事故 も、2024年の 東アーザルバーイジャーン州ヘリコプター墜落事故 も、結局は「巨大システムの脆さ」を見せている。
航空技術は進歩したが、人間の疲労、判断ミス、整備、天候、政治的圧力は消えない。

5月19日を通して見えるのは、英雄譚ではなく、むしろ逆だ。

国家も軍も技術も、「絶対」ではない。
だが崩壊寸前でも、人間集団は驚くほど長く戦い続けてしまう。

そして歴史を動かすのは、理想より、その「消耗にどこまで耐えられるか」という現実である。