kagamimochi-nikki 加賀美茂知日記
慶祝と美とグノ-シスの弥増す日々
日々の過去の出来事

今日という日4月19日  1943ワルシャワゲットー蜂起鎮圧、ほか写真wikipedia蜂起鎮圧後

4月19日

20260419日曜日旧暦3月3日大安(60番癸亥みずのといキガイ)月齢 1.6

43番丙午ひのえうま年 29番壬辰みずのえたつ月 60番癸亥みずのとい日

吉方位 陽遁日 癸亥みずのとい日 南東 大吉 年末まではあと256日

https://ja.wikipedia.org/wiki/4%E6%9C%8819%E6%97%A5

4月19日の出来事
1903年 – ロシア・キシナウで大規模なユダヤ人迫害(ポグロム)が発生。
1938年 – トルコ中部でM6.7の地震。死者160人。
1943年 – 第二次世界大戦: ワルシャワ・ゲットー蜂起が勃発。56,065人を捕虜にし、うち1万3929人死亡。これとは別に5000人から6000人死亡。

1945- 沖縄戦4月19日米軍総攻撃『耕す戦法』・「この戦争は90%がロジスティクスで、あとの10%が戦闘だ」US Army in WWII: Okinawa: The Last Battle [Chapter 8](*この見解文字通り受け取られない。なぜならば、この主張の割に米軍の数字の上にあげられている人的損害の数値が過去最大過ぎるからだ。故今後このGHQプレスコード寄りのサイト編集見解もかなり割り引いて記述みる必要がある。時系列編集はわかりやすいのでカレンダーとしては今後も観察する)・伊江島戦 18日まで血みどろの白兵戦19日より米軍の猛攻開始。午前9時零分、3個大隊がいっせいに攻撃を開始。・我々はアメリカ軍の攻撃法を「耕す戦法」と称した。それは、敵がその前進地域を無尽蔵に近い鉄量をもって、田畑を耕す如く掘り返し、地上一切の物の存在を許さぬ如く清掃した後、前進するからだ。《「沖縄決戦 高級参謀の手記」(八原博通/中公文庫) 222頁より》・4月19日午前6時40分を期して全部隊に空、海、陸からの「耕し戦法」による総攻撃を命じた。陸続と増援部隊も派遣され、沖縄作戦で最大規模の650機にも及ぶ米機が与那原から稲嶺、首里にかけて、ナパーム弾やロケット弾を浴びせて一帯を焼野が原にした。《写真記録「これが沖縄戦だ」(大田昌秀 編著/琉球新報社) 115頁より》

・日本軍の堅固な陣地に対処するため、この日はじめて、米軍は火炎放射装甲車31車輛を沖縄戦に導入し、3,500ガロンのナパームを Rocky Crags (千原: 142高地)  などで使用した。またナパーム弾も導入した。・地上では324門の火砲および戦車30輌に加えこの日、沖縄戦に初めて火炎放射装甲車を投入した。ガソリンとナパームを混合の炎は、70メートルないし110メートル先まで届く。《「沖縄 戦跡が語る悲惨」(真鍋禎男/沖縄文化社) 111頁より》
1954年 – 文京区小2女児殺害事件: 文京区立元町小学校に侵入した覚醒剤中毒者が、トイレで小学2年の女児を暴行・殺害。
1983年 – 菅島事故: 航空自衛隊小牧基地所属のC-1輸送機2機が三重県鳥羽市沖の菅島に相次ぎ墜落、搭乗していた自衛官計14名が死亡。
1993年 – 米テキサス州・ウェーコのブランチ・ダビディアン本部にFBIの特殊部隊が突入、本部が炎上し児童25名を含む81名が死亡した。
1995年 – オクラホマシティ連邦政府ビル爆破事件: 米オクラホマシティのアルフレッド・P・マラー連邦ビルで爆弾テロが発生、168人が死亡。

2019年 – 池袋暴走事故: ブレーキとアクセルの踏み間違い事故によって歩行者2人が死亡、9人が負傷[5]。日本で高齢ドライバー問題が社会的に注目される契機となった[6]。

———————————-

1903年 – ロシア・キシナウで大規模なユダヤ人迫害(ポグロム)が発生。

1903年4月には、近代ロシアにおける最大級のポグロムであるキシナウ・ポグロム(英語版)が発生した。50人近くのユダヤ系住民が殺害されたほか、数百人が負傷し、多くのユダヤ系商店・住宅が破壊された。この事件はアメリカ合衆国など各地に報道された。

1938年 – トルコ中部でM6.7の地震。死者160人。
1943年 – 第二次世界大戦: ワルシャワ・ゲットー蜂起が勃発。56,065人を捕虜にし、うち1万3929人死亡。これとは別に5000人から6000人死亡。

概要

第二次世界大戦がはじまり、東ヨーロッパの諸都市がドイツ軍に占領されると、それらの都市で暮らすユダヤ人たちはゲットーに隔離されるようになった。しかし1942年から1943年にかけてナチス親衛隊(SS)は「ラインハルト作戦」を開始し、ゲットーのユダヤ人たちを続々と絶滅収容所に移送するようになった。ワルシャワ・ゲットーでも過酷な移送作戦が行われ、数多くのユダヤ人がトレブリンカ絶滅収容所へ移送されて殺害された。

ユダヤ人の「追放」が始まった当初、ユダヤ人の抵抗組織のメンバーは会合を持ち、ドイツに対して戦わないことを決定していた。これは、ユダヤ人が殺されるのではなく、労働キャンプに送られるだけだと信じていたからであった。しかし、1942年の終わりには、「追放」と言うものが死の収容所へ送られることだとわかり、残ったユダヤ人は戦うことを決定した[5]。

更なる移送作戦を阻止するため、モルデハイ・アニエレヴィッツ指揮下の「ユダヤ人戦闘組織」とダヴィド・アプフェルバウム(pl)指揮下の「ユダヤ人軍事同盟(pl)」が1943年4月19日から5月16日にかけてナチスに対して武装蜂起を起こした。反乱を起こしたユダヤ人たちは貧弱な武装と劣悪な補給にもかかわらず粘り強く戦ったが、最終的にはユルゲン・シュトロープSS少将率いる武装SS・ドイツ秩序警察・ドイツ国防軍などから成る混成部隊によって完全に鎮圧された。

鎮圧後、ワルシャワ・ゲットーの住民ほとんどがSSによって捕えられ、トレブリンカ、マイダネク、あるいは強制労働収容所へと移送され、ワルシャワ・ゲットーは解体された。

シュトロープの記録では合計で56,065人を捕虜にし、うち1万3929人死亡。これとは別に5000人から6000人死亡[4][3]

死傷者数と移送者数

ユルゲン・シュトロープSS少将の報告書によると「検挙されたユダヤ人5万6065人のうち、7000人がゲットーでの作戦中に死亡。さらに6929人はトレブリンカへ移送して殺害した。あわせて1万3929人が命を落とした。この5万6065人とは別にさらに5000人から6000人が火災で焼け死んだ」という[4][3]。しかし5万6065人のうち死亡した1万3929人をのぞく4万2136人の運命についてはシュトロープの報告書はまったく触れていない[4]。しかし別の証言や資料から見て、どうやらマイダネク(ルブリン強制収容所)、もしくはトラヴニキやポニアトーヴァなどの強制労働収容所へ送られたようである[51]。もともと「労働不能者」と看做されたゲットー住民はとっくにトレブリンカへ送られて殺されていたのだから蜂起の時点でゲットーに残っている者たちはほとんどが「労働可能者」である。したがってほとんどが労働力として利用されたのであろうと考えられる。とはいえ結局この後にマイダネクで行われた「収穫祭作戦」によって大多数は殺されてしまったようである[51]。

ドイツ側の損害についてシュトロープの報告書は「16名が殺害され、85名が負傷した」としているが、この数は日々の損害報告とまったく一致していない。実際にはドイツ側ももっと多くの犠牲を出していたはずである[3]。自軍の優位性を示すために損害を控えめに発表したものと思われる。とはいえユダヤ人側の損害の方が圧倒的に多かったことは間違いないと思われる[52]。

1945- 沖縄戦4月19日米軍総攻撃『耕す戦法』・「この戦争は90%がロジスティクスで、あとの10%が戦闘だ」US Army in WWII: Okinawa: The Last Battle [Chapter 8](*この見解文字通り受け取られない。なぜならば、この主張の割に米軍の数字の上にあげられている人的損害の数値が過去最大過ぎるからだ。故今後このGHQプレスコード寄りのサイト編集見解もかなり割り引いて記述みる必要がある。時系列編集はわかりやすいのでカレンダーとしては今後も観察する)・伊江島戦 18日まで血みどろの白兵戦19日より米軍の猛攻開始。午前9時零分、3個大隊がいっせいに攻撃を開始。・我々はアメリカ軍の攻撃法を「耕す戦法」と称した。それは、敵がその前進地域を無尽蔵に近い鉄量をもって、田畑を耕す如く掘り返し、地上一切の物の存在を許さぬ如く清掃した後、前進するからだ。《「沖縄決戦 高級参謀の手記」(八原博通/中公文庫) 222頁より》・4月19日午前6時40分を期して全部隊に空、海、陸からの「耕し戦法」による総攻撃を命じた。陸続と増援部隊も派遣され、沖縄作戦で最大規模の650機にも及ぶ米機が与那原から稲嶺、首里にかけて、ナパーム弾やロケット弾を浴びせて一帯を焼野が原にした。《写真記録「これが沖縄戦だ」(大田昌秀 編著/琉球新報社) 115頁より》

・日本軍の堅固な陣地に対処するため、この日はじめて、米軍は火炎放射装甲車31車輛を沖縄戦に導入し、3,500ガロンのナパームを Rocky Crags (千原: 142高地)  などで使用した。またナパーム弾も導入した。・地上では324門の火砲および戦車30輌に加えこの日、沖縄戦に初めて火炎放射装甲車を投入した。ガソリンとナパームを混合の炎は、70メートルないし110メートル先まで届く。《「沖縄 戦跡が語る悲惨」(真鍋禎男/沖縄文化社) 111頁より》・午前9時までに与那原を襲った米軍機は67機で、まき散らすようにナパーム弾を投下し、地上のありとあらゆるものを焼きつくした。… 首里は139機の大空襲をうけ、500年の歴史が石垣のくずれるごとくくずれ去った。… このほか、米軍は、第5艦隊の戦艦6隻、巡洋艦6隻、駆逐艦6隻が、空陸からの攻撃に加えて、艦砲射撃を行なった。《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 194頁》・アメリカ軍はこの日、沖縄戦で初めて火炎放射器 (註・正確には火炎放射装甲車) を投入。一気に嘉数高地を占領するつもりでいましたが、手前には深い渓谷があり、そこに守備隊は狙いを定めて攻撃し、アメリカ軍の進攻を阻みます。特にアメリカ軍が恐れたのは、歩兵が爆薬の箱を持って戦車に体当たりするという特攻攻撃で、沖縄戦で最多となる戦車を破壊しました。

地獄のような攻防を繰り広げたこの日、結局、アメリカ軍はわずかに戦線を進めただけで、守備隊はほとんどの陣地を死守。しかし、嘉数高地ではこのあと5日間、激しい戦いが続けられるのでした。-琉球朝日放送 報道制作部 ニュースQプラス » 65年前のきょうは1945年4月19日・嘉数戦 地獄の反射面陣地の攻防 午前7時30分…に峡谷をめざして進撃を開始した。8時23分、部隊先頭は、嘉数高地からおよそ200メートル離れた峡谷付近にある小高い丘のうえに陣取った。ここから前面の広場へ進撃しようとしたとき、日本軍の機関銃や野砲が近くの陣地から砲撃を開始した。この一時の砲撃で米軍は多数の犠牲者を出し、その後も犠牲者の数はふえる一方だった。広場にいた米軍はそのまま釘づけにされ、後方の部隊との連絡もたたれた。嘉数の山頂や西部スロープの日本軍陣地では機関銃が真っ赤に火を吐いていた。《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 203、204-205頁より》

1954年 – 文京区小2女児殺害事件: 文京区立元町小学校に侵入した覚醒剤中毒者が、トイレで小学2年の女児を暴行・殺害。

文京区小2女児殺害事件(ぶんきょうくしょうにじょじさつがいじけん)とは、1954年(昭和29年)4月19日に東京都文京区の小学校内で起こったヒロポン中毒者による性犯罪および薬物犯罪を伴った殺人事件である。

当時は被害者の名前から採られた事件名でも呼ばれ、世間に大きなショックを与えた。

この事件を機に、覚醒剤取締法が厳罰化され、全国の学校の安全対策が見直されるようになった。

経緯

1954年(昭和29年)4月19日、東京都文京区の元町小学校で、2年生の女児(当時7歳)が授業中に用を足しに行くと友人に言い残し教室から出て行った。授業が始まっても女児は教室に戻ってこなかったが、担任は近くにある自宅まで忘れ物でも取りに戻ったのだろうと思い、大して気にかけなかった。しかし友人に言い残してから2時間経過しても女児は戻らず、ようやく担任やクラスメイトが手分けして学校中を探し、正面玄関横にあるトイレ内で女児は遺体で発見された。女児は下着を口に詰められ暴行された上、絞殺されていた。

1983年 – 菅島事故: 航空自衛隊小牧基地所属のC-1輸送機2機が三重県鳥羽市沖の菅島に相次ぎ墜落、搭乗していた自衛官計14名が死亡。

菅島事故(すがしまじこ)は、1983年(昭和58年)4月19日に菅島で発生した、航空自衛隊のC-1輸送機2機の連続墜落事故。

1957年3月のC-46輸送機の事故以来26年ぶりの輸送機による事故で、乗員計14名が殉職する惨事となった。自衛隊発足後、2021年現在までにおいて10名以上の殉職者が出たのは本事故と陸上自衛隊少年工科学校12期生渡河訓練事故、 豊後水道で洋上離着水訓練中に墜落し転覆大破したUS1-9080号機の事故のみである。

1993年 – 米テキサス州・ウェーコのブランチ・ダビディアン本部にFBIの特殊部隊が突入、本部が炎上し児童25名を含む81名が死亡した。

1995年 – オクラホマシティ連邦政府ビル爆破事件: 米オクラホマシティのアルフレッド・P・マラー連邦ビルで爆弾テロが発生、168人が死亡。

オクラホマシティ連邦政府ビル爆破事件(オクラホマシティれんぽうせいふビルばくはじけん、アメリカ英語: Oklahoma City bombing)とは、1995年4月19日にアメリカ合衆国・オクラホマ州の州都オクラホマシティで発生した爆破テロ事件である。

元陸軍兵士のティモシー・マクベイらが、車爆弾でオクラホマシティ連邦地方庁舎を爆破し、子供19人を含む168人が死亡、800人以上が負傷した。2001年9月11日のアメリカ同時多発テロ事件が発生するまでは、アメリカ国内で最悪の犠牲者が出た事件であった。


2019年 – 池袋暴走事故: ブレーキとアクセルの踏み間違い事故によって歩行者2人が死亡、9人が負傷[5]。日本で高齢ドライバー問題が社会的に注目される契機となった[6]。

池袋暴走事故(いけぶくろぼうそうじこ)は[9][10][11]、2019年(平成31年)4月19日に東京都豊島区東池袋四丁目で発生した交通死傷事故[1]。東池袋自動車暴走死傷事故とも呼称される[12]。

乗用車を運転していた飯塚幸三(当時87歳)が、ブレーキとアクセルを踏み間違えたことによって車を暴走させ、交差点に進入[2]。歩行者・自転車らを次々にはね[1]、計11人を死傷させた(母子2人が死亡、同乗していた飯塚の妻を含む9人が負傷)[13]。加害者である飯塚自身も負傷し入院したが[14]、退院後に自動車運転死傷行為処罰法違反(過失運転致死傷)容疑で書類送検[3]・在宅起訴された[4]。

逮捕や容疑者呼称などに関する誤解や[15][9][16]、SNSにおける加害者やその家族、被害者遺族への誹謗中傷も問題となった[17][18][19][20]ほか、高齢ドライバーの事故対策に対する日本社会の関心を高めるきっかけにもなり[21]、高齢者の運転免許証の自主返納が増加したとされる[22][23][8]。また本事故などを契機に、高齢ドライバーの事故対策に関する議論や法整備も進められている[24]。

チャットgpt先生の4月19日のエッセイ

4月19日という日付を眺めると、そこに並ぶのは「転換点」ではなく、「圧倒的な力と、それでも消えない抵抗」の記録だ。

象徴的なのが、1943年に始まったワルシャワ・ゲットー蜂起だろう。結果だけ見れば、武装も補給も劣る側が圧倒され、壊滅する。しかし現実には、あの蜂起は「勝てないと分かった上で戦う」という選択の具体例だった。合理性では説明しきれないが、戦争の現場ではこういう判断は珍しくない。むしろ、追い詰められた側ほど合理性から離れていく。

その構図は、1945年4月19日の沖縄戦にも重なる。ただしこちらは逆に、圧倒的優位にある側が「想定以上に止められる」という現象が起きた。

米軍はこの日、「耕す戦法」と呼ばれる徹底した火力集中を実施した。空・海・陸の三位一体、艦砲射撃、航空機によるナパーム、火炎放射装甲車の投入。理屈の上では、地形も陣地も人間も、すべてを物理的に無効化して前進するやり方だ。これは後世で言えば「火力で解決する戦争」の典型例であり、ロジスティクス重視という米軍の戦争観そのものでもある。

だが、ここで現実が理論を裏切る。

沖縄の守備側は、地下陣地・逆斜面配置・近接戦闘に徹底的に寄せた。つまり「火力が効きにくい位置」に潜り込み、「火力の後に必ず来る歩兵」に対して最大の損害を与える設計だ。結果として、米軍は史上最大級の物量を投入しながら、進撃速度は極端に鈍化し、人的損害も異常な水準に達した。

ここで重要なのは、「物量が足りなかった」のではなく、「物量があっても解決できない局面があった」という点だ。

米軍側の記録には「戦争の9割はロジスティクス」という言い方があるが、沖縄では残りの1割――つまり最終的に陣地を奪う局面――が極端に重く、血のコストが跳ね上がった。補給・火力・輸送が完璧でも、最後に地面を踏むのは歩兵であり、その瞬間だけは「純粋な殺し合い」に戻る。このギャップが、数字上の優位と実際の苦戦の乖離を生んだ。

同じ4月19日には、1995年のオクラホマシティ連邦政府ビル爆破事件や2019年の池袋暴走事故のように、「巨大なシステムの中で起きる破局」も並んでいる。国家、治安機関、都市交通――いずれも高度に整備された仕組みだが、それでも一点の破綻で大きな犠牲が出る。

結局、この日に共通しているのは、「構造の強さ」と「個別の現実」のズレだ。

・圧倒的な軍事力があっても、地形と意思に阻まれる
・管理された社会でも、一人の行動で崩れる
・敗北が確定していても、戦闘は止まらない

4月19日は、そうしたズレが露出した日の集積に見える。理屈通りに進まないのが現実であり、そのズレの中で人も組織も判断を誤るし、同時に予想外に粘る。

歴史をカレンダーとして並べると、この日は「例外の集合」に近い。だが実際には、むしろこれが常態なのかもしれない。理論は整っていても、最後に決まるのは現場で、その現場はいつも計算通りには動かない。