kagamimochi-nikki 加賀美茂知日記
慶祝と美とグノ-シスの弥増す日々
日々の過去の出来事

今日という日4月18日 1906サンフランシスコ地震、ほか写真wikipedia壊滅した市街地

4月18日

20260418土曜日旧暦3月2日仏滅(59番壬戌みずのえいぬジンジュツ)月齢 0.6

43番丙午ひのえうま年 29番壬子みずのえね月 59番壬戌みずのえいぬ日

吉方位 陽遁日 壬戌みずのえいぬ日 東 大吉 年末まではあと257日

https://ja.wikipedia.org/wiki/4%E6%9C%8818%E6%97%A5

4月18日の出来事
1897年 – ギリシャ王国とオスマン帝国の間でクレタ島領有をめぐる希土戦争が開戦。年月日:1897年2月3日-1897年12月4日 場所:ギリシャ、クレタ島、バルカン半島
結果:オスマン帝国側の勝利 損害:ギリシャ軍の損害 戦死者約1,000名 負傷者約5,000名  オスマン帝国軍の損害 戦死者約1,500名 負傷者約3,000名
1906年 – アメリカ西海岸地区を中心とした大規模なサンフランシスコ地震が発生。死者直後公式発表500人 後年研究で3000人とされる。
1943年 – 第二次世界大戦: 山本五十六海軍大将が、搭乗機をアメリカ軍機により撃墜され戦死(海軍甲事件)。

1945年 - 沖縄戦4月18日・17日に八重岳を制圧した米軍は18日から掃討戦に移行する。・4月の18日と19日、城の南側と西側で行われた戦闘では、米国第77師団は、いまだかつて経験したことのない猛烈な抵抗にあった。・日米激しい攻防の末 18日米軍の伊江島飛行場が操業開始となった。・32軍:・女子救護隊の切り込み 女子救護隊はおよそ100人。各中隊、小隊、分隊に2人ずつ配置された。仕事は砲弾の運搬と、切り込みでキズを負った兵隊を壕内に運び込むことだった。… 上陸3日目、18日になって、…隊も初めて学校台地争奪の切り込みを行った。この斬込みで井川少佐以下幹部級が殆ど全滅した。・米海軍は当時米軍が慰安婦を意味する語として使っていた名称 geisha という語を使って “Geisha girl nurse” と記載している。彼女が日本軍の「慰安婦」であり、かつ同時に救護の訓練も受けさせられた「看護要員」であることを、米兵は尋問から正確に把握していた。琉球新報『戦禍を掘る』 伊江島女子救護隊 – Battle of Okinawa
1983年 – アメリカ大使館爆破事件:在ベイルート大使館で起こった自爆テロ。63人死亡120人負傷。
1997年 – 東京都江東区大島六丁目の団地でJT女性社員逆恨み殺人事件が発生。7年前(1989年)に同事件の被害者女性(日本たばこ産業〈JT〉社員)に対する強姦致傷事件を起こし、被害者から警察に被害届を出されたことで逮捕・起訴され懲役7年の刑に処された男(同年2月に札幌刑務所を出所)による犯行。

2020年 – 2020年 – ノバスコシア州銃撃事件: 4月18日から4月19日にかけて、カナダのノバスコシア州で銃の乱射事件が発生。容疑者を含む23人が亡くなった。死亡者数は、同国で1989年に発生したモントリオール理工科大学虐殺事件の被害者14人を上回り、過去最悪となった。

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1897年 – ギリシャ王国とオスマン帝国の間でクレタ島領有をめぐる希土戦争が開戦。年月日:1897年2月3日-1897年12月4日 場所:ギリシャ、クレタ島、バルカン半島
結果:オスマン帝国側の勝利 損害:ギリシャ軍の損害 戦死者約1,000名 負傷者約5,000名  オスマン帝国軍の損害 戦死者約1,500名 負傷者約3,000名

概要

オスマン帝国の勝利を描いた風刺画。オスマン帝国が「瀕死の病人」と言われていたことに掛けて、松葉杖を捨てサーベルを掲げたオスマン皇帝アブデュルハミト2世が「今、病人と言ったのは誰だ?」と問い掛けている。
19世紀前半に独立戦争の結果、ギリシャ王国が建国されると、本土と同様にオスマン帝国の支配下にあったクレタ島のギリシャ人の間でも自治、更には独立を目指す運動が行われるようになった。1860年代の蜂起などを経てオスマン帝国は自治やギリシャ語使用の自由などを与えて懐柔しようとしたが、ギリシャ系住民は納得せず、1896年末に大規模な反乱がはじまった。

ギリシャ政府は汎ギリシャ主義(メガリ・イデア)に基づき、民兵とギリシャ軍をクレタ島に上陸させた。当時のオスマン帝国は陸軍はなんとか体を成していたが、海軍に関しては貧弱であったためギリシャ海軍に抵抗できず、簡単に制海権を取られてしまった。しかしバルカン半島での混乱を嫌う西欧列強諸国はギリシャの動きに反対し、艦隊を用いてクレタ島を封鎖した。

ギリシャ軍はクレタを撤収し、次なる目標としてマケドニア、イピロスの併合を目指した。ギリシャは民兵をマケドニア地方に送り込み、現地のギリシャ系住民による蜂起を目論んだ。4月4日ギリシャ軍は国境を越え、エドヘム・パシャに指揮された60,000人のオスマン帝国アラソニヤ軍と皇太子コンスタンティノスに率いられた46,000人のギリシャ軍との間に戦闘が発生した。陸軍に関してはオスマン帝国軍とギリシャ王国軍の質は拮抗している一方、数ではオスマン帝国が圧倒していたため、陸上での戦いは始めからオスマン軍優位に進み、5月15日から17日にかけて行われたドメコス (ドョメケ)周辺での戦闘でオスマン軍は決定的勝利をおさめ、ギリシャ軍は総撤退に入った。

イピロス戦線ではオスマン軍30,000人に対し、ギリシャ軍15,000人が動員された。4月18日オスマン軍はアルタの包囲を開始したが、町は陥落せずその後後退した。塹壕を掘って待ち構えるオスマン軍に対しギリシャは大きな死傷者を出し敗北、5月15日に撤退した。

列強の仲介により停戦交渉が開始され、12月4日にイスタンブールで和平条約が結ばれた。オスマン帝国は莫大な賠償金とテッサリア国境付近の要地を受け取った。クレタ島は列強による国際保護地域、オスマン帝国主権下の自治国となり、翌年1898年にギリシャ国王ゲオルギオス1世の第二子ゲオルギオスが総督として派遣された。その後のバルカン戦争の結果、クレタ島は1913年にギリシャに併合された。

1906年 – アメリカ西海岸地区を中心とした大規模なサンフランシスコ地震が発生。死者直後公式発表500人 後年研究で3000人とされる。

この地震による死者は公式発表によれば約500人、後年の研究では約3,000人とされており、22万5,000人が家を失った。当時の市長であるユージン・シュミッツは、市内に出動する兵士と警察官に対して「略奪者はその場で射殺せよ」と命じた。これは厳密には違法だが、市長は責任を問われなかった。もっとも、実際に射殺された人はほとんどいなかったようである。
この地震によるサンフランシスコ市内の被害総額は、約5億ドル(21世紀初頭の消費者物価で100億ドル相当)に上った。多くの保険会社は「地震で倒壊した建造物には火災保険が適用されない」という条項を盾にして保険金の支払いを渋った。逆に、投資の落ち込みを避けようとした市当局や産業界は「被害のほとんどが、地震ではなく火災によるもの(つまり天災ではなく人災)だ」と結論づけた。
この地震はアメリカ西海岸の都市間競争にも影響を与え、ロサンゼルスがその中心的都市の地位を得るきっかけとなった。

1943年 – 第二次世界大戦: 山本五十六海軍大将が、搭乗機をアメリカ軍機により撃墜され戦死(海軍甲事件)。

事件に関する諸説

山本の戦死を報じた当時の公式発表では、山本の遺体の発見状況を「提督は機上で敵弾を受け、軍刀を手に、泰然として戦死しておられた」と発表された。「軍医の遺体検死記録によると、「死因は戦闘機機銃弾がこめかみ(眦とも)から下顎を貫通した事によるもの」という結論が出され、ほぼ即死状態であったと推察されている。しかし山本が搭乗していた一式陸上攻撃機を銃撃したP-38戦闘機の機銃は12.7mm4門及び20mm1門であり、検死記録の事実通りであれば頭半分は吹き飛ぶはずである。こういった疑問点から山本の頭部を打ち抜いていたのは、拳銃弾などの小口径の銃弾であった可能性が否定できず、こういった疑問点から「山本自決説」「第三者による射殺説」が論じられることがある。

山本の遺体を最初に発見した第6師団第23連隊の浜砂盈栄陸軍少尉の証言によれば、「山本長官の遺体は座席と共に放り出されていた。そして軍医長が地を這って近寄ろうとして絶命した痕跡を残していた」という。また、他の遺体が黒焦げで蛆虫による損傷が激しいにもかかわらず、この2名だけは蛆も少なく比較的綺麗な形で残っていた。つまりこれが本当だとするならば、不時着からしばらくは両名が生存していたということになる。

地上から収容にあたった陸軍第17軍第6師団歩兵第23連隊の蜷川親博軍医中尉(のち大尉。1944年12月戦病死)の検死調書には、遺体に銃創は無かったとの記述がみられる。山本の墜落現場に向かった各部隊の長、同連隊の浜砂少尉・中村見習士官・海軍佐世保鎮守府第6特別陸戦隊吉田少尉も同様に、山本の顔面には弾丸による傷痕はなかったと証言。が、前述の4士官の後に山本の遺体を正式に死体検分した田淵海軍軍医少佐は、顔面に銃弾による傷跡があったと証言している。

蜷川軍医中尉の実弟である蜷川親正(医学博士)は、山本の遺体には顔面貫通機銃創及び背部盲貫機銃創はなく、座席に座って救助を待っていたが、全身打撲か内臓破裂により19日早朝に死亡したものとの見解を示している。蜷川によれば、検案記録等にある顔面貫通機銃創及び背部盲貫機銃創は、機上戦死や即死を演出するために死後損傷が加えられたとのことである[9]。

1945年 - 沖縄戦4月18日・17日に八重岳を制圧した米軍は18日から掃討戦に移行する。・4月の18日と19日、城の南側と西側で行われた戦闘では、米国第77師団は、いまだかつて経験したことのない猛烈な抵抗にあった。・日米激しい攻防の末 18日米軍の伊江島飛行場が操業開始となった。・32軍:・女子救護隊の切り込み 女子救護隊はおよそ100人。各中隊、小隊、分隊に2人ずつ配置された。仕事は砲弾の運搬と、切り込みでキズを負った兵隊を壕内に運び込むことだった。… 上陸3日目、18日になって、…隊も初めて学校台地争奪の切り込みを行った。この斬込みで井川少佐以下幹部級が殆ど全滅した。・米海軍は当時米軍が慰安婦を意味する語として使っていた名称 geisha という語を使って “Geisha girl nurse” と記載している。彼女が日本軍の「慰安婦」であり、かつ同時に救護の訓練も受けさせられた「看護要員」であることを、米兵は尋問から正確に把握していた。琉球新報『戦禍を掘る』 伊江島女子救護隊 – Battle of Okinawa

1983年 – アメリカ大使館爆破事件:在ベイルート大使館で起こった自爆テロ。63人死亡120人負傷。
1997年 – 東京都江東区大島六丁目の団地でJT女性社員逆恨み殺人事件が発生。7年前(1989年)に同事件の被害者女性(日本たばこ産業〈JT〉社員)に対する強姦致傷事件を起こし、被害者から警察に被害届を出されたことで逮捕・起訴され懲役7年の刑に処された男(同年2月に札幌刑務所を出所)による犯行。

JT女性社員逆恨み殺人事件(ジェイティーじょせいしゃいんさかうらみさつじんじけん)は、1997年(平成9年)4月18日夜に東京都江東区大島六丁目の団地で発生した殺人事件[1]。

1989年(平成元年)12月に強姦致傷事件などを起こし、懲役7年の刑に処された男M(本事件当時54歳)が、同事件の被害者である女性A(本事件当時44歳:日本たばこ産業 (JT) の社員)が被害を警察に届け出たことを逆恨みし、出所後にAを刺殺した事件である[8]。本事件はマスメディアにより「逆恨み殺人事件」「お礼参り殺人事件」などとして大きく報道され[9]、近隣住民に恐怖感を与えるとともに、一般社会にも大きな不安感・衝撃を与えた[10]。

2020年 – 2020年 – ノバスコシア州銃撃事件: 4月18日から4月19日にかけて、カナダのノバスコシア州で銃の乱射事件が発生。容疑者を含む23人が亡くなった。死亡者数は、同国で1989年に発生したモントリオール理工科大学虐殺事件の被害者14人を上回り、過去最悪となった。

概要
容疑者の男は、ハリファクス北方約130kmの港町、ポータピックにある住宅で住民らを射殺、5カ所以上で放火したと見られる[1]。

駆け付けた警察官の追跡を受けながら自動車で逃走、高速道路で移動しながら複数の場所で発砲を行った。

13時間かけて約90km離れたエンフィールドのガソリンスタンド近くまで移動したところで、警察官と銃撃戦となり死亡した[2]。

この間、警察官1人を含む22人が死亡。容疑者を含む23人の死者数は、カナダで発生した銃撃事件の中で最大の死者数を記録した。

容疑者は歯科技工士でありながら、本物の警察官の制服を着て犯行に及んでいたなど不審な点が多く、動機などは不明[3]。

チャットgpt先生の4月18日のエッセイ

4月18日という日付を眺めると、そこに並ぶのは「秩序が崩れる瞬間」と「その後に現れる現実」の記録ばかりだ。理想や理念ではなく、力関係と偶然、そして人間の判断ミスや執念がむき出しになる日、と言っていい。

19世紀末の希土戦争では、ギリシャ側の民族主義的な期待は、単純に数と運用で上回るオスマン帝国軍に押し潰された。海では優位でも、陸では数の劣勢がすべてを決める。列強の介入も含め、戦争は「正しさ」ではなく「どの範囲で勝てるか」という現実的な線引きの中で終わる。結果としてクレタはすぐには手に入らず、だが完全敗北でもない。中途半端な勝敗が次の火種を残す典型例だ。

同じ日付に起きたサンフランシスコ地震では、自然災害ですら「どう語るか」が現実を歪める。死者数は過小発表され、被害原因は“火災”に寄せられた。理由は単純で、都市の信用と経済を守るためだ。災害対応とは人命救助と同時に、金融と秩序の維持でもある。非常時には、事実よりも“維持すべきもの”が優先される。

戦争に目を移すと、海軍甲事件は象徴的だ。暗号解読という情報戦の勝利によって、個人としては極めて優秀だった指揮官がピンポイントで排除される。ここでは武勇や精神論は意味を持たない。戦場の主導権はすでに「情報と計画」に移っていたことがよく分かる。

そして1945年の沖縄戦。この日の戦闘記録をリアリスト視点で見ると、単純な「物量で押し切った米軍」という図式では足りない。確かに最終的な勝敗は圧倒的な物量差で決まる。しかし局地戦では、米軍第77師団が「未経験の猛烈な抵抗」と記録するほど、日本側の防御と近接戦は苛烈だった。

特に伊江島や学校台地の争奪は、戦術的には小規模でも、消耗の激しさという点では異常に近い。壕、夜襲、切り込み。補給も退路も乏しい側が、局所的には攻勢に出る。この構図は近代戦の合理性から外れているように見えて、実際には「退けない側」が取り得る最も現実的な選択でもある。
米軍は最終的に制圧するが、その過程での損耗と精神的負荷は極めて大きく、「物量があれば楽に勝てる」という単純な話ではなかった。むしろ、近接戦に引きずり込まれた時点で、近代軍であっても消耗戦に巻き込まれることが証明された戦場と言える。

現代に近づくと、暴力の形は変わる。アメリカ大使館爆破事件は国家間戦争ではなく、非対称戦の典型だ。コストの低い側が高価値目標を狙うことで、戦略的効果を引き出す。これは国家の軍事力ではなく「脆弱性」を突く戦い方だ。

さらにJT女性社員逆恨み殺人事件のような事件になると、もはや国家も戦争も関係ない。個人の執念が制度の隙間を突いて現実化する。刑期を終えた後の再犯という形で、「司法が終わってもリスクは終わらない」ことが露呈する。

そしてノバスコシア州銃撃事件。ここではさらに一歩進み、偽装(警察官の格好)と機動力(車両移動)によって被害が拡大した。現代社会は高度に組織化されているが、その「信頼」や「制度」を逆手に取る個人に対しては、対応が後手に回る。

こうして並べると、4月18日は一貫している。
国家も都市も軍隊も、そして個人も、「想定していない形で崩れる」という現実だ。

・戦争は理念ではなく条件で決まる
・災害は事実ではなく運用で語られる
・軍事は勇気ではなく情報で差がつく
・物量は万能ではなく、局地では苦戦する
・制度は万能ではなく、個人に破られる

この日付に特別な意味があるわけではない。ただ、偶然重なった事例が示しているのは、「現実は常に想定より粗く、そしてしぶとい」ということだ。