kagamimochi-nikki 加賀美茂知日記
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発心集 第三巻 第9話 樵夫独覚の事 The Outsider Episode33

発心集 第三巻 第9話 樵夫独覚の事 

(しょうふどっかくのこと)—きこりが独りで悟ったこと

以下の話はわりあい近年のことである。今の滋賀県 近江(おうみ)の国の池田というところに身分の低いある男がいた。その男は高齢であったが、とし若い息子がいた。

ある日のことだが

親子二人でつれだって、仕事へと出かけて行った。

二人は、山の奥深くに入っていって、少し長い時間を休憩していた。ときは十月の終わりであった。木枯らしがひどく吹いて、木々の木の葉が雨のように乱れ散っていた。父はこの有様を見て、次のように言った。

「息子よ。木が風に散る様子を見たかね。

木々のありさまを静かに観想して考えてみれば、自分の身のありさまに少しも変るところがない。—というのはだね、

春には若葉が芽吹いたと思って見ているうちにどんどん育っていって、茂っていく。そうして夏になると、木々の茂みは盛りを迎える。八月(旧暦 現在の九月ころ)になると、葉の青色も黄色に変色し始めて、後に紅(くれない)に深く色づいていく。そうして、今十月(旧暦現在の十一月ころ)ともなると、こうして少し風が吹けば 葉はもろくも散っていく。そうして、葉も最後にはすべて落ちてしまい、枯れていってしまう。人である我が身もこれと同じと思うのだよ。」と。

続けて言う。

「十歳ばかりのときというのは、譬(たと)えるならばそれは春の若葉のようなものだ。

二十三十になって盛りのときは、夏になって木々の梢(こずえ)が茂って深い陰をつくって心地よい木陰をつくっている時分のような感じだ。

わたしも、今や齢(よわい)六十余歳となり、黒かった髪の毛も白くなり始めた。皺もできはじめてはりのあった肌の様子も変わってきた。これはつまりだ、秋になって木々の色も紅葉し始めるのと同じだ。今の私の状態は まだ紅葉が 嵐に散っていないというだけのことに他ならない。だから いずれこの紅葉が散ってしまうのは 今日とか明日とかのことに違いない。

このようにだ、人の身というものはまことに儚(はかな)いものであるということを普通は分かろうとしない。そうして、その日をどうにかやり過ごそうとして、朝に夕にことばにいえぬほどの苦しい思いをして、生きるための諸事をこなしていくのである。まあ、それはそれで大変なのであるが、よくよく思えば儚い生の前に 生きるためにあくせく過ごすのは 理由のないことであるからもう終わりにしたいと思う。」と 老いた樵(きこり)は息子に語った。

さらに続けて、

「だから、わたしも今は 家に帰るのもやめにしよう。

このまま、出家して法師になって、ここに居て、この木の状態などを観想しつづけながら静かに念仏して過ごそうと思う。

息子よ、お前は としもまだ若く、前途もまだある身である。だから、このままはやく帰ってしまいなさい。」と語り終えた。

この父の言に対し、息子は次のように言った。

「まことに父上の言われることは道理であります。

父上のおっしゃることは もっともであると思います。しかしながら、ここには庵(いおり)のひとつもありません。また、田畑をつくるための道具や手立てもございません。

およそ、風雨の苦しみや 熊や狼などにたいする恐れを 耐え忍ぶための手段が一つもありません。でありますから、どのようにしてここに父上が 一人で住むことができましょうか。」と。

息子は続けて、

「でありますから、わたしもご一緒して 父上と共に 木の実を拾い、川で水を汲んでお手伝いします。

そうして、父上が ご自分の覚醒往生をかなえたいのであれば、それが実現するように私も助力しましょう。

加えまして、わたしのことですが、今はとしも若く盛りであるとも言えます。しかし、それは夏の木の葉のようなものです。今は盛りといっても結局は 紅葉して散ってしまうことは疑い有りません。

さらに深く考えまするに、

木の葉は 紅葉に色づいた後に散るものであります。しかしながら、人はこの自然の流れの通りとはいかずに、若くして死ぬという事も多くある事です。とすると、人の身というものは木の葉よりもはかないということができます。であるとわかったならば、もうわたしも今更、家に帰ることは出来ません。」と、言った。

これに対し父は

「そういう次第とお前が考えてくれるのであれば、とてもうれしいことである。」とこたえた。そうして、他に人も通わないような深い山の中に、小さな庵を二人でつくってそれぞれ父と子をして一人づつで住んで、朝に夕に念仏を唱えて過ごしたという事である。

このはなしは、ごく最近のことであるので、多くの人が知っていることである。

或る人が次のように言っていた。

「この樵(きこり)の父は既に覚醒往生して生を終えた。

息子の方は まだ 生きて山の中で過ごしている、とのことである。云々(うんぬん)」と。

(20240223訳す)

<訳者よりひとこと>

作者 鴨長明が身近に見聞した 樵の親子の隠者の隠棲のはなしである。

しみじみと、よいお話である。

鴨長明もそうおもって書き記し、残した のだろう。 当時の わりと巷に知られた 伝聞譚のようである。

ごく普通にこういった 出家話があるほど 出家隠棲が珍しくなかった時代の雰囲気がよくわかる。

といっても人ははやりすたりで生きることは愚かである。

はやりすたりで生きるとは 結局他人の評価でおのれの生を左右することになるからである。ただしきことは いかなる世にあってもただしい。道理と条理で 行動できるということが いつの時代にあっても根本義であろう。 

なお、今まで二週間に一度以上のペースで現代語訳をすすめてきたが、

2024年一月になって、遠方の実家の母の様態が悪化し、瞬く間に逝去した。そのごたごたに今まで追われ通常のペースで更新できなくなった。今後ももとから公私ともに貧乏暇なしで多忙が基本であるゆえ、更新頻度が 従来のようにはいかないかもしれない。

まあ、もっとも読者も非常に少なく ネット村のなかでの一人の隠者の趣味的 ブログの読み物なので もっぱら私のペースで今後も進めさせていただく。ただ、ごく少ないとはいえ楽しみに読んでくださる方もいるかもしれぬ。また、語訳の内容に手抜きはないつもりである。