kagamimochi-nikki 加賀美茂知日記
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発心集 第四巻第3話 永心法橋、乞者を憐れむ事 The Outsider Episode 39

発心集 第四巻第3話 (えいしんほっきょう、 こつしゃをあはれむこと)

これは比較的近年のことであるが、永心法橋(えいしんほっきょう伝未詳)という法師がいた。この永心法橋が清水寺(法相宗。観音信仰で有名)に百日参りをしていたときのことである。

ある日日暮れときに鴨川の橋を渡ろうとしたときに、河原から大きな声で泣く人の声が聞こえた。これを聞いた永心法橋(えいしんほっきょう)は、

「この大声の泣き声は、何者がいったいどのようなことを嘆いているのだろうか。」と気になった。特に、自ら今百日参りしている清水寺は十一面観音が本尊でもある。だから、「観音はまずは六道世間の衆生に対して憐れみを第一としている。その観音の徳を仰ぎ奉ってお参りしているこの自分が、情けなくもこの世を嘆いて泣き叫んでいる声の主を訪ねずにいていいものだろうか。いや、だめだ。この大声を無視して通り過ぎてしまったならば、それは許されることではないだろう。」と思ったのである。

そうして、その泣き声の聞こえる方を尋ねていって、声の主の近くにまでたどりついた。そして、「いったい大声で嘆いているのは、何者なのか?」と問いかけた。

これに対して、

「かたわの者でございます。」と泣き声の主から返事があった。(「かたわ」—現在禁止用語ポリティカルコード該当語。身体障害者、不具の者(この語も使用禁止のようである)—この言語を変更すると世の中が変わるとのアホな偽善の現代風潮が変更になる望みを抱きつつ、また歴史的に原文に使用されている語でもあるのであえて、そのまま記す。この動きも、言語への過度の期待 顕教主義の裏返しの現象である。)

「あなたはいったいどのようなことを嘆いて泣いているのか?」と聞いた。

「わたしは、こうしてかたわになってから、親や友達など自分を知っている者たちにことごとく別れを告げました。だから、以前は立ち寄っていたところにも行かなくなってしまいました。そうして、わたしよりも先に かたわになってしまった人たちをたよってここにいるのです。そうして同じかたわ者の家を借りて 住ませてもらっています。しかしです。ここの者たちは一日中このわたしをこき使いこじきをさせるのです。

つらいですが、つらくはあっても、まだかたわ者の生活になれぬわが身です。ですから、また思い直して、ひとさまに物乞いをしてこのいのちを永らえるため、どうにかこじきを為しております。」という。

続けて、

「まあとにかくです。この身の苦しさ辛さは ことばでいいあらわせないほどです。しかるべき場所にてこのやまい(病気)の身を休ませるべきなのでしょうけどね。結局、このやまい(病気)の苦痛に責め苛(さいな)まれて 寝ることもままならないのです。

この身を 切り焼かれるように痛みに苛(さいな)まれ、ずきずきと痛みにうずき苦しんで、全身はいつも焼かれるように熱いのです。このやまいの苦しみを耐え忍ぶこともなかなかできません。けれど、もしや少しでも苦痛を和らげられるかと思って、こうして川の辺(べ)にまで来て、足を冷やしているのでございます。」と、そのこじきの病者はいった。

さらに続けて、

「『いったい いにしえの過去世でどのような逆罪をつくって、このような報いを受けているのだろうか』と、悲しく無念に思っています。

わたしは、その昔、比叡山に住んで かたちばかりではありますが、仏法を学んだりしたこともございました。妙楽大師 湛然(たんねん)の釈の『唯円教意、逆即是順、自余三教、逆順是故』

(ゆいえんきょうい、ぎゃくそくぜじゅん、じよさんきょう、ぎゃくじゅんぜこ  唯 円教の意のみ、 逆縁 即 これ 順縁、自余の三教は 逆縁と順縁と是れなる故)という文(もん)をこの今思い出します。そして、この文(もん)の心はなにであろうかと今でも考え続けております。

(円教—妙法蓮華経、三教—蔵教、通教、別教ようは天台の教判 法華以前の三乗教。法華経以外の三乗教では逆縁だが、法華経によって逆縁が即成仏の順縁になる という意味。深義は更にある。表面意義によっても、天台はありえるが法華専修の日蓮教は邪義とわかる。なぜなら法華専修主義はこの湛然のこころも殺しているから。)

そうすると、おしえの貴さ深さに身の悲惨を忘れて、しゃくりあげ嗚咽(おえつ)を抑えようにも、前後不覚になるほど泣けて泣けて仕方なかったのでございます。」とその不具者は語り終えたのであった。

永心法橋は 以上の話を聞いて、心を打たれ感に極まることこの上なかった。そうして、「同じ比叡山延暦寺で学んだ法の友であったとは 感慨深いことだねえ。」と言って、永心も涙を流しながら みずから着ていた帷子(かたびら上着)を脱いで その不具の病人に受け取らせたのであった。そうして、彼の言った妙楽湛然の釈の言うように 彼の過去の逆縁が 順縁となり成仏できるのであると 丁寧に心を込めて説いて聞かせて、その場を去ったのである。

永心法橋は、「そのことがあってからもうかなり経ちますが、忘れられない出来事であります。」と、語っていた。

(20240507訳す)

<訳者より>

じっくりと読むと しみじみと感動を覚えるおはなしである。

かたわ者が 悲惨な身の上を泣いているのかと思ったが、じつはそうではなかった。

かつて叡山でまなんだ妙楽大師湛然の釈の意義を かたわ者になって地獄のような病者の境涯にあって乞食稼業を強制させられる悲惨この上ない身にあっても、いまだに考え続けており、その教えの深義に感じて声も抑えられず泣いていたというのである。

ここでの『唯円教意、逆即是順、自余三教、逆順是故』は、

法華一乗が それ以外の三蔵教、通教、別教のすべてを生かすという解釈である。この解釈は実は 太陽神教の立場以外にあっては 有名無実の空文である。

空文であるとはつまり、過去世の業悪 悪縁は順縁とはならずそのまま応報の極悪の結果となるのみである。そして、それでまたよしである。この嘘だらけの世界は 応報が貫徹していない。まずは応報を貫徹して【道理】と【条理】で世の実相を見たいものである。これが太陽神教である。しかし、現実には偽善の顕教典の奇跡が強調され応報は貫徹されない。であるからこそ、このような偽りの空文がさも 真のように大手をふるって古来もてはやされる。そして、偽りの救いのマジックとして、逆縁即順縁などというまやかしの教えがさも本当のように語られるのである。まして、天台のこの古釈においても問題があるのに、日蓮に至っては 法華経専修主義にて法華経に反するものはすべて逆縁、しかしその逆縁さえも最終的に救うのが法華経であるから、法華経のみを至上のものとしてこれだけを教えよ、広めよと説く。これ、天台に似て非なる邪義中の邪義である。天台の皮をかぶった反天台。仏教の皮をかぶった外道反太陽神の教えが日蓮教である。多神教に対して一神教の独善のキリシタン実質が日蓮教である。

しかし、真言法華つまり太陽神教の毘盧遮那が法華経の教主となった場合は、この空文が実文になる。つまり、太陽神教のもと【9】の世界においては、すべてのかたよった人類の知の所産が よみがえり、意味のある内容を備えてくる、となる。つまり、太陽系秩序ダルマの理法のもとにあっては、妙法蓮華経は名実ともの円教となり、すべてを生かす。故に順縁も逆縁になる、という理法も本当に生きとなるのである。ただ毘盧遮那の真言法華においてのみ妙法蓮華経という魔典も円教である。

まあ、本編の不具者 病者は 生きるか死ぬかのぎりぎりの毎日を 送っている。このような者の思いに 観音=女神の行者 永心法橋が介在し、この湛然の『唯円教意、逆即是順、自余三教、逆順是故』は 本人も知らず、女神観音の力を経て、毘盧遮那の法華真言の妙法蓮華経の文句となって 彼の救いの理法となったと解する。

ここにも、中古中世の無名の「性エネルギー昇華秘法」実践者の 市井でのけなげな命がけの生きざまがみられるのである。であるがゆえに、この物語は 同じく「性エネルギー昇華秘法」の実践者である私の心をうつ。

名編の多い発心集のなかでも 特に心を打つハナシのひとつでありました。