12月1日
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12月1日の出来事
1934年 – ロシア共産党中央委員会書記セルゲイ・キーロフが暗殺。スターリンによる大粛清の契機となる。
1937年 – 大阪市営渡船、桜島発天保山行き「第三桜島丸」(11.5トン)が悪天候と定員超過が重なり沈没[2]。死者・行方不明者57人。
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1934年 – ロシア共産党中央委員会書記セルゲイ・キーロフが暗殺。スターリンによる大粛清の契機となる。
セルゲイ・キーロフ暗殺事件(セルゲイ・キーロフあんさつじけん、Убийство Сергея Кирова, ウヴィーストヴァ・シェルゲーヤ・キーラヴァ)とは、1934年12月1日、レニングラードにあるスモーリヌイ修道院(ロシア語版)レニングラード党本部の建物にて、ボリシェヴィキ全連邦共産党中央委員会書記の一人であるセルゲイ・キーロフ(Серге́й Ки́ров)が、同じく共産党員であるレオニード・ニコラーエフ(ロシア語版)の手で殺された出来事を指す[1]。
暗殺
レオニード・ニコラーエフは、1934年10月15日にもキーロフの殺害を試みたことがあった。この日、ニコラーエフはカメンノーフストロフスキー大通り(ロシア語版)にあるキーロフの自宅付近で警備員に取り押さえられ、尋問を受けたが、党員証と武器の使用許可証を提示すると釈放された[2]。
1934年12月1日午後4時30分過ぎ、ニコラーエフは、スモーリヌイ修道院(ロシア語版)の3階の廊下、キーロフの執務室の近くで待ち伏せしていた。午後4時37分ごろ、キーロフが姿を現わすと、ニコラーエフは背後から近付き、回転式拳銃の引き金を引いて至近距離からキーロフの頭部に銃弾を撃ち込んだ。この直後、ニコラーエフは銃で自殺しようとするも失敗し[3]、意識を失ってその場に倒れた。ニコラーエフはショック状態のまま現場で拘束され、第二精神病院に搬送された。午後9時頃、ニコラーエフは意識を取り戻した。
キーロフ殺害の知らせを受けて、ヨシフ・スターリン(Иосиф Сталин)は直ちに急行列車に乗り、レニングラードへ向かった。ヴャチェスラーフ・モロトフ(Вячесла́в Мо́лотов)、クリミェント・ヴォロシーロフ(Климе́нт Вороши́лов)、アンドレイ・ジダーノフ(Андрей Жда́нов)、アンドレイ・ヴィシンスキー(Андрей Вышинский)、ゲンリフ・ヤゴーダ(Генрих Ягода)、ニコライ・エジョフ(Никола́ Ежо́в)、ヤーコフ・アグラーノフ(Яков Агранов)が付き従った[4]。
12月2日の早朝に現地に到着したスターリンはニコラーエフの元へ向かい、ニコラーエフに対して直接尋問した[5][6]。
スターリンからの指令を受けて、ニコライ・エジョフが事件の捜査を指揮した[7]。内務人民委員部長官のゲンリフ・ヤゴーダとその部下たちは、「リェフ・カーメネフ(Лев Каменев)とグリゴーリイ・ジノーヴィエフ(Григо́рий Зино́вьев)がキーロフ殺害に関わっている」とするスターリンの見解を「穏やかに」妨害しようとした。チェキストたちから不満の声が出たことにより、エジョフは捜査を「正しい方向」に軌道修正しようとした。1937年2月から3月にかけて開催された党大会の場で、エジョフはこの事件について触れ、「スターリンが自分とアレクサンドル・ヴァシーリエヴィチ・コサレフ(ロシア語版)を呼び、『ジノーヴィエフ派の中から犯人を探し出せ』と指示された」と語っている[8]。
キーロフ殺害の翌日、ソ連の新聞は「キーロフは『労働者階級の敵の卑劣な攻撃の犠牲となった」と報道した[9]。1934年12月4日、ソ連の新聞は、ソ連中央執行委員会幹部会による決定について報じた。「連邦共和国の現行刑事訴訟法の改正について」と題された決議が発表され、「捜査当局は、テロ行為の準備または実行の容疑で告発された者たちの事件の捜査について迅速に進めるべきであり、司法当局は刑の執行を遅らせないようにする」と書かれた。この法令により、裁判所はテロリズムの容疑に対しては10日以内に刑事訴訟を開始するよう義務付けられ、当事者や証人が不在の状態でも審問が実施できるようになった。控訴や請願は許されず、即時に死刑が執行されるようになった[5][9][10][11]。
1934年12月28日から12月29日にかけて、ソ連最高裁判所軍事諮問委員会(ロシア語版)の法廷が開かれ、ニコラーエフに加えて13人の人物が被告人として出廷した。彼らはいずれもキーロフ殺害の準備の陰謀に加担した罪で起訴された。キーロフの殺害はのちに「レニングラード本部事件」と呼ばれた[12]。法廷の議長を務めたのはヴァシーリー・ウルリフ(Васи́лий У́льрих)であった。ニコラーエフが自白の内容を認めたのは、他の被告が不在の状況下でウルリフがニコラーエフを尋問したときのことであった。1934年12月29日午前5時45分、ニコラーエフ以下全員に死刑が宣告され、その一時間後に銃殺された。判決を聞いたニコラーエフは「残酷だ!」[13][14]、「嵌めやがったな!」と絶叫した[5][11][12][15]。
レオニード・ザコーフスキー(Леонид Заковский)がレニングラード内務人民委員部の長官に任命され、レニングラードに到着すると、「『トロツキー派・ジノーヴィエフ派』に属している」として、身に覚えのない不当な逮捕が始まった。レニングラードで働いていたチェキストたちは、「名前が『ニコラーエフ』という理由だけで、多くのソ連国民が逮捕され、国外追放処分や銃殺刑に処せられた」と語った。これはザコーフスキーの命令であったという[16]。
ニコラーエフの親族の運命
ニコラーエフの妻、ミルダ・ドラウレ(ロシア語版)は、1901年8月、ロシア帝国時代のサンクト・ピチェルブルクにて、ラトヴィア人の家庭に生まれた。1919年にソ連共産党(ボリシェヴィキ)に入党し、1925年にレオニード・ニコラーエフと結婚し、1927年に長男・マルクス、1931年に次男・レオニードを産んだ。彼女はスモーリヌイ修道院にて、技術者として働いていた。夫が逮捕されると、彼女は党を除名されたのち、捕らえられ、尋問を受けたのち、1935年3月10日に銃殺刑に処せられた[17]。ミルダの妹・オルガとその夫・ローマンも銃殺された[18]。
ニコラーエフの母親、二人の姉妹、妹の夫、ニコラーエフの兄の妻とその妹、その妹の夫、ニコラーエフの隣人、彼らはいずれも銃殺されたか、刑務所に送られて死亡した[6]。
1990年8月13日のソ連大統領令に基づき、ミルダ・ドラウレは名誉回復がなされた。ソ連の検察当局は、セルゲイ・キーロフの殺害にはミルダは関与していない、と断定した[19]。ニコラーエフの親族たちも名誉回復を受けた[20]が、ニコラーエフ本人は名誉回復されていない[19][20]。
キーロフ暗殺に対するスターリンの公式の対応は、嫌疑のかかっているスパイと反革命分子を探し出すことで安全対策を強化するというものであった。しかし実質的には、スターリンは自身の指導体制を脅かすことになる可能性のある者たちを排除していったのだった。スターリンは自身の生立ちから人一倍コンプレックスを強く感じるゆえ、異常なまでの権力欲と顕示欲の塊であり、その目的を達するためなら手段を全く選ばなかったのである。この過程は、それから広範にわたる追放へと変移していった。キーロフの暗殺は、1936年8月から1938年11月まで続くことになる大粛清の前兆であった。
「人民の敵」
キーロフが暗殺されると、スターリンはトロツキー、カーメネフ、ジノヴィエフを含めた自身の反対勢力者たちを陰謀に巻き込むための構想を抱いた[247]。調査と裁判は拡大していった[248]。1934年1月の第17回党議会においては過半数の代議員が彼の言いなりであった[244]。見せしめの裁判あるいはトロツキーやレニングラードの政治局員セルゲイ・キーロフの暗殺のあとに法律を改定する[244]。この党大会で選出された党中央委員会の委員および中央委員候補139人のうち、98人が逮捕・銃殺された。党大会の党員1956人のうちの1108人が「人民の敵」(ロシア語враг народа, “vrag narodaヴラグ ナローダ”)(en:Enemy of the people)という烙印を押され、秘密裁判で死刑判決を受けると直ちに処刑された。スターリンは、裁判所に対して「人民の敵」と判断した者には死刑判決を下すこと、そしてただちに死刑を執行するよう命令していた。取り調べの際には「肉体的圧迫」、すなわち拷問を用いることを認め、罪を認めない者には拷問によって力ずくで「罪」を認めさせた。
スターリンは、起訴や弁護人による訴えなしによるわずか10日間の調査で刑を迅速に執行できるようにする『テロ組織とテロ行為』という新しい法案を可決した[249]。その後、モスクワ裁判として知られる複数の裁判が開かれたが、その手続きはソ連全土にわたって模倣された。反革命活動の禁止を記載した法律の第58条は、幅広くあらゆる態度・物腰に適用された[250]。根拠薄弱な口実として火事が起きただけで「破壊活動とみなされ逮捕されるケースが存在した。もっとも、多くの場合は誰かに「人民の敵」(「人民のための党を裏切るのは、人民の敵である」)の烙印を押し付けるだけで十分であった。そして国民の迫害・虐待が始まり、死とまではいかなくとも、しばしば尋問、拷問、そして国外追放にまで及んだ。ロシア語のトロイカには、NKVDの下に置かれる3つの委員会によって裁判はすぐに単純化され、刑は24時間以内に執行される、という新たな意味が加わった[249]。
共産党中央政治局の最高責任者の座に君臨していたスターリンは権力をほぼ絶対的なものまでに強化し、政治的反対者、自身のイデオロギーに反対する者、ボリシェヴィキ中央委員会の古参党員たちを策略によって逮捕・追放した。スターリンは大粛清を、日和見主義者と反革命分子を追放する試みとして正当化した[251][252]。党による粛清の標的とされた者たちはNKVDトロイカによる公開裁判後に矯正労働キャンプ(グラグ)への収容あるいは処刑という、より厳しい措置が取られた[251][253][254]。
軍事指導者たちの多くは反逆罪の判決を受け、赤軍の陸軍将校の大粛清に繋がっていく[255]。あまりにも多くの、かつて高い地位にいた革命家たちや党員への粛清はレオン・トロツキーをして「スターリン政権とレーニン政権とは『血の川』によって隔てられてしまった」と言わしめた[256]。トロツキーは「スターリンは反対者の意見にではなく、その頭蓋骨に攻撃を加える」との言葉も遺している[257]。
1937年 – 大阪市営渡船、桜島発天保山行き「第三桜島丸」(11.5トン)が悪天候と定員超過が重なり沈没[2]。死者・行方不明者57人。
チャットgpt先生の12月1日のエッセイ
12月1日のエッセイ
1934年の12月1日、ロシア共産党中央委員会書記であるセルゲイ・キーロフが暗殺されました。この出来事は、スターリンによる大粛清の契機となりました。キーロフはボリシェヴィキ全連邦共産党の中でも重要なポストにあり、彼の暗殺は政治的な地殻変動を引き起こしました。
暗殺犯は共産党員であるレオニード・ニコラーエフであり、彼はキーロフの自宅近くでの暗殺未遂事件が先行していました。しかし、その後、1934年12月1日にキーロフはスモーリヌイ修道院で射殺されました。ニコラーエフはその場で自殺を試みましたが失敗し、意識を失ってしまいました。
キーロフの暗殺はスターリンによる政治的な浄化の始まりであり、その後の大粛清につながっていきます。スターリンは直ちに急行列車でレニングラードに向かい、事件の捜査を指揮しました。彼は政敵や反対勢力を粛清する口実としてキーロフの暗殺を利用し、党内での権力を強化しました。
その後の数年間、スターリンの指導のもとで、多くの共産党員や政治家、軍の指導者が逮捕され、粛清されました。大粛清は裁判なしで逮捕・処刑が行われ、数千人に及ぶ共産党員や市民が犠牲になりました。スターリンは「人民の敵」とされた者たちを迅速に排除し、自らの絶対的な権力を確立しました。
12月1日のもう一つの出来事は、1937年に大阪市営渡船「第三桜島丸」が悪天候と定員超過のために沈没し、57人の死者と行方不明者を出したことです。この事故は悲劇的な出来事であり、自然の過酷さと技術的な課題が組み合わさった結果でした。
12月1日は歴史的な出来事が複数重なった日であり、特にキーロフの暗殺がその後の政治的な動向に大きな影響を与えたことは注目に値します。