kagamimochi-nikki 加賀美茂知日記
慶祝と美とグノ-シスの弥増す日々
日々の過去の出来事

今日という日7月12日 2006イスラエルのレバノン侵攻、ほか写真wikipediaイスラエルの空爆

7月12日

20260712日曜日旧暦5月28日友引(24番丁亥ひのといテイガイ)月齢 27

43番丙午ひのえうま年 32番乙未きのとひつじ月 24番丁亥ひのとい日

吉方位 隠遁日 丁亥ひのとい日 北 北東 北西 大吉 年末まであと172日

https://ja.wikipedia.org/wiki/7%E6%9C%8812%E6%97%A5

7月12日の出来事

1191年 – 第3回十字軍: アッコンが陥落し、2年に及ぶアッコン攻城戦が終結。

時             1189年8月28日 – 1191年6月12日

場所        アッコン

北緯32.9275度 東経35.0817度座標: 北緯32.9275度 東経35.0817度

結果        十字軍の勝利

損害 十字軍 59000人中 戦死19000人 アイユーブ朝 50000人中 戦死 5000~10000人

1562年 – ユカタンの司教ディエゴ・デ・ランダがインディオの異端尋問を行い、多数のマヤの絵文書の焚書を命じる。

1441年(嘉吉元年6月24日) – 嘉吉の乱: 播磨守護・赤松満祐が室町幕府将軍・足利義教を自邸に招き謀殺。享年48歳。

1690年(ユリウス暦7月1日) – ウィリアマイト戦争: ボイン川の戦い。

戦争:ウィリアマイト戦争

年月日:1690年7月1日(グレゴリオ暦7月12日)

場所:アイルランド王国、ドラハダ近郊

結果:ウィリアマイトの勝利

損害:ジャコバイト軍 25000人中 戦死1500人 ウィリアムマイト軍 36000人中 戦死750人以下

1899年 – 吉野川が増水して各地で堤防が決壊。一条町では小学校や多数の人家が流失。死傷者197人、浸水家屋多数、田畑の収穫皆無[1]。

1945年 – 第二次世界大戦・日本本土空襲: 敦賀大空襲。日本海側沿岸の都市としては最初の空襲。死者は109名、負傷者は201名

1945年 – 第二次世界大戦・日本本土空襲: 宇都宮大空襲。600余名が死亡

1945年-沖縄戦7月12日・日本の敗残兵の多くは、北部には健全な日本軍部隊がいるはずと信じたが、そもそもそんなものは存在しなかった。やんばるに残る敗残兵は食糧を求めてさまよい、一方、その敗残兵を追い詰める米軍の掃討戦が続いていた。<引用先原文>・近藤一さん「こんなバカな戦争にね、行った若い者はね、本当に、無駄死にというかね。あと5分、10分で自分は亡くなるんだと分かっていても、俺は切り込みにいくよと。これはお別れだなと。死ぬと言うことが分かっていても、命令されれば行くんだと。そういう思いでみんな亡くなった・・・そういう、最前線の苦しい想いとか、酷い戦争の状態は・・・今の日本国民は知ろうともしないし、何とも思っていない。」

250人の部隊で、生き残ったのは11人。近藤さんは、戦後、新聞や本で、沖縄戦が、本土決戦の時間稼ぎのための捨石作戦だったと知ることになります。

近藤一さん「我々は捨てられた兵隊だと。その考えは全然変わらないです。彼らが戦争を始めても、(彼らは) 犠牲にはならない。我々、貧乏の人、末端の人がみんな犠牲になる。こういう図式を絶対に変えなきゃいかんというのが私の本音なんです。」<戦後70年遠ざかる記憶近づく足音 95歳元日本兵が伝えたい思い – QAB NEWS Headline>・毎日、新たに捕虜になった日本兵がトラックで送り込まれてくる。知り合いはいないか。片山さんは柵にへばりついて、見知った顔を捜すのが日課となった。「そしたら、隊長を見つけたんですよ。具志頭の陣地で、斬り込み前にたばこをくれた隊長を。僕に『後始末』を指示した人やね。もうびっくりしたですよ。向こうも『片山、生きとったか』って言うてね。… ほかの兵隊がどうなったかは聞きませんでした。でも、生きていれば出会っているはずや。まさか隊長だけ生きてるなんてなあ。斬り込みの途中で負傷して、アメリカの治療を受けたらしい」<玉砕せよ ~沖縄戦~ 具志頭でのできごと – Battle of Okinawa>・7月12日現在の犠牲者数の算定

爆撃、砲撃、その他の戦争の緊急事態による民間人の死傷者数を正確に見積もることはできないが、特に戦闘中に日本軍の戦線の背後に閉じ込められた人々の被害が非常に大きかったことは間違いない。乏しい食料と劣悪な衛生環境で長期間洞窟に隠れていたため、特に幼児や高齢者、虚弱者に病気の被害が増えた。おそらく、一定数の民間人が洞窟に閉じ込められた状態にあったと考えられるが、民間人を壕から解放するための努力が今も払われている。

7月12日、沖縄では約26万5,000人の民間人が収容されている。まだ徹底的に調査されていない地域で統計から抜け落ちている人の数を考慮すると、30万人を超える沖縄人が島に生き残ったとは考えにくく、おそらく人口の4分の1にあたる7万5千人から10万人の民間人が死亡・行方不明になっている。この損失が未知の大規模な移民によるものでない限り、彼らのほとんどは戦闘行為から直接的または間接的に生じた何らかの原因で死亡したと結論づけざるをえない。

7月中旬時点で我々の戦線内にいた民間人のうち、12歳未満の子供と45歳以上の老人が総数の大部分を占めていた。成人女性の数は成人男性の数を 2 対 1 をはるかに超える数であり、家族を支えるような年代の男性はほとんどいなかった。<軍医ヘンリー・スタンレー・ベネット「沖縄の民間人における侵略と占領の影響」(1946) – Battle of Okinawa>

・喜屋武岬で兄弟6人を失い、母とはぐれた少女の証言

捕虜になってからはトラックに乗せられ、船のある港へ連れて行かれ、母とは別の船で、宜野座村にある収容所へと連れて行かれた。母とはどこではぐれたかは覚えていないが、宜野座の収容所で再会することができた。出会った時は私のことを死んだと思っていたのか、「生きていたんだね」と喜んだのを覚えているよ。

収容所での生活はとてもつらいものだった。ご飯もしょうゆと水を混ぜたようなスープとおにぎりが1日に一回出るだけ。栄養失調の人は飲み込めないから、食べることができない。たくさんの人が亡くなっていくのを見たよ。<<未来に伝える沖縄戦>収容所で母親亡くす 具志堅トミ子さん(75)〈4〉 – 琉球新報>

1967年 – ニューアーク暴動(英語版)。米ニュージャージー州ニューアークで白人警官による黒人タクシー運転手への暴行事件をきっかけにした黒人暴動が起こり、23名の死者と1500名以上にのぼる逮捕者を出す。

1993年 – 北海道南西沖地震。マグニチュード7.8、死者202人。

2006年 – イスラエル軍によるレバノン侵攻が始まる。

戦争:対テロ戦争

年月日:2006年7月12日 – 9月8日

場所:レバノン南部、イスラエル北部

結果:イスラエルによる捕虜の奪還失敗。停戦。

損害:イスラム軍 300~1000人予備軍10000人 戦死250人~600人 イスラエル軍 地上部隊10000人他に最大30000人 戦死119人。

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1191年 – 第3回十字軍: アッコンが陥落し、2年に及ぶアッコン攻城戦が終結。

時             1189年8月28日 – 1191年6月12日

場所        アッコン

北緯32.9275度 東経35.0817度座標: 北緯32.9275度 東経35.0817度

結果        十字軍の勝利

損害 十字軍 59000人中 戦死19000人 アイユーブ朝 50000人中 戦死 5000~10000人

アッコ包囲戦(アッコほういせん、英語: Seige of Acre 1189-1191)とは、1189年8月、イェルサレム王国国王であるギー・ド・リュジニャン率いる十字軍と創始者サラーフッディーン(サラディン)率いるアイユーブ朝との間で起きた戦い。この戦闘はヒッティーンの戦いでサラディンに大敗したギーがイスラム教徒に反撃したことで起きた戦いであり、のちに行われた第三回十字軍において非常に大きな意味を持った。この包囲戦で十字軍がイスラムに勝利し、サラディンの早期に十字軍国家を壊滅させる計画は失敗することとなった。

1562年 – ユカタンの司教ディエゴ・デ・ランダがインディオの異端尋問を行い、多数のマヤの絵文書の焚書を命じる。

マヤ、アステカなどの絵文書のことをコデックスないし(西)コディセとも呼ぶ。材料は、いちじくなどの木の繊維や樹皮、鹿の皮を利用して両面に白色の石灰を塗って、屏風折りにしている。文字や絵はおそらく先が平たいものと先のとがったものの2種類の硬い筆記具で描かれたと思われる。線描した後に鮮やかな彩色が施された。文書は、基本的には、左から右へ読み、裏返して再び左から右へ読むように作られた。古典期後期のマヤの土器には彩色された絵と文字が一緒になっている絵文書のような土器があることからおそらく古典期段階にも絵文書があったと思われるが、現在は当時のものは一点も伝えられていない。ただし後古典期のものはいくらかは残されており、暦、儀礼、神話、交易や貢納に加えて動物や植物についての記述もある。

1441年(嘉吉元年6月24日) – 嘉吉の乱: 播磨守護・赤松満祐が室町幕府将軍・足利義教を自邸に招き謀殺。享年48歳。

嘉吉の乱(かきつのらん)、または嘉吉の変(かきつのへん)は、室町時代の嘉吉元年(1441年)に播磨・備前・美作の守護赤松満祐が室町幕府6代将軍・足利義教を殺害し、領国の播磨で幕府方討伐軍に敗れて討たれるまでの一連の騒乱である。

戦後

足利将軍家

義教の死後、まだ幼少の長男・義勝が継いだが、義勝が程なく病没すると、その弟の義政が継いだ。まだ幼い将軍が2代にわたって続いたことで、足利将軍の実権は低下していくこととなり、絶対的な強権を誇った足利将軍は義教で実質最後となった。

足利義教

足利 義教(あしかが よしのり、旧字体:足利 義敎)は、室町幕府の第6代征夷大将軍[3](在職:1429年 – 1441年)。第3代将軍・足利義満の子。母は側室の藤原慶子。僧侶時代は義円(ぎえん、旧字体:義圓)、還俗直後は義宣(よしのぶ)と名乗った。室町幕府の第3代将軍・足利義満の四男または五男で、第4代将軍・足利義持の同母弟にあたる。

義教は、鎌倉公方の足利持氏と通謀して自身を呪詛しているとして、比叡山延暦寺に攻勢を仕掛けてこれを抑え込み、永享の乱で足利持氏を敗死させるなど、強権的な手法で室町幕府の地位向上に努めた。また自身の肝いりの政策として、高さ四丈(約12m)の雲居寺大仏の再建を行った。将軍と同等もしくはそれ以上の勢威を持った勢力を一掃し、九州や関東にも幕府の影響力を増大させたが、「万人恐怖」とも称される、その強権的な手法は周囲の反感を呼び、最期は守護大名の赤松氏に暗殺された(嘉吉の乱)。以降足利将軍の権威は低下し、彼ほどの実権を持つ将軍は現れなかった。

万人恐怖

足利義教木像(等持院)

義教は苛烈な側面を有しており、些細なことで厳しい処断を行った。主に以下のような例がある。

永享2年、東坊城益長が儀式の最中ににこっと笑顔を作った。義教は「将軍を笑った」と激怒し、益長は所領を没収された上、蟄居させられた。

永享4年、一条兼良邸で闘鶏が行われ、多数の人々が見物に訪れた。そのため義教の行列が通ることが出来ず、激怒した義教は闘鶏を禁止し、京都中のニワトリを洛外へ追放した。

義教は側室日野重子の兄である日野義資に対して青蓮院門跡時代から恨みを持っており、将軍に就任すると義資の所領を没収し、謹慎させた。永享6年2月、重子が義教の嫡子(後の足利義勝)を産むと、伯父になる義資のもとに祝賀の客が訪れた。これを不快に思った義教は訪れた客すべてを処罰した。さらに、6月8日には義資が何者かに斬殺され、首を取られた。犯人については明らかにならなかったが、義教の討手であるという噂が流れた。この噂を流布した参議・高倉永藤は硫黄島へ流刑となった。

比叡山根本中堂の炎上に関する噂を流布することを固く禁じ、その禁に触れた商人は斬首された。

酌の仕方が下手だという理由で侍女(少納言局)は激しく殴られ、髪を切って尼にさせられた[注 13]。

説教しようとした日蓮宗の僧日親は、灼熱の鍋を頭からかぶせられ、二度と喋ることができないように舌を切られた。

猿楽においては、音阿弥を重く用いる一方で、世阿弥を冷遇して佐渡へ配流した。

他にも、「献上された梅の枝が折れた」「料理がまずい」といった些細な理由で庭師や料理人を罰したことが、当時の記録に数多く記されている[41]。

永享6年(1434年)6月、中山定親は日記『薩戒記』において義教に処罰された人間を数え上げているが、公卿59名、神官3名、僧侶11名、女房7名が処罰されたとしている。中には日野西資子といった称光天皇の生母や、皇族、関白なども含まれる。斎木一馬は義教の全統治期間ではこの2倍に上る者が処罰されたとしている。なお、これらの数には武家や庶民は含まれず、総数は相当数に上ると見られている。

これらの事跡は義教が暴君で、恐怖政治を志向したことや、嗜虐性を有していた事を示す逸話として伝えられた。伏見宮貞成親王は『看聞日記』永享7年2月8日条で、商人の斬首について触れ、「万人恐怖、言フ莫レ、言フ莫レ」と書き残している。この「万人恐怖」を義教の時代を象徴する一語と見ることも多い[6]。

1690年(ユリウス暦7月1日) – ウィリアマイト戦争: ボイン川の戦い

戦争:ウィリアマイト戦争

年月日:1690年7月1日(グレゴリオ暦7月12日)

場所:アイルランド王国、ドラハダ近郊

結果:ウィリアマイトの勝利

損害:ジャコバイト軍 25000人中 戦死1500人 ウィリアムマイト軍 36000人中 戦死750人以下

ボイン川の戦い(英: Battle of the Boyne)は、1690年7月1日(ユリウス暦、グレゴリオ暦では7月12日)、ウィリアム3世率いるイングランド・オランダ連合軍と、退位させられたジェームズ2世率いるアイルランド軍の間に行われた戦い。アイルランドのボイン川河畔で行われた。イングランド軍36,000人とアイルランド軍25,000人が戦い、ウィリアム3世が勝利してイングランド王位の保持を決定的なものにした[1]。

ジャコバイトは ジェームズ2世支持者 

ウィリアムマイトは ウィリアム3世支持者

1899年 – 吉野川が増水して各地で堤防が決壊。一条町では小学校や多数の人家が流失。死傷者197人、浸水家屋多数、田畑の収穫皆無[1]。

1945年 – 第二次世界大戦・日本本土空襲: 敦賀大空襲。日本海側沿岸の都市としては最初の空襲。死者は109名、負傷者は201名

1945年 – 第二次世界大戦・日本本土空襲: 宇都宮大空襲。600余名が死亡

1945年-沖縄戦7月12日・日本の敗残兵の多くは、北部には健全な日本軍部隊がいるはずと信じたが、そもそもそんなものは存在しなかった。やんばるに残る敗残兵は食糧を求めてさまよい、一方、その敗残兵を追い詰める米軍の掃討戦が続いていた。<引用先原文>・近藤一さん「こんなバカな戦争にね、行った若い者はね、本当に、無駄死にというかね。あと5分、10分で自分は亡くなるんだと分かっていても、俺は切り込みにいくよと。これはお別れだなと。死ぬと言うことが分かっていても、命令されれば行くんだと。そういう思いでみんな亡くなった・・・そういう、最前線の苦しい想いとか、酷い戦争の状態は・・・今の日本国民は知ろうともしないし、何とも思っていない。」

250人の部隊で、生き残ったのは11人。近藤さんは、戦後、新聞や本で、沖縄戦が、本土決戦の時間稼ぎのための捨石作戦だったと知ることになります。

近藤一さん「我々は捨てられた兵隊だと。その考えは全然変わらないです。彼らが戦争を始めても、(彼らは) 犠牲にはならない。我々、貧乏の人、末端の人がみんな犠牲になる。こういう図式を絶対に変えなきゃいかんというのが私の本音なんです。」<戦後70年遠ざかる記憶近づく足音 95歳元日本兵が伝えたい思い – QAB NEWS Headline>・毎日、新たに捕虜になった日本兵がトラックで送り込まれてくる。知り合いはいないか。片山さんは柵にへばりついて、見知った顔を捜すのが日課となった。「そしたら、隊長を見つけたんですよ。具志頭の陣地で、斬り込み前にたばこをくれた隊長を。僕に『後始末』を指示した人やね。もうびっくりしたですよ。向こうも『片山、生きとったか』って言うてね。… ほかの兵隊がどうなったかは聞きませんでした。でも、生きていれば出会っているはずや。まさか隊長だけ生きてるなんてなあ。斬り込みの途中で負傷して、アメリカの治療を受けたらしい」<玉砕せよ ~沖縄戦~ 具志頭でのできごと – Battle of Okinawa>・7月12日現在の犠牲者数の算定

爆撃、砲撃、その他の戦争の緊急事態による民間人の死傷者数を正確に見積もることはできないが、特に戦闘中に日本軍の戦線の背後に閉じ込められた人々の被害が非常に大きかったことは間違いない。乏しい食料と劣悪な衛生環境で長期間洞窟に隠れていたため、特に幼児や高齢者、虚弱者に病気の被害が増えた。おそらく、一定数の民間人が洞窟に閉じ込められた状態にあったと考えられるが、民間人を壕から解放するための努力が今も払われている。

7月12日、沖縄では約26万5,000人の民間人が収容されている。まだ徹底的に調査されていない地域で統計から抜け落ちている人の数を考慮すると、30万人を超える沖縄人が島に生き残ったとは考えにくく、おそらく人口の4分の1にあたる7万5千人から10万人の民間人が死亡・行方不明になっている。この損失が未知の大規模な移民によるものでない限り、彼らのほとんどは戦闘行為から直接的または間接的に生じた何らかの原因で死亡したと結論づけざるをえない。

7月中旬時点で我々の戦線内にいた民間人のうち、12歳未満の子供と45歳以上の老人が総数の大部分を占めていた。成人女性の数は成人男性の数を 2 対 1 をはるかに超える数であり、家族を支えるような年代の男性はほとんどいなかった。<軍医ヘンリー・スタンレー・ベネット「沖縄の民間人における侵略と占領の影響」(1946) – Battle of Okinawa>

・喜屋武岬で兄弟6人を失い、母とはぐれた少女の証言

捕虜になってからはトラックに乗せられ、船のある港へ連れて行かれ、母とは別の船で、宜野座村にある収容所へと連れて行かれた。母とはどこではぐれたかは覚えていないが、宜野座の収容所で再会することができた。出会った時は私のことを死んだと思っていたのか、「生きていたんだね」と喜んだのを覚えているよ。

収容所での生活はとてもつらいものだった。ご飯もしょうゆと水を混ぜたようなスープとおにぎりが1日に一回出るだけ。栄養失調の人は飲み込めないから、食べることができない。たくさんの人が亡くなっていくのを見たよ。<<未来に伝える沖縄戦>収容所で母親亡くす 具志堅トミ子さん(75)〈4〉 – 琉球新報>

1967年 – ニューアーク暴動(英語版)。米ニュージャージー州ニューアークで白人警官による黒人タクシー運転手への暴行事件をきっかけにした黒人暴動が起こり、23名の死者と1500名以上にのぼる逮捕者を出す。

1993年 – 北海道南西沖地震。マグニチュード7.8、死者202人。

2006年 – イスラエル軍によるレバノン侵攻が始まる。

戦争:対テロ戦争

年月日:2006年7月12日 – 9月8日

場所:レバノン南部、イスラエル北部

結果:イスラエルによる捕虜の奪還失敗。停戦。

損害:イスラム軍 300~1000人予備軍10000人 戦死250人~600人 イスラエル軍 地上部隊10000人他に最大30000人 戦死119人。

レバノン侵攻(レバノンしんこう)は、2006年7月にレバノンのシーア派武装組織ヒズボラがイスラエルに攻撃と侵入を行い、これに対してイスラエル軍が7月から8月にかけてレバノン領内に空爆・侵攻を行った事件である。

「2006年イスラエル・ヒズボラ戦争」、「7月戦争」、「第二次レバノン戦争」などとも呼ばれる。

チャットgpt先生の7月12日のエッセイ

7月12日――勝利の代償と、敗者が背負わされた現実

7月12日を歴史の中で眺めると、理想や理念よりも、「勝利とは何を意味するのか」という現実が繰り返し現れる。

1191年、アッコン包囲戦が終結した。約2年に及ぶ包囲戦は十字軍の勝利で終わったが、その勝利は数万人規模の損害と引き換えだった。中世の攻城戦では、勝利側も壊滅寸前まで消耗することは珍しくない。第三回十字軍は聖地奪回への足掛かりを得たものの、サラディンの勢力を完全に崩すことはできず、戦略的には限定的成功に留まった。歴史は「勝った」という一語で片付けるが、その実態は勝者も敗者も国力を削り合う消耗戦だった。

1562年、ユカタンではディエゴ・デ・ランダによるマヤ文書の焚書が行われた。征服とは土地だけでは終わらない。支配を永続させるには、記録、宗教、言語、歴史そのものを書き換える必要がある。軍事占領の次に来るのは文化の占領であり、焚書は偶発的な破壊ではなく統治手段だった。皮肉なことに、後年デ・ランダ自身が残した記録はマヤ文明解読の重要資料にもなった。破壊者が保存者にもなってしまうのは歴史の複雑さである。

1441年の嘉吉の乱もまた、権力の現実を示している。足利義教は「万人恐怖」と呼ばれるほど強権的だった。暴君と評される一方で、幕府権力は彼の時代に最も強固でもあった。しかし恐怖による統治は、支配者が一度倒れた瞬間に反動を生む。赤松満祐による暗殺は一人の将軍を失わせただけでなく、室町幕府そのものの権威低下を決定づけた。強すぎる個人は組織を強くするが、その個人を失うと組織は急速に弱体化する。

1690年のボイン川の戦いも、戦場の勝敗以上に政治的意味が大きい。ウィリアム3世の勝利によって名誉革命体制は確立され、イギリスの国家運営は大きく方向を定めた。一つの会戦が、その後数百年続く政治秩序の基礎になることは珍しくない。

1899年の吉野川水害は、自然災害もまた社会基盤への試験であることを示している。堤防は完成した瞬間ではなく、洪水の日に真価が問われる。治水とは平時には過剰投資に見えても、有事には国家そのものを支える投資である。

1945年7月12日、日本各地では敦賀、宇都宮への空襲が続いた。この頃には日本本土の防空能力は著しく低下し、制空権を完全に失っていた。都市空襲は軍需施設だけではなく、都市機能そのものを破壊する戦略へ移行しており、終戦直前の日本社会は軍事・経済・生活の全てが崩壊過程に入っていた。

そして沖縄では、戦闘終結宣言後も掃討戦が続いていた。

沖縄戦はしばしば「圧倒的物量で米軍が一方的に勝利した戦い」と単純化される。しかし軍事史として見るなら、それは事実の一部しか表していない。

米軍は圧倒的な海空戦力を投入したにもかかわらず、日本軍は地下陣地、防御陣地、地形利用を徹底し、アメリカ軍が太平洋戦争を通じて経験した中でも最も困難な地上戦の一つとなった。艦砲射撃や航空爆撃だけでは陣地を制圧できず、最終的には歩兵が一つ一つ壕へ突入するしかなかった。アメリカ軍自身の記録でも、その損害は太平洋戦域最大級であり、戦後の本土上陸作戦予測にも大きな影響を与えた。

一方、日本軍も勝利の可能性を持っていたわけではない。沖縄守備軍の主任務は敵撃滅ではなく、本土決戦準備のための時間稼ぎだった。この戦略目的から見れば、現地部隊は最初から消耗を前提とした存在だった。現場で戦う将兵の多くは、自らが戦略的な「捨て石」であることを戦後になって理解することになる。

民間人もその構造から逃れられなかった。

日本軍による住民への壕利用や食糧確保、住民をスパイ視した処刑、あるいは住民が米軍に保護された場合の報復殺害などは、感情論ではなく戦場構造として理解する必要がある。敵に情報が渡ることを恐れれば、軍隊は住民を潜在的な情報源として扱う。これは沖縄だけでなく、第二次世界大戦各地で繰り返された現象だった。もちろんそれは悲劇であり違法行為も含まれるが、「なぜ起きたか」を理解しなければ歴史分析にはならない。

同時に、米軍側も理想的存在ではない。降伏者への誤射、捕虜射殺、住民被害、激しい砲爆撃による大量死など、多くの問題が存在した。戦後日本ではGHQのプレスコードにより占領軍への否定的報道が制限された時期があり、その影響で長く語られなかった事例もある。しかし、だからといって日本軍側の問題が消えるわけでもない。現実の戦場とは、一方だけが善悪を独占する場所ではなく、それぞれが極限状態で合理性と暴力を同時に抱える空間だった。

7月12日時点では、多くの日本兵はなお北部に味方部隊が存在すると信じて山中を彷徨っていた。しかし組織は既に崩壊していた。軍隊は命令系統が失われた瞬間から戦力ではなく、生存を目指す個人の集団へ変わる。その現実は近藤一氏らの証言にも色濃く残されている。

1993年の北海道南西沖地震では、日本は再び自然の猛威を経験した。戦争も災害も、人間社会が「想定外」をどこまで想定できるかを試す点では共通している。

2006年にはイスラエルとヒズボラの戦争が始まる。最新鋭軍隊が非国家武装勢力に苦戦したこの戦争も、沖縄戦とは形を変えた消耗戦だった。圧倒的火力だけでは政治目的を達成できないという現実は、21世紀になっても変わらない。

7月12日を貫く共通点は、「勝者もまた代償を払う」という事実である。

勝敗は記録には一行で残る。しかし、その一行の裏側には、都市を失い、文化を失い、家族を失い、国家の方向性を変えられた無数の人々がいる。歴史は英雄譚でも被害者論でもなく、国家、軍隊、社会、個人がそれぞれ異なる合理性で動いた結果の集積である。7月12日は、その冷徹な現実を最も濃く映し出している一日と言えるだろう。