7月11日
20260711土曜日旧暦5月27日先勝(23番丙戌ひのえいぬヘイジュツ)月齢 26
43番丙午ひのえうま年 32番乙未きのとひつじ月 23番丙戌ひのえいぬ日
吉方位 隠遁日 丙戌ひのえいぬ日 北東 大吉 年末まであと173日
https://ja.wikipedia.org/wiki/7%E6%9C%8811%E6%97%A5
7月11日の出来事
1302年 – 金拍車の戦い(コルトレイクの戦い)。
戦争:フランス・フランドル戦争(英語版)
年月日:1302年7月11日
場所:コルトレイク
結果:フランドル伯国の勝利
損害:フランドル伯国軍 9000人中 戦死100人 フランス軍8000人中 戦死1000人
1804年 – アメリカ合衆国副大統領アーロン・バーと同財務長官アレクサンダー・ハミルトンが決闘を行う。ハミルトンは翌日死亡。享年48歳。
1833年 – オーストラリアでアボリジニ・ヌンガー族(英語版)の戦士イェーガンが、彼の首にかけられた賞金狙いの白人少年により射殺される。
1864年 – 南北戦争: スティーブンス砦の戦い。
時 1864年7月11日-12日
場所 コロンビア特別区
結果 北軍の勝利
損害 北軍 戦死373人 南軍 戦死500人
1935年 – 静岡地震。静岡市・清水市などで死傷者9299人。
1945年-沖縄戦7月11日・米陸軍【訳】日本式のオリエンテーション。沖縄で戦う陸軍第7歩兵師団の兵士たちは、日本兵たちがヨーロッパ戦線に通じていることがわかる書き込みがされた黒板を発見した。左のギザギザの線は、アメリカ軍のドイツへの進撃を示しており、第1軍、第7軍、第3軍の位置がはっきりとチョークで書かれている。右側の線は、ベルリンの近くでソ連の冬の反撃の進展を示しているようだ。ドイツの首都は中央上部の大きな円で示されている。ロシア軍に飲み込まれたブダペストは、右下の円で示されている。バツで区切られた太字の中心線は、米ロ両軍が出会う場所として日本軍が考えたものかもしれない。この黒板は、日本軍はドイツの窮状を知らされていないという通説を覆すものであり、連合軍の作戦について詳細な指導を受けている証拠でもある。しかし、東京を標的にしたアメリカの戦略を示す別の黒板があれば、日本はよりよい教訓を得ただろう。1945年7月11日<写真が語る沖縄 – 沖縄県公文書館>・もう一つの敵:太平洋戦域におけるアメリカ軍のマラリアとの戦い、1942-45年
【訳】太平洋戦線 (PTO) で日本軍と戦う米兵は非常に多くの課題と危険に直面した。戦争の歴史によって見過ごされがちな、これらの中で最も陰湿なものの1つはマラリアです。この病気は、通常、感染した兵士にとって致命的ではないが、戦闘で負傷したかのように、長期間にわたって戦力外の状態にさせる。米陸軍のマラリアとの戦いは、人間 vs. 自然の興味深い物語であり、日本との戦争でのアメリカの成功がかかったものであった。
<The Other Foe: The U.S. Army’s Fight against Malaria in the Pacific Theater, 1942-45 –>・1920年代後半から記録されたデータでは八重山のマラリアによる死者はほとんど見られなかった。しかし日本軍による有病地帯への住民強制移住によって、マラリアが爆発的に拡大した。八重山で1万6,864人が罹患、3,647人が死亡。死亡率は21.5%で、5人に1人以上が亡くなったことになる*5。<引用先原文>・孝子さん一家11人全員がマラリアにおかされ、孝子さんと妹のたった2人だけが生き残りました。西表島への疎開を指揮したのは誰だったのか。二人はこう話します。「ある日、突然島にやってきて、疎開を指揮し、戦後こつ然と姿を消したヤマトンチューがいた」と。…
酒井清輔、別名・山下寅雄。スパイ活動やゲリラ戦などを専門とする陸軍中野学校出身者でした。川満さんは疎開は、住民の安全のためではなく、別の目的があったのではと指摘します。
川満さん「石垣島にいた日本軍の食料を確保するために。住民が邪魔だから西表島に強制疎開させたんじゃないのかという論がある。あの論の推測は高いと思う」
山下軍曹自身もこんな証言を残しています。『殺した牛や馬などを焼いて、軍の糧秣として石垣島へ送り出した』
さらに、驚くべき事実も明らかになりました。当時、沖縄には42人もの陸軍中野学校出身者が送り込まれていたというのです。山下軍曹のように離島に潜伏した者は全部で11人。沖縄全域にわたっていました。その目的とは…。
川満さん「第32軍が壊滅したあとも、彼らが残って持久戦をやると。遊撃戦。いわゆるゲリラですね。西表島に米軍が上陸したら、(波照間の)挺身隊も遊撃させる。そういう計画があったのかな、と僕は考えます」<琉球朝日放送 報道部 » Qリポート 強制疎開迫った人物は>
1951年 – 京都府篠村(現亀岡市)で、集中豪雨によりため池が決壊(平和池水害)。死者、行方不明者75人。
1961年 – フィラデルフィア発デンバー行きのユナイテッド航空859便DC-8型機がデンバーのステープルトン国際空港への着陸に失敗、18名の死亡者と44名の重軽傷者を出す。
1973年 – ヴァリグ・ブラジル航空820便墜落事故。リオデジャネイロ発パリ行きのヴァリグ・ブラジル航空820便ボーイング707型機でパリのオルリー空港への着陸進入中火災が発生、不時着を試みたが滑走路端5キロの地点に墜落し乗員乗客135名中124名が死亡。
1979年 – 日本坂トンネル火災事故。東名高速道路・日本坂トンネル内で玉突き事故で173台が炎上し死者7人。
1991年 – ナイジェリア航空2120便墜落事故。カナダのノリス・エアチャーター便DC-8型機がサウジアラビアのジッダ・キング・アブドゥルアズィーズ国際空港を離陸直後に墜落、乗員乗客261名全員が死亡。なお、この機体は元日本航空のJA8057。
1991年 – 悪魔の詩訳者殺人事件。
場所 日本の旗 日本・茨城県つくば市天王台1丁目筑波大学筑波キャンパス
座標 北緯36度6分32.9秒 東経140度6分8秒
日付 1991年7月11日 (日本標準時)
攻撃手段 刃物による刺殺
死亡者 1人(五十嵐一)
犯人 不明(イランの特殊部隊によるとする説あり)
動機 不明(反イスラム行為に対する報復?)
——————
1302年 – 金拍車の戦い(コルトレイクの戦い)。
戦争:フランス・フランドル戦争(英語版)
年月日:1302年7月11日
場所:コルトレイク
結果:フランドル伯国の勝利
損害:フランドル伯国軍 9000人中 戦死100人 フランス軍8000人中 戦死1000人
金拍車の戦い(きんはくしゃのたたかい、フランス語: Bataille des éperons d’or)は、1302年7月11日にコルトレイクにおいてフランドル(蘭:フランデレン、英:フランダース)の都市連合軍がフランス軍を破った戦い。フランス王フィリップ4世がフランドルを併合しようとした1297年から1314年まで続いたフランス・フランドル戦争(英語版)の中で起きた。戦場に騎士の象徴とされた金拍車が多く残されたため、この名がついた。地名を取ってコルトレイクの戦い(フランス語:クールトレの戦い:Bataille de Courtrai)ともいう。
ベルギーでは、フランドルの独立を守った戦いとして記憶されており、祝日になっている。戦史的には中世ヨーロッパにおいて市民中心の歩兵軍が、初めて重装騎兵である騎士軍を破った戦いとして知られている。
コルトレイクにおける戦闘
フランドル軍は7月9、10日にコルトレイクの攻撃に失敗した後、その近辺でフランス軍を迎え撃った。
フランドル軍は市民兵が中心であり、歩兵9000人、騎士400人だったのに対し、フランス軍は騎士2500人、弩弓兵1000人、パイク兵1000人、その他の歩兵3500人の計8000人であった。当時は騎士は10倍の歩兵に匹敵すると信じられていた。
周辺は溝やぬかるみの有る地形で騎兵に不利であったが、圧倒的優位を確信していたアルトワ伯は攻撃を命じた。最初、フランス軍の歩兵が攻撃をかけ有利に進めていたが、騎士に戦功をあげさせたいアルトワ伯は、歩兵を呼び戻し騎士軍の突撃を行った。しかし、密集方陣を敷いたフランドルの市民軍は統制が取れており、装備も良かったため容易に崩せず、逆に取り囲まれて次々と殺されていった。当時の戦闘では騎士は殺さずに捕虜にして身代金を取るのが普通だったが、市民軍にはその慣習は無く多くの騎士が殺された。
結果
アルトワ伯ロベール、フランス軍司令官ネスレ卿ラウル2世・ド・クレルモンの最高幹部2人を始めとして、2人の元帥、ジャン2世・ド・ブリエンヌなど4人の伯、ジャック・ド・シャティヨン等多くの貴族と1000人近い騎士が戦死したと言う。戦場には騎士の象徴とされた金拍車が多く残されており、フランドル軍はそれをコルトレイクの聖母教会に飾って勝利のしるしとした。
1804年 – アメリカ合衆国副大統領アーロン・バーと同財務長官アレクサンダー・ハミルトンが決闘を行う。ハミルトンは翌日死亡。享年48歳。
マリア・レイノルズ事件とアーロン・バーとの対立
アレクサンダー・ハミルトンとアーロン・バーの決闘(1804年)
ハミルトンは1794年にマリア・レイノルズ事件でその名声が傷つき、政治的ダメージを受けることとなる。マリアの夫ジェームズはハミルトンとマリアとの性的関係を認めていたにもかかわらず、ハミルトンを恐喝し金銭を要求した。ジェームズ・レイノルズは偽造の罪で逮捕されたとき、ジェームズ・モンローを始めとする数名のリパブリカン党員と連絡を取った。彼らはハミルトンの元を訪れマリアとの関係を問いただしたが、ハミルトンは関係を認めながらも無罪であることを強調した。モンローは事の詳細を公表しないことを約束したが、トーマス・ジェファーソンにはそのつもりがなかった。ハミルトンは情事の公表を強いられ、それは家族および支持者に衝撃を与えた。噂された不義によるモンローとの決闘は前上院議員のアーロン・バーによって避けられた。
皮肉にもバーは後のマリア・レイノルズの離婚訴訟において、いくつかの疑問を提示することでハミルトンを元気づけた。しかしながら、ハミルトンとバーのニューヨーク法曹界における関係は、憎悪であった。実際彼らの家族はしばしば関係することがあった。バーが1791年の上院議員選でハミルトンの義父フィリップ・スカイラーを破ったとき、ハミルトンはバーを陥れるための秘密工作を始めた。
ハミルトンの1795年の財務長官辞任は公の活動からの引退とはならなかった。弁護士業の再開でハミルトンは政界に対してアドバイザーおよび友人として関係を保っていた。ハミルトンはワシントンの退任演説に影響を及ぼしていたと考えられている。ハミルトンと、ワシントンの後任ジョン・アダムズとの関係は緊張していた。連邦党の大統領候補としてアダムズの指名を妨げようとするハミルトンの工作は党を分割し、1800年の大統領選でジェファーソン派のリパブリカン党員の勝利に寄与した。
ジェファーソンの大統領就任後、バーではなくハミルトンの起用を選択したことはバーに対するハミルトンの最初の打撃だった。バーは1804年にニューヨーク州知事選に連邦党から出馬しようとしたが、無所属候補として出馬した。ある新聞がチャールズ・D・クーパーのハミルトンによるものと思われる「卑劣な見解」を掲載した。政治的名誉回復の機会と考えたバーはハミルトンに対して謝罪を要求した。ハミルトンはバーが新聞の言及した事実を証明できなかったとして要求を拒絶した。
バーとハミルトンの決闘は、三年前にハミルトンの息子フィリップが父親の名誉を守るために決闘を行い敗れた場所と同じニュージャージー州ウィホーケンの岩棚の上で1804年7月11日に行われることとなった。ハミルトンは息子の死から決闘に反対したが、決闘は夜明けに始まりバーはハミルトンの下胸部を撃った。ハミルトンの銃弾はバーから外れたとも言われるし、銃が点火しなかったとも言われる。ハミルトンは翌日死去し、マンハッタンのトリニティ教会墓地に埋葬された。バーはハミルトンに対する殺人とその後の反逆裁判でニューヨークから逃亡し、1836年に死去した。
1833年 – オーストラリアでアボリジニ・ヌンガー族(英語版)の戦士イェーガンが、彼の首にかけられた賞金狙いの白人少年により射殺される。
イェーガン(英: YaganまたはEagan、[ˈjæɪgən]、1795年? – 1833年7月11日)は、オーストラリア先住民族アボリジニの一部族ヌンガー族(英語版)の戦士。
パースに入植しその地を支配したヨーロッパ人に対するアボリジニの抵抗運動において、重要な役割を担った。入植者を何度も襲撃したイェーガンには生死を問わない懸賞金がかけられ、最終的にヨーロッパ人の若者に射殺された。
彼の死は西オーストラリア州において、入植した者たちが先住民族に為した不正や、時に野蛮きわまりない処遇をなした象徴として伝承されている。そしてイェーガンは、ヌンガー族の勇者としてオーストラリア中に知られている。
イェーガンの首級はロンドンに送られ、「人類学上の珍品」として一世紀以上博物館に展示された。この首は1964年に無縁墓地に埋められ忘れ去られたが、1993年に場所が特定されると4年後に掘り返され、オーストラリアに返還された。以後、彼を再埋葬する方法についてパースの先住民族間で長く大きな議論と衝突が生じた。
1864年 – 南北戦争: スティーブンス砦の戦い。
時 1864年7月11日-12日
場所 コロンビア特別区
結果 北軍の勝利
損害 北軍 戦死373人 南軍 戦死500人
1935年 – 静岡地震。静岡市・清水市などで死傷者9299人。
1945年-沖縄戦7月11日・米陸軍【訳】日本式のオリエンテーション。沖縄で戦う陸軍第7歩兵師団の兵士たちは、日本兵たちがヨーロッパ戦線に通じていることがわかる書き込みがされた黒板を発見した。左のギザギザの線は、アメリカ軍のドイツへの進撃を示しており、第1軍、第7軍、第3軍の位置がはっきりとチョークで書かれている。右側の線は、ベルリンの近くでソ連の冬の反撃の進展を示しているようだ。ドイツの首都は中央上部の大きな円で示されている。ロシア軍に飲み込まれたブダペストは、右下の円で示されている。バツで区切られた太字の中心線は、米ロ両軍が出会う場所として日本軍が考えたものかもしれない。この黒板は、日本軍はドイツの窮状を知らされていないという通説を覆すものであり、連合軍の作戦について詳細な指導を受けている証拠でもある。しかし、東京を標的にしたアメリカの戦略を示す別の黒板があれば、日本はよりよい教訓を得ただろう。1945年7月11日<写真が語る沖縄 – 沖縄県公文書館>・もう一つの敵:太平洋戦域におけるアメリカ軍のマラリアとの戦い、1942-45年
【訳】太平洋戦線 (PTO) で日本軍と戦う米兵は非常に多くの課題と危険に直面した。戦争の歴史によって見過ごされがちな、これらの中で最も陰湿なものの1つはマラリアです。この病気は、通常、感染した兵士にとって致命的ではないが、戦闘で負傷したかのように、長期間にわたって戦力外の状態にさせる。米陸軍のマラリアとの戦いは、人間 vs. 自然の興味深い物語であり、日本との戦争でのアメリカの成功がかかったものであった。
<The Other Foe: The U.S. Army’s Fight against Malaria in the Pacific Theater, 1942-45 –>・1920年代後半から記録されたデータでは八重山のマラリアによる死者はほとんど見られなかった。しかし日本軍による有病地帯への住民強制移住によって、マラリアが爆発的に拡大した。八重山で1万6,864人が罹患、3,647人が死亡。死亡率は21.5%で、5人に1人以上が亡くなったことになる*5。<引用先原文>・孝子さん一家11人全員がマラリアにおかされ、孝子さんと妹のたった2人だけが生き残りました。西表島への疎開を指揮したのは誰だったのか。二人はこう話します。「ある日、突然島にやってきて、疎開を指揮し、戦後こつ然と姿を消したヤマトンチューがいた」と。…
酒井清輔、別名・山下寅雄。スパイ活動やゲリラ戦などを専門とする陸軍中野学校出身者でした。川満さんは疎開は、住民の安全のためではなく、別の目的があったのではと指摘します。
川満さん「石垣島にいた日本軍の食料を確保するために。住民が邪魔だから西表島に強制疎開させたんじゃないのかという論がある。あの論の推測は高いと思う」
山下軍曹自身もこんな証言を残しています。『殺した牛や馬などを焼いて、軍の糧秣として石垣島へ送り出した』
さらに、驚くべき事実も明らかになりました。当時、沖縄には42人もの陸軍中野学校出身者が送り込まれていたというのです。山下軍曹のように離島に潜伏した者は全部で11人。沖縄全域にわたっていました。その目的とは…。
川満さん「第32軍が壊滅したあとも、彼らが残って持久戦をやると。遊撃戦。いわゆるゲリラですね。西表島に米軍が上陸したら、(波照間の)挺身隊も遊撃させる。そういう計画があったのかな、と僕は考えます」<琉球朝日放送 報道部 » Qリポート 強制疎開迫った人物は>
1951年 – 京都府篠村(現亀岡市)で、集中豪雨によりため池が決壊(平和池水害)。死者、行方不明者75人。
1961年 – フィラデルフィア発デンバー行きのユナイテッド航空859便DC-8型機がデンバーのステープルトン国際空港への着陸に失敗、18名の死亡者と44名の重軽傷者を出す。
1973年 – ヴァリグ・ブラジル航空820便墜落事故。リオデジャネイロ発パリ行きのヴァリグ・ブラジル航空820便ボーイング707型機でパリのオルリー空港への着陸進入中火災が発生、不時着を試みたが滑走路端5キロの地点に墜落し乗員乗客135名中124名が死亡。
1979年 – 日本坂トンネル火災事故。東名高速道路・日本坂トンネル内で玉突き事故で173台が炎上し死者7人。
1991年 – ナイジェリア航空2120便墜落事故。カナダのノリス・エアチャーター便DC-8型機がサウジアラビアのジッダ・キング・アブドゥルアズィーズ国際空港を離陸直後に墜落、乗員乗客261名全員が死亡。なお、この機体は元日本航空のJA8057。
1991年 – 悪魔の詩訳者殺人事件。
場所 日本の旗 日本・茨城県つくば市天王台1丁目筑波大学筑波キャンパス
座標 北緯36度6分32.9秒 東経140度6分8秒
日付 1991年7月11日 (日本標準時)
攻撃手段 刃物による刺殺
死亡者 1人(五十嵐一)
犯人 不明(イランの特殊部隊によるとする説あり)
動機 不明(反イスラム行為に対する報復?)
チャットgpt先生の7月11日のエッセイ
7月11日――勝者が歴史を書く日、それでも現場は別の現実を知っていた
7月11日を眺めると、一つの共通点が見えてくる。それは「常識が戦場で覆される日」である。
1302年、フランドルの市民軍はコルトレイクでフランス王国の精鋭騎士団を撃破した。金拍車の戦いとして知られるこの戦いは、中世ヨーロッパの軍事常識をひっくり返した。騎士は歩兵十人分の価値を持つと信じられていた時代に、市民兵は地形を利用し、密集隊形を維持し、統制によって重装騎兵を押し返した。
兵士の勇敢さではなく、地形、規律、戦術が勝敗を決めたのである。
1804年には、アメリカ建国を支えたアレクサンダー・ハミルトンが決闘で命を落とす。国家を設計した知性も、最後は名誉という当時の社会制度から逃れることはできなかった。近代国家が成立しても、人間社会は合理性だけでは動かなかったことを象徴する事件である。
1833年、西オーストラリアではヌンガー族の戦士イェーガンが賞金稼ぎによって射殺された。植民地史は「開拓」と表現されることが多いが、現場では土地と生活圏を巡る実力闘争だった。勝者は行政を作り、敗者は歴史の余白へ追いやられる。その構図は世界中で繰り返されてきた。
1864年のスティーブンス砦の戦いでは、南軍は首都ワシントン目前まで迫った。しかし戦略的成果は得られず、戦術的成功だけでは戦争全体は覆せない現実を示した。
そして1945年7月11日。沖縄戦終盤で米軍が確認した日本軍の黒板は興味深い資料である。そこにはドイツ戦線やソ連軍の進撃状況まで記され、日本軍が欧州戦局を相当程度把握していたことを示している。従来語られた「情報が完全に遮断されていた日本軍」という単純な図式だけでは説明できない。
沖縄戦そのものも、戦後の単純化された物語だけでは理解できない戦場だった。
結果だけ見れば米軍の勝利である。しかし軍事史として見れば、太平洋戦争最大規模の上陸作戦であり、米軍が圧倒的な制海権・制空権・補給能力・火力を持ちながら、なお異例の損害を被った戦闘でもあった。日本軍は機動戦では勝負にならないことを理解し、地下陣地、洞窟、逆斜面、防御縦深という消耗戦に徹した。物量優位は決定的だったが、それだけでは戦場を短期間で制圧できなかった。
米軍は戦術を変更し、一つ一つの陣地を火炎放射器、戦車、工兵、艦砲射撃で削る方法へ移行する。日本軍も持久を目的として戦線を構築する。そこでは双方とも「相手を消耗させる」という極めて冷徹な計算が優先された。
住民もまた、この構造の中へ組み込まれた。
日本軍は住民を後方労務や疎開、陣地構築に動員し、一部地域では軍事上の必要からマラリア流行地帯への強制移住が行われ、多数の住民が感染した。石垣島・西表島など八重山地域では、戦闘ではなく感染症によって数千人が命を落としている。
一方で、住民が米軍捕虜となった場合、日本軍が軍事機密漏洩や投降の拡大を恐れて報復的に住民を殺害した事例も確認されている。個々の兵士の残虐性だけで説明するより、「情報統制」と「組織維持」を優先した軍隊という構造で理解した方が実態に近い。
逆に米軍も、洞窟内に住民が残っている可能性を承知しながら火炎放射や爆薬を投入した場面があり、戦術目的が人道的配慮に優先された現実があった。
戦争は善悪だけで整理すると見落とすものが多い。
組織は勝つために合理的判断を積み重ねる。その合理性は個人にとって非合理な犠牲を生み続ける。
終戦後、この戦争像は占領政策や報道統制、いわゆるGHQプレスコードの影響も受けた。占領軍に不利な情報は抑えられ、日本側も敗戦責任や戦場の複雑さを十分整理できないまま、高度経済成長の時代へ入っていった。そのため沖縄戦は長く、「日本軍だけ」「米軍だけ」という単純な構図で語られる傾向が続いた。しかし近年公開された日米双方の資料を照合すると、実態ははるかに複雑である。
1951年の平和池水害、1979年の日本坂トンネル火災、航空事故の数々もまた、人間が高度な技術や巨大な組織を築いても、一つの判断、一つの整備、一つの想定不足で大きな被害が発生することを示している。
7月11日は英雄や悲劇だけの日ではない。
常識が覆され、組織の論理が個人を飲み込み、そして勝者が歴史を書く。しかし資料を丹念に読み比べると、現場には勝者にも敗者にも単純化できない現実が存在していたことが見えてくる。
歴史を理解するとは、誰かの物語を信じることではない。
複数の資料を突き合わせ、その時代に生きた人々が置かれた条件を冷静に分析すること。その積み重ねだけが、過去を現実として捉える最も確実な方法なのである。

