kagamimochi-nikki 加賀美茂知日記
慶祝と美とグノ-シスの弥増す日々
日々の過去の出来事

今日という日7月7日 1944サイパン島玉砕、ほか写真wikipedia島北端を掃討する米軍

7月7日

20260707火曜日旧暦5月23日先負(19番壬午みずのえうまジンゴ)月齢 22

43番丙午ひのえうま年 32番乙未きのとひつじ月初日 19番壬午みずのえうま日

吉方位 隠遁日 壬午みずのえうま日 南西 大吉 年末まであと177日

https://ja.wikipedia.org/wiki/7%E6%9C%887%E6%97%A5

7月7日の出来事

1937年 – 盧溝橋事件。日中戦争(支那事変)の発端に。

戦争:日中戦争(1941年12月8日より太平洋戦争の一部となる。)[1]

年月日:1937年7月7日 - 1945年8月15日[1]

場所:中国、英領ビルマなど[1]。

結果:中国の勝利、日本の降伏[1]。

損害:日本 陸軍105万人海軍6万人投入 戦死43万人 100万人負傷 中国 数千万人中 戦死不明300万人から3000万人。

1944年 – 第二次世界大戦・サイパンの戦い: サイパン島の日本軍守備隊が玉砕。

戦力 日本40000(陸軍30000+海軍6000) 米軍160000(上陸部隊70000)

損害 日本全滅        米軍 戦死行方不明3500 戦傷13000 死傷率10%

1945年-沖縄戦7月7日・7月7日、与那国の離島残置工作員が台湾から大量の武器弾薬を持ち込んだ。 第32軍は沖縄の各離島に密かに11人の「離島残置工作員」を配置していた。彼らは陸軍中野学校出身で、教師の肩書で学校に配属されていた。<引用先原文>・米軍は民間人と兵士を分けた後、朝鮮人*1、沖縄人、将校、下士官、一般兵に分けて捕虜収容所に収容した。6月から7月にかけ、増大し続ける日本兵捕虜の中から主に朝鮮人軍夫と沖縄の学徒兵と防衛隊員などをハワイの収容施設に移送した。<引用先原文>

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1937年 – 盧溝橋事件日中戦争(支那事変)の発端に。

戦争:日中戦争(1941年12月8日より太平洋戦争の一部となる。)[1]

年月日:1937年7月7日 - 1945年8月15日[1]

場所:中国、英領ビルマなど[1]。

結果:中国の勝利、日本の降伏[1]。

損害:日本 陸軍105万人海軍6万人投入 戦死43万人 100万人負傷 中国 数千万人中 戦死不明300万人から3000万人。

日中戦争(にっちゅうせんそう、中国名:中国抗日战争、第二次中日战争)は、盧溝橋事件により発生した、1937年(昭和12年)7月7日から1945年(昭和20年)8月15日まで、大日本帝国と蔣介石率いる中華民国国民政府の間で行われた戦争である。支那事変(しなじへん)、日華事変(にっかじへん)[注釈 1]、日支事変(にっしじへん)とも呼ばれる[5][注釈 2][注釈 3][注釈 4]。

盧溝橋事件(ろこうきょうじけん、中国語: 七七事件; 簡体字: 卢沟桥事变; 繁体字: 盧溝橋事變)は、1937年(昭和12年)7月7日に中華民国北平市(現:北京市)西南方向の盧溝橋で起きた日本軍と中国国民革命軍第二十九軍との衝突事件である[4][注釈 1]。1937年7月7日夜、豊台に駐屯していた支那駐屯歩兵第一聯隊第三大隊第八中隊の将兵が盧溝橋付近の河原で夜間演習中、実弾を撃ち込まれ、点呼時に兵士の1人が所在不明だったため、中国側の攻撃があったと判断して起きたと言われる。比較的小規模な戦闘が繰り返された後、9日には中国側からの申し入れにより一時停戦状態となった[1]が、その後も小競り合いが続き、幾つかの和平交渉が行われたものの(後述)、結果として日中戦争(支那事変)の発端となった[5]とされる。

1944年 – 第二次世界大戦・サイパンの戦い: サイパン島の日本軍守備隊が玉砕。

戦力 日本40000(陸軍30000+海軍6000) 米軍160000(上陸部隊70000)

損害 日本全滅        米軍 戦死行方不明3500 戦傷13000 死傷率10%

サイパンの戦い(サイパンのたたかい)は太平洋戦争中の1944年6月15日から7月9日にかけてサイパン島で行われた、アメリカ軍と日本軍の戦闘。

戦力 日本40000(陸軍30000+海軍6000) 米軍160000(上陸部隊70000)

損害 日本全滅        米軍 戦死行方不明3500 戦傷13000 死傷率10%

終末

戦闘の末期になると、多くの民間人が軍と共に島の北部に追い詰められ、バンザイクリフやスーサイドクリフから海に飛び込み自決した。なかには、親が子供を殺した後に崖から飛び降りたり、小学生が車座になって座り手榴弾で集団自決をすることもあった。多くの民間人が軍民一体、兵士と共に逝くことが祖国への忠誠と教え込まれてきた結果であり[262]、民間人の最期の様子はアメリカの従軍記者によって雑誌『タイム』に掲載され、世界中に配信された。特に入水自決の一部始終を撮影したフィルムは1シーンしかなく、入水者は会津出身の室井ヨシという婦人であった。海兵隊員は目の前で繰り広げられる民間人の集団自決に衝撃を受け、特に自決前に行う儀式に目を奪われた。3人の若い日本人女性は多くの海兵隊員が見ている前で岩場に悠々と腰掛けると、長い黒髪を落ち着いた様子で櫛で整え始めて、整髪し終わると両手を合わせて祈りながらしずしずと海に向かって歩いていきそのまま入水自殺を遂げた。その様子を目撃したアメリカの従軍記者は、テルモピュライの戦いの前に、スパルタのレオニダス1世やその部下たちが決死の覚悟で執り行ったとされる儀式を連想したという。また、ある100人の集団は、全員が服を脱いで海中に入って身を清めると、平らな大きな岩の上に日本の国旗を広げ、その国旗の上で指揮役の男から配られた手榴弾で全員が自爆して果てた[263]。

1945年-沖縄戦7月7日・7月7日、与那国の離島残置工作員が台湾から大量の武器弾薬を持ち込んだ。 第32軍は沖縄の各離島に密かに11人の「離島残置工作員」を配置していた。彼らは陸軍中野学校出身で、教師の肩書で学校に配属されていた。<引用先原文>・米軍は民間人と兵士を分けた後、朝鮮人*1、沖縄人、将校、下士官、一般兵に分けて捕虜収容所に収容した。6月から7月にかけ、増大し続ける日本兵捕虜の中から主に朝鮮人軍夫と沖縄の学徒兵と防衛隊員などをハワイの収容施設に移送した。<引用先原文>

証言 ①

昭和20年7月ごろ、私は屋嘉の収容所に収容されていた。たしか7月の7、8日だったと思うが、突然収容所から数百名の捕虜が嘉手納の海岸にトラックで連れて行かれた。捕虜の年齢は、下は15、6歳の少年から上は60過ぎの老人までいた。そのほとんどが20代30代の男ばかりであった。午後1時ごろ嘉手納の海岸に着いた。真夏の太陽がカンカンに照りつけていた。われわれは何のためにここに連れてこられたのか最初は誰も分からなかった。沖には米船(貨物)がいたので、その船に乗せられるのだと分かった。みんなは不安の面持ちで、だまったまま、焼けつくような砂の上に約4時間も座っていた。

やっと5時ごろになって上陸用舟艇に乗せられ、沖の船に向かった。船に着くと、甲板で全員着けていた服を脱がされ、丸裸にされた。海水でシャワーを浴びろ、と固型の石けん(洗濯用)を渡された。久し振りの水浴びでみんなはさっぱりしたと喜んだ。ところが、水浴びが終わった後、当然新しい衣服が与えられるものと思っていたら、それがないばかりか、体を拭くタオルさえもない。濡れた体の、文字通り素っ裸のまま、雫(しずく)をたらしながら、まるで動物のように船艙に入れられた。

甲板の隅にあった二尺四方ぐらいの小さなハッチから船艙までは約15メートルはあっただろう。そのハッチからひとりびとりはしご段(垂直)を降りるときには、体中から落ちる雫や汗で手や足が滑ったので、用心しながらゆっくり降りた。上の方で米兵が「ハーバー、ハーバー」とどなっていた。船艙には約30名の仲間が詰め込まれ、身動きも出来なかった。これは大へんなことになった、と私は思わずつぶやいた。ほかの人たちも、そのようなことをぼそぼそ語り合っていた。

夜になっても食事もない。船艙には何も敷いてなく板張りの上に互いに裸身をくっつけ合って横になった。明かりもない真っ暗な船艙の中はむし風呂のようであったが、昼間の疲れがどっと出て、いつの間にか寝た。夜中に眼を覚ました。何だか体がびしょ濡れになっている。身を起こしてみた。何と、それは、みんなの体から流れ出た汗が溜って、私の体が浮いていたのである。体を拭くものもなく、またそのまま横になった。《「沖縄の慟哭 市民の戦時・戦後体験記 戦後・海外篇」(那覇市企画部市史編集室/沖縄教販) 71-72頁》

チャットgpt先生の7月7日のエッセイ

7月7日――戦争が動いた日

7月7日は七夕として親しまれる一方で、日本近現代史を見れば、戦争の転換点が幾度も重なった日でもある。

1937年7月7日の盧溝橋事件は、当初は現地部隊同士の武力衝突に過ぎなかった。しかし外交で局地的に収束させることができず、やがて日中戦争へと拡大し、日本は八年戦争への道を歩むことになる。戦争は最初から国家総力戦として始まるのではなく、小さな衝突が政治判断や世論、軍事行動の連鎖によって制御不能になることを示した典型例である。

1944年7月7日はサイパン島で日本軍守備隊が事実上壊滅した時期にあたる。約4万人の守備兵力は補給を断たれ、制海権・制空権を完全に失った状態で約16万人の米軍と戦った。兵士だけでなく多数の民間人も戦闘に巻き込まれ、島北部では集団自決や投身が相次いだ。サイパンの陥落は単なる島一つの喪失ではなく、日本本土がB-29爆撃機の直接攻撃圏に入ったことを意味し、戦略全体を一変させた。

そして1945年7月7日の沖縄では、大規模戦闘は終結していたものの、戦争そのものは終わっていなかった。第32軍が配置した離島残置工作員はなお活動を続け、与那国方面では台湾から武器弾薬を搬入する行動も行われていた。一方、米軍は膨大な捕虜や住民を管理するため収容所を運営し、朝鮮人軍夫、沖縄住民、日本兵などを区分して収容し、一部はハワイへ移送している。

体験証言には、捕虜となった人々が裸にされ、船倉へ密集して収容される様子が記録されている。真夏の貨物船で汗が床に溜まるほどの過密状態は、戦後日本で長く語られてきた「解放」のイメージだけでは見えてこない現実でもあった。捕虜待遇全体を評価するには多くの事例を見る必要があるが、現場では過酷な輸送や管理が存在したことも歴史資料の一部である。

沖縄戦は、戦後長く占領政策やGHQプレスコードの影響もあり、語られる内容に偏りが生じた面は否定できない。一方で、近年は日本側・米側双方の公文書や証言が公開され、より立体的な実像が見えてきている。

軍事史の観点から見ると、沖縄戦は「米軍の圧勝」という単純な言葉では片付けられない。圧倒的な制海権・制空権、豊富な火砲と補給能力を持ちながら、米軍は約12万人規模の地上兵力を投入し、多数の戦死・戦傷者を出した。日本軍は航空・海上戦力をほぼ失った状態でありながら、地下陣地と縦深防御を徹底し、持久戦へ戦術を転換したことで、米軍は予想を大きく超える期間と損害を強いられた。

これは「日本軍が勝った」という意味ではない。最終的な勝敗は明白であり、日本軍は組織的戦闘能力を失った。しかし、物量差が圧倒的であったにもかかわらず、米軍にこれほど大きな人的損害と時間的損失を与えた戦いは、太平洋戦線でも最大級であり、米軍自身が本土決戦の損害予測を見直す重要な材料となった。沖縄は、火力だけでは地下要塞化した防御陣地を短期間で制圧できないことを証明した戦場でもあった。

7月7日を振り返ると、1937年には戦争が始まり、1944年には敗勢が決定的となり、1945年には戦後を見据えた占領と残存戦が並行して進んでいた。同じ日付の中に、日本が拡大から後退、そして敗戦後の秩序へ移る過程が凝縮されている。

歴史は勝者だけの記録でも敗者だけの記録でもない。作戦命令、兵士の戦闘記録、住民の証言、捕虜体験、占領軍資料、それぞれを重ね合わせて初めて当時の現実が見えてくる。7月7日は、その複雑さを最も象徴する一日の一つと言えるだろう。