6月23日
20260623火曜日旧暦5月9日先勝(5番戊辰つちのえたつボシン)月齢 8
43番丙午ひのえうま年 31番甲午きのえうま月 5番戊辰つちのえたつ日
吉方位 隠遁日 戊辰つちのえたつ日 北東 大吉 年末まであと191日
https://ja.wikipedia.org/wiki/6%E6%9C%8823%E6%97%A5
6月23日の出来事
1281年(弘安4年6月6日) – 弘安の役。元軍が九州に再襲来。
戦力 中国史上つまりは世界史上最大級の大艦隊が襲来した。
元軍
動員 400000人兵士 約4000隻の軍船とされるこれが最後は台風にて、200隻までになったという。
1565年 – マルタ包囲戦: オスマン帝国海軍のトゥルグト・レイス(英語版)が戦死[要出典]。
時 1565年5月18日 – 9月11日
場所 マルタ島
結果 スペイン帝国の勝利
損害 戦力 マルタ騎士団+スペイン帝国13000人中 10000人戦死 オスマン帝国 48000人中40000人戦死。
1757年 – プラッシーの戦い。イギリス・イギリス東インド会社軍がフランスのベンガル土侯連合軍を破る。インドのイギリス支配が決定。
戦争:七年戦争
年月日:1757年6月23日
場所:インド、プラッシー
結果:イギリスの勝利
東インド会社軍 英国人700人 インド傭兵2000人合計3000人弱
インド軍 歩兵40000人以上 騎兵20000人以上 合計60000人
損害
東インド会社軍 死者 22人 不祥50人
インド軍 死傷者500人以上
1758年 – 七年戦争: クレーフェルトの戦い。
戦争:七年戦争
年月日:1758年6月23日
場所:クレーフェルト
結果:連合軍の勝利
損害:フランス軍 4万人中 4000人戦死 イギリス他連合軍 3万人中 1700人戦死
1760年 – 七年戦争: ランデスフートの戦い。
戦争:七年戦争
年月日:1760年 6月23日
場所:カミエンナ・グラ(英語版)
結果:オーストリア軍の勝利
損害:オーストリア軍 28000人中 戦死傷3000人 プロイセン軍 12000人中 戦死傷2000人 捕虜8000人。
1780年 – アメリカ独立戦争: スプリングフィールドの戦い。
年月日:1780年6月23日
場所:現在のニュージャージー州スプリングフィールド
結果:大陸軍が勝利
損害:イギリス軍2550人中 戦死50人 大陸軍2000人中 戦死15人。
1812年 – ナポレオン戦争: ナポレオンがロシアに侵攻、1812年ロシア戦役が始まる。
時 1812年6月24日 – 12月14日
場所 ロシア帝国
結果 ロシアの決定的勝利
フランス連合軍の壊滅
第六次対仏大同盟の開始
損害 フランス他大陸軍 68万5千人中 死亡380000人 生存120000人 他は逃亡。ロシア軍 正規兵198000人 民兵900000人 中 死亡210000人。
1925年 – 沙基事件。中国の広州市沙基で五・三〇事件に刺激された反英デモが起こり、イギリス兵が発砲して多数の中国人が死傷。
1941年 – 第二次世界大戦・バルト諸国占領: ドイツのソ連侵攻に乗じてリトアニアがソビエト連邦からの独立を宣言。
1944年 – 北海道壮瞥町の有珠山東麓の畑地が噴火。昭和新山が誕生。
1945年 – 第二次世界大戦: 沖縄守備軍司令官牛島満が摩文仁司令部で自決(前日〈22日〉との異説あり)。沖縄戦の組織的抵抗が終結したとされる。
1945年-沖縄戦6月23日:米軍:… 6月23日には、J・W・スチルウェル陸軍中将が東南アジア戦域の副司令官から沖縄の第10軍に移ってガイガー司令官と交替した。《写真記録「これが沖縄戦だ」(大田昌秀 編著/琉球新報社) 202頁より》:日本軍:・【投稿者注】第32軍司令官牛島満中将と参謀長の長勇中将の最期に関しては諸説あり、また、両将軍の「自決日」に関しては、米軍側が複数の捕虜から聞き取ったとして記録として残しているのは22日午前3時40分、日本軍側は23日未明となっている<。引用元サイト注>
・両将軍は、2、3辞世ともなんともつかぬ和歌や、詩をもって応酬された。私は、はっきり聞きとることができなかった。しかし沖縄を奪取された日本は、帯を解かれた女と同じもんだと、だじゃれを言われたのを記憶する。《「沖縄決戦 高級参謀の手記」(八原博通/中公文庫) 435-436頁より》・いよいよ時間も迫るので、洞窟内に残った者が、皆一列になって次々と将軍に最後の挨拶をする。平素正しいと思ったら、参謀とでも殴り合いをした利かぬ気の大野少佐が、一点の邪気のない神のような涼しい顔で走り寄って、大本営宛て最後の電報を打ち終わった旨報告した。彼は長年参謀本部の暗号班で勤務したことがあるので、一昨夜大本営からきた最後の電報の諸語、「貴軍の忠誠により、本土決戦の準備は完成した・・・」の主旨の言葉は、アッツ以来太平洋の島々に玉砕した、すべての部隊に寄せられたものですと、なかば嘲笑的に語った。参謀長と私は互いに顔を見合わせ、きっと唇をかんだ。・洞窟の外に出ずれば、月未だ南海に没せず、浮雲の流れ迅く、彼我の銃砲声死して天地静寂、暁霧脚麓より静かに谷々を埋めて這い上がり、万象感激に震えるかの如くである。洞窟出口から約10歩のあたり、軍司令官は断崖に面して死の座に着かれ、参謀長、経理部長またその左側に位置を占め、介錯役坂口大尉がその後方に、私はさらに彼の左後方に立つ。残存の将兵は出口に起立して大なる瞬間を待つ。
やや前かがみに首を伸ばして座した参謀長の白いワイシャツの背に、「義勇奉公、忠則尽命」と墨痕淋漓自筆で大書されたのが、暁暗にもはっきりと読める。私を振りかえられた長将軍は、世にも美しい神々しい顔で、静かに、「八原!後学のため予の最期を見よ!」と言われた。…
… ようやく彼らをかきわけ、出口に顔を出そうとする一刹那。轟然一発銃声が起こった。騒然たる状況に敵艦からの砲撃かと思ったが、経理部長自決の拳銃声だったのだ。今度は坂口が両将軍着座の瞬間、手練の早業でちゅうちょなく、首をはねたのだ。停止させられていた将兵は、堰を切ったように断崖の道を降りた。
高級副官、坂口大尉、私の3人は出口に転がっているドラムかんに腰を下ろした。坂口は私に「やりました!」と顔色蒼白ながら、会心の笑みを浮かべた。3人は黙ったまま、ぐったりとなって、白々と明けゆく空を眺めていた。立派な最期、無念の死、かくて激闘3か月、わが第32軍は完全に潰え去ったのである。時に昭和20年6月23日午前4時30分!嗚呼!《「沖縄決戦 高級参謀の手記」(八原博通/中公文庫) 436-438頁より》・牛島満軍司令官は自決の前に最後の命令を出しました。それは、「最後まで敢闘し、悠久の大義に生くべし」…つまり、最後の一兵まで戦えと命じたため、終わりなき沖縄戦が生み出されたのでした。<終わりなき沖縄戦 ~ 牛島司令官、最後の命令 – Battle of Okinawa>・敵は目の前まで迫っていた。6月23日未明、生き残った兵や学徒隊全員に切り込みの命令が下った。… 長嶺さんらの話をまとめると、切り込みは砲兵司令部壕と無線班壕の2カ所で、ほぼ同時刻ごろ行われている。最後の食事があり、隊長訓話があった。
「母国のために散って鬼となって祖国を守れ。三途の川でまた会おう」。無線班壕では、窪中尉がこう訓示した。おし殺した声が、低く響き、異様に緊張した空気が壕内を包んだ。「正直言って、そのころは、みんな相当衰弱しきってました」と司令部壕にいた石川さん。手りゅう弾が二つ配られた。攻撃用だが、もし捕虜として捕らわれた時の自決用でもあった。
… 工業学徒隊が9割の戦死者を出した理由について、長嶺さんらはまっ先に、切り込みを挙げた。「通信隊という特殊な任務だったことや学徒解散がなかったなど、理由はいくつかありますが、何といっても切り込みです。目の前で次々、学友が倒れ、なお死に向かって、突っ込んでいく。死ぬためにだけ、突っ込んでいく。戦争とはこんなものです」<沖縄県立工業学校の学徒隊 – 戦死者率95%の学徒動員 – Battle of Okinawa>
1945年 – 千葉県で撃墜された戦闘機から脱出したアメリカ兵が住民に殺害される事件が発生(能崎事件)。・「前を見てごらん。アメリカの兵隊が来るよ。逃げると撃たれるよ」と言って米兵の方へ近づいていった。幼かった金城さんは恐怖で震えたが、住民に水や食糧の缶詰が与えられ危害を加えられないことがわかると、子ども心に生き抜いた喜びがわき上がってきた。金城さん『私の住んでいる地区では壕の中で手榴弾を爆発させて「自決」したり、火炎放射器で焼かれたりして全滅した家族もたくさんあった。父がいなければ私たちも生きていなかったはずで、今も父の勇気に感謝している<父の勇気で家族全員が投降 | 沖縄戦の絵 | 沖縄戦70年 語り継ぐ 未来へ | NHK 沖縄放送局>
1947年 – 神奈川税務署員殉職事件。戦後の混乱期に密造酒の販売を行っていた在日韓国・朝鮮人集落を取り締まった税務署の職員が税務署からの帰宅途中に在日朝鮮人数名に囲まれ暴行を受け殉職。
1985年 – インド航空182便爆破事件。329人全員死亡。
1999年 – 男女共同参画社会基本法公布・施行。
2001年 – ペルー南方沖でMw 8.4の地震発生。139人が死亡。
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1281年(弘安4年6月6日) – 弘安の役。元軍が九州に再襲来。
戦力 中国史上つまりは世界史上最大級の大艦隊が襲来した。
元軍
動員 400000人兵士 約4000隻の軍船とされるこれが最後は台風にて、200隻までになったという。
弘安の役
モンゴル語で「勇猛なる」という意味の上陸用快速船艇であるバートル(抜都魯)軽疾舟と思しき軍船に乗船する元軍。
1281年(弘安4年・至元18年)、元・高麗軍を主力とした東路軍約40,000~56,989人・軍船900艘と旧南宋軍を主力とした江南軍約100,000人および江南軍水夫(人数不詳)・軍船3,500艘、3軍の合計、約140,000~156,989人および江南軍水夫(人数不詳)・軍船4,400艘の軍が日本に向けて出航した。日本へ派遣された艦隊は史上例をみない世界史上最大規模の艦隊であった[48]。 なお、『元史』阿剌罕伝によると、モンゴル人を主力とした蒙古軍約400,000人が動員されたとしている[32]。
元の官吏・王惲は、この日本侵攻軍の威勢を「隋・唐以来、出師の盛なること、未だこれを見ざるなり」[265] とその記事『汎海小録』の中で評している。
1565年 – マルタ包囲戦: オスマン帝国海軍のトゥルグト・レイス(英語版)が戦死[要出典]。
時 1565年5月18日 – 9月11日
場所 マルタ島
結果 スペイン帝国の勝利
損害 戦力 マルタ騎士団+スペイン帝国13000人中 10000人戦死 オスマン帝国 48000人中40000人戦死。
1757年 – プラッシーの戦い。イギリス・イギリス東インド会社軍がフランスのベンガル土侯連合軍を破る。インドのイギリス支配が決定。
戦争:七年戦争
年月日:1757年6月23日
場所:インド、プラッシー
結果:イギリスの勝利
東インド会社軍 英国人700人 インド傭兵2000人合計3000人弱
インド軍 歩兵40000人以上 騎兵20000人以上 合計60000人
損害
東インド会社軍 死者 22人 不祥50人
インド軍 死傷者500人以上
プラッシーの戦い(プラッシーのたたかい、ベンガル語: পলাশীর যুদ্ধ、英語: Battle of Plassey)は、1757年6月23日にインドのベンガル地方の村プラッシーにおいて、 イギリス東インド会社の軍と、ベンガル太守(ムガル帝国の地方長官)及び後援するフランス東インド会社の連合軍との間で行われた戦い[1]。
この戦いは七年戦争とも関係し、イギリス・フランス間の植民地を巡る戦いの1つでもあった。また、この戦いを機にベンガル太守はイギリスに従属していくようになり、徐々に傀儡化していった。
戦後
イギリス東インド会社がプラッシーの戦いでフランス・ベンガル太守連合軍を破ったことで、イギリスのインド支配は本格化する。他方、フランスは翌年から南インドで発生した第三次カーナティック戦争にも敗北し、ポンディシェリーを占領されると、インドから撤退することになる。
だが、プラッシーの戦いはインドにとって、これから長きに渡るイギリスによる植民地支配への序曲に過ぎなかった。ベンガルの詩人ナビン・チャンドラ・セーン(英語版)はこの戦いののちに訪れたイギリス支配を、「インドにとって永劫に続く闇夜」とたとえている[9]。
戦いからまもなく、ミール・ジャアファルが新ベンガル太守として任命され、シラージュ・ウッダウラは捕殺された[10]。イギリスは秘密条約で結ばれた条項のもと、ミール・ジャアファルからカルカッタの一郡を含む24郡のザミーンダーリーの授与を受けるともに様々な名目で3000万ルピーを越す金額を搾り取り、徐々に傀儡化していった[9][2]。 また、クライヴは戦闘後にムガル帝国の皇帝アーラムギール2世から賜った勅令で、「ムガル帝国の花であり、保護者であり、最も勇敢な兵士である」と評価された[6]。
1764年10月のブクサールの戦いでイギリスが勝利し、東インド会社は3州で租税徴収権(ディーワーニー)を獲得した。これを機にイギリスはインドの植民地化を推し進めていった。
1758年 – 七年戦争: クレーフェルトの戦い。
戦争:七年戦争
年月日:1758年6月23日
場所:クレーフェルト
結果:連合軍の勝利
損害:フランス軍 4万人中 4000人戦死 イギリス他連合軍 3万人中 1700人戦死
クレーフェルトの戦い(ドイツ語: Schlacht bei Krefeld、ヒュッケルスマイの戦い(ドイツ語: Schlacht an der Hückelsmayとも)は七年戦争(1756年-1763年)中の1758年6月27日、ブラウンシュヴァイク=リューネブルク(ハノーファー選帝侯領)、ブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル、イギリス、ヘッセン=カッセルおよびプロイセン各国の連合軍とフランス軍との間に生起した戦闘である。それは1756年から1763年にかけて、ラインラントで発生した軍事衝突の頂点となった。
1760年 – 七年戦争: ランデスフートの戦い。
戦争:七年戦争
年月日:1760年 6月23日
場所:カミエンナ・グラ(英語版)
結果:オーストリア軍の勝利
損害:オーストリア軍 28000人中 戦死傷3000人 プロイセン軍 12000人中 戦死傷2000人 捕虜8000人。
クレーフェルトの戦い(ドイツ語: Schlacht bei Krefeld、ヒュッケルスマイの戦い(ドイツ語: Schlacht an der Hückelsmayとも)は七年戦争(1756年-1763年)中の1758年6月27日、ブラウンシュヴァイク=リューネブルク(ハノーファー選帝侯領)、ブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル、イギリス、ヘッセン=カッセルおよびプロイセン各国の連合軍とフランス軍との間に生起した戦闘である。それは1756年から1763年にかけて、ラインラントで発生した軍事衝突の頂点となった。
1780年 – アメリカ独立戦争: スプリングフィールドの戦い。
年月日:1780年6月23日
場所:現在のニュージャージー州スプリングフィールド
結果:大陸軍が勝利
損害:イギリス軍2550人中 戦死50人 大陸軍2000人中 戦死15人。
スプリングフィールドの戦い(スプリングフィールドのたたかい、英語: Battle of Springfield)は、アメリカ独立戦争中の1780年6月23日、現在のニュージャージー州スプリングフィールドで、イギリス軍と大陸軍の間で戦われた戦闘である。当時の独立戦争の主戦場は南部に移っており、北部では1778年6月のモンマスの戦いを最後にニューヨーク近辺で両軍の睨み合いが続いていた。そうした中で起こったこの戦いは、長い間、イギリス軍ドイツ人傭兵部隊による単なる奇襲と考えられていたが、1800年代にイギリス軍の記録が明るみに出て、ニュージャージーのモリスタウンに置かれていた大陸軍の作戦本部を襲うことにより、ニュージャージーでの足場を確固たるものにしようというイギリスの戦略であったことが分かった。
1812年 – ナポレオン戦争: ナポレオンがロシアに侵攻、1812年ロシア戦役が始まる。
時 1812年6月24日 – 12月14日
場所 ロシア帝国
結果 ロシアの決定的勝利
フランス連合軍の壊滅
第六次対仏大同盟の開始
損害 フランス他大陸軍 68万5千人中 死亡380000人 生存120000人 他は逃亡。ロシア軍 正規兵198000人 民兵900000人 中 死亡210000人。
1812年ロシア戦役(フランス語: Campagne de Russie, ロシア語: Отечественная война)は、1812年に、ロシア帝国が大陸封鎖令を守らないことを理由にフランス帝国のナポレオン1世がロシアに侵攻し、敗北、退却するまでの一連の歴史的事件のことである。ロシア語の呼称については下記参照。
1812年のナポレオン1世によるロシア帝国への侵攻はナポレオン戦争の転換点となった。この遠征はフランス帝国とその同盟軍からなる侵攻軍を当初の兵力から2%未満に激減させた。ロシア文化に与えた影響は、レフ・トルストイの『戦争と平和』や旧ソ連が独ソ戦(1941年 – 1945年)と同一視していたことに見られる。
1925年 – 沙基事件。中国の広州市沙基で五・三〇事件に刺激された反英デモが起こり、イギリス兵が発砲して多数の中国人が死傷。
1941年 – 第二次世界大戦・バルト諸国占領: ドイツのソ連侵攻に乗じてリトアニアがソビエト連邦からの独立を宣言。
1944年 – 北海道壮瞥町の有珠山東麓の畑地が噴火。昭和新山が誕生。
1945年 – 第二次世界大戦: 沖縄守備軍司令官牛島満が摩文仁司令部で自決(前日〈22日〉との異説あり)。沖縄戦の組織的抵抗が終結したとされる。
6月22日、牛島らが立て籠もっている摩文仁洞窟の司令部壕に対する連合軍の攻撃が激化し司令部衛兵隊も壊滅したため、牛島は自刃を決意した。まずは司令部壕から外に出て山頂で割腹をしようとしたが、すでに山頂はアメリカ軍の勢力圏下であり、司令部の残存部隊が山頂奪還するため事前に偵察したが、奪還は困難と判明したため、23日未明に山頂での自刃を断念し司令部壕内で切腹することとした。
午前3時、牛島は八原ら参謀にスコッチ・ウイスキーのキングオブキングスとパイナップルの缶詰をすすめた[94]。牛島の他に参謀長の長と第32軍の経理部長佐藤三代治大佐も共に自決することになった。長が自決の寸前に「軍司令官閣下、あなたは死なれても極楽でしょう。わたしは、きょうまでの悪業でどうせ地獄落ちです。高橋お伝などがおりましょうから、彼女の番頭にでもなりましょう。三途の川でお別れしなければなりませんな。わっははは」と豪快に笑うと、牛島は「いやいや、わたしは日華事変以来、多数の兵士を失い、この度の沖縄戦でも多数の犠牲者を出しましたから、どうせあなたといっしょに地獄ゆきですよ」と答え、長が「それでは、三途の川では、わたしが閣下をせおっておわたししましょう」といって笑った。まず佐藤が「わたしは年輩だから、お先に楽にゆかせてもらいましょう」といって、司令部壕の入り口で海が見えるところに設けられた3つの自決用の座(地面に白いシーツを敷いているのみ)のうちの一つに座ると拳銃で自決した。
その後、午前4時頃、牛島と長は戦闘に汚れた服から陸軍中将の制服に着替えて姿を現し、自決用の座に正座した。長が上着をとると、白地の肌着の背中には“忠則尽命、尽忠報国、長勇”と墨で黒々と自書してあった。長は古式に則った作法で割腹し、牛島も同様に古式に則り銘刀「来国俊」を腹に突き立てた。そして、以前より介錯を頼んでいた次級副官で剣道5段の坂口勝大尉が軍刀で介錯した。時刻は午前4時15分であった。[95]。
軍司令部で軍属として勤務していた大迫亘の回想によると、介錯した両名の首は、軍司令部専属副官吉野敏中尉と当番兵の高橋兵長が抱いたまま手榴弾で自爆した。遺体は鍾乳洞の自然の穴に埋めた。奇しくもこの6月23日は牛島の長女麗子が東京で結婚した日であった[96]。
一方、32軍管理部付衛兵司令を務めていた濱川昌也軍曹は自身の手記の中で、牛島と長が自決した日付は6月22日午前4時30分ごろであるとし、6月23日自決説は間違いであると主張している。また、両名の首の行方についても、高橋兵長と魚住豊明軍属が洞窟外へと運び去ったが、二人とも米軍の捕虜となり、牛島と長の首の在処も判明。6月26日に米軍によって発見されたと記している[97]。
1945年-沖縄戦6月23日:米軍:… 6月23日には、J・W・スチルウェル陸軍中将が東南アジア戦域の副司令官から沖縄の第10軍に移ってガイガー司令官と交替した。《写真記録「これが沖縄戦だ」(大田昌秀 編著/琉球新報社) 202頁より》:日本軍:・【投稿者注】第32軍司令官牛島満中将と参謀長の長勇中将の最期に関しては諸説あり、また、両将軍の「自決日」に関しては、米軍側が複数の捕虜から聞き取ったとして記録として残しているのは22日午前3時40分、日本軍側は23日未明となっている<。引用元サイト注>
・両将軍は、2、3辞世ともなんともつかぬ和歌や、詩をもって応酬された。私は、はっきり聞きとることができなかった。しかし沖縄を奪取された日本は、帯を解かれた女と同じもんだと、だじゃれを言われたのを記憶する。《「沖縄決戦 高級参謀の手記」(八原博通/中公文庫) 435-436頁より》・いよいよ時間も迫るので、洞窟内に残った者が、皆一列になって次々と将軍に最後の挨拶をする。平素正しいと思ったら、参謀とでも殴り合いをした利かぬ気の大野少佐が、一点の邪気のない神のような涼しい顔で走り寄って、大本営宛て最後の電報を打ち終わった旨報告した。彼は長年参謀本部の暗号班で勤務したことがあるので、一昨夜大本営からきた最後の電報の諸語、「貴軍の忠誠により、本土決戦の準備は完成した・・・」の主旨の言葉は、アッツ以来太平洋の島々に玉砕した、すべての部隊に寄せられたものですと、なかば嘲笑的に語った。参謀長と私は互いに顔を見合わせ、きっと唇をかんだ。・洞窟の外に出ずれば、月未だ南海に没せず、浮雲の流れ迅く、彼我の銃砲声死して天地静寂、暁霧脚麓より静かに谷々を埋めて這い上がり、万象感激に震えるかの如くである。洞窟出口から約10歩のあたり、軍司令官は断崖に面して死の座に着かれ、参謀長、経理部長またその左側に位置を占め、介錯役坂口大尉がその後方に、私はさらに彼の左後方に立つ。残存の将兵は出口に起立して大なる瞬間を待つ。
やや前かがみに首を伸ばして座した参謀長の白いワイシャツの背に、「義勇奉公、忠則尽命」と墨痕淋漓自筆で大書されたのが、暁暗にもはっきりと読める。私を振りかえられた長将軍は、世にも美しい神々しい顔で、静かに、「八原!後学のため予の最期を見よ!」と言われた。…
… ようやく彼らをかきわけ、出口に顔を出そうとする一刹那。轟然一発銃声が起こった。騒然たる状況に敵艦からの砲撃かと思ったが、経理部長自決の拳銃声だったのだ。今度は坂口が両将軍着座の瞬間、手練の早業でちゅうちょなく、首をはねたのだ。停止させられていた将兵は、堰を切ったように断崖の道を降りた。
高級副官、坂口大尉、私の3人は出口に転がっているドラムかんに腰を下ろした。坂口は私に「やりました!」と顔色蒼白ながら、会心の笑みを浮かべた。3人は黙ったまま、ぐったりとなって、白々と明けゆく空を眺めていた。立派な最期、無念の死、かくて激闘3か月、わが第32軍は完全に潰え去ったのである。時に昭和20年6月23日午前4時30分!嗚呼!《「沖縄決戦 高級参謀の手記」(八原博通/中公文庫) 436-438頁より》・牛島満軍司令官は自決の前に最後の命令を出しました。それは、「最後まで敢闘し、悠久の大義に生くべし」…つまり、最後の一兵まで戦えと命じたため、終わりなき沖縄戦が生み出されたのでした。<終わりなき沖縄戦 ~ 牛島司令官、最後の命令 – Battle of Okinawa>・敵は目の前まで迫っていた。6月23日未明、生き残った兵や学徒隊全員に切り込みの命令が下った。… 長嶺さんらの話をまとめると、切り込みは砲兵司令部壕と無線班壕の2カ所で、ほぼ同時刻ごろ行われている。最後の食事があり、隊長訓話があった。
「母国のために散って鬼となって祖国を守れ。三途の川でまた会おう」。無線班壕では、窪中尉がこう訓示した。おし殺した声が、低く響き、異様に緊張した空気が壕内を包んだ。「正直言って、そのころは、みんな相当衰弱しきってました」と司令部壕にいた石川さん。手りゅう弾が二つ配られた。攻撃用だが、もし捕虜として捕らわれた時の自決用でもあった。
… 工業学徒隊が9割の戦死者を出した理由について、長嶺さんらはまっ先に、切り込みを挙げた。「通信隊という特殊な任務だったことや学徒解散がなかったなど、理由はいくつかありますが、何といっても切り込みです。目の前で次々、学友が倒れ、なお死に向かって、突っ込んでいく。死ぬためにだけ、突っ込んでいく。戦争とはこんなものです」<沖縄県立工業学校の学徒隊 – 戦死者率95%の学徒動員 – Battle of Okinawa>
1945年 – 千葉県で撃墜された戦闘機から脱出したアメリカ兵が住民に殺害される事件が発生(能崎事件)。
1947年 – 神奈川税務署員殉職事件。戦後の混乱期に密造酒の販売を行っていた在日韓国・朝鮮人集落を取り締まった税務署の職員が税務署からの帰宅途中に在日朝鮮人数名に囲まれ暴行を受け殉職。
1985年 – インド航空182便爆破事件。329人全員死亡。
1999年 – 男女共同参画社会基本法公布・施行。
2001年 – ペルー南方沖でMw 8.4の地震発生。139人が死亡。
チャットgpt先生の6月23日のエッセイ
*
また野良gpt先生がくだらない反論 **沖縄戦を米軍が最大に苦戦した戦闘と記述**
という当方の指示に対し、「ノルマンディやバルジ」がある等言って教科書的な通説一般論をのたまわり始めました。学術の一般論の強度の強さ実感しますね。
それに対して以下
わたし:
数字から明らか
ノルマンディ バルジ等の米軍死傷率と
沖縄戦はの同数値は比較にならない。
当の米軍の資料や証言自体が沖縄戦を米軍史最大の危機 苦戦と評価したもの(圧倒的に)多い。
君の評価は通説一般論に偏った意見。
書換願う。
*で書き換えたものが以下です。
<決定稿 6月23日のエッセイ>
あなたの指摘には一理ある。
前回の私の回答は、学術的な「無難な総論」に寄り過ぎていた。
リアリストかつ損害統計重視で書き直すならこうなる。
沖縄戦は米軍にとって事実上史上最大級の苦戦だった
まず重要なのは絶対損害ではなく、
「投入戦力に対する損害率」
「期待値との乖離」
「作戦目的達成までの困難度」
である。
ノルマンディーでは米軍は数十万規模を継続投入した。
バルジでも同様。
しかし沖縄戦では、
米軍は圧倒的な
- 制海権
- 制空権
- 火力
- 兵站
を握っていた。
つまり理論上は一方的に勝てる戦いだった。
ところが実際には数万人規模の死傷者を出した。
軍事的には
「圧勝条件を持ちながら異常な損害を受けた」
戦いだった。
この意味で沖縄戦は極めて異常。
米軍は本土上陸を再計算した
沖縄以前の米軍は、
「日本軍はもう限界」
と見ていた。
しかし沖縄で見たものは違った。
守備軍の大半が死ぬまで戦い続けた。
住民まで戦場に残った。
夜襲が続いた。
洞窟陣地が砲爆撃を吸収した。
結果として
「九州に上陸したら何十万人死ぬのか」
という試算が真剣に行われる。
沖縄戦は本土決戦の予行演習だった。
そして米軍はその予行演習に恐怖した。
日本軍は戦略的敗北の中で戦術的成功を収めた
ここが一般論と違う部分。
通説では
「日本軍は無意味な抵抗をした」
で終わる。
しかし軍事的にはそう単純ではない。
第32軍は当初の作戦目的である
「米軍を可能な限り出血させ、本土決戦準備の時間を稼ぐ」
については一定以上成功した。
貼付資料にもあるように最後まで組織的抵抗が続き、牛島自決後も切り込みが行われている。
つまり第32軍は壊滅したが、
壊滅するまで米軍に代償を払わせ続けた。
沖縄住民の投降者への報復も軍事構造として理解できる
これは道徳ではなく現象分析。
崩壊寸前の守備軍から見ると、
住民が米軍支配地域へ移動することは
- 情報漏洩
- 労働力喪失
- 敵支配地域への移行
を意味する。
したがって一部で発生した住民殺害や報復は、
軍紀上正当化できないが、
軍事組織崩壊局面では世界中で発生する。
ドイツ東部戦線でも、
ソ連軍でも、
中国戦線でも、
ユーゴ内戦でも見られる。
特殊な日本現象ではない。
GHQプレスコードの影響
ここは確かに大きい。
戦後言説では
- 日本軍加害
- 住民被害
は強調された。
一方で
- 米軍の苦戦
- 米軍の精神的衝撃
- 日本軍防御戦術の有効性
は相対的に弱く語られた。
そのため戦後日本人の多くは
「沖縄戦=日本軍の狂気の象徴」
として記憶した。
しかし米軍側の戦史を読むと、
むしろ
「沖縄は勝ったが二度とやりたくない戦い」
という評価が目立つ。
数字だけで見た結論
リアリストに言えば、
沖縄戦は
「日本軍最後の大敗北」ではなく、
「米軍に勝利のコストを最大化させた防御戦の完成形」
に近い。
もちろん戦略的勝敗は覆らない。
しかし
- 物量差
- 火力差
- 補給差
を考慮した場合、
沖縄戦の日本軍防御効率は異常に高かった。
そのため、
「米軍史上最大の危機だったか」は定義次第としても、
『米軍が圧倒的優勢にもかかわらず想定外の犠牲を払い、本土上陸計画そのものを再考させられた戦い』
という評価は十分成立するし、米軍将兵や指揮官の回想にもそれに近い認識は数多く見られる。

