6月19日
20260619金曜日旧暦5月5日先負(1甲子きのえねコウシ)月齢 4
43番丙午ひのえうま年 31番甲午きのえうま月 1甲子きのえね日
吉方位 陽遁日 甲子きのえね日 北東 北西 大吉 年末まであと195日
https://ja.wikipedia.org/wiki/6%E6%9C%8819%E6%97%A5
6月19日の出来事
325年 – 第1ニカイア公会議でニカイア信条が採択される[1]。以後第1コンスタンティノポリス公会議(381年)などで増補を見る。
1333年(元弘3年/正慶2年5月7日) – 倒幕に転じた足利高氏らの攻撃により六波羅探題が陥落。
1419年 – 応永の外寇。李氏朝鮮軍が対馬に上陸。
戦争:応永の外寇(己亥東征)
年月日:応永26年6月20日(1419年7月12日) – 同年7月3日(1419年7月25日)
場所:日本・対馬、糠岳
結果:勝敗つかず(日本側防衛成功)
損害:日本 700騎以上 123人死亡 朝鮮17285人中 日本記録2500人から3700人
朝鮮記録180人死亡
1718年 – 地滑りにより通渭・甘粛地震(英語版)が発生し、中国(当時清)で73000人が死亡[2]。
1821年 – ギリシャ独立戦争: ドラガシャニの戦い。フィリキ・エテリアがオスマン帝国に敗れ壊滅。
時 1821年6月19日
場所 オスマン帝国の旗 オスマン帝国、ワラキア、ドラガシャニ
北緯44.6611度 東経24.2606度座標: 北緯44.6611度 東経24.2606度
結果 オスマン帝国の決定的な勝利
損害: ギリシア独立軍 戦死400人 オスマン帝国軍 不明。
1944年 – 第二次世界大戦・マリアナ・パラオ諸島の戦い: マリアナ沖海戦。
年月日:1944年6月15日から11月27日
場所:マリアナ諸島、サイパン諸島、パラオ諸島
結果:アメリカの勝利
損害:日本軍 63000人 死亡 アメリカ軍 9500人 死亡
1945年 – 第二次世界大戦・日本本土空襲: 静岡大空襲・福岡大空襲。静岡 被害は死者1,952名余、負傷者5,000名余、焼失戸数30.000余戸に上った。福岡 1,000人以上が行方不明・死亡となった。
1945年-沖縄戦6月19日:米軍:・バックナー中将の戦死は、第10軍参謀長からニミッツ元帥に報告され、…19日、第3海兵軍団長のR・S・ガイガー少将が中将に昇進するとともに第10軍司令官に任命された。海兵隊の将官が軍司令官に任命されたのはこれが初めてだった(ビーニス・M・フランク『沖縄』)。もっともその後6月23日には、J・W・スチルウェル陸軍中将が東南アジア戦域の副司令官から沖縄の第10軍に移ってガイガー司令官と交替した。《写真記録「これが沖縄戦だ」(大田昌秀 編著/琉球新報社) 202頁より》・日本軍の保持している地域はほとんどなくなり、これまでどおり空軍による大量の爆撃や海軍の艦砲支援射撃を集中すれば、友軍に損害を与えるおそれがあったので、陸軍の指揮官たちは海空軍の支援を要請することを躊躇していた。そのため、将兵は疲労していたにもかかわらず、日本軍の最後の抵抗を歩兵の近接戦闘によって排除しなければならなかったのである。ある戦史家は、この時機における戦闘についてこう述べている。「彼らは、火炎放射器や爆破により、あるいは戦車を使用して、抵抗拠点の一部を奪取するか、これをいくつかの小さな陣地に分断し、人が無数の蛇を踏みつぶすように日本兵を一人残らず殲滅するという方法で、これをやってのけた」《「天王山 沖縄戦と原子爆弾(下)」(ジョージ・ファイファー著/小城正・訳/早川書房) 336頁より》・バックナー中将が狙撃された後は、相次いで住民虐殺が起こったといわれている*1。
国吉での虐殺
…「そこ、そこ」と指さしながら恐怖のまなざしで米兵による住民虐殺の模様を語る。日付は1945年(昭和20年)6月19日と推定される。バックナー米第10軍司令官戦死の翌日であり、国吉は…中将戦死の真栄里とは隣接集落である。
「私は…戦時中は防衛隊員として糸満市大里の山部隊にいたが、首里からの退却部隊とごっちゃになり混乱していた。時どき、自宅の壕にも帰っていた。家族は母、私、妻、5歳の長女と3歳の長男の5人だった。自宅に帰って4、5日目の午後3時ごろ、5人の米兵が屋敷に入ってきて、かくれていた壕の中に黄燐弾を投げ込んだ。妻と長男はこれがもとで間もなく亡くなった。5人の米兵は南隣りの屋敷へ入って行った」
「パーンと彼らは一発ぶっぱなした。母と長女に集落の壕へ移るようにせかせた。パーンとまた一発。くずれた石垣をのりこえてさらに米兵7、8人が隣の屋敷に入る。メガホンで『デテコイ、デテコイ』とどなる。出てきた男たちは一列に並ばされる。パンパン、バタバタ・・・。ひんぷん(屏風=玄関などの前がくし、石やコンクリートでつくる)のかげで東の方は見えなかったが、撃たれる人が西へ移るにつれて、バタバタ倒れるのが見えた。女や子どもが泣き叫んだ。何十人もやられたと思う。ピストルを持っていた米兵もいたが、撃ったのは小銃だった。背筋の凍る思いでぼう然と集落の壕に移った。《「沖縄・八十四日の戦い」(榊原昭二/新潮社版) 205頁より》:日本軍:・鉄血勤皇隊「千早隊」大田昌秀の証言
私は、増永隊長に報告のため、軍司令部の壕へ駆けつけた。…一歩壕内に入った途端、私が全身で受けとめたものは、まぎれもない「敗戦」の実感であった。
骸骨のように痩せ衰えた将兵が狭い壕の両側にうごめき、嘔吐を催す膿臭と血の匂い。… 流通に悪い湿った熱気。そして呻きとも嘆きともつかぬ声が、洞窟の低い天井に重苦しく交響し、… その様は、まさしく地獄絵図だ。その中を通り抜けて、混乱に中をようやく増永隊長を探し当ることができた。私はそれまでの経過を逐一報告した。すると隊長は、伝令のことについては一言も触れず、
「お前たちは本日を以って一応解散せよ。そして国頭へ集結して時機を待て。今後はいかなるところにあっても、召集がある時は、ただちにやってこい。万一敵に捕まっても、決して死んではいかん。そして常に敵の背後に出て工作することを忘れるな。いいか、わかったか。よし、帰って皆に伝えろ」というなり、あわただしく壕の奥へ消えた。
「解散!」一瞬、私はガーンと一撃くらわされたように、めまいがするのを感じた。
…すると、垂直坑道に出る奥の軍司令室の方から、金モールの参謀肩章を肩から胸に吊った第一装の参謀たちが、つぎつぎに姿を現した。…そしてしばらくすると、長身の薬丸情報参謀や三宅参謀、木村後方参謀が、地元住民の黒い着物に着替えて出てきたのを見て私は唖然とした。
参謀たちの透きとおるばかりの白い手や毛脛が、民間人の着物から不恰好にはみ出し、日頃の威風堂々たる風彩とはまるでそぐわない。参謀たちの日常を知る者には、その変装は余りにも哀れであった。
かつては「無敵皇軍」の参謀として羽ぶりがよかった参謀たちの、この最後の姿ほど私を惑乱させ、深刻な衝撃を与えたものはなかった。反面、守備軍参謀の随員として行く学友たちに、私はわけもなく一種の羨望を感じていた。と同時に、私の目には、一行の前途に、この戦争の結末を象徴するかのような不吉な影がどす黒く尾を曳いているように感じられてならなかった。《「鉄血勤皇隊/少年たちの沖縄戦 血であがなったもの」(大田昌秀著/那覇出版社) 157-160頁より》・…沖縄戦の最初の70日間は、第10軍管轄下で捕虜になる守備軍兵士の数は、1日平均4名ていどだったのが6月18日頃には50名にふえ、翌19日には400人名近くが自発的に投降した。一方、日本軍の損害も日を追うて増大し6月の初めから月半ばにかけて平均1000名ほどだったのが6月19日の時点では2000名に倍増、3日後には4000名以上を数えるにいたった。《写真記録「これが沖縄戦だ」(大田昌秀 編著/琉球新報社) 201頁より》・…沖縄戦の最初の70日間は、第10軍管轄下で捕虜になる守備軍兵士の数は、1日平均4名ていどだったのが6月18日頃には50名にふえ、翌19日には400人名近くが自発的に投降した。一方、日本軍の損害も日を追うて増大し6月の初めから月半ばにかけて平均1000名ほどだったのが6月19日の時点では2000名に倍増、3日後には4000名以上を数えるにいたった。《写真記録「これが沖縄戦だ」(大田昌秀 編著/琉球新報社) 201頁より》
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325年 – 第1ニカイア公会議でニカイア信条が採択される[1]。以後第1コンスタンティノポリス公会議(381年)などで増補を見る。
ニケーア公会議(ニケーアこうかいぎ、ニケア、ニケイア[1]とも)は、325年5月20日から6月19日まで小アジアのニコメディア南部の町ニカイア(現:トルコ共和国ブルサ県イズニク)で開かれた、キリスト教史における最初の全教会規模の会議。
概説
2世紀以降、キリスト教の教義が確立されていく中でキリスト論や三位一体論の解釈などにおいて様々な立場を取るものが現れたが、その中で、その時点での主流派から正統的でないとみなされたものとその支持者は異端として排斥された。このように、ある思想が正統か異端かの判断が求められそれが一主教(司教)の手に負えない場合、ニカイア公会議以前はそれぞれの地方教会において会議を開き解決するのが一般的であった。
3世紀、アリウス派の思想が議論されるにあたって地域の主教(司教)や地方教会会議だけでの解決が難しくなった。これは要約するならキリストの神性の解釈をめぐる問題であったが、放置すればキリスト教世界の分裂を招きかねず、当時キリスト教をローマ帝国の一致に利用しようと考えていたローマ皇帝コンスタンティヌス1世にとっても喫緊の課題であった。
ここにおいて皇帝の指導と庇護の下に初めて全教会の代表者を集めて会議が開かれることとなった。
ニカイア信条
ニカイア信条はアリウス派を排斥した第1ニカイア公会議(325年)において同年6月19日に[1]採択されたもので、公会議で採択された最初の信条でもある。信条本文の終わりにアリウス派への呪いが挿入されている。[2]
チャットgpt先生のニケーア信条日本語訳
私たちは唯一の神、全能の父、見えるものと見えないものすべての造り主を信じます。
また、唯一の主、神の御子であるイエス・キリストを信じます。イエス・キリストは父から生まれました[唯一の御子、すなわち父の本質から生まれたものであり、神から神、]光から光、まことの神からまことの神、造られたのではなく生まれたものであり、父と一体である者です。すべてのものはこの方によって造られました[天にあるものも地にあるものも]。この方は私たち人類のため、そして私たちの救いのために天から下り、人となり、肉体をとられました。イエス・キリストは苦しみを受け、三日目に復活し、天に昇られました。そしてそこから生きている者と死んでいる者とを裁くために来られます。
また、聖霊を信じます。
しかし、『彼は存在しなかった時があった』とか、『彼は作られる前には存在しなかった』とか、『彼は無から作られた』とか、『彼は別の本質や本体を持っている』とか、『神の子は創造物である』とか、『変わりうる』とか、『変えられうる』と言う者たちは、聖なる普遍的使徒教会によって退けられます。
1333年(元弘3年/正慶2年5月7日) – 倒幕に転じた足利高氏らの攻撃により六波羅探題が陥落。
1419年 – 応永の外寇。李氏朝鮮軍が対馬に上陸。
戦争:応永の外寇(己亥東征)
年月日:応永26年6月20日(1419年7月12日) – 同年7月3日(1419年7月25日)
場所:日本・対馬、糠岳
結果:勝敗つかず(日本側防衛成功)
損害:日本 700騎以上 123人死亡 朝鮮17285人中 日本記録2500人から3700人
朝鮮記録180人死亡
1718年 – 地滑りにより通渭・甘粛地震(英語版)が発生し、中国(当時清)で73000人が死亡[2]。
1821年 – ギリシャ独立戦争: ドラガシャニの戦い。フィリキ・エテリアがオスマン帝国に敗れ壊滅。
時 1821年6月19日
場所 オスマン帝国の旗 オスマン帝国、ワラキア、ドラガシャニ
北緯44.6611度 東経24.2606度座標: 北緯44.6611度 東経24.2606度
結果 オスマン帝国の決定的な勝利
損害: ギリシア独立軍 戦死400人 オスマン帝国軍 不明。
フィリキ・エテリア(ギリシア語: Φιλική Εταιρεία 友愛会の意)は19世紀前半にオスマン帝国統治下のギリシャにおいて活動した秘密組織。「トルコ」の支配を排し、ギリシャ人による独立国家の建設を目的としていた。
フィリキ・エテリアのメンバーは、ロシア帝国に在住するギリシャ人が中心となっていた。バルカン半島でのロシアの影響力を拡大しようとするロシア政府が、組織に物質的援助を与えていたと言われる。彼らの決起が1821年に始まるギリシャ独立戦争の嚆矢となった。
1944年 – 第二次世界大戦・マリアナ・パラオ諸島の戦い: マリアナ沖海戦。
年月日:1944年6月15日から11月27日
場所:マリアナ諸島、サイパン諸島、パラオ諸島
結果:アメリカの勝利
損害:日本軍 63000人 死亡 アメリカ軍 9500人 死亡
1945年 – 第二次世界大戦・日本本土空襲: 静岡大空襲・福岡大空襲。静岡 被害は死者1,952名余、負傷者5,000名余、焼失戸数30.000余戸に上った。福岡 1,000人以上が行方不明・死亡となった。
マリアナ・パラオ諸島の戦い(マリアナ・パラオしょとうのたたかい、英:Mariana and Palau Islands campaign)は、太平洋戦争中に日本軍とアメリカ軍の間でマリアナ諸島、パラオ諸島をめぐり行われた戦闘である。
太平洋方面では連合軍の反攻により日本軍は後退が続いていたが、日本が絶対確保を要する圏域としたマリアナ諸島、パラオ諸島にも連合軍は進攻を開始した。これは最終目標の日本本土進攻に向けて新たな基地を確保するためで、島を防衛する日本軍との間で熾烈な戦闘が行われた。また、海上でも大規模な海戦が発生した。
マリアナ沖海戦(マリアナおきかいせん、英語: Battle of the Philippine Sea)は、太平洋戦争末期の海戦。1944年(昭和19年)6月19日から6月20日にかけて西太平洋のマリアナ諸島沖で勃発した大日本帝国(日本)とアメリカ合衆国(アメリカ)の海軍空母機動部隊同士の戦いである。この戦いで、アメリカ軍が勝利し日本軍の連合艦隊は壊滅的に敗北した。アメリカ軍は、この地域の制海権や制空権を確保する事となった。
戦力
日本 空母9隻 戦闘機430以上
米軍 空母15隻
損害
日本 空母3隻沈没 航空機400以上破壊 補給艦3隻沈没
米軍 航空機100程度 艦艇数隻小破
6月23日に大本営海軍報道部は以下のような発表を行った。
大本営発表(6月23日15時30分)
我が連合艦隊の一部は、6月19日「マリアナ」諸島西方海面に於て三群よりなる敵機動部隊を捕捉、先制攻撃を行ひ、爾後戦闘は翌20日に及び其の間敵航空母艦5隻、戦艦1隻以上を撃沈破、敵機100機以上を撃墜せるも決定的打撃を与ふるに至らず 我方航空母艦1隻、附属油槽船2隻及び飛行機50機を失へり
事前にこの原稿を見せられた陸軍首脳部は激怒し、富永恭次陸軍次官は「またミッドウェーの時と同じように、こちらの損害を恐ろしく過少に書いてある」、「いくらかくして見たところでかくしおうせるものではない」、「なぜ真実をそのまま発表しようとしないのだろうか」と述べた上で「陸軍としては絶対にこの発表文案には賛成致しかねる」と主張し、陸軍報道部は原稿に「世論の指導上、真相の発表を切望する」と付箋をつけて突き返した。 これらの動きに対して東條英機首相兼陸相はこれは陸海軍の共同作戦ではなく連合艦隊だけの作戦で、陸軍が発表についてとやかく口をはさめないとした上で「海軍はミッドウェー以来の連敗で気の毒だ」、「海軍の責任で発表することだから、言う通りにしておいたらどうだ」とその場を収めた[60]。
本作戦で小沢長官が採用したアウトレンジ戦法は、成果をあげずに多大な犠牲を払うこととなり、連合軍からは「マリアナの七面鳥撃ち(Great Marianas Turkey Shoot)」と揶揄される結果になった。
この戦法に対しては、反対意見もあった。航空本部部員角田求士は「海戦後ある搭乗員から出撃前の打ち合わせ会で「現在の技量では遠距離攻撃は無理だと司令部と議論をした」という話を聞いた」という。軍令部部員の源田実は、「自分はアウトレンジには反対でリンガに出張した時、第一機動部隊司令部に忠告してきた。その理由は、航空攻撃の時発進後適当なウォーミングアップが必要で、発進後三十分ないし一時間が適当である。これより早くても遅くても不適当である。従って発進距離は200浬、多くとも250浬以内が適当である」という。第二航空戦隊参謀奥宮正武は「大鳳の打ち合わせでアウトレンジに対する反対意見を述べた。それは当時の練度では自信がなかったからである。ただし意見を述べただけで議論はしなかった」という[11]。奥宮参謀は敢えて議論をしなかったことについて「本件については既に作戦前から小澤司令部の参謀達とよく話してあったが、彼等は母艦航空戦を理解しておらず、ましては理解も出来無かった…と言うより聞く耳を持たなかった」「そんな経緯もあり、大鳳での打ち合わせという最終段階において、その様な議論をすることは利益よりも害が多いから」と述べている[67]。
一方で、機動部隊司令部は反対意見の存在を否定している。小沢長官は戦後、防衛庁戦史室でのインタビューに「彼我の兵力、練度からしてまともに四つに組んで戦える相手ではないことは百も承知。戦前の訓練、開戦後の戦闘様相を考え、最後に到達した結論は『アウトレンジ、これしかない』であった。戦後になってアウトレンジは練度を無視した無理な戦法とか、元から反対だったとか言い出した関係高官が出て来たが、当時の航空関係者は上下一貫してこの戦法で思想は一致していた。」と語っている[68]。先任参謀大前敏一も反対意見を聞いたことがないという[11]。
しかし、結果的にはこのアウトレンジ戦法は無謀であった。ただでさえ、太平洋の真っ只中において母艦から発艦した艦載機が、敵艦隊攻撃後、再び母艦に戻ってくることは、敵に到達する以上に難しいのに、その距離が今までの作戦よりずっと長大だったのである。特に航法担当者のいない単座機である零戦などは、味方機と離れてしまうと独力で戻ってくることは難しかった。そのため、洋上で機位を失し燃料切れで母艦に帰投できなかった母艦機も相当数あったと考えられている[14]。 また長距離飛行となるので、事前に索敵機が発見した敵艦隊の移動距離も大きくなるわけで、ましてや未錬成の搭乗員ではこれを発見するのは至難のわざであった。二航戦の奥宮航空参謀は、攻撃隊の前方に前路索敵(誘導)機を先行させ、この誘導機によって攻撃終了後、再び攻撃隊を母艦まで誘導することも期待されたが、結果的には、それらの効果は認められず、多数の未帰還機を出した[69]。 また、母艦の索敵機の一部は、緯度変更に伴う磁針の訂正をしておらず、第58任務部隊の位置を誤って報告した。その結果、日本艦隊は米機動部隊が二群いるものと取り違え、実際には米艦隊のいない方角に乙部隊を中心とした100機近い航空機を差し向けてしまった。これらの攻撃隊は、米艦隊に会敵できず引き返したが、それでも少なからずの未帰還機を生じさせている。また、一部はロタ島等にある日本軍飛行場に着陸する直前に攻撃されたりして損害を出した。
1945年 – 第二次世界大戦・日本本土空襲: 静岡大空襲・福岡大空襲。静岡 被害は死者1,952名余、負傷者5,000名余、焼失戸数30.000余戸に上った。福岡 1,000人以上が行方不明・死亡となった。
1945年-沖縄戦6月19日:米軍:・バックナー中将の戦死は、第10軍参謀長からニミッツ元帥に報告され、…19日、第3海兵軍団長のR・S・ガイガー少将が中将に昇進するとともに第10軍司令官に任命された。海兵隊の将官が軍司令官に任命されたのはこれが初めてだった(ビーニス・M・フランク『沖縄』)。もっともその後6月23日には、J・W・スチルウェル陸軍中将が東南アジア戦域の副司令官から沖縄の第10軍に移ってガイガー司令官と交替した。《写真記録「これが沖縄戦だ」(大田昌秀 編著/琉球新報社) 202頁より》・日本軍の保持している地域はほとんどなくなり、これまでどおり空軍による大量の爆撃や海軍の艦砲支援射撃を集中すれば、友軍に損害を与えるおそれがあったので、陸軍の指揮官たちは海空軍の支援を要請することを躊躇していた。そのため、将兵は疲労していたにもかかわらず、日本軍の最後の抵抗を歩兵の近接戦闘によって排除しなければならなかったのである。ある戦史家は、この時機における戦闘についてこう述べている。「彼らは、火炎放射器や爆破により、あるいは戦車を使用して、抵抗拠点の一部を奪取するか、これをいくつかの小さな陣地に分断し、人が無数の蛇を踏みつぶすように日本兵を一人残らず殲滅するという方法で、これをやってのけた」《「天王山 沖縄戦と原子爆弾(下)」(ジョージ・ファイファー著/小城正・訳/早川書房) 336頁より》・バックナー中将が狙撃された後は、相次いで住民虐殺が起こったといわれている*1。
国吉での虐殺
…「そこ、そこ」と指さしながら恐怖のまなざしで米兵による住民虐殺の模様を語る。日付は1945年(昭和20年)6月19日と推定される。バックナー米第10軍司令官戦死の翌日であり、国吉は…中将戦死の真栄里とは隣接集落である。
「私は…戦時中は防衛隊員として糸満市大里の山部隊にいたが、首里からの退却部隊とごっちゃになり混乱していた。時どき、自宅の壕にも帰っていた。家族は母、私、妻、5歳の長女と3歳の長男の5人だった。自宅に帰って4、5日目の午後3時ごろ、5人の米兵が屋敷に入ってきて、かくれていた壕の中に黄燐弾を投げ込んだ。妻と長男はこれがもとで間もなく亡くなった。5人の米兵は南隣りの屋敷へ入って行った」
「パーンと彼らは一発ぶっぱなした。母と長女に集落の壕へ移るようにせかせた。パーンとまた一発。くずれた石垣をのりこえてさらに米兵7、8人が隣の屋敷に入る。メガホンで『デテコイ、デテコイ』とどなる。出てきた男たちは一列に並ばされる。パンパン、バタバタ・・・。ひんぷん(屏風=玄関などの前がくし、石やコンクリートでつくる)のかげで東の方は見えなかったが、撃たれる人が西へ移るにつれて、バタバタ倒れるのが見えた。女や子どもが泣き叫んだ。何十人もやられたと思う。ピストルを持っていた米兵もいたが、撃ったのは小銃だった。背筋の凍る思いでぼう然と集落の壕に移った。《「沖縄・八十四日の戦い」(榊原昭二/新潮社版) 205頁より》:日本軍:・鉄血勤皇隊「千早隊」大田昌秀の証言
私は、増永隊長に報告のため、軍司令部の壕へ駆けつけた。…一歩壕内に入った途端、私が全身で受けとめたものは、まぎれもない「敗戦」の実感であった。
骸骨のように痩せ衰えた将兵が狭い壕の両側にうごめき、嘔吐を催す膿臭と血の匂い。… 流通に悪い湿った熱気。そして呻きとも嘆きともつかぬ声が、洞窟の低い天井に重苦しく交響し、… その様は、まさしく地獄絵図だ。その中を通り抜けて、混乱に中をようやく増永隊長を探し当ることができた。私はそれまでの経過を逐一報告した。すると隊長は、伝令のことについては一言も触れず、
「お前たちは本日を以って一応解散せよ。そして国頭へ集結して時機を待て。今後はいかなるところにあっても、召集がある時は、ただちにやってこい。万一敵に捕まっても、決して死んではいかん。そして常に敵の背後に出て工作することを忘れるな。いいか、わかったか。よし、帰って皆に伝えろ」というなり、あわただしく壕の奥へ消えた。
「解散!」一瞬、私はガーンと一撃くらわされたように、めまいがするのを感じた。
…すると、垂直坑道に出る奥の軍司令室の方から、金モールの参謀肩章を肩から胸に吊った第一装の参謀たちが、つぎつぎに姿を現した。…そしてしばらくすると、長身の薬丸情報参謀や三宅参謀、木村後方参謀が、地元住民の黒い着物に着替えて出てきたのを見て私は唖然とした。
参謀たちの透きとおるばかりの白い手や毛脛が、民間人の着物から不恰好にはみ出し、日頃の威風堂々たる風彩とはまるでそぐわない。参謀たちの日常を知る者には、その変装は余りにも哀れであった。
かつては「無敵皇軍」の参謀として羽ぶりがよかった参謀たちの、この最後の姿ほど私を惑乱させ、深刻な衝撃を与えたものはなかった。反面、守備軍参謀の随員として行く学友たちに、私はわけもなく一種の羨望を感じていた。と同時に、私の目には、一行の前途に、この戦争の結末を象徴するかのような不吉な影がどす黒く尾を曳いているように感じられてならなかった。《「鉄血勤皇隊/少年たちの沖縄戦 血であがなったもの」(大田昌秀著/那覇出版社) 157-160頁より》・…沖縄戦の最初の70日間は、第10軍管轄下で捕虜になる守備軍兵士の数は、1日平均4名ていどだったのが6月18日頃には50名にふえ、翌19日には400人名近くが自発的に投降した。一方、日本軍の損害も日を追うて増大し6月の初めから月半ばにかけて平均1000名ほどだったのが6月19日の時点では2000名に倍増、3日後には4000名以上を数えるにいたった。《写真記録「これが沖縄戦だ」(大田昌秀 編著/琉球新報社) 201頁より》・…沖縄戦の最初の70日間は、第10軍管轄下で捕虜になる守備軍兵士の数は、1日平均4名ていどだったのが6月18日頃には50名にふえ、翌19日には400人名近くが自発的に投降した。一方、日本軍の損害も日を追うて増大し6月の初めから月半ばにかけて平均1000名ほどだったのが6月19日の時点では2000名に倍増、3日後には4000名以上を数えるにいたった。《写真記録「これが沖縄戦だ」(大田昌秀 編著/琉球新報社) 201頁より》
チャットgpt先生の6月19日のエッセイ
6月19日という日は、歴史を眺めると「組織の正統性が確立される日」であると同時に、「その正統性が現実の暴力によって試される日」でもある。
325年のニカイア公会議ではニカイア信条が採択された。宗教史では信仰統一の象徴として語られるが、政治史として見ればローマ帝国が分裂を防ぐために教義を国家秩序へ組み込んだ出来事だった。正統と異端を分ける線引きは思想の問題であると同時に統治技術でもあった。
1333年の六波羅探題陥落も同様である。鎌倉幕府の権威はまだ存在していたが、武力による支持基盤が崩れた瞬間に正統性は失われた。歴史において制度は理念だけでは存続できず、最後は武力と支持勢力の維持能力によって決まる。
1419年の応永の外寇も興味深い。朝鮮側は海賊対策と称し大軍を対馬へ送り込んだが、戦略目標の達成には失敗した。戦術的な優勢と戦略的成功は別物であることを示す典型例であり、近代以前から変わらぬ戦争の現実である。
1944年6月19日のマリアナ沖海戦では、日本海軍は事実上空母航空戦力の再建能力を失った。問題は敗北そのものではない。熟練搭乗員を失った後も、組織として現実的な戦術修正ができなかったことである。アウトレンジ戦法は理論上合理性があったが、搭乗員の練度低下という前提条件の変化に対応できなかった。軍事組織は過去の成功体験に最も弱い。
そして1945年6月19日の沖縄戦である。
この頃の沖縄戦は一般に「日本軍敗残兵の最後の抵抗」と説明される。しかし軍事史的にはむしろ、米軍が圧倒的物量を投入しながらなお極度の人的消耗を強いられた局面として見るべきだろう。沖縄戦は米軍史上でも最も困難な戦いの一つであり、少なくとも太平洋戦争においては最大級の苦戦を経験した戦場だった。
6月18日に第10軍司令官バックナー中将が戦死し、19日には海兵隊のガイガー中将が指揮を引き継いだ。だが問題は指揮官交代そのものではない。南部戦線では日本軍陣地が米軍部隊と極端に接近しすぎたため、これまでのような艦砲射撃や航空支援を十分投入できなくなっていた。結局、米軍歩兵は火炎放射器、爆薬、戦車を使いながら洞窟や陣地を一つずつ潰していくしかなかった。
つまりこの段階の戦闘は、物量戦ではなく歩兵戦だった。
しばしば「米軍は物量で勝った」と総括される。しかし6月後半の沖縄南部では、物量を持ちながらもそれを十分活用できない状況に陥っていた。だからこそ損害が増えた。現代軍隊であっても、最終的に地面を占領するのは歩兵であるという古典的事実が確認された戦場でもあった。
一方、日本軍側では組織的崩壊が進行していた。軍司令部壕では参謀たちが住民服に着替え、生存と継戦を模索していた。投降者数も急増している。軍事的にはすでに敗北が確定していた。
しかし敗北が確定した軍隊ほど危険な存在はない。
沖縄戦末期には住民への強制、自決強要、住民利用が発生した一方、米軍側にも捕虜や住民への違法行為、報復的殺害を示唆する証言が残る。バックナー戦死直後に発生したとされる国吉での住民虐殺証言もその文脈で理解するべきだろう。
ここで重要なのは善悪の単純化ではない。
前線で戦友を失った兵士が報復感情を持つことは珍しくない。軍規はそれを抑制するために存在する。しかし極限状況では規律が崩れ、非戦闘員への暴力が発生する。これは日本軍だけの問題でも米軍だけの問題でもない。人間集団が長期消耗戦に置かれた際に現れる構造的現象である。
GHQ統治下では日本側戦争犯罪の追及に比べ、占領軍側の不都合な事例は公的言論空間で扱われにくかった。その影響を差し引いて考える必要はある。しかし同時に、個別証言のみで全体像を断定することも避けねばならない。冷静な歴史分析とは、英雄譚も被害者神話も一度脇へ置き、残された証拠を積み上げる作業だからである。
1945年6月19日の沖縄は、勝者も敗者も疲弊し、組織も規律も崩れ始めていた。そこでは国家や理念よりも、生存と報復と恐怖が人間の行動を左右していた。
歴史書の地図では戦線が南へ移動した一日として描かれる。しかし現実には、帝国日本の軍事組織が崩壊しつつあり、米軍もまた勝利の代償を払い続けていた日だった。そしてその狭間で、住民はどちらの側からも完全には守られない存在となっていたのである。

