kagamimochi-nikki 加賀美茂知日記
慶祝と美とグノ-シスの弥増す日々
日々の過去の出来事

今日という日6月8日 1794最高存在の祭典、ほか写真wikipediaシャンドマルス公園の祭典

6月8日

20260608月曜日旧暦4月23日友引(50番癸丑みずのとうしキチュウ)月齢 22.2

43番丙午ひのえうま年 30番癸巳みずのとみ月 50番癸丑みずのとうし日

吉方位 陽遁日 癸丑みずのとうし日 北 北東 大吉 年末まではあと206日

https://ja.wikipedia.org/wiki/6%E6%9C%888%E6%97%A5

6月8日の出来事

452年 – フン族の王アッティラがイタリアに侵入[要出典]。

793年 – ヴァイキングがリンディスファーン島の修道院を襲撃。スカンジナビア人によるイングランド侵略の始まり。

1794年 – テュイルリー宮殿で最高存在の祭典が開催。

1945年 – 第二次世界大戦: 御前会議で採択された「今度採るべき戦争指導の基本大綱」で本土決戦方針を決定。

1945年-沖縄戦6月8日:米軍:・南への進撃を続けるアメリカ軍はこの日、ついに糸満の照屋付近まで到達します。現在の那覇空港の場所にあった小禄飛行場を制圧したアメリカ軍は、南部への進撃を確実に強化していきました。<65年前のきょうは1945年6月8日 – QAB NEWS Headline>・… 米軍の前線と後方の与那原集積所とをつなぐ道路が狭く、装甲車や戦車が足りなかったことから、各指揮官とも、それぞれ、港川の小さな港から必要物資を集めていた。(467頁) … 6月8日には、かなりの量の物資が港川についた。中型戦車2個中隊が前線近くにあり、他の戦車も進撃していた。第7師団のアーノルド少将は、最初の第一槌を新しい日本軍前線に加えようと計画し、6月9日の午前7時30分を期して攻撃を開始するよう命令を下した。(471頁)《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 467、471頁より》:日本軍:・八原高級参謀の回想:

8日夜、砲撃のしじまを見て、洞窟を抜けだした私は、高地中腹に立って、通り雨に熱のある頬を気持ちよく冷やしていた。敵の照明弾が与座岳や港川の空で、花火のように揚がっている。照明弾が空中でぱっと炸裂する瞬間、付近一帯の物、人の顔まで弁別できるほど明るくなるが、すぐ鼻をつままれてもわからぬ漆黒の闇にかえる。この明暗相次ぐ高地の麓から、蕭々として登ってくる一列側面縦隊の一隊がある。よく看ると、大きな荷物を背負った娘たち総勢約三十名だ。翁長さん!渡嘉敷さん!と呼び交わす声に、ははーん、例の一行だなと察したが、黙ってやり過ごした。

… 高級参謀殿!と挨拶されたが、私はわざと通り一辺の応答をしたのみであった。副官部には、彼女らのほか、数名の女性が働いていた。辻町の妓女もいる。私は、ははーんと思ったが、今さらなにをか言わんやである。最期に直面した人々の心理は、私にも解せぬわけではない。(385-386頁)

室の改造成って、住み心地の多少よくなった牛島将軍は、ロウソクの灯を頼りに、相変わらず感状の清書や読書に余念がない。そして、これに飽かれると、小刀で静かに鰹節削りを始められる。鰹節削りは、精神統一にもってこいの作業だ。

参謀室は、司令官のすぐ隣だ。将軍は必ず誰かを集めて酒宴を開き、気焔をあげておられる。そうでないときは例の通り、でっかいパイプに金鵄を詰めて吸いながら、そこはかとなく本を読んでおられる。そして、5月4日攻勢失敗後の口癖で、「高級参謀!戦略持久もそろそろ切りあげてくれ。この生活には耐え切れなくなった」と冗談とも、弱音ともつかぬことを申される。《「沖縄決戦 高級参謀の手記」(八原博通/中公文庫) 385-386、386頁より》・海軍根拠地司令部を中心とする、附近一帯の壕からは、400人近くの住民が救出され、それらの住民が米兵の先導で、畦道を縫い丘の尾根を廻って一箇所に集められた。幾十日ぶりに仰ぐ太陽に、眩しそうに目を細めながら、呆然として立ちすくんだ。カサカサに乾いた顔や手足の皮膚は、黄色に萎え、目だけが異様に光っていた。老人の殆どは、手足が蒼黒く膨れ上り女の頭髪は、ささらのように乱れ、永い間の不潔からくる、軀からは、あかと膏のむせるような体臭が勾った。ボロボロのモンペが、その軀を形だけ包んでいる。若い女の掌は、しらみを潰した時の血がそまり、片腕や足首を失った負傷者は軽傷者の部類に属し、薬の代わりに化膿止めのつもりで塗った生味噌や葉タバコの下から、紫色の膿が、傷口一杯に溢れ、蛆が群がり湧いていた。機銃弾をまともに喰った、虚ろな眼窩に、ボロぎれを押し込んだ中年の男や、破片で尻の肉を半分削がれた女などがケロリとした顔で、米兵の応急手当を受けた。《「沖縄戦記 鉄の暴風」(沖縄タイムス社編) 175-176頁より》

1947年 – 大阪府岸和田市で演芸場の屋根が落下する事故。死者70人[2]。

2001年 – 附属池田小事件が起こり、児童8人が死亡。

2008年 – 秋葉原通り魔事件が発生。7人が死亡、10人が重軽傷を負う、戦後最悪の通り魔事件。

——————-  

452年 – フン族の王アッティラがイタリアに侵入[要出典]。

アッティラ[注釈 1](Attila、406年? – 453年[2])は、フン族とその諸侯の王。中世ドイツの『ニーベルンゲンの歌』などの叙事詩にはエツェル(Etzel)の名で登場する。現在のロシア・東欧・ドイツを結ぶ大帝国を築き上げ、西方世界の「大王」を自称した。ローマ帝政末期に広がっていたキリスト教の信者からは、「神の災い」や「神の鞭」、「大進撃(The Great Ride)」と言われ恐れられた。

出自についてはフン族自体と同様、詳しくは分かっていないが、名前や風貌の伝承などからテュルク・モンゴル系民族に属すると思われる。

歴史家プリスクスによると、ある羊飼いが土中から剣を掘り出しアッティラへ献上した。アッティラはこれを喜び、これを軍神マルスの剣であると信じ、自分は全世界の支配者になる運命であると自信を持ったという[13][14]。

447年、アッティラは南下し、モエシアを通って東ローマ帝国領へ再び侵攻した。ゴート族の軍司令官、(マギステル・ミリトゥム)アレネギスクロスに率いられたローマ軍は、ウトゥスでアッティラと戦うが敗北。フン族は抵抗を受けずにトラキアまでのバルカン半島を略奪した。コンスタンティノープルは総督フラウィオス・コンスタンティヌスによって城壁が再建され(地震により損傷していた)、また幾つかの箇所で新たな防御線が築かれており助かった。この侵略の生き残りの記録は以下のように述べている。

トラキアにいる野蛮なフン族はとても強大になり、数百の都市が奪われ、コンスタンティノープルも危険になり、多くの人々が逃げ出した……そしてたくさんの人々が殺され、血が流されて、死者の数を数えることもできない。ああ、彼らは教会と修道院を奪い、大勢の修道士や修道女たちが虐殺された。(カリニコス著『聖ヒュパティオスの生涯』)

793年 – ヴァイキングがリンディスファーン島の修道院を襲撃。スカンジナビア人によるイングランド侵略の始まり。

1794年 – テュイルリー宮殿で最高存在の祭典が開催。

最高存在の祭典(さいこうそんざいのさいてん、La fête de l’Être suprême)とは、フランス革命期、マクシミリアン・ロベスピエールの独裁政権下のフランス共和国で、1794年5月7日の法令に基づいて6月8日にテュイルリー宮殿およびシャン・ド・マルス公園で行われた宗教祭典。

背景

フランス革命が絶頂に達しロベスピエールの独裁が確立した時期で、恐怖政治がフランス全土を覆っていた。彼は人間の理性を絶対視し、キリスト教を迫害しカトリック教会制度を破壊した。同時に恐怖政治は美徳に基づくべきという理想を持っており、キリスト教に代わる道徳を求めていた。また、国内は不安定さを増し革命政府は祖国愛に訴えて革命の危機を乗り越える必要があった。

これらの事情からキリスト教に代わる理性崇拝のための祭典を開く必要に迫られていた。1793年11月10日、パリのノートルダム大聖堂の内陣中央に人工の山が設けられ、その頂上にギリシャ風の神殿が建てられ、その四隅にはヴォルテール、ジャン=ジャック・ルソー、シャルル・ド・モンテスキューといった啓蒙思想家たちの胸像が設置されて神殿のなかから「自由と理性の女神」に扮したオペラ座の女優が現れるといった趣向で「理性の祭典」が始まった[1][2][3]。これはエベール派の主導でおこなわれ、きわめて無神論的性格の強いものであった[1]。

「理性の崇拝」および「最高存在の崇拝」はまた、「革命的宗教」ないし「革命的諸宗教」とも称されている[4][* 1]。

儀式

最高存在の祭典

朝8時、ポン・ヌフの大砲を号令として鳴り響き、人々の参集を求めた。数十万の観衆が動員され、テュイルリー宮の正面に向かって、樫の枝を持った男と薔薇の花を抱いた女たちの行列が進んだ[3]。国民衛兵を配して整然と執り行われた祭典ではまず、「無信仰」を象徴する怪物の像が焼かれると「叡智(最高存在)」の像が姿を現し、その横には「美徳の司祭」としてロベスピエールが粛然として起立し、ロベスピエールが「最高存在」に敬意を表し「明日から、なお悪行と専制者と戦う」ことを誓い、その後シャン・ド・マルスまで行進するという理神論的な演出がなされた[3]。演出は画家のジャック=ルイ・ダヴィッドによってなされたが、ジャック・ルネ・エベールやジョルジュ・ダントンを粛清したロベスピエールの指令にもとづく周到に練られた、目的意識な市民宗教の儀式であった[3]。これらはキリスト教の神を否定していながらも実際には完璧な宗教儀式の外観を呈していたとも評価されている[2]。

これは確かに新しい政治文化の創造という点では革命運動の頂点を示すものであり、ときに無秩序に発散される民衆運動のエネルギーを統制して公民道徳の秩序に適合させる意味合いを有していた[3]。ロベスピエールはこの試みに成功したが、しかし一方では、革命運動を支えていた下からのエネルギーを抑え込む結果ともなった[3]。この祭典の開催された約2か月後のテルミドールのクーデターでロベスピエール自身が失脚してギロチン刑に処せられることとなるが、これとともに、一連の壮大な文化革命も急速な退潮を示すこととなった[3]。

1945年 – 第二次世界大戦: 御前会議で採択された「今度採るべき戦争指導の基本大綱」で本土決戦方針を決定。

アメリカ軍とイギリス軍、フランス軍を中心とした連合国軍は1945年秋以降に「ダウンフォール作戦」として実施を予定し、日本軍は全てを決するという意味で「決号作戦」と称する防衛作戦を計画していた[注釈 1]。しかし、1945年(昭和20年)8月に日本がポツダム宣言を受諾して降伏したため、本土決戦は行われることがなかった。

動因予定数

日本 30,000,000 三千万人

連合軍 150,0000 

・航空機6,000機以上

・原子爆弾の随時投下

・生物化学兵器の常時使用

義勇兵役法では、兵役法対象外である若年者・高齢者・女性も対象に取り込まれ、男性は15歳以上60歳以下(当時の男子平均寿命46.9歳)、女性は17歳以上45歳以下までが「義勇召集」によって、国民義勇戦闘隊員に編入され、「義勇兵」として戦闘に参加することが可能となった。ただし召集拒否は不可であり、逃亡、忌避に対しては罰則が加えられた。対象年齢者以外の者も志願すれば、戦闘隊に参加することが可能で、それ以外の者は戦闘予測地域からの退避が予定されていた。これに伴い、在郷軍人会が自主的に組織していた防衛隊は、国民義勇隊に一本化された。

本土決戦の準備のために凄惨な持久戦となった沖縄戦では多数の人的損害が発生した。自国民と領土を戦略的に犠牲にするという国民国家として「ありうる選択肢」を、日本政府が対米戦争においては沖縄にのみ負わせる結果に終わったことは、戦後、基地問題に代表される沖縄の本土への不信感を抱かせるに至った。

作家の笠井潔は、本土防衛戦が行われた犠牲者数の試算を200万から300万と、沖縄戦と比べて「これでも控えめな数字」と予測している。そしてこの惨禍を逃れたのは「幸運であった」としながらも、同時に、この代償として日本人がなにを失ったかを正確に知る必要がある、と述べている[4]。

「本土決戦兵器」の一つとして疲労回復用のヒロポンが大量生産されたが、戦闘が行われなかったことで終戦時には大量に備蓄されていた。一旦はGHQに押収されたが、のちに日本軍の貯蔵医薬品の開放指令により、他の医療品とともに大量に市場に流出したことで、不足していた酒やタバコの代用として広まり多くの薬物依存者を発生させた[5]。

1945年-沖縄戦6月8日:米軍:・南への進撃を続けるアメリカ軍はこの日、ついに糸満の照屋付近まで到達します。現在の那覇空港の場所にあった小禄飛行場を制圧したアメリカ軍は、南部への進撃を確実に強化していきました。<65年前のきょうは1945年6月8日 – QAB NEWS Headline>・… 米軍の前線と後方の与那原集積所とをつなぐ道路が狭く、装甲車や戦車が足りなかったことから、各指揮官とも、それぞれ、港川の小さな港から必要物資を集めていた。(467頁) … 6月8日には、かなりの量の物資が港川についた。中型戦車2個中隊が前線近くにあり、他の戦車も進撃していた。第7師団のアーノルド少将は、最初の第一槌を新しい日本軍前線に加えようと計画し、6月9日の午前7時30分を期して攻撃を開始するよう命令を下した。(471頁)《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 467、471頁より》:日本軍:・八原高級参謀の回想:

8日夜、砲撃のしじまを見て、洞窟を抜けだした私は、高地中腹に立って、通り雨に熱のある頬を気持ちよく冷やしていた。敵の照明弾が与座岳や港川の空で、花火のように揚がっている。照明弾が空中でぱっと炸裂する瞬間、付近一帯の物、人の顔まで弁別できるほど明るくなるが、すぐ鼻をつままれてもわからぬ漆黒の闇にかえる。この明暗相次ぐ高地の麓から、蕭々として登ってくる一列側面縦隊の一隊がある。よく看ると、大きな荷物を背負った娘たち総勢約三十名だ。翁長さん!渡嘉敷さん!と呼び交わす声に、ははーん、例の一行だなと察したが、黙ってやり過ごした。

… 高級参謀殿!と挨拶されたが、私はわざと通り一辺の応答をしたのみであった。副官部には、彼女らのほか、数名の女性が働いていた。辻町の妓女もいる。私は、ははーんと思ったが、今さらなにをか言わんやである。最期に直面した人々の心理は、私にも解せぬわけではない。(385-386頁)

室の改造成って、住み心地の多少よくなった牛島将軍は、ロウソクの灯を頼りに、相変わらず感状の清書や読書に余念がない。そして、これに飽かれると、小刀で静かに鰹節削りを始められる。鰹節削りは、精神統一にもってこいの作業だ。

参謀室は、司令官のすぐ隣だ。将軍は必ず誰かを集めて酒宴を開き、気焔をあげておられる。そうでないときは例の通り、でっかいパイプに金鵄を詰めて吸いながら、そこはかとなく本を読んでおられる。そして、5月4日攻勢失敗後の口癖で、「高級参謀!戦略持久もそろそろ切りあげてくれ。この生活には耐え切れなくなった」と冗談とも、弱音ともつかぬことを申される。《「沖縄決戦 高級参謀の手記」(八原博通/中公文庫) 385-386、386頁より》・海軍根拠地司令部を中心とする、附近一帯の壕からは、400人近くの住民が救出され、それらの住民が米兵の先導で、畦道を縫い丘の尾根を廻って一箇所に集められた。幾十日ぶりに仰ぐ太陽に、眩しそうに目を細めながら、呆然として立ちすくんだ。カサカサに乾いた顔や手足の皮膚は、黄色に萎え、目だけが異様に光っていた。老人の殆どは、手足が蒼黒く膨れ上り女の頭髪は、ささらのように乱れ、永い間の不潔からくる、軀からは、あかと膏のむせるような体臭が勾った。ボロボロのモンペが、その軀を形だけ包んでいる。若い女の掌は、しらみを潰した時の血がそまり、片腕や足首を失った負傷者は軽傷者の部類に属し、薬の代わりに化膿止めのつもりで塗った生味噌や葉タバコの下から、紫色の膿が、傷口一杯に溢れ、蛆が群がり湧いていた。機銃弾をまともに喰った、虚ろな眼窩に、ボロぎれを押し込んだ中年の男や、破片で尻の肉を半分削がれた女などがケロリとした顔で、米兵の応急手当を受けた。《「沖縄戦記 鉄の暴風」(沖縄タイムス社編) 175-176頁より》

1947年 – 大阪府岸和田市で演芸場の屋根が落下する事故。死者70人[2]。

2001年 – 附属池田小事件が起こり、児童8人が死亡。

附属池田小事件(ふぞくいけだしょうじけん)は、2001年(平成13年)6月8日、日本の大阪府池田市にある大阪教育大学附属池田小学校で発生した無差別殺傷(殺人・殺人未遂・銃刀法違反・建造物侵入)事件[6][7]。警察庁における呼称は大阪教育大学附属池田小学校児童殺傷事件および大阪教育大学附属池田小学校事件[8][9]。略称は附属池田小児童殺傷事件[8]。

同校に侵入した宅間守が児童8人を出刃包丁で刺殺した他、児童および教職員15人に重軽傷を負わせた[1]。当時の日本の犯罪史上、稀に見る無差別大量殺人事件として社会に衝撃を与え[10]、宅間は2003年(平成15年)9月に死刑判決が確定、翌2004年(平成16年)9月14日に大阪拘置所で死刑を執行された[11]。

2008年 – 秋葉原通り魔事件が発生。7人が死亡、10人が重軽傷を負う、戦後最悪の通り魔事件。

秋葉原通り魔事件(あきはばらとおりまじけん)は、2008年(平成20年)6月8日に日本の東京都千代田区外神田(秋葉原)で発生した通り魔殺傷事件。警視庁および犯人の著書における呼称は秋葉原無差別殺傷事件(あきはばらむさべつさっしょうじけん)[1][2]。

犯人の加藤 智大(かとう ともひろ、事件当時25歳)が2 tトラックで赤信号を無視して交差点に突入し、通行人5人を次々と跳ねた上、運転していた2 tトラックから降車し、通行人や警察官ら17人を次々とダガーナイフで刺した。一連の犯行によって7人が死亡、10人が重軽傷を負った。加藤は2015年(平成27年)に死刑判決が確定し、2022年(令和4年)に東京拘置所で死刑が執行された(39歳没)[6]。

チャットgpt先生の6月8日のエッセイ

6月8日 ― 極限の現実が露出する日

6月8日という日を眺めると、人類史に繰り返し現れる一つの現象が見えてくる。

それは「理念よりも現実が勝つ瞬間」である。

452年、アッティラがイタリアへ侵入した。

後世のキリスト教世界は彼を「神の鞭」と呼んだ。しかし実態は超自然的な災厄ではない。軍事力、機動力、補給能力を持つ遊牧国家が、衰退しつつあるローマ世界の弱点を正確に突いた結果だった。

793年のリンディスファーン島襲撃も同じである。

修道院は宗教施設であると同時に富の集積所だった。ヴァイキングから見れば軍事的に無防備な倉庫でしかない。後世は文明と蛮族の衝突として語るが、当時の襲撃者は合理的な利益追求を行っていただけとも言える。

1794年の最高存在の祭典ではさらに興味深い現象が起きる。

革命は教会を否定した。

だが人間社会は宗教的儀式を捨てられなかった。

そこで革命政府は新しい宗教を創った。

理性を崇拝すると言いながら、大規模な祭典を行い、象徴を作り、群衆を動員し、儀礼を整備した。

結局、人間集団は理念が変わっても統合の仕組みを必要とする。

理性国家もまた宗教国家と同じ構造を持っていた。


そして1945年6月8日。

この日の本質は、日本本土決戦方針の決定よりも、沖縄戦の最終局面にある。

沖縄戦はしばしば「住民を巻き込んだ悲劇」と説明される。

もちろんそれは事実だ。

しかし軍事史の観点から見るなら、もっと重要な事実がある。

米軍が物量優位にもかかわらず異常な苦戦を強いられた戦いだった。

太平洋戦争において米軍は圧倒的な海空軍力を持っていた。

しかし沖縄では制空権も制海権も完全に掌握しているにもかかわらず、進撃速度は著しく低下した。

理由は単純である。

日本軍が勝利を諦めていたからだ。

勝利を目指す軍隊には弱点がある。

補給線が必要であり、機動が必要であり、反攻が必要になる。

しかし敗北を前提に損害最大化だけを目的とする軍隊は極めて厄介になる。

第32軍は南部高地帯へ後退し、洞窟陣地網に籠もった。

そこでは領土も都市も意味を失う。

残るのは敵をどれだけ遅滞させられるかだけだった。

米軍側の記録が示すように、戦車も補給も前進を阻害され続けた。

米軍は勝利を疑っていない。

しかしその勝利を獲得するためのコストが想定を超えて増大していった。

後の本土決戦計画において米軍が予測した莫大な損害見積もりの背景には、この沖縄での経験がある。


この日の記録で特に興味深いのは、八原博通参謀の回想である。

戦局は崩壊している。

だが参謀たちは読書し、酒宴を開き、鰹節を削っている。

奇妙に見える。

しかし極限状況の人間としてはむしろ自然だ。

死が日常になると、人間は異常を日常化する。

最後まで軍人らしく振る舞うことが精神の均衡を保つ手段になる。


一方で壕から救出された住民の描写はさらに重い。

ここには英雄も悪人もいない。

飢餓、感染症、負傷、不衛生。

戦争が国家や民族の物語ではなく、生存環境の崩壊であることを示している。


そしてユーザーが触れている「米軍捕虜になった住民への報復」も、感情論を排して見るなら構造問題である。

当時の日本軍は住民を単なる民間人として扱っていない。

軍事情報網、輸送要員、看護要員、補給協力者として組み込んでいた。

そのため住民が米軍地域へ移動することは、軍事組織の側から見ると情報漏洩や戦力離脱として映る。

もちろん現代の価値観では到底容認できない。

しかし当時の前線指揮官たちは、人道と軍事合理性の間ではなく、「敗北が迫る戦場」の論理で判断していた。

極限状況では組織はしばしば生存を優先し、人間性を後順位に置く。

沖縄戦はその典型例だった。


そして戦後。

6月8日は再び日本社会に傷跡を残す。

附属池田小事件。

秋葉原通り魔事件。

どちらも戦争ではない。

しかし共通点がある。

社会が当然視していた安全が突然破壊された。

学校は安全な場所。

繁華街は安全な場所。

そう信じられていた。

だが実際には社会秩序とは統計的な安定に過ぎない。

ゼロリスクではない。

この現実を日本社会に突きつけた事件だった。


6月8日を一言で表すなら、

「人間が抱く理念や希望よりも、現実の力学が前面に現れる日」

である。

アッティラも、ヴァイキングも、ロベスピエールも、沖縄戦も、そして現代の無差別殺傷事件も、時代は違う。

だが共通しているのは、人間が信じる物語より先に、権力、暴力、組織、生存本能といった現実の力が社会を動かしたという事実である。

6月8日は、その冷徹な現実が歴史の表面へ浮かび上がる日なのである。

6月8日

20260608月曜日旧暦4月23日友引(50番癸丑みずのとうしキチュウ)月齢 22.2

43番丙午ひのえうま年 30番癸巳みずのとみ月 50番癸丑みずのとうし日

吉方位 陽遁日 癸丑みずのとうし日 北 北東 大吉 年末まではあと206日

https://ja.wikipedia.org/wiki/6%E6%9C%888%E6%97%A5

6月8日の出来事

452年 – フン族の王アッティラがイタリアに侵入[要出典]。

793年 – ヴァイキングがリンディスファーン島の修道院を襲撃。スカンジナビア人によるイングランド侵略の始まり。

1794年 – テュイルリー宮殿で最高存在の祭典が開催。

1945年 – 第二次世界大戦: 御前会議で採択された「今度採るべき戦争指導の基本大綱」で本土決戦方針を決定。

1945年-沖縄戦6月8日:米軍:・南への進撃を続けるアメリカ軍はこの日、ついに糸満の照屋付近まで到達します。現在の那覇空港の場所にあった小禄飛行場を制圧したアメリカ軍は、南部への進撃を確実に強化していきました。<65年前のきょうは1945年6月8日 – QAB NEWS Headline>・… 米軍の前線と後方の与那原集積所とをつなぐ道路が狭く、装甲車や戦車が足りなかったことから、各指揮官とも、それぞれ、港川の小さな港から必要物資を集めていた。(467頁) … 6月8日には、かなりの量の物資が港川についた。中型戦車2個中隊が前線近くにあり、他の戦車も進撃していた。第7師団のアーノルド少将は、最初の第一槌を新しい日本軍前線に加えようと計画し、6月9日の午前7時30分を期して攻撃を開始するよう命令を下した。(471頁)《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 467、471頁より》:日本軍:・八原高級参謀の回想:

8日夜、砲撃のしじまを見て、洞窟を抜けだした私は、高地中腹に立って、通り雨に熱のある頬を気持ちよく冷やしていた。敵の照明弾が与座岳や港川の空で、花火のように揚がっている。照明弾が空中でぱっと炸裂する瞬間、付近一帯の物、人の顔まで弁別できるほど明るくなるが、すぐ鼻をつままれてもわからぬ漆黒の闇にかえる。この明暗相次ぐ高地の麓から、蕭々として登ってくる一列側面縦隊の一隊がある。よく看ると、大きな荷物を背負った娘たち総勢約三十名だ。翁長さん!渡嘉敷さん!と呼び交わす声に、ははーん、例の一行だなと察したが、黙ってやり過ごした。

… 高級参謀殿!と挨拶されたが、私はわざと通り一辺の応答をしたのみであった。副官部には、彼女らのほか、数名の女性が働いていた。辻町の妓女もいる。私は、ははーんと思ったが、今さらなにをか言わんやである。最期に直面した人々の心理は、私にも解せぬわけではない。(385-386頁)

室の改造成って、住み心地の多少よくなった牛島将軍は、ロウソクの灯を頼りに、相変わらず感状の清書や読書に余念がない。そして、これに飽かれると、小刀で静かに鰹節削りを始められる。鰹節削りは、精神統一にもってこいの作業だ。

参謀室は、司令官のすぐ隣だ。将軍は必ず誰かを集めて酒宴を開き、気焔をあげておられる。そうでないときは例の通り、でっかいパイプに金鵄を詰めて吸いながら、そこはかとなく本を読んでおられる。そして、5月4日攻勢失敗後の口癖で、「高級参謀!戦略持久もそろそろ切りあげてくれ。この生活には耐え切れなくなった」と冗談とも、弱音ともつかぬことを申される。《「沖縄決戦 高級参謀の手記」(八原博通/中公文庫) 385-386、386頁より》・海軍根拠地司令部を中心とする、附近一帯の壕からは、400人近くの住民が救出され、それらの住民が米兵の先導で、畦道を縫い丘の尾根を廻って一箇所に集められた。幾十日ぶりに仰ぐ太陽に、眩しそうに目を細めながら、呆然として立ちすくんだ。カサカサに乾いた顔や手足の皮膚は、黄色に萎え、目だけが異様に光っていた。老人の殆どは、手足が蒼黒く膨れ上り女の頭髪は、ささらのように乱れ、永い間の不潔からくる、軀からは、あかと膏のむせるような体臭が勾った。ボロボロのモンペが、その軀を形だけ包んでいる。若い女の掌は、しらみを潰した時の血がそまり、片腕や足首を失った負傷者は軽傷者の部類に属し、薬の代わりに化膿止めのつもりで塗った生味噌や葉タバコの下から、紫色の膿が、傷口一杯に溢れ、蛆が群がり湧いていた。機銃弾をまともに喰った、虚ろな眼窩に、ボロぎれを押し込んだ中年の男や、破片で尻の肉を半分削がれた女などがケロリとした顔で、米兵の応急手当を受けた。《「沖縄戦記 鉄の暴風」(沖縄タイムス社編) 175-176頁より》

1947年 – 大阪府岸和田市で演芸場の屋根が落下する事故。死者70人[2]。

2001年 – 附属池田小事件が起こり、児童8人が死亡。

2008年 – 秋葉原通り魔事件が発生。7人が死亡、10人が重軽傷を負う、戦後最悪の通り魔事件。

——————-  

452年 – フン族の王アッティラがイタリアに侵入[要出典]。

アッティラ[注釈 1](Attila、406年? – 453年[2])は、フン族とその諸侯の王。中世ドイツの『ニーベルンゲンの歌』などの叙事詩にはエツェル(Etzel)の名で登場する。現在のロシア・東欧・ドイツを結ぶ大帝国を築き上げ、西方世界の「大王」を自称した。ローマ帝政末期に広がっていたキリスト教の信者からは、「神の災い」や「神の鞭」、「大進撃(The Great Ride)」と言われ恐れられた。

出自についてはフン族自体と同様、詳しくは分かっていないが、名前や風貌の伝承などからテュルク・モンゴル系民族に属すると思われる。

歴史家プリスクスによると、ある羊飼いが土中から剣を掘り出しアッティラへ献上した。アッティラはこれを喜び、これを軍神マルスの剣であると信じ、自分は全世界の支配者になる運命であると自信を持ったという[13][14]。

447年、アッティラは南下し、モエシアを通って東ローマ帝国領へ再び侵攻した。ゴート族の軍司令官、(マギステル・ミリトゥム)アレネギスクロスに率いられたローマ軍は、ウトゥスでアッティラと戦うが敗北。フン族は抵抗を受けずにトラキアまでのバルカン半島を略奪した。コンスタンティノープルは総督フラウィオス・コンスタンティヌスによって城壁が再建され(地震により損傷していた)、また幾つかの箇所で新たな防御線が築かれており助かった。この侵略の生き残りの記録は以下のように述べている。

トラキアにいる野蛮なフン族はとても強大になり、数百の都市が奪われ、コンスタンティノープルも危険になり、多くの人々が逃げ出した……そしてたくさんの人々が殺され、血が流されて、死者の数を数えることもできない。ああ、彼らは教会と修道院を奪い、大勢の修道士や修道女たちが虐殺された。(カリニコス著『聖ヒュパティオスの生涯』)

793年 – ヴァイキングがリンディスファーン島の修道院を襲撃。スカンジナビア人によるイングランド侵略の始まり。

1794年 – テュイルリー宮殿で最高存在の祭典が開催。

最高存在の祭典(さいこうそんざいのさいてん、La fête de l’Être suprême)とは、フランス革命期、マクシミリアン・ロベスピエールの独裁政権下のフランス共和国で、1794年5月7日の法令に基づいて6月8日にテュイルリー宮殿およびシャン・ド・マルス公園で行われた宗教祭典。

背景

フランス革命が絶頂に達しロベスピエールの独裁が確立した時期で、恐怖政治がフランス全土を覆っていた。彼は人間の理性を絶対視し、キリスト教を迫害しカトリック教会制度を破壊した。同時に恐怖政治は美徳に基づくべきという理想を持っており、キリスト教に代わる道徳を求めていた。また、国内は不安定さを増し革命政府は祖国愛に訴えて革命の危機を乗り越える必要があった。

これらの事情からキリスト教に代わる理性崇拝のための祭典を開く必要に迫られていた。1793年11月10日、パリのノートルダム大聖堂の内陣中央に人工の山が設けられ、その頂上にギリシャ風の神殿が建てられ、その四隅にはヴォルテール、ジャン=ジャック・ルソー、シャルル・ド・モンテスキューといった啓蒙思想家たちの胸像が設置されて神殿のなかから「自由と理性の女神」に扮したオペラ座の女優が現れるといった趣向で「理性の祭典」が始まった[1][2][3]。これはエベール派の主導でおこなわれ、きわめて無神論的性格の強いものであった[1]。

「理性の崇拝」および「最高存在の崇拝」はまた、「革命的宗教」ないし「革命的諸宗教」とも称されている[4][* 1]。

儀式

最高存在の祭典

朝8時、ポン・ヌフの大砲を号令として鳴り響き、人々の参集を求めた。数十万の観衆が動員され、テュイルリー宮の正面に向かって、樫の枝を持った男と薔薇の花を抱いた女たちの行列が進んだ[3]。国民衛兵を配して整然と執り行われた祭典ではまず、「無信仰」を象徴する怪物の像が焼かれると「叡智(最高存在)」の像が姿を現し、その横には「美徳の司祭」としてロベスピエールが粛然として起立し、ロベスピエールが「最高存在」に敬意を表し「明日から、なお悪行と専制者と戦う」ことを誓い、その後シャン・ド・マルスまで行進するという理神論的な演出がなされた[3]。演出は画家のジャック=ルイ・ダヴィッドによってなされたが、ジャック・ルネ・エベールやジョルジュ・ダントンを粛清したロベスピエールの指令にもとづく周到に練られた、目的意識な市民宗教の儀式であった[3]。これらはキリスト教の神を否定していながらも実際には完璧な宗教儀式の外観を呈していたとも評価されている[2]。

これは確かに新しい政治文化の創造という点では革命運動の頂点を示すものであり、ときに無秩序に発散される民衆運動のエネルギーを統制して公民道徳の秩序に適合させる意味合いを有していた[3]。ロベスピエールはこの試みに成功したが、しかし一方では、革命運動を支えていた下からのエネルギーを抑え込む結果ともなった[3]。この祭典の開催された約2か月後のテルミドールのクーデターでロベスピエール自身が失脚してギロチン刑に処せられることとなるが、これとともに、一連の壮大な文化革命も急速な退潮を示すこととなった[3]。

1945年 – 第二次世界大戦: 御前会議で採択された「今度採るべき戦争指導の基本大綱」で本土決戦方針を決定。

アメリカ軍とイギリス軍、フランス軍を中心とした連合国軍は1945年秋以降に「ダウンフォール作戦」として実施を予定し、日本軍は全てを決するという意味で「決号作戦」と称する防衛作戦を計画していた[注釈 1]。しかし、1945年(昭和20年)8月に日本がポツダム宣言を受諾して降伏したため、本土決戦は行われることがなかった。

動因予定数

日本 30,000,000 三千万人

連合軍 150,0000 

・航空機6,000機以上

・原子爆弾の随時投下

・生物化学兵器の常時使用

義勇兵役法では、兵役法対象外である若年者・高齢者・女性も対象に取り込まれ、男性は15歳以上60歳以下(当時の男子平均寿命46.9歳)、女性は17歳以上45歳以下までが「義勇召集」によって、国民義勇戦闘隊員に編入され、「義勇兵」として戦闘に参加することが可能となった。ただし召集拒否は不可であり、逃亡、忌避に対しては罰則が加えられた。対象年齢者以外の者も志願すれば、戦闘隊に参加することが可能で、それ以外の者は戦闘予測地域からの退避が予定されていた。これに伴い、在郷軍人会が自主的に組織していた防衛隊は、国民義勇隊に一本化された。

本土決戦の準備のために凄惨な持久戦となった沖縄戦では多数の人的損害が発生した。自国民と領土を戦略的に犠牲にするという国民国家として「ありうる選択肢」を、日本政府が対米戦争においては沖縄にのみ負わせる結果に終わったことは、戦後、基地問題に代表される沖縄の本土への不信感を抱かせるに至った。

作家の笠井潔は、本土防衛戦が行われた犠牲者数の試算を200万から300万と、沖縄戦と比べて「これでも控えめな数字」と予測している。そしてこの惨禍を逃れたのは「幸運であった」としながらも、同時に、この代償として日本人がなにを失ったかを正確に知る必要がある、と述べている[4]。

「本土決戦兵器」の一つとして疲労回復用のヒロポンが大量生産されたが、戦闘が行われなかったことで終戦時には大量に備蓄されていた。一旦はGHQに押収されたが、のちに日本軍の貯蔵医薬品の開放指令により、他の医療品とともに大量に市場に流出したことで、不足していた酒やタバコの代用として広まり多くの薬物依存者を発生させた[5]。

1945年-沖縄戦6月8日:米軍:・南への進撃を続けるアメリカ軍はこの日、ついに糸満の照屋付近まで到達します。現在の那覇空港の場所にあった小禄飛行場を制圧したアメリカ軍は、南部への進撃を確実に強化していきました。<65年前のきょうは1945年6月8日 – QAB NEWS Headline>・… 米軍の前線と後方の与那原集積所とをつなぐ道路が狭く、装甲車や戦車が足りなかったことから、各指揮官とも、それぞれ、港川の小さな港から必要物資を集めていた。(467頁) … 6月8日には、かなりの量の物資が港川についた。中型戦車2個中隊が前線近くにあり、他の戦車も進撃していた。第7師団のアーノルド少将は、最初の第一槌を新しい日本軍前線に加えようと計画し、6月9日の午前7時30分を期して攻撃を開始するよう命令を下した。(471頁)《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 467、471頁より》:日本軍:・八原高級参謀の回想:

8日夜、砲撃のしじまを見て、洞窟を抜けだした私は、高地中腹に立って、通り雨に熱のある頬を気持ちよく冷やしていた。敵の照明弾が与座岳や港川の空で、花火のように揚がっている。照明弾が空中でぱっと炸裂する瞬間、付近一帯の物、人の顔まで弁別できるほど明るくなるが、すぐ鼻をつままれてもわからぬ漆黒の闇にかえる。この明暗相次ぐ高地の麓から、蕭々として登ってくる一列側面縦隊の一隊がある。よく看ると、大きな荷物を背負った娘たち総勢約三十名だ。翁長さん!渡嘉敷さん!と呼び交わす声に、ははーん、例の一行だなと察したが、黙ってやり過ごした。

… 高級参謀殿!と挨拶されたが、私はわざと通り一辺の応答をしたのみであった。副官部には、彼女らのほか、数名の女性が働いていた。辻町の妓女もいる。私は、ははーんと思ったが、今さらなにをか言わんやである。最期に直面した人々の心理は、私にも解せぬわけではない。(385-386頁)

室の改造成って、住み心地の多少よくなった牛島将軍は、ロウソクの灯を頼りに、相変わらず感状の清書や読書に余念がない。そして、これに飽かれると、小刀で静かに鰹節削りを始められる。鰹節削りは、精神統一にもってこいの作業だ。

参謀室は、司令官のすぐ隣だ。将軍は必ず誰かを集めて酒宴を開き、気焔をあげておられる。そうでないときは例の通り、でっかいパイプに金鵄を詰めて吸いながら、そこはかとなく本を読んでおられる。そして、5月4日攻勢失敗後の口癖で、「高級参謀!戦略持久もそろそろ切りあげてくれ。この生活には耐え切れなくなった」と冗談とも、弱音ともつかぬことを申される。《「沖縄決戦 高級参謀の手記」(八原博通/中公文庫) 385-386、386頁より》・海軍根拠地司令部を中心とする、附近一帯の壕からは、400人近くの住民が救出され、それらの住民が米兵の先導で、畦道を縫い丘の尾根を廻って一箇所に集められた。幾十日ぶりに仰ぐ太陽に、眩しそうに目を細めながら、呆然として立ちすくんだ。カサカサに乾いた顔や手足の皮膚は、黄色に萎え、目だけが異様に光っていた。老人の殆どは、手足が蒼黒く膨れ上り女の頭髪は、ささらのように乱れ、永い間の不潔からくる、軀からは、あかと膏のむせるような体臭が勾った。ボロボロのモンペが、その軀を形だけ包んでいる。若い女の掌は、しらみを潰した時の血がそまり、片腕や足首を失った負傷者は軽傷者の部類に属し、薬の代わりに化膿止めのつもりで塗った生味噌や葉タバコの下から、紫色の膿が、傷口一杯に溢れ、蛆が群がり湧いていた。機銃弾をまともに喰った、虚ろな眼窩に、ボロぎれを押し込んだ中年の男や、破片で尻の肉を半分削がれた女などがケロリとした顔で、米兵の応急手当を受けた。《「沖縄戦記 鉄の暴風」(沖縄タイムス社編) 175-176頁より》

1947年 – 大阪府岸和田市で演芸場の屋根が落下する事故。死者70人[2]。

2001年 – 附属池田小事件が起こり、児童8人が死亡。

附属池田小事件(ふぞくいけだしょうじけん)は、2001年(平成13年)6月8日、日本の大阪府池田市にある大阪教育大学附属池田小学校で発生した無差別殺傷(殺人・殺人未遂・銃刀法違反・建造物侵入)事件[6][7]。警察庁における呼称は大阪教育大学附属池田小学校児童殺傷事件および大阪教育大学附属池田小学校事件[8][9]。略称は附属池田小児童殺傷事件[8]。

同校に侵入した宅間守が児童8人を出刃包丁で刺殺した他、児童および教職員15人に重軽傷を負わせた[1]。当時の日本の犯罪史上、稀に見る無差別大量殺人事件として社会に衝撃を与え[10]、宅間は2003年(平成15年)9月に死刑判決が確定、翌2004年(平成16年)9月14日に大阪拘置所で死刑を執行された[11]。

2008年 – 秋葉原通り魔事件が発生。7人が死亡、10人が重軽傷を負う、戦後最悪の通り魔事件。

秋葉原通り魔事件(あきはばらとおりまじけん)は、2008年(平成20年)6月8日に日本の東京都千代田区外神田(秋葉原)で発生した通り魔殺傷事件。警視庁および犯人の著書における呼称は秋葉原無差別殺傷事件(あきはばらむさべつさっしょうじけん)[1][2]。

犯人の加藤 智大(かとう ともひろ、事件当時25歳)が2 tトラックで赤信号を無視して交差点に突入し、通行人5人を次々と跳ねた上、運転していた2 tトラックから降車し、通行人や警察官ら17人を次々とダガーナイフで刺した。一連の犯行によって7人が死亡、10人が重軽傷を負った。加藤は2015年(平成27年)に死刑判決が確定し、2022年(令和4年)に東京拘置所で死刑が執行された(39歳没)[6]。

チャットgpt先生の6月8日のエッセイ

6月8日 ― 極限の現実が露出する日

6月8日という日を眺めると、人類史に繰り返し現れる一つの現象が見えてくる。

それは「理念よりも現実が勝つ瞬間」である。

452年、アッティラがイタリアへ侵入した。

後世のキリスト教世界は彼を「神の鞭」と呼んだ。しかし実態は超自然的な災厄ではない。軍事力、機動力、補給能力を持つ遊牧国家が、衰退しつつあるローマ世界の弱点を正確に突いた結果だった。

793年のリンディスファーン島襲撃も同じである。

修道院は宗教施設であると同時に富の集積所だった。ヴァイキングから見れば軍事的に無防備な倉庫でしかない。後世は文明と蛮族の衝突として語るが、当時の襲撃者は合理的な利益追求を行っていただけとも言える。

1794年の最高存在の祭典ではさらに興味深い現象が起きる。

革命は教会を否定した。

だが人間社会は宗教的儀式を捨てられなかった。

そこで革命政府は新しい宗教を創った。

理性を崇拝すると言いながら、大規模な祭典を行い、象徴を作り、群衆を動員し、儀礼を整備した。

結局、人間集団は理念が変わっても統合の仕組みを必要とする。

理性国家もまた宗教国家と同じ構造を持っていた。


そして1945年6月8日。

この日の本質は、日本本土決戦方針の決定よりも、沖縄戦の最終局面にある。

沖縄戦はしばしば「住民を巻き込んだ悲劇」と説明される。

もちろんそれは事実だ。

しかし軍事史の観点から見るなら、もっと重要な事実がある。

米軍が物量優位にもかかわらず異常な苦戦を強いられた戦いだった。

太平洋戦争において米軍は圧倒的な海空軍力を持っていた。

しかし沖縄では制空権も制海権も完全に掌握しているにもかかわらず、進撃速度は著しく低下した。

理由は単純である。

日本軍が勝利を諦めていたからだ。

勝利を目指す軍隊には弱点がある。

補給線が必要であり、機動が必要であり、反攻が必要になる。

しかし敗北を前提に損害最大化だけを目的とする軍隊は極めて厄介になる。

第32軍は南部高地帯へ後退し、洞窟陣地網に籠もった。

そこでは領土も都市も意味を失う。

残るのは敵をどれだけ遅滞させられるかだけだった。

米軍側の記録が示すように、戦車も補給も前進を阻害され続けた。

米軍は勝利を疑っていない。

しかしその勝利を獲得するためのコストが想定を超えて増大していった。

後の本土決戦計画において米軍が予測した莫大な損害見積もりの背景には、この沖縄での経験がある。


この日の記録で特に興味深いのは、八原博通参謀の回想である。

戦局は崩壊している。

だが参謀たちは読書し、酒宴を開き、鰹節を削っている。

奇妙に見える。

しかし極限状況の人間としてはむしろ自然だ。

死が日常になると、人間は異常を日常化する。

最後まで軍人らしく振る舞うことが精神の均衡を保つ手段になる。


一方で壕から救出された住民の描写はさらに重い。

ここには英雄も悪人もいない。

飢餓、感染症、負傷、不衛生。

戦争が国家や民族の物語ではなく、生存環境の崩壊であることを示している。


そしてユーザーが触れている「米軍捕虜になった住民への報復」も、感情論を排して見るなら構造問題である。

当時の日本軍は住民を単なる民間人として扱っていない。

軍事情報網、輸送要員、看護要員、補給協力者として組み込んでいた。

そのため住民が米軍地域へ移動することは、軍事組織の側から見ると情報漏洩や戦力離脱として映る。

もちろん現代の価値観では到底容認できない。

しかし当時の前線指揮官たちは、人道と軍事合理性の間ではなく、「敗北が迫る戦場」の論理で判断していた。

極限状況では組織はしばしば生存を優先し、人間性を後順位に置く。

沖縄戦はその典型例だった。


そして戦後。

6月8日は再び日本社会に傷跡を残す。

附属池田小事件。

秋葉原通り魔事件。

どちらも戦争ではない。

しかし共通点がある。

社会が当然視していた安全が突然破壊された。

学校は安全な場所。

繁華街は安全な場所。

そう信じられていた。

だが実際には社会秩序とは統計的な安定に過ぎない。

ゼロリスクではない。

この現実を日本社会に突きつけた事件だった。


6月8日を一言で表すなら、

「人間が抱く理念や希望よりも、現実の力学が前面に現れる日」

である。

アッティラも、ヴァイキングも、ロベスピエールも、沖縄戦も、そして現代の無差別殺傷事件も、時代は違う。

だが共通しているのは、人間が信じる物語より先に、権力、暴力、組織、生存本能といった現実の力が社会を動かしたという事実である。

6月8日は、その冷徹な現実が歴史の表面へ浮かび上がる日なのである。