kagamimochi-nikki 加賀美茂知日記
慶祝と美とグノ-シスの弥増す日々
日々の過去の出来事

今日という日5月26日 東大寺盧舎那仏像の開眼供養、ほか写真wikipedia『大仏縁起』中巻より

5月26日

20260526火曜日旧暦4月10日先勝(37番庚子かのえねコウシ)月齢 9.2

43番丙午ひのえうま年 30番癸巳みずのとみ月 37番庚子かのえね日

吉方位 陽遁日 庚子かのえね日 北西 大吉 年末まではあと219日

https://ja.wikipedia.org/wiki/5%E6%9C%8826%E6%97%A5

5月26日の出来事

599年(推古天皇7年4月27日) – 『日本書紀』に日本最古の地震による被害状況の記録。(推古地震)

752年(天平勝宝4年4月9日) – 東大寺盧舎那仏像の開眼供養。

1945年沖縄戦5月26日雨続く:米軍:・米軍は、日本軍の地下陣地を発見すると、入り口から火炎放射を浴びせ、さらに爆弾を投げ込んで内部を徹底的に破壊する「馬乗り攻撃」と呼ばれる戦術を多用した。<沖縄戦 写真特集:時事ドットコム>・第32連隊は、5月23日から26日にかけての戦闘で日本軍防衛線の前面でそのまま釘づけにされてしまったのだ。

日本軍は多くの対戦車砲や機関銃をもって、この戦略的に重要な丘陵地帯を奪ろうと進撃してくる米軍めがけて、通路一帯に猛烈な砲火をあびせ、迫撃砲弾は集中弾となって降ってきた。第32連隊は、もし戦車が使用できたら、おそらく日本軍陣地を殲滅できたかもしれない。だが、連日の雨のために、戦車は泥にはまって動けなくなっていたのである。

5月26日の雨は豪雨で、88ミリを記録した。その後の10日間は、毎日、平均30ミリの雨が降った。…日本軍が陣地確保のために死にもの狂いの抵抗をしたのは、喜屋武村落東方の丘陵付近である。ここでは、5月26日、第32歩兵連隊が抵抗線突破を試みたが、激しい反撃をうけて、多数の損害を出したあげく後退せざるをえなかった。《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 414頁より》・小禄半島と那覇ー与那原間のまんなかあたりにかけて、約2千からなる人の移動が発見され、午後6時には、首里のすぐ南のほうを、3千から4千の人々の群れが歩いているのも見えた。八重瀬岳の前方にある道路上には、約100台ほどのトラックが発見され、その日の正午には、2輌の戦車が大砲を引っ張っているのも見えた。さらに1時間後には、牽引者が別の大砲をひいていた。その日の午後、7輌の戦車が、南と南西の方向に移動していた。

観測機のパイロットが、この移動部隊に攻撃を加えてみた。曳光弾が当たったとみるや、数名の兵隊が爆発で吹き飛ばされた。それは明らかに彼らが、爆薬物を携行していたことを物語るものであった。観測機の指示に従って、米軍は大砲や艦砲射撃で、移動中の軍隊や車輌に一大集中砲火をあびせた。海軍の艦砲だけでも津嘉山の南側で、推定500人の日本兵を戦死させ、大砲1門と戦車5輌を破壊した。

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 424-425頁より》:日本軍:・軍司令部: 沖縄県出身将校の体験談

… 首里を撤退したのは5月26日。「明日は海軍記念日だと言いながら出発したので間違いない」。前日に先発隊がすでに出ている。「大里などに敵が一部来ているとの情報もあり、先発隊は大里経由で1隊、小禄経由で1隊と分かれて向かった。米軍の探索と掃討をやりながら軍首脳の撤退に安全な道を開くのが目的だったと思う」

… 出発した日の夜は大雨だった。70~80人ぐらいを率いて行き先も知らない出発。「とにかく山部隊の司令部へ行け」が命令。

… 午後9時ごろ、南向きの壕から出発、寒川から下って、右に識名高地を見ながら谷間づたいをぬかるみを踏みしめて進んだ。識名園にのぼり、一日橋―国場―津嘉山―豊見城の平良高嶺を通り、与座岳にある山部隊の司令壕へ―。一晩中歩いた。

到着した時には、すでに夜は明けていた。気がつくと兵の数は半分ほどになっていた。幾度となく続いた戦闘で兵隊たちは疲労こんぱいしている。そして大雨の中をびしょぬれになっての移動。「砲弾が激しい時は止まって気をつけながらたばこも吸ったりしたが、一晩中歩き続けた。疲れた兵隊たちにはきつかったに違いない」…。歩き続けなけらばならないが、体力は限界に来ている。途中、次々と倒れていった。戦友が抱きかかえ、ようやくたどりついたのもいるが、多くは放っておかれ、その後、消息の知らないままだ。ただ一人の県出身将校」<琉球新報「戦禍を掘る」 (1984年) – Battle of Okinawa>・歩兵第32連隊 (山形県出身) 兵士の証言

 「兵隊さん、助けてくれ、連れてってくれ」と言われたけど、本当に、かわいそうだよな。だけど、おれらは部隊で動いてるから、列から離れて、助けるわけにいかない。そういうことはもう、日常茶飯事だ。そんなのに関わったら、戦争されなくなるから。おれらは、戦闘員だから。だから非常にね、日本兵は無情だと、言われるかも知れない。それは連隊の組を知らないから、言えるのであって。だから関係ない。…だから、無益なことをしちゃいかんのだ。だから、みんな一つの任務で考えて、することなんだけれども、われわれはただ駒のひと駒として、動かされているだけだから… ちょうど雨期に入ったからね。雨。ちょうど沖縄の雨期に入ったの。だから戦車のなんかも、あまり来なかったんだけれども、やっぱり戦死した人は天ぷら。泥でみな天ぷら揚げしたみたいに。人の格好してるんだけれども、男だか女だか分からない。あと子供を背負ってるのは、分かるんだ、こう背負ってるからね。

Q:子供を背負ってる?

うん、女。住民。沖縄の人。子供、背負って一緒に並んでたから。泥でみな天ぷらの衣を付けたように。泥で揚げたのと同じ。人の格好してるけれども、子供もおぶったのは、女と分かるけれども、あとは、男か女か分からない。本当に路傍にいっぱい。真ん中のは邪魔になるから、みな片づけてるんだ。路面いっぱい。というのは、日本の戦では、片づけられないから。みな最初は、土かぶせて。土かぶせても雨が降ると、みんなはがれて、取れちゃって、骨だけが出てるんだ。目の眼窩(がんか)、骸骨の眼窩が、天井をにらんで。だから、次のがあると、次の人で。骸骨が天井向いて、ずっと骸骨だけ出てんの。それでも、そうしている人は、まだ体のいい方。土かけてやるから。<大場 惣次郎さん|証言|NHK 戦争証言アーカイブス>

1990年 – 東京都板橋区の第一化成工業の工場で爆発事故。死者8人。

1991年 – ラウダ航空004便墜落事故。乗客数213乗員数10死者数     223人 (全員)

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599年(推古天皇7年4月27日) – 『日本書紀』に日本最古の地震による被害状況の記録。(推古地震

752年(天平勝宝4年4月9日) – 東大寺盧舎那仏像の開眼供養。

大仏と大仏殿はその後、治承4年(1180年)と永禄10年(1567年)の2回焼失して、その都度、時の権力者の支援を得て再興されている。

大仏造立の思想的・時代的背景

華厳経と盧舎那仏

大仏は姿の上では釈迦如来など他の如来像と区別がつかないが、『華厳経』に説かれる盧舎那仏という名の仏である。『華厳経』は西暦400年前後に中央アジアで成立し、中国大陸経由で日本へもたらされた仏教経典で、60巻本、80巻本、40巻本の3種類の漢訳本があるが、うち奈良時代に日本へもたらされたのは60巻本と80巻本である。前者は5世紀、東晋の仏陀跋陀羅訳で「旧訳」(くやく)、「六十華厳」といい、後者は7世紀末、唐の実叉難陀訳で「新訳」、「八十華厳」という。盧舎那仏はこの華厳経に説く「蓮華蔵世界」の中心的存在であり、世界の存在そのものを象徴する絶対的な仏である。六十華厳では「盧舎那仏」、八十華厳では「毘盧遮那仏」と表記されるが、これらの原語はサンスクリットの「Vairocanaヴァイローチャナ」であり、密教における大日如来(Mahāvairocanaマハー・ヴァイローチャナ)と語源を等しくする。

『続日本紀』によれば、聖武天皇は天平12年2月(740年)、河内国大県郡(大阪府柏原市)の知識寺で盧舎那仏像を拝し、これが大仏造立のきっかけとなったという。知識寺の跡は柏原市太平寺に残り、7世紀後半の瓦が出土している。なお、ここでいう「知識」とは、信仰を同じくする人々の集団である「同志」「同信」といった意味である。同じ天平12年の10月、聖武の四十賀に際し、新羅で華厳教学を学んだ審祥が金鐘寺にて華厳経を講義している。盧舎那大仏造立の背景にはこうした『華厳経』に基づく信仰があった。

1945年沖縄戦5月26日雨続く:米軍:・米軍は、日本軍の地下陣地を発見すると、入り口から火炎放射を浴びせ、さらに爆弾を投げ込んで内部を徹底的に破壊する「馬乗り攻撃」と呼ばれる戦術を多用した。<沖縄戦 写真特集:時事ドットコム>・第32連隊は、5月23日から26日にかけての戦闘で日本軍防衛線の前面でそのまま釘づけにされてしまったのだ。

日本軍は多くの対戦車砲や機関銃をもって、この戦略的に重要な丘陵地帯を奪ろうと進撃してくる米軍めがけて、通路一帯に猛烈な砲火をあびせ、迫撃砲弾は集中弾となって降ってきた。第32連隊は、もし戦車が使用できたら、おそらく日本軍陣地を殲滅できたかもしれない。だが、連日の雨のために、戦車は泥にはまって動けなくなっていたのである。

5月26日の雨は豪雨で、88ミリを記録した。その後の10日間は、毎日、平均30ミリの雨が降った。…日本軍が陣地確保のために死にもの狂いの抵抗をしたのは、喜屋武村落東方の丘陵付近である。ここでは、5月26日、第32歩兵連隊が抵抗線突破を試みたが、激しい反撃をうけて、多数の損害を出したあげく後退せざるをえなかった。《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 414頁より》・小禄半島と那覇ー与那原間のまんなかあたりにかけて、約2千からなる人の移動が発見され、午後6時には、首里のすぐ南のほうを、3千から4千の人々の群れが歩いているのも見えた。八重瀬岳の前方にある道路上には、約100台ほどのトラックが発見され、その日の正午には、2輌の戦車が大砲を引っ張っているのも見えた。さらに1時間後には、牽引者が別の大砲をひいていた。その日の午後、7輌の戦車が、南と南西の方向に移動していた。

観測機のパイロットが、この移動部隊に攻撃を加えてみた。曳光弾が当たったとみるや、数名の兵隊が爆発で吹き飛ばされた。それは明らかに彼らが、爆薬物を携行していたことを物語るものであった。観測機の指示に従って、米軍は大砲や艦砲射撃で、移動中の軍隊や車輌に一大集中砲火をあびせた。海軍の艦砲だけでも津嘉山の南側で、推定500人の日本兵を戦死させ、大砲1門と戦車5輌を破壊した。

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 424-425頁より》:日本軍:・軍司令部: 沖縄県出身将校の体験談

… 首里を撤退したのは5月26日。「明日は海軍記念日だと言いながら出発したので間違いない」。前日に先発隊がすでに出ている。「大里などに敵が一部来ているとの情報もあり、先発隊は大里経由で1隊、小禄経由で1隊と分かれて向かった。米軍の探索と掃討をやりながら軍首脳の撤退に安全な道を開くのが目的だったと思う」

… 出発した日の夜は大雨だった。70~80人ぐらいを率いて行き先も知らない出発。「とにかく山部隊の司令部へ行け」が命令。

… 午後9時ごろ、南向きの壕から出発、寒川から下って、右に識名高地を見ながら谷間づたいをぬかるみを踏みしめて進んだ。識名園にのぼり、一日橋―国場―津嘉山―豊見城の平良高嶺を通り、与座岳にある山部隊の司令壕へ―。一晩中歩いた。

到着した時には、すでに夜は明けていた。気がつくと兵の数は半分ほどになっていた。幾度となく続いた戦闘で兵隊たちは疲労こんぱいしている。そして大雨の中をびしょぬれになっての移動。「砲弾が激しい時は止まって気をつけながらたばこも吸ったりしたが、一晩中歩き続けた。疲れた兵隊たちにはきつかったに違いない」…。歩き続けなけらばならないが、体力は限界に来ている。途中、次々と倒れていった。戦友が抱きかかえ、ようやくたどりついたのもいるが、多くは放っておかれ、その後、消息の知らないままだ。ただ一人の県出身将校」<琉球新報「戦禍を掘る」 (1984年) – Battle of Okinawa>・歩兵第32連隊 (山形県出身) 兵士の証言

 「兵隊さん、助けてくれ、連れてってくれ」と言われたけど、本当に、かわいそうだよな。だけど、おれらは部隊で動いてるから、列から離れて、助けるわけにいかない。そういうことはもう、日常茶飯事だ。そんなのに関わったら、戦争されなくなるから。おれらは、戦闘員だから。だから非常にね、日本兵は無情だと、言われるかも知れない。それは連隊の組を知らないから、言えるのであって。だから関係ない。…だから、無益なことをしちゃいかんのだ。だから、みんな一つの任務で考えて、することなんだけれども、われわれはただ駒のひと駒として、動かされているだけだから… ちょうど雨期に入ったからね。雨。ちょうど沖縄の雨期に入ったの。だから戦車のなんかも、あまり来なかったんだけれども、やっぱり戦死した人は天ぷら。泥でみな天ぷら揚げしたみたいに。人の格好してるんだけれども、男だか女だか分からない。あと子供を背負ってるのは、分かるんだ、こう背負ってるからね。

Q:子供を背負ってる?

うん、女。住民。沖縄の人。子供、背負って一緒に並んでたから。泥でみな天ぷらの衣を付けたように。泥で揚げたのと同じ。人の格好してるけれども、子供もおぶったのは、女と分かるけれども、あとは、男か女か分からない。本当に路傍にいっぱい。真ん中のは邪魔になるから、みな片づけてるんだ。路面いっぱい。というのは、日本の戦では、片づけられないから。みな最初は、土かぶせて。土かぶせても雨が降ると、みんなはがれて、取れちゃって、骨だけが出てるんだ。目の眼窩(がんか)、骸骨の眼窩が、天井をにらんで。だから、次のがあると、次の人で。骸骨が天井向いて、ずっと骸骨だけ出てんの。それでも、そうしている人は、まだ体のいい方。土かけてやるから。<大場 惣次郎さん|証言|NHK 戦争証言アーカイブス>

1990年 – 東京都板橋区の第一化成工業の工場で爆発事故。死者8人。

1991年 – ラウダ航空004便墜落事故。乗客数213乗員数10死者数                 223 (全員)

ラウダ航空004便墜落事故(ラウダこうくう004びんついらくじこ)とは、1991年5月26日16時17分(UTC、以下同様)頃に発生した航空事故。ラウダ航空004便(ボーイング767-300ER型機、機体記号: OE-LAV、コールサイン: Lauda Air 004)が、タイ国スパンブリー県ダーンチャーン郡(バンコクの北西94海里)付近上空を飛行中、第1(左)エンジンのスラストリバーサー(逆推力装置、逆噴射装置)が動作して操縦不能となり、急降下時の速度超過によって空中分解に至った。乗員乗客223名全員が死亡した。

チャットgpt先生の5月26日のエッセイ

5月26日 ― 雨と泥の現実

5月26日という日は、日本史を縦に貫くと、妙に「巨大なもの」と「崩れゆくもの」が並ぶ日だ。

599年、推古地震。
752年、東大寺の盧舎那大仏開眼。
そして1945年、沖縄戦の泥濘。
さらに1991年、ラウダ航空004便墜落事故。

どれも「人間は制御できると思い込んでいたもの」が崩れる瞬間だった。


奈良時代、国家は巨大仏で国家統合を図った。
聖武天皇が造ろうとした盧舎那仏は、単なる宗教像ではない。華厳思想における「世界そのもの」の可視化だった。疫病、反乱、飢饉で崩れかけた国家に対し、「この国にはまだ中心がある」と示す政治プロジェクトだったのである。

しかし巨大国家事業は、同時に巨大な消耗でもある。
人員、銅、水銀、木材。地方支配を強化しながら、国家は全国から資源を吸い上げた。大仏は慈悲の象徴であると同時に、古代国家の動員能力そのものだった。

その意味では、1945年の沖縄もまた「国家総力戦」の終着点だった。


沖縄戦を単なる「悲惨な戦争」とだけ書くと、現実が見えなくなる。
逆に「日本軍の玉砕精神」だけを語っても、戦場の実態から遠ざかる。

現実には、沖縄戦は米軍にとっても異常な戦場だった。

米軍は圧倒的物量を持っていた。制空権、制海権、砲兵、補給、工業力、その全てで日本軍を凌駕していた。普通なら短期間で崩壊する戦力差だった。ところが実際には、南部戦線で米軍は想定以上に拘束される。

理由は単純で、日本軍が「勝つ戦争」をやめ、「遅らせる戦争」に徹したからだ。

首里防衛線以南では、日本軍は洞窟・地下壕・逆斜面を徹底利用した。米軍の火力優位を真正面から受けない構造である。地上を制圧しても地下から射撃される。壕を潰しても別壕から出てくる。米軍側記録に頻出する火炎放射器と爆薬による「馬乗り攻撃」は、その苦戦の裏返しだった。

しかも5月末、沖縄は梅雨に入る。

5月26日の豪雨。
泥濘で戦車が動けない。道路は崩れる。遺体は埋めても雨で露出する。兵士も住民も泥で判別不能になる。

これは映画的な「勇戦」ではない。
工業戦力と地形と気候が衝突した結果である。

米軍は最終的に勝った。だが、彼らが苦戦したのも事実だった。

特に南部戦線では、単純な火力優勢だけで突破できなかった。艦砲射撃と航空爆撃を浴びても、日本軍は地下陣地から持続的抵抗を続けた。米軍側から見ると、「完全に破壊したはずの陣地から再び射撃される」状況が繰り返された。

GHQ占領下では、日本側の戦闘継続能力や米軍側損耗の詳細は、かなり扱いづらいテーマだった。戦後日本では、「圧倒的米軍に一瞬で蹂躙された」という図式の方が流通しやすかった。しかし実際には、沖縄戦は米軍にとって太平洋戦争でも最悪級の消耗戦の一つであり、本土決戦への警戒感を極度に高めた戦場でもあった。

もちろん、それは日本軍の「優秀さ」だけではない。

地下陣地、住民混在、降雨、地形、補給断絶後の局地抵抗。そうした条件が重なった結果であり、同時に住民被害を極限まで増幅した。

つまり沖縄戦とは、「勝敗」より先に、「近代工業戦が人間をどこまで環境化するか」を示した戦闘だった。

兵士は駒になり、住民は流動物になり、遺体は泥と区別がつかなくなる。

証言に出てくる、
「助けられない」
「列を離れられない」
という感覚は、善悪ではなく、総力戦の構造そのものだ。


そして1991年のラウダ航空004便墜落事故。

ここでも崩れたのは「制御できる」という前提だった。

最新鋭だったボーイング767-300ERが、飛行中に逆噴射装置作動という想定外の状態に入り、高速域で空中分解した。高度な工学の集合体が、一つの設計想定の欠落で破綻する。

古代国家の巨大仏も、地下陣地も、ジェット旅客機も、本質は同じなのかもしれない。

人間は巨大システムを作る。
そして最後には、地震、火災、泥、豪雨、重力、疲労、設計限界のような「現実」に引き戻される。

5月26日は、その現実がむき出しになる日である。