kagamimochi-nikki 加賀美茂知日記
慶祝と美とグノ-シスの弥増す日々
日々の過去の出来事

今日という日5月18日 1936阿部定事件発生、ほか写真wikipedia逮捕後警察関係者と

5月18日

20260518月曜日旧暦4月2日大安(29番壬辰みずのえたつジンシン)月齢 1.2

43番丙午ひのえうま年 30番癸巳みずのとみ月 29番壬辰みずのえたつ日

吉方位 陽遁日 壬辰みずのえたつ日 北東 南 西 大吉 年末まではあと227日

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5月18日の出来事
1584年(天正12年4月9日) – 長久手の戦い。羽柴軍の死者2500余人、織田徳川軍の死者590余人
1729年(享保14年4月21日) – 将軍徳川吉宗の子と偽り勘定奉行・稲生正武に見破られた天一坊改行が処刑される。(天一坊事件)
1863年 – 南北戦争: ビックスバーグの包囲戦が始まる。時 1863年5月18日 – 7月4日[1]
場所 ミシシッピ州ウォーレン郡
結果 北軍の勝利
損害  北軍7万人中 4000人強戦死 南軍3万3千人中 3万人強戦死2万人捕虜。
1875年 – コロンビアのククタでマグニチュード7.5の地震。コロンビアとベネズエラで壊滅的被害。(ククタ地震)被害は数千から数万。不明。
1927年 – バス学校爆破事件。アメリカ合衆国ミシガン州のバス(Bath Township)で発生した爆破事件。45人が死亡、58人が負傷し、犠牲者の大半は爆破されたバス統合学校(Bath Consolidated School)の生徒達(7歳~12歳)であった。
1936年 – 阿部定事件。概要 仲居であった阿部定が愛人男性を絞殺し、男性器を切り取った。
1941年 – 茨城県延方村(現潮来市)地先利根川で定員超過の汽船『水郷丸三十号』(4トン)が転覆。鹿島神宮、香取神宮に向かう団体客など49人が死亡[1]。

1945年沖縄戦5月18日米軍総攻撃8日目シュガーローフ確保:米軍:・5月18日、海軍長官のジェームス・フォレスタルはワシントンでの記者会見で、沖縄戦が始まって以来、海軍の支援艦隊乗組員の戦死傷者数が4720名に達したと発表した。この中には、900名の戦死者と2746名の負傷者、それに107名の行方不明者がふくまれていた。フォレスタルは「海軍による上陸作戦への継続的な支援は困難な業務であり、高価な代償ともなうものであることをアメリカ国民の皆さんに知っていただきたい」と話した。この発表には、バクナーの前進が遅いことへの暗黙の批判がこめられていた。バクナーは上層部からのプレッシャーを感じていた。彼は、第10軍の前線における進撃が遅いとの苛立ちをかくさず、軍団の指揮官たちに攻撃のスピードを速めるようにせかした。(314頁)

第10軍が総攻撃を開始した5月11日の一日だけでも、カミカゼ特攻により4隻の艦船が甚大な被害をうけていた。この中には、空母バンカーヒルの、戦死364名、負傷264名がふくまれていた。(315頁)《「沖縄 シュガーローフの戦い 米海兵隊 地獄の7日間」(ジェームス・H・ハラス/猿渡青児・訳/光人社NF庫) 》・0830時、総勢80人からなる突撃小隊が前進をはじめた。… 殺戮がつづいたシュガーローフは、まるで肥溜のような状態になっていた。D中隊の…一等兵は、腐敗した肉塊の堆積物の横を通過していた。2日前まで、このうち何人かは友達だったはずだが、いまは黒く膨張して誰だかわからなくなっていた。

… 5月18日に俺たちが突撃したとき、死体を踏まずに丘をのぼるのは不可能だった。…まるで臭い生ゴミの山をのぼるような感じだったからね」砲撃でズタズタになった丘の上にころがる腐乱死体の上を急いで乗り越えながら、… 小隊は、丘の頂上部に到達できた。《「沖縄 シュガーローフの戦い 米海兵隊 地獄の7日間」(ジェームス・H・ハラス/猿渡青児・訳/光人社NF庫) 322-323頁より》・第29海兵連隊の戦闘能力は1週間にわたるシュガーローフの戦闘で、いちじるしく衰えていた。第10軍が攻撃を開始した5月10日以来、第6海兵師団は2662名の戦死傷者と、1289名の非戦闘死傷者を出していた。この被害のほとんどは第22および、第29海兵連隊だった。このため、作戦を続行するには新たな部隊の投入が急務であった。1830時、ガイガー少将は第3水陸両用軍団の予備部隊であった第4海兵連隊の投入をきめ、シュガーローフの占拠を命じた。第29海兵連隊は師団の予備部隊となり、第3水陸両用軍団の指揮下に入った。《「沖縄 シュガーローフの戦い 米海兵隊 地獄の7日間」(ジェームス・H・ハラス/猿渡青児・訳/光人社NF庫) 328-329頁》:日本軍:・17日には、来攻する米軍を撃退できたが、18日には、ついに52高地の頂上を米軍が握るにいたった。日本軍は、その夜半、猛攻を加えて、いったん米軍を頂上から追っ払ったが、味方の死傷が多く、高地を維持できず、19日、高地は完全に米軍の手に陥ちた。《「沖縄 Z旗のあがらぬ最後の決戦」(吉田俊雄/オリオン出版社) 263頁より》
1953年 – ジャクリーン・コクランがF-86 セイバーで1049.83 km/hの記録を出し、初めて音の壁を破った女性となる。
1978年 – 新潟県妙高高原町で地すべり、それに伴う土石流が発生し新赤倉温泉の温泉街が埋没、死者・行方不明者10人[2]。
1980年 – 韓国で光州事件が起こる。1980年5月18日から27日にかけて大韓民国の全羅南道の道庁所在地だった光州市(現在の光州広域市)を中心に発生した市民による軍事政権に対する民主化要求の蜂起。死者 154人あるいは198人(韓国軍発表)[1]
2018年 – クバーナ航空972便墜落事故が発生。111人が死亡[4]。生存1人。

2018年 – アメリカ合衆国テキサス州でサンタフェ高校銃乱射事件が発生し、10人死亡[6][7]。

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1584年(天正12年4月9日) – 長久手の戦い。羽柴軍の死者2500余人、織田徳川軍の死者590余人
1729年(享保14年4月21日) – 将軍徳川吉宗の子と偽り勘定奉行・稲生正武に見破られた天一坊改行が処刑される。(天一坊事件

将軍の血筋であると吹聴し、浪人を集める

享保13年(1728年)夏、浪人・本多儀左衛門が関東代官・伊奈忠逵の屋敷を訪ね、代官に密告をしたことが発端である。南品川宿の常楽院という山伏の家に源氏天一坊なる者がいて、多数の浪人を集め、自分は将軍の血筋で近々大名に取り立てになると称し、浪人たちに役儀などを与えていると申し立てた。

伊奈はいかにも不審なことであるとして、当該地区を管轄する名主、地主を呼びつけて事情聴取した。取り調べの結果、常楽院方で浪人を集めているのは改行という山伏で、紀州生まれで江戸幕府8代将軍・徳川吉宗の落胤を称しているということなどが判明する。

1863年 – 南北戦争: ビックスバーグの包囲戦が始まる。時 1863年5月18日 – 7月4日[1]
場所 ミシシッピ州ウォーレン郡
結果 北軍の勝利
損害  北軍7万人中 4000人強戦死 南軍3万3千人中 3万人強戦死2万人捕虜。

ビックスバーグの包囲戦(ビックスバーグのほういせん、英:Siege of Vicksburg)は、南北戦争のビックスバーグ方面作戦では最後の大きな戦闘である。北軍の指揮官ユリシーズ・グラント少将のテネシー軍はミシシッピ川を渡った後で、南軍ジョン・C・ペンバートン中将の部隊を要塞都市ビックスバーグを取り巻く防御線の中に追い込んだ。グラントは1863年5月19日と22日の2回、南軍の要塞に対する攻撃を行って大きな損失を出し撃退された後は、5月25日から7月4日までビックスバーグ市を包囲した。この7月4日に南軍は降伏し、ミシシッピ川の支配権が北軍の手に落ちた。この南軍の降伏は、その前日(7月3日)東部戦線におけるゲティスバーグの戦いでロバート・E・リー軍が敗北したことと組み合わせて、南北戦争の転回点と見なされている。

1875年 – コロンビアのククタでマグニチュード7.5の地震。コロンビアとベネズエラで壊滅的被害。(ククタ地震)被害は数千から数万。不明。

1875年ククタ地震 (1875 Cúcuta earthquake) は1875年5月18日午前11時15分(現地時間)にコロンビアのククタで起きたマグニチュード7.5の地震。

犠牲者の総数は不明である。アメリカのメディアは死者25,000人と報告したが、他の情報筋によると死者は1,000人であった。初期の新聞報道によると、死者は8人から10,000人であった。 ニュージーランドの新聞は5,000人が死亡し、さらに9,000人が発熱や破傷風で死亡したと伝えた。

1927年 – バス学校爆破事件。アメリカ合衆国ミシガン州のバス(Bath Township)で発生した爆破事件。45人が死亡、58人が負傷し、犠牲者の大半は爆破されたバス統合学校(Bath Consolidated School)の生徒達(7歳~12歳)であった。

アメリカ合衆国史上、学校で発生した大量殺人としては犠牲者数が最多のものである。犯人は当地の教育委員会の委員であったアンドリュー・フィリップ・キーホー(Andrew Philip Kehoe)。キーホーは、学校の校舎建設のために新たに課された財産税に腹を立てており、自分の経済状況の厳しさを理由にこの増税に対する不服を申し立てていたが、所有する農場が強制執行の対象となった。この件がキーホーの犯行の動機となった。

概要

最初に自分の妻を殺害したキーホーは、5月18日の朝に自分の農場の建物を爆破した。消防士がキーホーの農場に到着した頃、爆発で学校の校舎の北側が破壊され、中にいた多くの人々が死亡した。爆破に使われたのは、ダイナマイトと大量のパイロトール(第一次世界大戦中から使用され始めた無煙火薬の一種)であり、キーホーが何ヶ月もかけて学校内に秘かに仕掛けたものであった。救助隊が学校に到着した頃、キーホーは学校に自動車で到着、自分の自動車を爆発させて自殺した。その際、校長らが巻き添えになって死亡したほか、数人が負傷した。救助活動が懸命に続けられている中、校舎南側の地下室からさらに230kgものダイナマイトとパイロトールが救助隊により発見された。

爆発物の購入と設置

キーホーがいつこのような行動を思いつき、実行を計画したのかはっきりとは分からない。後に行われた捜査では、学校でのキーホーの行動や爆発物の購入時期等から、遅くとも事件の1年前からは計画されていたと結論付けられている。

1926年の冬、教育委員会はキーホーに校舎内の補修を行うよう求めた。多くの人々から優秀な「何でも屋」と見なされていたキーホーは、電気設備にも詳しいことで知られていた。設備の補修を委託された教育委員会の委員として、キーホーは学校に自由に出入りが出来たうえ、校内に彼がいるのを見ても不審に思う者は誰もいなかった。

1926年の初夏、キーホーはパイロトールを1トン以上も購入した。当時パイロトールは、農場経営者の間では地面掘削用として普通に用いられていた。1926年11月、キーホーはランシングに自動車で出掛け、スポーツ用品店でダイナマイト2箱を購入した。ダイナマイトも農場では普通に使用されるものであるうえ、キーホーはダイナマイトを少しずつ、様々な店で時期をずらして購入したため、周囲から疑われることはなかった。後にキーホーが自分の農場を爆破した際に、爆発音を聞いた周辺の住民達は、以前にキーホーが木の切り株の除去にダイナマイトを使用していると話していたことを思い出したという。

事件の翌日からの数日間に、犠牲者達の合同葬が執り行われ、中でも5月22日の土曜日に執り行われた合同葬は、犠牲者18人を弔う最大規模の葬儀であった。事件は全国紙の第1面で扱われ、ミシガン州の地元紙では、5月23日にミシガン州出身のチャールズ・リンドバーグが大西洋単独無着陸飛行を達成したニュースが報道されるまで、第1面に掲載され続けた。

郡の郊外や近隣の州から、多数の自動車がバスを来訪するようになった。土曜日だけでも100,000台以上という、バスにとっては莫大な交通量を記録した。バスの住民の中には、この大量の自動車の往来を、悲惨な時期の最中の許しがたい邪魔者と捉える者もあったが、大半の人々は近隣の社会からの同情心や励ましの現れであると受け止めた。[25] クー・クラックス・クランはこの犯行について、カトリックのキーホーが「プロテスタントや無神論的な学校」に異を唱えるローマ・カトリック教会の姿勢に執着した結果である、とコメントした。[26]

1936年 – 阿部定事件。概要 仲居であった阿部定が愛人男性を絞殺し、男性器を切り取った。

阿部定事件(あべさだじけん)は、仲居であった阿部定が1936年(昭和11年)5月18日に東京市荒川区尾久の待合で、愛人の男性を絞殺し、局部を切り取った事件。「お定事件」とも。

犯行後、阿部定は行方をくらますが、事件の猟奇性ゆえに当時の庶民の興味を強く惹き、逮捕された際には号外が出された。

「星菊水」「若竹」共に店の客からの評判は「江戸っ子らしく気風のいい優しい人」と評判が良かったが、事件には一切触れることはせず、仕事仲間にも当時のことを語ることはほとんどなかった。一方で、事件の当時を知っている警察関係者や司法関係者が店にやってきて金をせびったり身体を要求することもあり、定は用心深くなっていった。1970年(昭和45年)3月、定は若竹から忽然と姿を消す。店を手伝っていた女性が病気になり、一人で店を切り盛りしていたが、定も体を壊し、世話をしてくれた年下のバイセクシャルの恋人に店の金を持ち逃げされてしまい、店を閉じる。借金をある程度清算したが、どうしても残りの金を工面できず、関西に行き自殺を考えていたが、様子がおかしいと気づいた芸者に説得され、東京に戻ってきたとされている。

失踪

1971年(昭和46年)1月頃、定を星菊水にスカウトした島田と偶然浅草の仲見世で出会い、千葉県鋸南町[10]の「勝山ホテル(現在は廃業)」で働くことになる。「あたし、新派の芝居『日本橋』に出てくる、こう役が好きだから『こう』と呼んで頂戴」と島田の妻に話している。当時の定は65歳であったが、若い男性に金品を貢いでは気を引いていたとされる(ただし島田の妻は男性関係は一切なかったと証言している)。6月頃に「リウマチを治療し、7月8月が過ぎたら戻る」という置き手紙を残し、浴衣一枚だけを持って失踪した[2]。

1941年 – 茨城県延方村(現潮来市)地先
利根川で定員超過の汽船『水郷丸三十号』(4トン)が転覆。鹿島神宮、香取神宮に向かう団体客など49人が死亡[1]。

1945年沖縄戦5月18日米軍総攻撃8日目シュガーローフ確保:米軍:・5月18日、海軍長官のジェームス・フォレスタルはワシントンでの記者会見で、沖縄戦が始まって以来、海軍の支援艦隊乗組員の戦死傷者数が4720名に達したと発表した。この中には、900名の戦死者と2746名の負傷者、それに107名の行方不明者がふくまれていた。フォレスタルは「海軍による上陸作戦への継続的な支援は困難な業務であり、高価な代償ともなうものであることをアメリカ国民の皆さんに知っていただきたい」と話した。この発表には、バクナーの前進が遅いことへの暗黙の批判がこめられていた。バクナーは上層部からのプレッシャーを感じていた。彼は、第10軍の前線における進撃が遅いとの苛立ちをかくさず、軍団の指揮官たちに攻撃のスピードを速めるようにせかした。(314頁)

第10軍が総攻撃を開始した5月11日の一日だけでも、カミカゼ特攻により4隻の艦船が甚大な被害をうけていた。この中には、空母バンカーヒルの、戦死364名、負傷264名がふくまれていた。(315頁)《「沖縄 シュガーローフの戦い 米海兵隊 地獄の7日間」(ジェームス・H・ハラス/猿渡青児・訳/光人社NF庫) 》・0830時、総勢80人からなる突撃小隊が前進をはじめた。… 殺戮がつづいたシュガーローフは、まるで肥溜のような状態になっていた。D中隊の…一等兵は、腐敗した肉塊の堆積物の横を通過していた。2日前まで、このうち何人かは友達だったはずだが、いまは黒く膨張して誰だかわからなくなっていた。

… 5月18日に俺たちが突撃したとき、死体を踏まずに丘をのぼるのは不可能だった。…まるで臭い生ゴミの山をのぼるような感じだったからね」砲撃でズタズタになった丘の上にころがる腐乱死体の上を急いで乗り越えながら、… 小隊は、丘の頂上部に到達できた。《「沖縄 シュガーローフの戦い 米海兵隊 地獄の7日間」(ジェームス・H・ハラス/猿渡青児・訳/光人社NF庫) 322-323頁より》・第29海兵連隊の戦闘能力は1週間にわたるシュガーローフの戦闘で、いちじるしく衰えていた。第10軍が攻撃を開始した5月10日以来、第6海兵師団は2662名の戦死傷者と、1289名の非戦闘死傷者を出していた。この被害のほとんどは第22および、第29海兵連隊だった。このため、作戦を続行するには新たな部隊の投入が急務であった。1830時、ガイガー少将は第3水陸両用軍団の予備部隊であった第4海兵連隊の投入をきめ、シュガーローフの占拠を命じた。第29海兵連隊は師団の予備部隊となり、第3水陸両用軍団の指揮下に入った。《「沖縄 シュガーローフの戦い 米海兵隊 地獄の7日間」(ジェームス・H・ハラス/猿渡青児・訳/光人社NF庫) 328-329頁》:日本軍:・17日には、来攻する米軍を撃退できたが、18日には、ついに52高地の頂上を米軍が握るにいたった。日本軍は、その夜半、猛攻を加えて、いったん米軍を頂上から追っ払ったが、味方の死傷が多く、高地を維持できず、19日、高地は完全に米軍の手に陥ちた。《「沖縄 Z旗のあがらぬ最後の決戦」(吉田俊雄/オリオン出版社) 263頁より》

1953年 – ジャクリーン・コクランがF-86 セイバーで1049.83 km/hの記録を出し、初めて音の壁を破った女性となる。
1978年 – 新潟県妙高高原町で地すべり、それに伴う土石流が発生し新赤倉温泉の温泉街が埋没、死者・行方不明者10人[2]。
1980年 – 韓国で光州事件が起こる。1980年5月18日から27日にかけて大韓民国の全羅南道の道庁所在地だった光州市(現在の光州広域市)を中心に発生した市民による軍事政権に対する民主化要求の蜂起。死者 154人あるいは198人(韓国軍発表)[1]
2018年 – クバーナ航空972便墜落事故が発生。111人が死亡[4]。生存1人。
2018年 – アメリカ合衆国テキサス州でサンタフェ高校銃乱射事件が発生し、10人死亡[6][7]。

概要
2018年5月18日、17歳の在学生(容疑者)が美術の授業に侵入。好意を抱いていた人物は狙わず、標的の人物に対しては殺意を持って散弾銃と38口径回転式拳銃を次々と発砲した。死者10人(生徒9人、教師1人)、負傷者10人。発砲直後、校内に配置されていた警官が反撃を開始。容疑者は、自分で死ぬ勇気がなかったとして投降した。

学校の内外からは、様々な爆発装置が見つかり計画的な犯行であったことが判明しているが、動機は明らかにされていない[1][2]。

チャットgpt先生の5月18日のエッセイ

5月18日――「勝つ側も壊れる日」

5月18日を並べて眺めると、この日は「勝者の側ですら消耗し切る」という記録が異様に多い。
英雄譚より、磨耗の記録が残る日だ。

1584年の長久手の戦いでは、羽柴秀吉は最終的には天下へ近づくが、この局地戦では徳川・織田側に痛打を受けた。兵数と政治力で優勢でも、地形と指揮と現場の統制で負ける。戦国期の合戦はしばしば「最終勝者」が歴史を書き換えるが、現場単位で見ると「秀吉にも普通に敗戦がある」ことを長久手は示している。大軍=無敵ではない。

1863年開始のビックスバーグ包囲戦も同じ構図だ。北軍は7万、南軍は3万3千。数字だけなら圧殺に見える。だが実際には、グラントは正面突撃で大損害を出し、結局は包囲戦へ移行した。
近代戦はこの頃から、「勇敢な突撃」より「兵站と封鎖」が勝敗を決め始める。ミシシッピ川を押さえた北軍は戦略的勝利を得たが、その勝利はロマンではなく、飢餓と消耗の管理だった。

そして5月18日を最も重くしているのは、やはり沖縄戦のシュガーローフ争奪戦だろう。

日本では戦後長く、「米軍は物量で押し潰した」「沖縄は一方的虐殺だった」という単純化が流通した。逆にアメリカ側では、「圧倒的戦力で着実に攻略した」という勝利物語が長く主流だった。
しかし、GHQプレスコードの時代を差し引き、米海兵隊や従軍記録、戦後研究を読むと、実態はもっと陰惨で複雑だ。

シュガーローフは、米軍側から見れば“攻略不能に近い小丘”だった。

沖縄本島南部の日本軍陣地は、硫黄島以上に「地下化」されていた。砲爆撃で地表を吹き飛ばしても、守備隊は洞窟や坑道から再出現する。米軍は制空権・制海権・砲兵・補給すべてを握っていたが、それでも前進できない。
なぜなら、近代火力は「地上を破壊する力」はあっても、「地下に潜った防御兵力を完全消滅させる力」は限定的だったからだ。

5月18日の記録に出る「死体を踏まずに丘を登れなかった」という海兵隊証言は、誇張ではない。シュガーローフでは同じ斜面を数日単位で奪い合い、砲撃で肉体が崩れ、熱帯気候で腐敗し、その上を次の攻撃隊が通過した。
海兵隊はガダルカナルやペリリューを経験していたが、それでも沖縄を「最悪」と回想する兵が多い。

特に重要なのは、「米軍が苦戦した理由は兵力不足ではない」という点だ。

むしろ逆で、史上最大級の火力と補給を持ちながら、それでも短期間で突破できなかったことが沖縄戦の異様さを示している。
アメリカ軍は通常、「火力優勢→包囲→機動」で勝つ。しかし沖縄南部では雨季、泥濘、地下陣地、逆斜面、防御縦深が組み合わさり、火力優勢が戦術的成果へ直結しなかった。

さらに海上では神風特攻が続いていた。
特攻は戦略的には敗北戦術だったが、作戦レベルでは米艦隊に現実の損害を与えている。空母F-86 Sabreではなく、当時の空母バンカーヒル級被害のように、一撃で数百名規模の死傷者を出した事例は米海軍に深い心理的衝撃を与えた。米軍上層部が「このまま本土侵攻した場合の損害」を現実計算し始めたのも沖縄戦の頃である。

つまり沖縄戦は、日本軍が“勝った戦い”では全くない。戦略的には完全敗北だった。
しかし同時に、「米軍が史上最大級に消耗し、消耗を恐れ始めた戦い」でもあった。

ここを片側だけで語ると実像を外す。

5月18日の沖縄戦記録を読むと、そこには英雄主義より「制度と肉体の限界」がある。
日本軍は補給不能でも地下陣地で抗戦した。
米軍は圧倒的物量でも前進速度に苛立った。
双方とも、勝利や忠義より先に、「人間が壊れていく速度」の方が前面に出てくる。

同じ5月18日には、光州事件も始まっている。国家は秩序維持を掲げ、市民は民主化を掲げた。しかし現場では、軍も市民も恐怖と流言の中で過激化していく。
近代国家は「管理能力」で成立するが、統制が崩れると、暴力は急速に局地化し、感情化する。

さらに1927年のバス学校爆破事件では、犯人は狂人というより、税負担と没落への執着を長期間熟成させた地方名士だった。近代社会の大量殺傷は、しばしば「巨大な思想」より、「個人の破産感情」から始まる。

1936年の阿部定事件もまた、単なる性愛事件ではなく、「昭和都市社会の覗き趣味」を暴露した事件だった。事件そのもの以上に、新聞・号外・群衆熱狂が巨大化した。
近代メディア社会は、悲劇を消費しながら成長する。

5月18日は、英雄の日ではない。
むしろ、「人間社会の耐久限界」が露出する日だ。

国家も軍隊も共同体も、平時には巨大で強固に見える。だが、補給が止まり、恐怖が蓄積し、疲労が閾値を超えると、組織は急速に“肉体化”する。
泥、腐敗臭、飢え、税金、嫉妬、焦燥、誇大妄想。
歴史を動かすのは理念だけではなく、そういう湿った現実だ。

5月18日の記録群は、そのことを妙に執拗に示している。