5月12日
20260512火曜日旧暦3月26日仏滅(23番丙戌ひのえいぬヘイジュツ)月齢 24.6
43番丙午ひのえうま年 30番癸巳みずのとみ月 23番丙戌ひのえいぬ日
吉方位 陽遁日 丙戌ひのえいぬ日 南西 大吉 年末まではあと233日
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5月12日の出来事
1576年(天正4年4月14日) – 石山合戦: 織田信長方が石山本願寺を包囲。
本願寺+毛利連合軍15000強 中戦死3000人 織田+三好水軍 10000人中 被害僅少
1588年 – ユグノー戦争: ギーズ公アンリ1世がパリに入城し、アンリ3世が逃亡。(バリケードの日)
1932年 – リンドバーグ愛児誘拐事件: 3月1日に誘拐されたチャールズ・リンドバーグの長男が遺体で発見される。
1941年 – コンラート・ツーゼが世界初の完全動作するプログラム制御式コンピュータ「Zuse Z3」を公開。
1945年沖縄戦5月12日シュガーローフ戦12-19開始:米軍:・慶良間チージでの攻防は、1945年 (昭和20) 5月12日から1週間に及び、1日のうち4度も頂上の争奪戦がくりかえされるという激戦の末、18日に至り米軍が制圧した。米軍は死者2,662人と1,289人の極度の精神疲労者を出し、日本軍も学徒隊・住民を含め多数の死傷者を出した。
それ以降、米軍は首里への攻勢を強め、5月27日に首里の第32軍司令部は南部へ撤退した。沖縄戦は、首里攻防戦で事実上決着していたが、多くの住民をまきこんだ南部戦線の悲劇は、6月末まで続いた。<慶良間チージ(シュガーローフ) : 那覇市歴史博物館>:日本軍:・12日、すでに米軍占領下にあった北部の今帰仁で、海軍特殊潜航艇隊「蛟龍」の渡辺大尉ら敗残兵が、今帰仁で警防団長の謝花喜睦と通訳の平良幸吉を虐殺する。敗残兵は今帰仁の住民虐殺を続けるが、これらを今帰仁の「整理」と呼んでいた。・5月12日夜間、塩屋の渡野喜屋で曹長に率いられた日本兵10人が、住民35人を殺し、15人に負傷させる。そのほとんどが婦女子である。この集団は、その村落の指導者4、5人を連れて山に戻った。<読谷村史 「戦時記録」下巻 第四章 米軍上陸後の収容所>
2008年 – 中国・四川省でM7.9の四川大地震が発生。現地時間21日正午現在までで、この地震による死者は6万9197人、負傷者は37万4176人に上り、1万8222人がなおも行方不明となっている[19]。
2010年 – アフリキヤ航空771便墜落事故。死者数 103 生存者数1人
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1576年(天正4年4月14日) – 石山合戦: 織田信長方が石山本願寺を包囲。
本願寺+毛利連合軍15000強 中戦死3000人 織田+三好水軍 10000人中 被害僅少
1588年 – ユグノー戦争: ギーズ公アンリ1世がパリに入城し、アンリ3世が逃亡。(バリケードの日)
ユグノー戦争(ユグノーせんそう、フランス語:Guerres de religion, 1562年 – 1598年)は、フランスのカトリックとプロテスタントが休戦を挟んで8回40年近くにわたり戦った内戦である。
ドイツに始まった宗教改革運動は各国に広まったが、ジャン・カルヴァンの思想がフランスでも勢力を持ち、プロテスタントはカトリック側からユグノー(huguenot)と呼ばれた。ユグノーには貴族も加わり、弾圧にもかかわらず勢力を広げていった。1562年にカトリックの中心人物ギーズ公によるヴァシーでのユグノー虐殺事件(ヴァシーの虐殺)が契機となり、内乱状態になった。妥協的な和平を挟んだ数次の戦争の後の1572年8月24日には、カトリックがユグノー数千人を虐殺するサン・バルテルミの虐殺が起こっている。
1932年 – リンドバーグ愛児誘拐事件: 3月1日に誘拐されたチャールズ・リンドバーグの長男が遺体で発見される。
概要
1932年3月1日、初の大西洋単独無着陸飛行に成功したことで有名な飛行士チャールズ・リンドバーグの長男チャールズ・オーガスタス・リンドバーグ・ジュニア(当時1歳8か月)がニュージャージー州自宅から誘拐される。ベビーシッターが別室に移動したすきに三折の梯子を使ってベビーベッドで眠るジュニアを運び出したと見られた。現場には身代金5万ドルを要求する手紙が残されていた[1]。10週間に及ぶ探索と誘拐犯人との身代金交渉をしたが、 同年5月12日、自宅から約5マイル離れた森の中で、トラック運転手により長男の白骨化した死体が発見された[2]。
2年後、身代金の金券がガソリンスタンドで使用され、ドイツ系ユダヤ人[要出典]移民のリチャード・ハウプトマン(英語版)が浮かび上がった。彼の家には1万2千ドル以上の金券と拳銃が隠されており、これは仕事仲間のイシドア・フィッシュから預けられたものだと話していた。後にフィッシュはドイツで死亡していて、渡航の際に金券を使用している。リンドバーグが身代金を支払った後に、ハウプトマンは大工の仕事を辞めている。ハウプトマンが犯人として注目されると、目撃証言などが報告されている。なお、フィッシュとハウプトマンは詐欺を働いていた過去があった。
ハウプトマンは一貫して無罪を主張したが、1935年2月13日にフレミントン地方裁判所において死刑判決を受ける[3]。控訴を行ったが却下された。物証が乏しいことや共犯の存在が明らかにされなかった事、冤罪説(後述)も浮上して「アメリカ犯罪史上かつてない不可解な事件」として議論を呼んだため、ニュージャージー州知事は数度の死刑執行延期を行ったが[4]、1936年4月3日にニュージャージー刑務所内で電気椅子により死刑が執行された[5]。彼は事件当日に仕事をしているというアリバイがあり、夜の9時に妻を迎えに行っているが、出勤簿などは裁判までに消失している。
この事件をきっかけに、複数州にまたがる誘拐犯行は連邦犯罪であり、自治体警察ではなく連邦捜査局管轄と定める「連邦誘拐法(英語版)」(「リンドバーグ法」)が成立した。アガサ・クリスティの小説『オリエント急行の殺人』の主要なモチーフである誘拐事件は本事件を参考にしているとされる。
1941年 – コンラート・ツーゼが世界初の完全動作するプログラム制御式コンピュータ「Zuse Z3」を公開。
Zuse Z3は、1941年にドイツでコンラート・ツーゼによって開発された計算機である。世界初の自由にプログラム可能で完全に自動化された機械である。現代の視点からすると、コンピュータの定義に適合する属性をほぼ備えているが、条件分岐命令は備えていない。Z3は2,600個のリレーから構成され、動作周波数はおおよそ5から10Hz、ワード長は22ビットである[1]。プログラムとデータはセルロイド製のフィルムに穴を開けることで記憶される。
1941年にベルリンで完成し、ドイツ航空機研究所で翼のフラッター現象の統計解析に使われた[2]。
オリジナルのZ3は、1943年12月21日のベルリン空襲で破壊された。完全動作する複製品が1961年にツーゼの会社「Zuse KG」によって作成され、ドイツ博物館に永久展示されている。
ツーゼはドイツ政府にリレーを電子スイッチに置き換えるための資金提供を要請したが、第二次世界大戦中であり、戦争遂行の観点から重要でないと判断され、資金は得られなかった[3]。
1945年沖縄戦5月12日シュガーローフ戦12-19開始:米軍:・慶良間チージでの攻防は、1945年 (昭和20) 5月12日から1週間に及び、1日のうち4度も頂上の争奪戦がくりかえされるという激戦の末、18日に至り米軍が制圧した。米軍は死者2,662人と1,289人の極度の精神疲労者を出し、日本軍も学徒隊・住民を含め多数の死傷者を出した。
それ以降、米軍は首里への攻勢を強め、5月27日に首里の第32軍司令部は南部へ撤退した。沖縄戦は、首里攻防戦で事実上決着していたが、多くの住民をまきこんだ南部戦線の悲劇は、6月末まで続いた。<慶良間チージ(シュガーローフ) : 那覇市歴史博物館>:日本軍:・12日、すでに米軍占領下にあった北部の今帰仁で、海軍特殊潜航艇隊「蛟龍」の渡辺大尉ら敗残兵が、今帰仁で警防団長の謝花喜睦と通訳の平良幸吉を虐殺する。敗残兵は今帰仁の住民虐殺を続けるが、これらを今帰仁の「整理」と呼んでいた。・5月12日夜間、塩屋の渡野喜屋で曹長に率いられた日本兵10人が、住民35人を殺し、15人に負傷させる。そのほとんどが婦女子である。この集団は、その村落の指導者4、5人を連れて山に戻った。<読谷村史 「戦時記録」下巻 第四章 米軍上陸後の収容所>
2008年 – 中国・四川省でM7.9の四川大地震が発生。現地時間21日正午現在までで、この地震による死者は6万9197人、負傷者は37万4176人に上り、1万8222人がなおも行方不明となっている[19]。
2010年 – アフリキヤ航空771便墜落事故。死者数 103 生存者数1人
チャットgpt先生の5月12日のエッセイ
5月12日という日付を並べていくと、時代も場所も違う出来事が、ひとつの共通項でつながっているように見えてくる。理想や理念ではなく、「現実の力学」がむき出しになる日だ。
16世紀の日本では、石山合戦で織田信長が本願寺勢力を包囲した。ここで見えるのは宗教対権力という構図だが、実態は補給線と海上戦力を押さえた側が優位に立つという、極めて現実的な戦争の帰結だった。信長は信仰そのものではなく、武装化した宗教ネットワークという「準国家」を潰しにいった。兵力差や損害の偏りが示す通り、戦は理念ではなく、準備と構造で決まる。
同じ日、ヨーロッパではバリケードの日が起き、アンリ1世 (ギーズ公)がパリを掌握し、王であるアンリ3世が逃亡した。宗教戦争と呼ばれるユグノー戦争も、結局は都市の掌握と動員力の勝負だった。群衆を押さえた側が「正統性」を持つという逆転現象は、現代の政治運動にも通じる。信仰は動員の燃料にはなるが、勝敗を決めるのは都市と兵力のコントロールだ。
20世紀に入ると、力の形はさらに変わる。リンドバーグ愛児誘拐事件は、個人の犯罪でありながら国家レベルの制度を動かした。チャールズ・リンドバーグという象徴的存在が被害者側にいたことで、事件は単なる誘拐ではなく「国家の威信」の問題に変わる。ここでも本質は感情ではなく、世論と制度設計の連動だ。犯罪そのものより、それがどう扱われるかで現実が変わる。
一方で、同じ1941年の5月12日にはZ3がコンラート・ツーゼによって公開される。これは戦争と無関係に見えて、実は極めて近い。計算力=予測力=戦力という時代の入り口だ。にもかかわらず当時のドイツはその価値を十分に理解せず、資源を投入しなかった。ここでも「何に資源を配分するか」という判断が未来を分けている。
そして1945年、沖縄戦の中でも、5月12日から始まるシュガーローフの戦いは、物量戦の限界を露呈した局面だった。アメリカ軍は圧倒的な火力と補給を持ちながら、わずかな高地を奪うのに何度も奪い返され、短期間で数千規模の損耗を出している。
リアリストに見れば、ここで重要なのは「米軍が苦戦した」という一点ではない。なぜ苦戦したかだ。地形、壕、分散配置、夜間反撃――これらが火力優位を相殺した。つまり、防御側が条件を整えれば、物量は絶対ではない。だが同時に、最終的に勝敗を決めたのはやはり補給と継戦能力だった。日本側は局地的に戦術的成功を重ねても、全体としての消耗を補えない。住民を巻き込んだ惨状も含め、戦場は「統制不能な空間」へと崩れていく。
戦後、日本ではGHQの報道統制によって、この戦いの描写は一定方向に整理されたが、それを差し引いてもなお、沖縄戦の実態は単純な善悪では収まらない。住民虐殺の事例も、軍紀崩壊と極限状況の帰結として現れている。理想や規律は、補給と指揮が崩れた瞬間に急速に失われる。
さらに現代に近づくと、四川大地震やアフリキヤ航空771便墜落事故のように、「人間の意思とは無関係な破壊」が同じ日に重なる。ここでは敵も戦略もない。ただし被害規模や対応力を見ると、国家の準備とインフラの差がそのまま結果に出る。自然災害ですら、完全に“自然”ではなくなる。
こうして並べると、5月12日は一貫して「力の現実」が露出する日だといえる。宗教も国家も技術も、表向きの理念を剥がすと、資源・配置・判断の問題に還元される。そしてそれを誤れば、戦争でも災害でも、結果は容赦なく現れる。
歴史は物語として語られがちだが、この日の出来事はむしろ逆で、物語を拒否する。そこにあるのは、選択と制約、そしてその帰結だけだ。

