5月8日
20260508金曜日旧暦3月22日赤口(19番壬午みずのえうまジンゴ)月齢 20.6
43番丙午ひのえうま年 30番癸巳みずのとみ月 19番壬午みずのえうま日
吉方位 陽遁日 壬午みずのえうま日 北東 大吉 年末まではあと237日
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5月8日の出来事
730年(天平2年4月17日) – 光明皇后の発意により施薬院を設置。
1238年(暦仁元年3月23日) – 深沢の地で僧侶浄光の勧進により鎌倉高徳院の大仏堂(鎌倉大仏)の建立が開始される。
1429年 – オルレアン包囲戦: ジャンヌ・ダルク率いるフランス軍が、イギリス軍を撃破し、オルレアンを解放[1]。戦争:百年戦争 年月日:1428年10月12日 – 1429年5月8日 場所:オルレアン、フランス 結果:フランスの決定的な勝利 損害:イングランド軍 5000人中 4000人以上戦死 フランス 軍6400人 武装市民3000人 中死者2000人
1609年(慶長14年4月5日) – 琉球の尚寧王が薩摩藩に降伏。
1794年 – フランス革命: かつて徴税吏であった化学者アントワーヌ・ラヴォアジエに対し革命裁判所が死刑判決を下し、その日にうちにギロチンで処刑する。
1847年(弘化4年3月24日) – 善光寺地震[2]。M⒎4、死者8000-1万2000人。
1886年 – アメリカ・アトランタの薬剤師ジョン・ペンバートンがコカ・コーラの発売を開始。
1902年 – 西インド諸島のフランス領マルティニーク島のプレー火山が爆発し、火砕流でサンピエール市が全滅。死者は約32,000人に及ぶ。
1942年 – 第二次世界大戦・珊瑚海海戦: ポートモレスビーを攻略しようとした日本海軍と連合国海軍の間で史上初の航空母艦同士の海戦が発生、日本側は連合国空母1隻撃沈、1隻大破の戦果を得るが上陸作戦中止。(海戦は戦術的勝利)
1942年 – 第二次世界大戦: 民間人1,300人以上が乗った客船大洋丸が米潜水艦の雷撃により沈没。
1945年 – 第二次世界大戦: ベルリン郊外のカルルスホルストにてソ連のゲオルギー・ジューコフ将軍とドイツのヴィルヘルム・カイテル元帥が降伏文書に調印し、独ソ戦が終結。(ソ連による戦勝記念日は翌5月9日)
1945年沖縄戦5月8日-米軍:・…5月8日、第一線の米軍部隊には、ナチ・ドイツが降伏したというニュースが伝えられた。しかし兵士たちは、ヒトラーが打倒されたことの喜びよりも、自らの生命が賭けられている目前の戦闘に気を奪われていた。それでも沖縄本島西方海上に蝟集した米艦船上では、感謝の礼拝が行われ艦砲と野戦砲はいっせいに空高く祝砲を発射した。《写真記録「これが沖縄戦だ」(大田昌秀 編著/琉球新報社) 125頁より抜粋》・5月8日、従軍記者がウォルト・ルツォスキィ伍長に近寄ってきて「聞いたかい? ヨーロッパでの戦争が終わったよ」とドイツ降伏のニュースについて教えてくれた。「それは朗報だね」とルツォスキィは物思いに沈んだ表情で「それが、こっち(太平洋)だったらなぁ」とつぶやいた。多くの兵士たちも彼と同じ考えであった。ここ数日間、第1海兵師団の兵士たちは、南部戦線での陸軍の兵士たちの惨状の理由について理解しはじめていた。…5月4日と5日の戦闘だけで、第1海兵師団は649名の将兵が戦死傷・行方不明となった。また5月6日だけで、3輌のシャーマン戦車が日本軍の速射砲に撃破されてしまった。《「沖縄 シュガーローフの戦い 米海兵隊 地獄の7日間」(ジェームス・H・ハラス/猿渡青児・訳/光人社NF庫) 57頁より》・5月8日、第6海兵師団の第22連隊は、安謝川北の土堤で、第1海兵師団の第7連隊と交替した。《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 337頁より》:日本軍:・八原高級参謀の回想:
わが軍の運命が、ほぼ決定的になった5月中旬、ドイツの崩壊降伏が首里洞窟内にも伝わった。かかる世界情勢と、太平洋戦争の現段階において、依然戦闘を継続するのは、まったく無意味であると思った。個人の場合ならば、自らの意地や面子に身を滅ぼしてもそれまでであるが、国家民族の場合は、そうはゆかぬ。特に指導的地位にある人々の、個人的な意地や面子のために、国家民族が犠牲に供せられるようなことがあってはならぬ。
大東亜戦争は美しい口実で開始されたが、畢竟支那事変の処理に困却し果てたわが指導グループがその地位、名誉、権力等を保持延長するための、本能的意欲から勃発したものとも考えられる。今この絶望的な戦闘段階において、もしこれらのグループの保身延命のために、わが将兵が日々幾百千となく、珊瑚礁上に殪れつつあるとせば、義憤を禁じ得ないであろう。
《「沖縄決戦 高級参謀の手記」(八原博通/中公文庫) 頁293-294より》
2023年 – 厚生労働省が新型コロナウイルスの感染症の予防及び感染症の患者に対する医療に関する法律(感染症法)上の位置づけを新型インフルエンザ等感染症から季節性インフルエンザ等と同様の5類に変更。
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730年(天平2年4月17日) – 光明皇后の発意により施薬院を設置。
1238年(暦仁元年3月23日) – 深沢の地で僧侶浄光の勧進により鎌倉高徳院の大仏堂(鎌倉大仏)の建立が開始される。
高徳院は、鎌倉のシンボルともいうべき大仏を本尊とする寺院であるが、開山、開基は不明であり、大仏の造像の経緯についても史料が乏しく、不明な点が多い。寺の草創については、鎌倉市材木座の光明寺奥の院を移建したものが当院だという説もあるが、定かではない。初期は真言宗で、鎌倉・極楽寺開山の忍性など密教系の僧が住持となっていた。のち臨済宗に属し建長寺の末寺となったが、江戸時代の正徳年間(1711年 – 1716年)に江戸・増上寺の祐天上人による再興以降は浄土宗に属し、材木座の光明寺(浄土宗関東総本山)の末寺となっている。「高徳院」の院号を称するようになるのは浄土宗に転じてからである。
1429年 – オルレアン包囲戦: ジャンヌ・ダルク率いるフランス軍が、イギリス軍を撃破し、オルレアンを解放[1]。戦争:百年戦争 年月日:1428年10月12日 – 1429年5月8日 場所:オルレアン、フランス 結果:フランスの決定的な勝利 損害:イングランド軍 5000人中 4000人以上戦死 フランス 軍6400人 武装市民3000人 中死者2000人
オルレアン包囲戦(オルレアンほういせん、仏: Siège d’Orléans, 英: Siege of Orléans)は、イングランドとフランスの百年戦争において転換点となった、フランスのオルレアンで1428年10月12日から1429年5月8日にかけて起きた戦闘である。この包囲戦は、ジャンヌ・ダルクの主要な軍事行動における最初の勝利であり、1415年にアジャンクールの戦いで敗れた後のフランスにとって、最初の大きな勝利であった。この包囲戦の結果、その後のイングランドの軍事力は下降線となっていった。
オルレアンはイングランド、フランスの双方にとって、戦略的にもシンボルとしても重要な街であった。現代の一致した意見としては、仮にオルレアンが陥落していたならば、イングランドの摂政ベッドフォード公ジョン・オブ・ランカスターにより、フランス全土を征服するというヘンリー5世の野望が実現されていたというものである。半年間にわたりイングランドが優勢であったが、ジャンヌ・ダルクの到着後9日間で、イングランドによる包囲は崩壊した。
1609年(慶長14年4月5日) – 琉球の尚寧王が薩摩藩に降伏。
1794年 – フランス革命: かつて徴税吏であった化学者アントワーヌ・ラヴォアジエに対し革命裁判所が死刑判決を下し、その日にうちにギロチンで処刑する。
アントワーヌ=ローラン・ド・ラヴォアジエ(フランス語: Antoine-Laurent de Lavoisier[1]、1743年8月26日 – 1794年5月8日)はフランス王国のパリ出身の化学者である。質量保存の法則の発見、酸素の命名、フロギストン説の打破などの功績から「近代化学の父」と称される[2][3][4][5][6][7]。裕福な出自から貴族となったが、当時のフランス革命の動乱に翻弄され落命した。
1768年には、フランス科学アカデミーから『空から巨大な石が落下して、働いていた農夫の近くの地面にめり込んだ』という報告書の検討を依頼された。これに対して、ラヴォアジエは、空からは巨大な石が落下することは絶対にないと判断し、目撃者の勘違いか嘘であろうと返事したとされる[27]。
先述の通り、ラヴォアジエは裕福で資産を十分に持っており、実験器具を購入する資金はあったとされる。にもかかわらず、実験器具の購入費用は資産からは出さず[28]、1768年頃より徴税請負人[29]の職に就いたとされる。物理学者の小山慶太によると、ラヴォアジエにとって実験は”道楽”であったとされる[30]。週に1日は実験に耽り、ラヴォアジエはその1日を”幸福の1日”と呼んでいた[31]。
1771年12月6日には、徴税請負人長官であるジャック・ポールズ(フランス語版)の娘のマリー=アンヌ・ピエレット・ポールズと結婚した。式はパリにあるサンロック教会(フランス語版)で執り行われた。二人の間に子はなかったものの、マリー=アンヌはラヴォアジエの役に立とうと、英語やラテン語、イタリア語を学び、化学や絵画(実験図)の描き方などを習得したとされる。たとえば、アイルランドの科学者であるリチャード・カーワンやプリーストリーの論文や手紙をフランス語に翻訳したり、実験に際しては非常に細かな点までスケッチ・記録として残したりした[32]。
投獄・処刑
1853年、ジャック=レオナール・マイエによるラヴォアジエの彫像(ルーヴル宮殿)
1793年11月24日には、革命政府は徴税請負人[29]の全員を逮捕すべく、元・徴税請負人らを指名手配した。ラヴォアジエは酷い徴税はしておらず、むしろ税の負担を減らそうと努力していたとされるが[3]、この指名手配に対して、ラヴォアジエは自ら出頭した。しかし、徴税請負人の娘(マリー=アンヌ)と結婚していたこと等を理由に投獄された。
やがてラヴォアジエは革命裁判所における審判にかけられた。ラヴォアジエの弁護人はラヴォアジエの科学上の実績を持ち出して弁論を行ったが、裁判長のジャン=バティスト・コフィナル(英語版)は「共和国に科学者は不要である」として退けたとされる。こうして1794年5月8日には、「フランス人民に対する陰謀」との罪[33][45]でラヴォアジエに死刑の判決が下った。刑はその日のうちにコンコルド広場にあるギロチンで執り行われ、ラヴォアジエは50年の生涯を閉じた。
なお、化学者でもあるジャン=ポール・マラーは革命指導者の一人であった。マラーは、彼がかつて学会に論文を提出し、その審査を担当したラヴォアジエによって却下されていた[46][47]。ラヴォアジエが投獄、処刑された経緯については、マラーによる逆恨みがあったのではないかとも伝えられている[47]。
同国出身の数学者、物理学者、天文学者であるジョゼフ=ルイ・ラグランジュは、ラヴォアジエの死に接して「彼の頭を切り落とすのは一瞬だが、彼と同じ頭脳を持つものが現れるには100年かかるだろう」 との言葉を残し、ラヴォアジエの死を悼んだとされる[48]。
1847年(弘化4年3月24日) – 善光寺地震[2]。M⒎4、死者8000-1万2000人。
1886年 – アメリカ・アトランタの薬剤師ジョン・ペンバートンがコカ・コーラの発売を開始。
概略
1886年、アメリカ合衆国で発明された世界最初のコーラ飲料[2]。発祥はジョージア州アトランタで、現在も本社は同地にある。アトランタの「World of Coca-Cola 博物館」には多くの観光客が訪れ、そこでは世界各国のコカ・コーラの味を比較できる。
コカ・コーラの名称の由来は、コカの葉(成分としてコカインを含む)とコーラの実(当時はほぼアフリカ産)を原材料に使っていたことによる[3][4][5][6]。ジョン・ペンバートン博士の友人で、経理担当のフランク・ロビンソンが命名した。1903年以降[7]、コカインの成分は含まれておらず[3]、現在はコーラの実も他のコーラ飲料と同様に、風味に殆ど影響を与えない微量である[8]。なお日本コカ・コーラ株式会社は、この説明を完全に否定しており、名称の由来は「語感がいいから」という単純な理由だと主張している[9]。
1902年 – 西インド諸島のフランス領マルティニーク島のプレー火山が爆発し、火砕流でサンピエール市が全滅。死者は約32,000人に及ぶ。
1942年 – 第二次世界大戦・珊瑚海海戦: ポートモレスビーを攻略しようとした日本海軍と連合国海軍の間で史上初の航空母艦同士の海戦が発生、日本側は連合国空母1隻撃沈、1隻大破の戦果を得るが上陸作戦中止。(海戦は戦術的勝利)
1942年 – 第二次世界大戦: 民間人1,300人以上が乗った客船大洋丸が米潜水艦の雷撃により沈没。
1945年 – 第二次世界大戦: ベルリン郊外のカルルスホルストにてソ連のゲオルギー・ジューコフ将軍とドイツのヴィルヘルム・カイテル元帥が降伏文書に調印し、独ソ戦が終結。(ソ連による戦勝記念日は翌5月9日)
2023年 – 厚生労働省が新型コロナウイルスの感染症の予防及び感染症の患者に対する医療に関する法律(感染症法)上の位置づけを新型インフルエンザ等感染症から季節性インフルエンザ等と同様の5類に変更。
チャットgpt先生の5月8日のエッセイ
5月8日という日付を、暦や吉凶をいったん脇に置いて眺めると、人間の「進歩」と「破壊」が同じ地平に並んでいるのがよく見える。
たとえば1429年、オルレアン包囲戦。ここでジャンヌ・ダルクがもたらしたのは、戦術そのものよりも「士気」という曖昧な資源の決定力だった。半年以上続いた優勢が、わずか数日で崩れる。戦争は合理で動いているように見えて、実際には非合理の塊だという典型例だ。
一方で1794年、アントワーヌ・ラヴォアジエが処刑される。国家は合理性を掲げて革命を進めながら、合理の象徴である科学者をあっさり切り捨てた。後世の評価は一貫しているが、その時点では「役に立たない人材」と判断されたに過ぎない。組織が極限状態に入ると、長期的価値より短期的な敵味方の区分が優先される、という現実がある。
そして同じ日、1886年にはコカ・コーラが世に出る。これは戦争でも革命でもないが、結果的には世界中の生活習慣を変えた。暴力ではなく消費で世界が均質化していく流れの、かなり初期の象徴だろう。
だが5月8日を語るうえで避けて通れないのは、1945年前後の戦争の断面だ。ヨーロッパではドイツ降伏が決まり、戦争は「終わり」に向かっていた。しかし同じ日、沖縄戦の現場では、終わりどころかむしろ消耗が極限に近づいていた。
沖縄戦を「悲惨だった」とだけ言うのは簡単だが、それでは実態を外す。より現実的に見るなら、これは米軍にとっても想定外の難戦だった。アメリカは圧倒的な物量――艦砲、航空支援、補給――を持ちながら、それでも地上戦では進撃が鈍化し、部隊単位での損耗が激しかった。特に首里戦線では、洞窟陣地と逆斜面防御によって火力優位が相殺され、歩兵が一歩ずつ消耗していく構図になる。
一般に「物量=楽勝」というイメージがあるが、沖縄ではそれが成立していない。むしろ、補給と火力で優位にある側が、最終的には人的損耗を受け入れながら押し切るしかないという現実が露呈した戦場だった。結果として米軍は勝つが、その過程は効率的でもスマートでもない。
ここで重要なのは、情報の層だ。戦時中は当然として、戦後も占領期にはGHQプレスコードが存在し、表現できる内容に制限があった。だから日本側の極端な悲劇性も、米軍側の苦戦や混乱も、どちらも均等には記録されていない。後年の資料や証言を突き合わせていくと、「一方的な殲滅戦」でも「精神主義だけの無謀な抵抗」でもなく、互いに損耗しながら進んだ泥臭い戦いだったことが見えてくる。
同じ5月8日でも、ヨーロッパでは終戦の祝砲が上がり、沖縄では砲撃が続いている。このズレは象徴的だ。戦争は一枚岩ではなく、地域ごとに時間の流れすら違う。
さらに視点を広げると、1902年の火山噴火で都市が一瞬で消滅し、1942年には海戦や輸送船撃沈で数千人単位の命が消えている。人為か自然かの違いはあっても、結果としての「消失」は似ている。人間はそれを記録し、意味づけし、時には英雄譚にするが、現場ではただの現象に近い。
結局、5月8日に並ぶ出来事は一つのことを示している。人間は知識も技術も積み上げるが、それが合理的に使われるとは限らない。士気で戦局が変わり、科学者が処刑され、圧倒的戦力でも泥沼に沈む。そこに一貫した「進歩の直線」は見えない。
歴史は積み上がるが、挙動はむしろ不安定だ。5月8日は、その不安定さがたまたま密集している日だと言える。

