4月13日
20260413月曜日旧暦2月26日先負(54番丁巳ひのとみテイシ)月齢 25
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吉方位 陽遁日 丁巳ひのとみ日 西 大吉 年末まではあと262日
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4月13日の出来事
1179年(治承2年3月24日) – 平安京内で治承の大火(次郎焼亡)。三十数町が全焼。
1336年(延元元年/建武3年3月2日) – 南北朝時代: 九州に落ち延びていた足利尊氏が再び挙兵、多々良浜の戦いで南朝方の菊池武敏を破る。
1598年 – フランス国王アンリ4世が「ナントの勅令」を発布。プロテスタントにカトリックと同等の信教の自由を認める。
1856年(安政3年3月9日) – 長崎・下田などの開港地での踏み絵を廃止。
1919年 – アムリットサル事件: インドで起こった独立運動弾圧事件。アムリットサル公園に祭りで集まった民衆を、イギリス軍がガンディーの不服従運動と誤断して発砲。379名が死亡した[3]。
1943年 – カティンの森事件: ドイツのラジオ放送が、ソ連領内カティンの森でポーランド将校4,000人の遺体を発見と報じる。
1945年-沖縄戦4月13日/・北方:米偵察兵が日本軍狙撃兵を掃討するため、白燐弾やブローニング自動小銃、火炎放射器が使用された。日本兵は手榴弾で自らの命を絶った。(1945年4月13日)
写真が語る沖縄 – 沖縄県公文書館 ・4月13日ころから、伊江島に対する砲爆撃がひどくなり、城山は草木をすっかりちばされ、裸の岩山だけになった。底の直径が500メートルばかりの円錐形の山に、ロケット830発、爆弾35トンを撃ちこんだという(225頁)
《「沖縄 Z旗のあがらぬ最後の決戦」(吉田俊雄/オリオン出版社) 224、225頁》
・南方:夜襲失敗とスパイ探しと同胞虐殺
1948年 – アミーン・フサイニー指揮下のアラブ人ゲリラがヘブライ大学の医療スタッフを虐殺。(ハダサー医療従事者虐殺事件)79人死亡。
1990年 – ミハイル・ゴルバチョフソ連大統領が、カティンの森事件がソ連秘密警察の犯行であったことを認め陳謝。
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1179年(治承2年3月24日) – 平安京内で治承の大火(次郎焼亡)。三十数町が全焼。
治承の大火(じしょうのたいか)は、治承2年3月24日(1178年4月13日)に平安京内で起こった大火災。前年の安元の大火(太郎焼亡)との関連で次郎焼亡(じろうしょうぼう)とも呼ばれる。
この日の夜半に七条東洞院(現在の東本願寺南東の角)から出火、折からの東風に煽られて七条通沿いに朱雀大路に至るまで[1]の三十数町が全焼した。この地域は当時の人口密集地であり、そこを直撃したことになる。そこは前年の安元の大火(太郎焼亡)で焼け残った地域とも重なっており、人々に甚大な衝撃を与えた。
なお、この火災の日付については、『玉葉』が3月24日、『後清録記』が4月24日のこととしており、『後清録記』の日付を採用する説もある。また方丈記に見られる「治承の辻風」は治承4年4月に起きた天災であり、当災害とは別の記事である。
1336年(延元元年/建武3年3月2日) – 南北朝時代: 九州に落ち延びていた足利尊氏が再び挙兵、多々良浜の戦いで南朝方の菊池武敏を破る。
1598年 – フランス国王アンリ4世が「ナントの勅令」を発布。プロテスタントにカトリックと同等の信教の自由を認める。
1856年(安政3年3月9日) – 長崎・下田などの開港地での踏み絵を廃止。
1919年 – アムリットサル事件: インドで起こった独立運動弾圧事件。アムリットサル公園に祭りで集まった民衆を、イギリス軍がガンディーの不服従運動と誤断して発砲。379名が死亡した[3]。
事件概要
1917年の英国インド相エドウィン・モンタギュー(英語版)が行った戦後自治の約束(インドの自治を漸進的に実現していくという内容)は形式だけの自治を認めるインド統治法(英語版)の発布に終わり、1919年3月にはローラット法(インド政庁発布の、破壊活動容疑者に対する令状なしの逮捕、裁判ぬきの投獄を認めた法規)が発布された。
4月に入ると、アムリットサル市を中心としてパンジャーブ州(過激派テロ組織「ガダル党」の根拠地でもある)では大暴動が発生し、銀行、駅、電話局、教会などが暴徒に襲われ、十数人のイギリス人が殺害されたため、治安部隊が投入され、集会の禁止が通達された。集会の禁止が通達されたものの、4月13日には2人の民族指導者の逮捕に抗議する非武装1万2千人[1]の集会がアムリットサル市で行われた。
女性や子供も参加し、非武装で暴力的行為も無かったこの集会の参加者に対してイギリス人のレジナルド・ダイヤー(英語版)准将率いるグルカ兵からなるイギリス領インド帝国軍一個小隊が乗り込み、いきなり参加者に対する発砲を始めた[2]。さらに避難する人々の背中に向けて10分から15分に渡って弾丸が尽きるまで銃撃を続け、1,500名以上の死傷者を出した。この後、戒厳令が発令され、暴動は一気に収束したが、この弾圧によってインドの反英運動は激化することになった。
1943年 – カティンの森事件: ドイツのラジオ放送が、ソ連領内カティンの森でポーランド将校4,000人の遺体を発見と報じる。
カティンの森事件(カティンのもりじけん、ポーランド語: zbrodnia katyńska、ロシア語: Катынский расстрел)は、第二次世界大戦中にソビエト連邦のスモレンスク近郊に位置するカティンの森(ロシア語版)などで約22,000人[1]又は25,000人[2]のポーランド軍将校、国境警備隊隊員、警官、一般官吏、聖職者が、ソビエト内務人民委員部(NKVD)によって虐殺された事件[3]。「カティンの森の虐殺」などとも表記する。
「カティン」は現場近くの地名であり、事件現場はグニェズドヴォの方が距離的に近かったが、発音の言いやすさや覚えやすさから、ドイツがこの虐殺事件を表す名称に用いた[16]。ソ連は在ロンドンポーランド亡命政府に同調を要求したが、逆に亡命政府は赤十字国際委員会による真相究明のための調査を要請したため、ソ連はそれを拒否し、1943年4月26日に亡命政府との外交関係を断絶した[6][17][12][18][19]。
1945年11月から始まったニュルンベルク裁判でも虐殺の責任をドイツに押し付けようとした[20]。1946年7月1日に裁判でカティンの森事件について、ドイツによる戦争犯罪かどうか討議が行われたが、ソ連の主張は証拠不十分であるとして、裁判から除外された[21][22]。
ソ連は戦後もカティンの森事件をドイツの仕業と主張し続けた[23]。しかし、ミハイル・ゴルバチョフがソ連共産党書記長に就任すると、1987年4月に両国歴史家の合同委員会でカティンの森事件に関する合同調査が検討されることになった[24]。合同調査後の1990年4月、ソ連は事件の非を認め、公式にポーランドに謝罪した[25]。
更には1992年10月にロシア政府は、ポーランド人2万人以上の虐殺をスターリンが署名し指令した文書を公表し、事件はソ連が実行者であることが確定した[6][21][26]。
1945年-沖縄戦4月13日/・北方:米偵察兵が日本軍狙撃兵を掃討するため、白燐弾やブローニング自動小銃、火炎放射器が使用された。日本兵は手榴弾で自らの命を絶った。(1945年4月13日)
写真が語る沖縄 – 沖縄県公文書館 ・4月13日ころから、伊江島に対する砲爆撃がひどくなり、城山は草木をすっかりちばされ、裸の岩山だけになった。底の直径が500メートルばかりの円錐形の山に、ロケット830発、爆弾35トンを撃ちこんだという(225頁)
《「沖縄 Z旗のあがらぬ最後の決戦」(吉田俊雄/オリオン出版社) 224、225頁》
・南方:夜襲失敗とスパイ探しと同胞虐殺
4月3日の天皇発言と大本営からの圧力は第32軍を絶望的な混乱に陥れた。
4月3日以来、第32軍は攻勢を決意し(3日夜)、攻勢延期(5日)、攻勢再決意(5日夜)、総攻撃を一部の夜襲に変更(7日)、一部の夜襲実施(8日)、次期攻勢の研究、決意(8日〜10日)、有力部隊をもってする殺傷攻撃の実施(12日)と、情勢に応じて攻撃要領も変化した。
《「沖縄 Z旗のあがらぬ最後の決戦」(吉田俊雄/オリオン出版社) 210頁より》
度重なる沖縄守備軍の作戦上の失敗は沖縄人「スパイ」のせいだとする疑心暗鬼が蔓延した。
戦闘作戦を策定、指揮する肝心要の守備軍首脳のあいだに基本的戦術をめぐって終始、意見の対立がみられていただけでなく、戦況判断の面で上級司令部と現地軍とが極端な食いちがいをみせたことは、たんに〝困りもの〟という以上に「不幸」そのものであった。何よりもそれがもたらした余波は、深刻であった。守備軍将兵のあいだに疑心暗鬼を生みだし、目前の不利な戦況を自らに納得せしめるため「敵に内通する者がいるにちがいない」と、スケープ・ゴート探しが始まったからである。
《写真記録「これが沖縄戦だ」(大田昌秀 編著/琉球新報社) 94頁より》
1948年 – アミーン・フサイニー指揮下のアラブ人ゲリラがヘブライ大学の医療スタッフを虐殺。(ハダサー医療従事者虐殺事件)79人死亡。
概要
1948年4月13日、非武装のユダヤ人医師、看護婦、教授、講演者たちからなる一行が10台の車両に分乗してエルサレムのスコプス山にあるヘブライ大学のハダサー病院(英語版)に向かう途中で、アラブ人の非正規軍によって引き起こされた。
一行がシェイフヤラでアミーン・アル・フサイニーの所有する建物のある場所に差し掛かったとき、地雷が爆発し、10台のバスが立ち往生させられた。バスが停止したのを見ると、テロリストは四方から一斉に発砲を開始した。
護衛に当たっていたジャック・チャーチル他12名が反撃を行っていたが、イギリス軍は数時間の間介入を拒否し、パルマッハによる救出の試みは失敗した。バスには6、7時間にわたって銃弾が浴びせられ続け、その銃撃は最後にイギリス軍によって停止させられた。
およそ77名の病院関係者が虐殺され、数台の車両が破壊された。ハダサー病院の院長ハイム・ヤスキー博士(Khaim Yassky, 1896年 キシナウ – 1948年)、癌研究の権威ボナヴェントゥーラ博士らが死亡した。
1990年 – ミハイル・ゴルバチョフソ連大統領が、カティンの森事件がソ連秘密警察の犯行であったことを認め陳謝。
チャットgpt先生の4月13日のエッセイ
4月13日という日付を並べてみると、そこに通底しているのは「判断と力の遅延がもたらす帰結」だ。善悪ではなく、状況に対してどのように意思決定がなされ、どの程度のコストが支払われたかという観点で見ると、いくつかの出来事は共通の構造を持っている。
平安京の大火、いわゆる治承の大火は、都市構造の脆弱性と風向きという単純な条件が重なった結果だった。密集、木造、消火能力の不足——これらは当時の社会にとって既知のリスクだったが、抜本的な対策は取られていなかった。結果として被害は拡大する。ここにあるのは「予測可能だが放置されたリスク」の典型だ。
一方、政治的意思決定の例としては、ナントの勅令がある。アンリ4世は宗教対立を力で完全に抑え込むのではなく、一定の譲歩によって内部の安定を確保した。これは理想主義ではなく、国家の持続性という観点からのコスト計算だった。完全勝利よりも「管理可能な均衡」を選ぶ判断である。
しかし、同じ「統治」の文脈でも、アムリットサル事件は逆の帰結を示す。レジナルド・ダイヤーの判断は、短期的には群衆を制圧したが、中長期的には支配コストを跳ね上げた。武力の行使は常に合理的な手段の一つだが、その適用点を誤れば、反発を増幅させる。暴力そのものではなく、「どのタイミングでどの規模で使うか」が結果を分ける。
そして20世紀の戦争に目を向けると、沖縄戦は極めて現実的な意味での消耗戦の極致だった。この戦闘は、米軍にとって太平洋戦争で最大級の損害を強いた戦いであり、日本側の抵抗がどれほどコストを押し上げたかを示している。洞窟陣地、夜襲、地形利用、そして局地的な徹底抗戦——これらは戦略的勝利には結びつかなくとも、相手の進行速度と損害率に直接作用した。
重要なのは、この戦いが「勝敗」ではなく「費用対効果」の観点で評価されうる点だ。米軍は勝利したが、その過程で被った損害は本土決戦のシミュレーションとして強く意識された。結果として、後の意思決定(たとえば戦争終結の方法)にも影響を与えることになる。つまり沖縄戦は、それ自体が終点ではなく、次の選択を規定するデータとして機能した。
同様に、カティンの森事件のような出来事も、単なる悲劇ではなく「情報と責任の管理」という側面を持つ。ミハイル・ゴルバチョフが後年になって事実を認めたことは、体制維持のコストと透明性のバランスが変化したことを意味している。隠蔽は短期的安定をもたらすが、長期的には負債になる。
4月13日に並ぶ出来事は、偶然の羅列に見えて、実際には「選択の遅れ」「力の使い方」「コストの見積もり」という共通軸でつながっている。火災も、宗教政策も、植民地統治も、総力戦も、本質的には同じ問いに向き合っている——限られた資源と情報の中で、どの程度のリスクを取り、どの程度の損害を許容するのか。
歴史はしばしば理念で語られるが、4月13日に関して言えば、むしろ数字と結果の積み重ねとして読むほうが実態に近い。そこにあるのは、正しさではなく「どの選択が、どれだけの代償を伴ったか」という記録である。

