3月30日
20260330月曜日旧暦2月12日先勝(40番癸卯みずのとうキボウ)月齢 11
丙午ひのえうま年 辛卯かのとう月 癸卯みずのとう日 年末まであと276日
吉方位 陽遁日 癸卯みずのとう日 南西 西 大吉
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3月30日の出来事
1492年 – アラゴン王フェルナンド2世とカスティーリャ女王イサベル1世が、カトリックへの改宗にかかわらず、スペインからユダヤ人を追放することを宣言する。
1867年 – アメリカ合衆国の国務長官ウィリアム・スワードにより、アラスカを720万ドル(1エーカー・約4047平方メートル当たり2セント)でロシア帝国からアメリカ合衆国に売り渡す契約が締結される。当時は「スワードの愚行」などと呼ばれ、良い評価は受けなかった。(アラスカ購入)
1941年 – ドイツで世界初のジェット戦闘機He280が初飛行。
1949年 – 名立機雷爆発事件発生。多数の小中学生を含む63人が死亡
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1492年 – アラゴン王フェルナンド2世とカスティーリャ女王イサベル1世が、カトリックへの改宗にかかわらず、スペインからユダヤ人を追放することを宣言する。
1867年 – アメリカ合衆国の国務長官ウィリアム・スワードにより、アラスカを720万ドル(1エーカー・約4047平方メートル当たり2セント)でロシア帝国からアメリカ合衆国に売り渡す契約が締結される。当時は「スワードの愚行」などと呼ばれ、良い評価は受けなかった。(アラスカ購入)
3月30日午前4時にアメリカがアラスカをロシアから購入する条約が調印された[1]。購入価格は720万USドル(2016年現在の貨幣価値で1億2300万ドル[2]。1871年 円-USドルの為替が開始した時の相場は1ドル1円)で、面積単価は約2セント/エーカー(1エーカー=約4047平方メートル)だった。
購入の影響
アラスカ購入に使用された額面720万USドルの小切手[2]
この条約は4月9日にアメリカ合衆国上院で批准されたものの、当初スワードは「巨大な保冷庫を購入した」などとアメリカ国民に非難された[3][4]。
しかし、1896年にはアラスカで金鉱が発見されるなど資源の宝庫であることが判明したほか[5]、1957年に大型油田が発見されたことで州として自立することが経済的に可能とみなされ、1959年にアラスカ州となる。更に1967年末には世界屈指の巨大油田であるプルドーベイ油田が発見されている。また、軍事上においてもアラスカの位置がベーリング海峡や北極海を挟んでロシアや日本と直接国境を接することから、特に第二次世界大戦ではアッツ島を占領され、ダッチハーバーを爆撃されるなど痛手を負うが日本と、冷戦期ではソ連との間で発生した軍事衝突では極めて重要な役割を果たすなど、スワードのアラスカ購入に関する評価は上がっている[6]。
1941年 – ドイツで世界初のジェット戦闘機He280が初飛行。
概要
He280のイメージ図
He 280の三面図
ハインケル He178によってジェット機の世界初飛行を成功させたハインケル社は引き続き、世界初の実用ジェット戦闘機を目指したハインケル He 280の開発にとりかかった。機体は大型化に伴って二発のジェットエンジンHeS 8を両翼にさげたエンジンポッドに収納する形となった。武装として20mm機関砲3門を余裕のできた機首部分に装備した。
1941年3月30日、ジェット推進による初飛行に成功。
ハインケル社の自信作であったが、本機の採用を阻んだ最大の障壁はエンジンの実用化に手間取ったことにある。初期の実験飛行ではエンジンの燃料漏れによる火災を恐れたためカウリングを外して飛行した記録写真も残っている。HeS 8は推力不足と信頼性向上を一向に果たせないままであった。何より、HeS 8の稼動保証時間は実にたったの1時間に過ぎず、使い捨ても同然のエンジンであった。これでは1942年当時の空軍の評価が得られなかったのも当然と言える。(さらに、当時は戦局が広域に広がり過ぎた上に消耗戦状態にあり、得体の知れない新型機よりも一機でも多くの在来機が必要とされていた)。
ついにハインケルはHeS 8を見限ってBMW 003に、さらにその開発が滞っている状況を見てJumo 004へと搭載エンジンを切り替えた。しかし、Jumo 004は遅れて開発されたメッサーシュミット Me262にも搭載されるエンジンであった。He 280はJumo 004が実用化されるのを待ってしまったため、開発で先行していた優位を失いMe 262と直接比較されてしまうことになる。Me 262は本機よりも優れた性能を示し、本機の制式採用は見送られ、試作のみに終わった。また、空軍はハインケル社を厚遇せず、戦闘機開発に関しては特に冷遇していた点も見逃せない。
なお、機体のスタイル自体はレシプロ機と代わり映えしないが、圧縮空気による射出座席や以降のジェット機のスタンダードとなる前車輪式を試作1号機の時点ですでに備えていたなど、コンポーネント構成の面ではMe 262を圧倒しており、後の時代を先取りする機構を採用していたことは特筆に価する。
1949年 – 名立機雷爆発事件発生。多数の小中学生を含む63人が死亡
経過
太平洋戦争終結から4年後の1949年(昭和24年)3月30日、名立町小泊(こどまり)の海岸に国籍不明の機雷が漂着した。この日は、風もなく海は穏やかで、大人たちは漁と畑仕事に出かけ、代わりに集落では春休み最中の元気に遊ぶ子供たちの姿が見られた。
ドラム缶のような形状の赤黒い機雷は、岸から300メートルほどの位置に浮遊しているところを午後4時頃に出港した漁師に目撃されていたが、機雷とは認識されぬまま、しばらく漂流を続けた。波打ち際から7メートルのところにある「二つ岩」と呼ばれる岩場に迫ったところで、物体に付属する取っ手や突起物などから機雷ではないかと恐れた住民が、西頸城地区署(現糸魚川警察署)名立駐在所の巡査に通報した。駆けつけた巡査は、元海軍軍人であった自らの知識から、突起に触れると起爆する触角機雷であると判断。町の東側境界にあたる鳥ケ首岬まで運び出すことを考え、同行してきた消防団長[2]に消防団の救援を要請、近くにいた女性に機雷を船に引かせるための縄の手配を依頼した。巡査は、岩場の間際で波にかすかに動くだけとなった機雷に近づくため[3]、ズボンの裾をまくり海中に歩みだしたが[4]、そのとき機雷が大岩に接触。次の瞬間、爆発した。
この爆発により、巡査や見物人ら63人が死亡した。不幸にも、騒ぎを聞きつけた子供たちが巡査の到着とともに集まりだし、避難誘導をするための時間も人手もないまま爆発を迎えたことが人的被害を増やした。死者のうち59人が未成年者だった。損壊家屋は103棟で、うち44棟が大破した(家屋300戸が全半壊、破損家屋73戸と記述する文献あり[5])。被害は広範囲に及び、機雷の破片は300メートル離れた宗龍寺わきの畑にまで飛んだものが確認されている[6]。
原因機雷の来歴
機雷が爆発により消失したことや、警戒に当たった巡査が殉職したこともあり、事故の原因となった機雷の素性は特定できなかった。
太平洋戦争末期、新潟を含む日本各地には、アメリカ軍の「飢餓作戦」と呼ばれる機雷封鎖によりドラム缶型のMk25/36機雷多数が空中投下されており、アメリカ軍の機雷と推定する見方が多い。他方、日本海軍が防御用に敷設したまま掃海不能となっていた大深度係維式機雷が、老朽化のため係留ケーブルが切断して浮上流出するようになっており、本件の機雷もその一つとする見方がある[11]。さらに、1949年には、ソビエト連邦製の係維式機雷が同様に浮遊することが増え、旧日本海軍のものよりも多くなりつつあった[11]。
作業用の縄を取りに行って難を逃れた女性が後日残した回想文には『色は赤黒く、形はドラム缶に似て、両端には「持つところ」がつき、中ほどには、時計のメーターのようなものが突き出ていて、メーターの針がゆれているのが見られた』とある。漂着の少し前に洋上で目撃した漁師の証言では『直径1メートルくらいの硫酸がめのような卵形。4箇所に持つところがあり黒光りしていた』という。
チャットgpt先生の3月30日のエッセイ
3月30日という日は、歴史の中で「判断の重さ」と「予想できなかった未来」が交差する、不思議な節目のように見える。
1492年、フェルナンド2世とイサベル1世が下したユダヤ人追放の決定は、一つの国家が「何を受け入れ、何を排除するのか」を明確に線引きした出来事だった。その線は政治的には整理だったのかもしれないが、人の暮らしという視点では、無数の断絶と流浪を生み出した。国家の意思決定はしばしば合理の顔をしているが、その背後でこぼれ落ちる人生は、後からでしか見えない。
一方、1867年のアラスカ購入は、まったく逆の意味で「評価が反転した決断」だった。ウィリアム・スワードがロシアから広大な土地を買ったとき、人々はそれを「愚行」と笑った。しかし後に金や石油が見つかり、その土地は戦略的にも経済的にも重要な拠点へと変わる。未来は、現在の常識をあざ笑うように展開する。だからこそ、判断の価値は、その瞬間には決めきれない。
そして1941年、ハインケル He280が初飛行した。技術の世界では「早すぎた革新」がしばしばある。この機体は画期的でありながら、エンジンの未熟さと時代の要請に阻まれ、主役にはなれなかった。歴史に名を残すのは、優れているものだけではない。「間に合ったもの」でもあるのだと、静かに教えてくる。
さらに1949年の名立の海岸では、戦争の終わりから取り残された機雷が爆発し、多くの命が失われた。戦争は終わったはずだった。しかし、その影は海の中に、記憶の外に、なお残っていた。過去は、宣言一つで終わるものではない。時間をかけてしか消えていかない現実がある。
こうして並べてみると、3月30日は「決断」と「余波」の日だと思えてくる。ある決断は人を追いやり、ある決断は未来を開き、ある挑戦は時代に早すぎ、そしてある出来事は過去の残響として突然現れる。
私たちも日々、小さな決断を積み重ねている。その多くは、すぐには評価されないし、正解かどうかも分からない。けれど歴史が示すのは、どんな決断もやがて時間の中で意味を持ち始めるということだ。
だからこの日を前にすると、こう思う。
今の選択がどう見えるかよりも、その先にどんな影響を残すのかに、少しだけ想像力を向けてみたい。未来は予測できないが、無関係ではいられないのだから。

