3月29日
20260329日曜日旧暦2月11日赤口(39番壬寅みずのえとらジンイン)月齢 10
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3月29日の出来事
1973年 – ベトナム戦争: アメリカ軍の最後の兵士が南ベトナムから撤退[3]。年月日:1955年11月1日[注 1][注 2] - 1975年4月30日[1] 結果:北ベトナム側の勝利。パリ和平協定によりアメリカ軍等が撤退、その後の戦闘で南ベトナムは無条件降伏し政権崩壊[1]。
損害 北ベトナム軍 延べ1800000人中 976000人戦死 南ベトナム米軍 南越軍1100000人+米軍2,600,000人中 225,000人戦死。
1981年 – 今市4人殺傷事件発生。
1982年 – メキシコ南部の火山エルチチョンが大噴火。死者150人以上。
1989年 – 女子高生コンクリート詰め殺人事件が発覚。
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1973年 – ベトナム戦争: アメリカ軍の最後の兵士が南ベトナムから撤退[3]。年月日:1955年11月1日[注 1][注 2] - 1975年4月30日[1] 結果:北ベトナム側の勝利。パリ和平協定によりアメリカ軍等が撤退、その後の戦闘で南ベトナムは無条件降伏し政権崩壊[1]。
ベトナム戦争(べとなむせんそう、ベトナム語:Chiến tranh Việt Nam / 戰爭越南、英語: Vietnam War)は、当時南北に分断されていたベトナムで社会主義陣営の北ベトナム(ベトナム民主共和国)と資本主義陣営の南ベトナム(ベトナム共和国)との間で勃発した戦争であり、冷戦中に起こったアメリカ合衆国とソビエト連邦の代理戦争とされる。経済力・物量の差から「象と蟻」の戦いと揶揄された。
建国当初よりベトナム南北両国は対立関係にあり、南ベトナム国内では北ベトナムに支援された反政府組織である南ベトナム解放民族戦線(解放戦線)が活動して軍や警察などと衝突していた。南ベトナムの同盟国であるアメリカ合衆国(アメリカ)は軍事顧問を送り込むなどして以前より南ベトナムを援助していたが、1964年8月のトンキン湾事件を契機として全面的な軍事介入を開始した。しかしアメリカ軍は北ベトナム軍や解放戦線側によるゲリラ戦を相手に苦戦し、最終的に和平協定を結んでこの戦争から撤退することとなった。戦争はその後、1975年4月30日に北ベトナム軍が南ベトナムの首都サイゴン(現在のホーチミン市)を陥落させるまで継続した。
また、この戦争に参戦したのは南北ベトナムや解放戦線、アメリカだけでない。それはそれぞれに味方し支援する同盟国であり、それらの国々は戦争初期から同盟国軍として参戦している。具体的には北ベトナムに味方したのは同じ東側諸国に属する社会主義国であり、軍事顧問を派遣したソビエト連邦(ソ連)や防空作戦部隊や工兵部隊を派遣した中華人民共和国(中国)、空軍のパイロットを派遣した朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)などである[6]。また、南ベトナムに味方したのは同じく西側諸国に属する資本主義国であり、28,000人から45,000人の国軍部隊や50,000の役務要員を派遣した大韓民国(韓国)や3,000人の部隊を派遣したオーストラリア、それぞれ2,000人の部隊を派遣したタイ王国やフィリピン、戦車部隊や医師など200人を派遣したニュージーランドなどであり、間接的な協力では心理戦や農業部門で関与した中華民国(台湾)や医療関係で協力した日本なども挙げられる[7]。そして両陣営の兵士や戦士、民間人ゲリラなどが泥沼の戦いを行ったため多くの人々が犠牲となる大変悲惨な結果となった。その後1973年にパリ和平協定が締結されアメリカ軍などは撤退。その後も戦闘は続き、結果的に北ベトナム側の勝利に終わり南ベトナムはサイゴン陥落によって無条件降伏し政権は崩壊した。なお、この戦争ではベトナムだけでなく、周辺諸国であるラオスやカンボジアにも戦火は拡大しており、それぞれラオスではラオス王国とパテート・ラーオが戦い、カンボジアではクメール共和国とカンボジア王国・クメール・ルージュの連合軍が戦い、こちらでも社会主義国側の勝利に終わっているが、やはり多くの人々が被害を受けている。これらはそれぞれラオス内戦、カンボジア内戦と呼ばれており、結局インドシナ半島の3カ国は全て社会主義の国となった[8]。
損害 北ベトナム軍 延べ1800000人中 976000人戦死 南ベトナム米軍 南越軍1100000人+米軍2,600,000人中 225,000人戦死。
1981年 – 今市4人殺傷事件発生。
今市4人殺傷事件(いまいちよにんさっしょうじけん)は、1981年(昭和56年)3月29日に栃木県今市市大室(現・日光市大室)で発生した強盗殺人事件[1][6]。
犯人の藤波 芳夫(ふじなみ よしお)が、逃げ出した前妻の居場所を教えなかった前妻の親族を襲撃し、2人を殺害、2人を負傷させた。
藤波は1993年(平成5年)に最高裁で死刑判決が確定し[7]、2006年(平成18年)12月25日に東京拘置所で死刑を執行された(75歳没)[8]。
1982年 – メキシコ南部の火山エルチチョンが大噴火。死者150人以上。
1989年 – 女子高生コンクリート詰め殺人事件が発覚。
女子高生コンクリート詰め殺人事件(じょしこうせいコンクリートづめさつじんじけん)は、1988年(昭和63年)11月から1989年(昭和64年)1月の間に発生した猥褻略取誘拐・監禁・強姦・暴行・殺人・死体遺棄事件の通称である。
1988年11月25日夕方に埼玉県三郷市戸ケ崎を自転車で走行していた被害者女子高生(事件当時17歳)が突然、不良少年グループに拉致され、約40日間にわたってグループのたまり場だった東京都足立区綾瀬の加害者宅に監禁されて暴行・強姦を受け続けた。
1989年(昭和64年)1月4日に被害者の女子高生は加害者グループから集団リンチを受けて死亡し、その遺体はコンクリート詰めにされて東京都江東区内の東京湾埋立地に遺棄された[判決 1]。
1989年(平成元年)3月以降、別の強姦事件で逮捕された加害者少年らが事件を自供したためにその事件の全容が判明した[3][4]。
刑事裁判における事件番号は第一審・東京地方裁判所では平成1年(合わ)第72号[判決 1]、控訴審・東京高等裁判所では平成2年(う)第1058号である[判決 2]。
本事件は非常に残忍・凶悪な少年犯罪として日本社会に大きな衝撃を与え、加害者少年宅に被害者少女が長期間監禁されていたにも拘らず、その加害者の両親も含めて少女の命を救えなかった点に激しい非難・疑問の声が上がった[5]。また、昭和最後の凶悪犯罪(発覚した年月は1989〈平成元〉年3月)である。
チャットgpt先生の3月29日のエッセイ
3月29日という日は、歴史の中で人間の光と影の両方を強く映し出している。
この日を語るとき、まず思い浮かぶのはベトナム戦争の一場面、1973年のアメリカ軍撤退だろう。長く続いた戦争は、この時点で一つの区切りを迎えた。しかし、それは終わりではなかった。戦闘はなお続き、やがて1975年のサイゴン陥落へとつながっていく。ここにあるのは、「撤退=終結ではない」という現実だ。戦争は政治の判断で始まり、終わるように見えて、その実、現場に残る人々の時間はずっと続いていく。
この戦争が象徴するのは、巨大な力同士のぶつかり合いだけではない。むしろ、圧倒的な力の差の中で、それでも抗い続けた人間の姿だ。「象と蟻」と揶揄された構図は、単なる軍事の話ではなく、人間の意志の話でもある。そしてその裏側には、数えきれない犠牲が積み重なっている。数字として語られる死者の数は、ひとりひとりの人生の重みを決して伝えきれない。
一方で、日本国内に目を向けると、3月29日は重い犯罪の記憶とも結びついている。今市4人殺傷事件や、後に発覚した女子高生コンクリート詰め殺人事件は、人間の残酷さがどこまで行き得るのかを突きつける出来事だった。
これらの事件に共通するのは、「日常のすぐ隣で起きた」という点だ。戦争のように遠くの出来事ではなく、同じ社会の中で、同じ時代に生きる人間が引き起こした悲劇である。その事実は、私たちに不安と同時に問いを投げかける。人はなぜここまで残酷になれるのか。そして、それを防ぐことはできなかったのか。
しかし、この日を単なる「悲劇の日」として終わらせることは簡単だが、それでは不十分だと思う。むしろ重要なのは、こうした出来事をどう記憶し、どう受け止めるかだ。
戦争も犯罪も、突然どこかから降ってくるものではない。小さな歪みや無関心、対立や孤立が積み重なった先に現れる。だからこそ、過去を知ることは未来への備えになる。遠い国の戦争も、身近な社会の事件も、どちらも「人間が起こした」という点では同じだからだ。
3月29日は、華やかな記念日ではないかもしれない。けれど、人間の歴史の重さと向き合う日として、静かに意味を持っている。忘れないこと、考え続けること。その積み重ねだけが、同じ過ちを少しでも遠ざける力になるのだと思う。

