2月25日
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2月25日の出来事
1836年 – サミュエル・コルトが回転式拳銃の特許を取得する。
1943年 – 第二次世界大戦: 「フェザーストン事件」。ニュージーランド北島のフェザーストン捕虜収容所で、刑務作業をストライキした日本人捕虜に看守が発砲し、暴動が起こる。日本人捕虜48名と看守1名が死亡し、63名が負傷した[5]。
1947年 – 八高線列車脱線転覆事故発生。過速度により半径250mの曲線を曲がりきれずに後部4両が脱線し、築堤上から5.6m下の畑に転落。客車の木造車体が大破し、184名が死亡し495名が負傷
1964年 – カシアス・クレイ(後のモハメド・アリ)が世界ヘビー級王者ソニー・リストンを7回TKOで倒し新王者になる。
1968年 – ベトナム戦争: ハミの虐殺。韓国海兵隊がハミ村135人以上を虐殺した。
1994年 – ヘブロンでマクペラの洞窟虐殺事件が起こる。イスラエルの過激派医師パールーフ・ゴールドシュテインがパレスチナ人29人を殺し125人を負傷させた。本人はその場で射殺された。
2009年 – トルコ航空1951便墜落事故が起こる。死亡9人生存120人。
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1836年 – サミュエル・コルトが回転式拳銃の特許を取得する。
サミュエル・コルト(英: Samuel Colt、1814年7月19日 – 1862年1月10日)は、アメリカ合衆国の発明家および工場経営者である。コルト特許武器製造会社(現在はコルト製造会社)を創設し、リボルバー拳銃を普及させたことで広く知られている。コルトの発明による産業への貢献は、武器歴史家のジェイムズ・E・サーヴンによって、「アメリカの武器の運命を作り上げた」と表現された[1]。
1943年 – 第二次世界大戦: 「フェザーストン事件」。ニュージーランド北島のフェザーストン捕虜収容所で、刑務作業をストライキした日本人捕虜に看守が発砲し、暴動が起こる。日本人捕虜48名と看守1名が死亡し、63名が負傷した[5]。
フェザーストン事件(フェザーストンじけん、Featherston Incident)は、第二次世界大戦中の1943年(昭和18年)2月25日にニュージーランド北島南部の南ワイララパ地方(英語版)に置かれていた フェザーストン捕虜収容所(英語版)(Featherston prisoner of war camp) で発生した日本人捕虜殺傷事件である。
同捕虜収容所は第一次世界大戦中の1916年、ニュージーランドで最大の陸軍基地として設立され[1]、1942年9月にアメリカ合衆国からの要請でガダルカナル戦の捕虜約800人を収容するために捕虜収容所が設置された[1]。
1942年(昭和17年)11月中旬の時点で、フェザーストン捕虜収容所には不時着した航空機搭乗員の生存者、フロリダ諸島の戦いや一木支隊の生存者など陸海両軍合わせて300名あまりの捕虜が収容されていたが、300名のうち戦闘員は30名ほどで他は非戦闘員の軍属である海軍設営隊員であった[2]。 捕虜の中には偽名を使うものも多く、赤穂四十七士の名をかたる一団もいた[3]。 中立国のスイス領事と国際赤十字の代表が12月中句にフェザーストン収容所を視察しており、捕虜の待遇は良好と日本側に通告している。同報告書には「捕虜には自国への通信は認められているが、捕虜たちはそれを拒絶している」とあった[4]。
事件の経過
翌2月25日朝、安達少尉を先頭に280名の捕虜全員が広場に集まって座り込んだ。この座り込みの際に、安達少尉は「いかなる場合も軽挙妄動することなく、一糸乱れぬ行動をとれ[8]」と厳命している。
この状況を見たニュージーランド軍は、中尉を指揮官とした完全武装の50名を派遣した。指揮官はただちに50名の作業員を出すよう要求した[11]が、安達少尉は断乎として拒否したため、ニュージーランド軍の指揮官は安達少尉の連行を命じた。しかし、「古鷹グループ」のメンバーが体を張って阻止したため、ニュージーランド兵は安達少尉の連行を諦めざるをえなかった[11]。
安達少尉の連行に失敗したニュージーランド兵たちは、捕虜たちの前方で横一列となり、銃を構えつつ捕虜たちに向かってきた[11]。この時、ニュージーランド軍指揮官が威嚇のためにピストルを取り出し、それに対して安達少尉は自分の胸を叩きながら「撃つなら、おれを撃て[11]」と叫んだ。その直後、捕虜たちは持っていた石をニュージーランド兵に向かって投げると同時に素手で突進を始め[11]、ニュージーランド兵も捕虜たちに対して小銃や軽機関銃で応戦した。
その結果48人の捕虜が死亡(31人が即死)[12]、68人[13]が負傷した。負傷者の中には安達少尉も含まれていて、頭、左腕、脇腹、腕の4ヶ所を撃たれ、一時意識不明の重体に陥った[13]。
ニュージーランド側ではウォルター・ペルビン二等兵が跳弾により死亡したほか[12]、18人[13]が負傷した。
1986年(昭和61年)には安達少尉をはじめ、元捕虜の有志がフェザーストン捕虜収容所跡を訪れている[13]。この事件について、安達少尉は後に
「ニュージーランドの人たちはいい人たちだった。あそこには機関銃が二挺もあって、本当なら全員死んだだろう。彼らはただ恐ろしくて撃ったもので、殺そうという気はなかったんだな」
— 土井全二郎 (2009)『ガダルカナルを生き抜いた兵士たち–日本軍が初めて知った対米戦の最前線』 p.229[13]
と述懐し、新屋中尉は
「この事件はまた、各人に捕虜の限界を痛いほど悟らせた。(中略)しかし同時にまた、このことをとおして、いままで一人一人がめいめい好き勝手な行動を無統一にしてきた日本人同士に、一つの結束する力と自覚を与えたことはまだしもましなことであった」
— 土井全二郎 (2009)『ガダルカナルを生き抜いた兵士たち–日本軍が初めて知った対米戦の最前線』 p.229[13]
1947年 – 八高線列車脱線転覆事故発生。過速度により半径250mの曲線を曲がりきれずに後部4両が脱線し、築堤上から5.6m下の畑に転落。客車の木造車体が大破し、184名が死亡し495名が負傷
1964年 – カシアス・クレイ(後のモハメド・アリ)が世界ヘビー級王者ソニー・リストンを7回TKOで倒し新王者になる。
1968年 – ベトナム戦争: ハミの虐殺。韓国海兵隊がハミ村135人以上を虐殺した。
ハミの虐殺(ハミのぎゃくさつ、Ha My massacre)は、ベトナム戦争中の1968年2月25日に南ベトナムクアンナム省ハミ村(現在のディエンバン市社)で大韓民国海兵隊によって非武装の民間人135人が虐殺された事件である。
1994年 – ヘブロンでマクペラの洞窟虐殺事件が起こる。イスラエルの過激派医師パールーフ・ゴールドシュテインがパレスチナ人29人を殺し125人を負傷させた。本人はその場で射殺された。
虐殺
マクペラの洞窟に併設されている建造物は、壁により2つの区画に分けられており、1つはユダヤ教徒が、もう1つはムスリムが礼拝に使用する場となっている。ユダヤ教徒用の区画は、ユダヤ教の割礼の儀式であるブリット・ミラー(英語版)の会場である「アブラハムのホール」や、「ヤコブのホール」、イェシーバー (ユダヤ教学院) などからなっており、毎日多くのユダヤ教の宗教行事が執り行われていた。一方、ムスリム用の区画は、ユダヤ教徒の区画よりはるかに広く、「イサクのホール」と呼ばれている。ユダヤ教徒、ムスリムの双方に、1年の内10日間ずつが、洞窟の施設を占有して使用する期間として割り振られている。
2月25日5時、800名ものムスリムのパレスチナ人が、1日5回の礼拝の最初の祈り (Fajr) を捧げるため、建物の東の門から入場した[2]。陸軍の制服を着用、IMI ガリル(イスラエル製アサルトライフル)と35発入りの弾倉4個を携行したゴールドシュテインは、ムスリムの集まっている「イサクのホール」に侵入した。ゴールドシュテインは警備を行っていたイスラエル軍の兵士に呼び止められずに侵入できた。これはゴールドシュテインが、「イサクのホール」の隣のユダヤ教徒の区画で礼拝をしに来た兵士と思われたためである。
ゴールドシュテインは洞窟からの唯一の出入口の前、礼拝を行うムスリム達の背後に位置しライフルを乱射、29名を殺害し、125名を負傷させた。ゴールドシュテインは、その場に生き残っていた者達に取り押さえられ、消火器や支えの鉄柱などで暴行を加えられて死亡した[3][4][5][6]。
事件後の報道内容には多くの混乱が見られた。特に、襲撃はゴールドシュテイン単独の犯行か、他に共犯者がいたのかについては誤った情報が流れた。例えば、目撃者の証言として、「軍の制服を来たもう1人の男がゴールドシュテインに弾薬を手渡した」という話が報じられたこともある[7]。また、ゴールドシュテインがムスリム達に手榴弾を投げつけたと報じられたこともあった。パレスチナ人の指導者ヤーセル・アラファートは、襲撃はイスラエルの予備役兵の部隊を含む12名により実行されたと主張した。しかし、イスラエル軍や後に設置された調査委員会による調査により、洞窟の警備に当っていたイスラエル軍が彼を援護したり、故意に犯行を黙認したことはなく、ゴールドシュテインは単独で襲撃を実行したこと、また、手榴弾は使用されなかったことが明らかになった。しかしながら、複数犯行説を主張した被害者たちは、別々の病院で手当てを受けており、口裏合わせは不可能という報道もあった[8]。
事件に対する反応
イスラエル
イスラエルの政府、主だった政党、そして多数の市民は、ゴールドシュテインの犯行を直ちに非難した。さらにユダヤ教各派の団体のスポークスマン達は、この犯行を不道徳なテロ行為であると非難した。ゴールドシュテインの所属していたカハネ主義政党の「カハ (Kach)」はテロ組織として非合法化された。極右活動家達の中には武器を没収され、当局に身柄を拘束された者もいた。
イスラエルの議会「クネセト」では、イツハク・ラビン首相が、アメリカ出身のゴールドシュテインを「外国から移植された」「正道から外れた雑草」と呼んで非難した。またラビン首相は「この恐るべき男や彼のような者達にこう言いたい。あなた達はシオニズム運動の恥であり、ユダヤ教に対する邪魔者だ」とも述べた。また、右派政党リクードの党首、ベンヤミン・ネタニヤフは、「これは卑劣な犯罪だ。明確な非難を表明する」とする声明を公表した[9]。
一方、ゴールドシュテインの犯行を支持する主張も見られた。エルサレムのある高校では、過半数の生徒が犯行を支持した。また教育省では、全国の教師を集めて会議を開き、席上でゴールドマン教育副大臣が虐殺を批判した。すると、犯行を支持する教師たちによってゴールドマンは石を投げられ、会場から逃げ出したという[10]。
2009年 – トルコ航空1951便墜落事故が起こる。死亡9人生存120人。
チャットgpt先生の2月25日のエッセイ
2月25日という日――発明と暴発、栄光と悲劇のあわい
2月25日は、人間の「力」がくっきりと浮かび上がる日である。
それは創り出す力であり、競い勝つ力であり、ときに破壊してしまう力でもある。
1836年のこの日、アメリカの発明家 サミュエル・コルト が回転式拳銃の特許を取得した。彼の発明は大量生産と結びつき、近代兵器の象徴ともいえるリボルバーを世界に広めた。技術革新は産業を発展させ、「アメリカの武器の運命を作り上げた」と評されるほどの影響を与えた。
しかし、技術は常に中立ではいられない。便利さや効率の向上は、ときに破壊の効率も高めてしまう。
1943年、ニュージーランドの捕虜収容所で起きた フェザーストン事件。
緊張と誤解、そして恐怖が連鎖し、銃声が響いた。元捕虜が後年「彼らは恐ろしくて撃ったのだ」と述懐したように、そこには単純な善悪では割り切れない、人間の弱さがあった。戦争とは、極限状態に置かれた人間の判断が、取り返しのつかない結果を生む場であることを思い知らされる。
1947年の 八高線列車脱線転覆事故 もまた、人為的な過ちが多くの命を奪った悲劇だった。速度、判断、責任。文明の利器は、人間の慎重さと倫理に支えられてこそ安全に機能する。
1964年には、若き日の モハメド・アリ(当時カシアス・クレイ)が王者を倒し、世界ヘビー級の頂点に立った。
同じ「力」でも、こちらは暴力ではなく、鍛錬と信念の結晶である。アリは単なるチャンピオンではなく、信条を貫き社会に問いを投げかけた存在だった。拳は破壊の象徴にもなり得るが、同時に誇りや尊厳を示す手段にもなり得る。
一方、1968年の ハミの虐殺、1994年の マクペラの洞窟虐殺事件 は、憎しみがいかにして無辜の命を奪うかを示す出来事だった。信仰や民族、正義の名のもとに振るわれる力は、しばしば最も残酷な形をとる。報復は報復を呼び、悲しみは世代を超えて残る。
そして2009年の トルコ航空1951便墜落事故。
高度に発達した航空技術をもってしても、事故は起こる。空を飛ぶという人類の夢もまた、完全ではない現実の上に成り立っている。
2月25日を振り返ると、そこには一貫したテーマがある。
それは「人間の力の使い方」である。
創造する力。
競い合う力。
守るための力。
そして壊してしまう力。
同じ手が、発明もすれば、引き金も引く。
同じ腕が、栄光を掲げもすれば、暴力を振るいもする。
歴史は特別な誰かのものではなく、日々を生きる私たちの延長線上にある。
だからこそ2月25日は問いかける――
その力を、あなたはどちらに使うのか、と。
過去の出来事を悼みつつ、未来に向けて選び直す。
それが、この日の静かな意味なのかもしれない。

