kagamimochi-nikki 加賀美茂知日記
慶祝と美とグノ-シスの弥増す日々
日々の過去の出来事

今日という日2月24日 1933松岡洋右全権国際連盟脱退、ほか写真wikipedia柳条湖周辺調査のリットン調査団

2月24日

20260224火曜日旧暦1月8日友引(己巳つちのとみキシ)月齢 6.6

丙午ひのえうま年 庚寅かのえとら月 己巳つちのとみ年 年末まであと310日

吉方位 陽遁日 己巳つちのとみ日 南 大吉

https://ja.wikipedia.org/wiki/2%E6%9C%8824%E6%97%A5

2月24日の出来事
1873年 – 明治政府がキリシタン禁制の高札を取り除き、キリスト教に対する禁教政策に終止符が打たれる[3]。
1933年 – 国際連盟総会で「満州を国際管理下に置くこと」を提案するリットン調査団の報告書を採択。日本全権大使・松岡洋右は連盟脱退を宣言し退場[8]。

1968年 – ベトナム戦争: テト攻勢が終了。

戦争:ベトナム戦争[1]

年月日:1968年1月30日 - 同年2月12日[1]

場所:南ベトナム全土、主要都市[1]。

結果:南ベトナム側が防衛に成功するも、大打撃を受ける[1]。

損害:北ベトナム軍 32,000人戦死 5,800人捕虜  掃討作戦含む 37,000人戦死

フエ 市内5,000人戦死 郊外3,000人戦死[2] 合計77000人余り死亡

南ベトナム軍 南越軍等2,082人戦死 米軍1,001人戦死 フエ 南越軍384人戦死

米軍142人戦死[2] 合計3000人強死亡 

双方合計 8万人以上死亡
1989年 – 昭和天皇の大喪の礼。約9,800人が参列し、20万人が葬列を見送る[12]。
1989年 – ユナイテッド航空811便貨物ドア脱落事故。9名が機外に放り出され死亡。
2022年 – ロシア連邦大統領のウラジーミル・プーチンがウクライナでの軍事作戦の実施を表明。ロシアによるウクライナへの侵攻が開始された[16]。開戦以来 現時20250224までで戦死者数概数は ロシア軍10万人強 ウクライナ軍4万人強である。

—————————————–

1873年 – 明治政府がキリシタン禁制の高札を取り除き、キリスト教に対する禁教政策に終止符が打たれる[3]。
1933年 – 国際連盟総会で「満州を国際管理下に置くこと」を提案するリットン調査団の報告書を採択。日本全権大使・松岡洋右は連盟脱退を宣言し退場[8]。

松岡洋右
生年月日 1880年3月4日 出生地 日本の旗 日本 山口県熊毛郡室積村(現・山口県光市)
没年月日 1946年6月27日(66歳没) 死没地 日本の旗 日本 東京都文京区
出身校 明治法律学校(現・明治大学) オレゴン大学 前職 外務省官僚
南満洲鉄道理事・総裁
洋右が11歳の時に父親が事業に失敗してしまい破産したことや、親戚が既に渡米して成功を収めていたことなどから、1893年(明治26年)に留学のため13才で渡米する。渡米後は周囲の人々が多く信仰していたキリスト教の影響を受け、自らも入信に至る。特に来日経験のあるオレゴン州ポートランドのアメリカ・メソジスト監督教会牧師メリマン・ハリス(Merriman Colbert Harris)のあたたかい信仰に見守られつつ、日本自由メソヂスト教会の指導者となる河辺貞吉から大きな影響を受け、洗礼(記録では1893年とある)を受けた。彼は河辺を信仰の父、実父に代わる第二の父とし、終生交わりを大切にした。後年に至っても米国ではメソジスト派の信者と述べ、「キリストの十字架と復活を信じている」と公言していた。アメリカでの生活は苦しく、最初の寄宿先に到着した早々薪割りを命じられるなど、使用人としてのノルマをこなしながら学校へ通わなくてはならなかった。また、たびたび人種差別の被害にあった。この頃の体験が「アメリカ人には、たとえ脅されたとしても、自分が正しい場合は道を譲ってはならない。対等の立場を欲するものは、対等の立場で臨まなければならない。力に力で対抗する事によってはじめて真の親友となれる。」を信条とする彼の対米意識を育んでいった。
*エピソード
饒舌さと議論
松岡は大変な話し好きであり、朝から晩まで喋っていたという細川護貞の回想がある。細川が近衛首相の使いで書類を持って松岡のところへ伺っても、その書類を出す機会がないほど喋り続けていて、仕方なしにまた書類を持って帰ったということもあったという。また、ドイツに行くシベリア鉄道の汽車の中でも、朝起きると話し始め、寝るまで話していたということである。話が途中でも、時間がくれば一時間なら一時間で話し相手となる随員が代わるようにしたが、相手が代わってもかまわずに、同じ話を続けていたという[57]。

松岡の満鉄総裁時代に、関東軍参謀副長だった今村均は、満鉄の関係者から「うちの総裁の長談義は、あれは一種の病気です」と聞いて、松岡と会う時は仕事がストップしてしまうことを嘆いている。その今村は、あまりの話の長さに居眠りしてしまい、「今村君!それを君はどう思う」と問いかけられて、やっと目を覚ました。そのとき時計は松岡が話を始めてから2時間を経過していた。[58]

姪の佐藤寛子は、幼少時に子供ながらに松岡から天下国家の話を聞かされ、寛子が居眠りしていても松岡は構わず話し続けたという[59]。松岡の饒舌は、アメリカ留学時から愛好していたコカイン中毒による覚醒症状によるものとする説もある。
松岡自身は「僕は誰にも議論で負けたことがない。また誰の前でも気後れなどしたことがない」と語っており、例外は山本条太郎と山縣有朋ぐらいであったと述べている[60]。同じような饒舌さで知られるヒトラーの通訳であったパウル=オットー・シュミット(ドイツ語版)は、「ヒトラーに数多くの訪問者があったが、ヒトラーに臆することなく真っ向から対談できたのはソ連外相モロトフと「東洋の使者マツオカ」の2人だけであった」と述べている。また日米交渉で対談したジョセフ・グルー大使は、国務省への報告電報において、対談で語っていたのは「90%松岡、10%が自分」であったと報告している[61]。

また、松岡は自らの議論に酔ってそれに引きずられる傾向があり、他人の発想を自分のものであると主張することも彼の悪癖であった。ヒトラーとの会談でシンガポール攻撃を勧められると、むしろ攻撃は自分が考えていたことであると言いだし、ドイツ側に不要な言質を与えてしまった[62]。

1968年 – ベトナム戦争: テト攻勢が終了。

戦争:ベトナム戦争[1]

年月日:1968年1月30日 - 同年2月12日[1]

場所:南ベトナム全土、主要都市[1]。

結果:南ベトナム側が防衛に成功するも、大打撃を受ける[1]。

損害:北ベトナム軍 32,000人戦死 5,800人捕虜  掃討作戦含む 37,000人戦死

フエ 市内5,000人戦死 郊外3,000人戦死[2] 合計77000人余り死亡

南ベトナム軍 南越軍等2,082人戦死 米軍1,001人戦死 フエ 南越軍384人戦死

米軍142人戦死[2] 合計3000人強死亡 

双方合計 8万人以上死亡

テト攻勢(テトこうせい、ベトナム語: Sự kiện Tết Mậu Thân、英語: Tet Offensive)は、ベトナム戦争中の1968年1月にベトナム民主共和国(北ベトナム)と南ベトナム解放民族戦線(解放戦線)によって行われたベトナム共和国(南ベトナム)やアメリカ合衆国(アメリカ)等に対する奇襲攻撃である。テトとはベトナムの旧正月の事で、戦争中には祝日には短期間停戦する事となっており、同年もテトの期間中は停戦が行われていたが、その最中の1月30日未明にこの攻勢がかけられた。なお停戦期間中であったため南北双方で休戦協定違反であると非難合戦が行われたが、南ベトナム側は一部地域で停戦を取り消していたため、どちらが先に協定を破ったかの決着はつけがたかった[1]。

この戦いでベトナム人民軍(北ベトナム軍)と解放戦線は南ベトナム全土で攻勢を開始し、同国の主要都市を一斉攻撃すると共にケサンのアメリカ軍基地を攻撃し、都市攻撃と基地攻撃の複合戦で南ベトナムやアメリカを揺さぶった。この攻撃で同年2月12日までに全省都44の内34省都が攻撃を受けた。そして首都サイゴンのアメリカ大使館は解放戦線のゲリラによって一時的に占拠され、古都フエ市は一時占領された。その時解放戦線は都市住民が蜂起する事を期待したが、それは叶わなかった。そしてその結果ベトナム共和国軍(南ベトナム軍)やアメリカ軍は一応防衛には成功したものの大打撃を受けた。またこの戦いでは南ベトナム・アメリカ側の犠牲は甚大であったが、もう一方の北ベトナム・解放戦線側の犠牲も甚大であった。だが結果的に索敵撃滅・農村平定というアメリカの戦略は崩壊した。そのためアメリカでは同年3月31日に大統領リンドン・ジョンソンが次期大統領選不出馬を表明するとともに北爆を停止。和平交渉による戦争終結を目指すようになった。そのような意味で、この戦いはベトナム戦争の流れを大きく変える軍事行動であった[1]。

1989年 – 昭和天皇の大喪の礼。約9,800人が参列し、20万人が葬列を見送る[12]。
1989年 – ユナイテッド航空811便貨物ドア脱落事故。9名が機外に放り出され死亡。
2022年 – ロシア連邦大統領のウラジーミル・プーチンがウクライナでの軍事作戦の実施を表明。ロシアによるウクライナへの侵攻が開始された[16]。開戦以来 現時20250224までで
戦死者数概数は ロシア軍10万人強 ウクライナ軍4万人強である。

チャットgpt先生の2月24日のエッセイ

2月24日は、歴史の転換点が幾重にも重なった日である。
信仰、国際秩序、戦争、そして国家の終幕――異なる時代の出来事が、この一日に静かに集約している。

1873年、日本では明治政府がキリシタン禁制の高札を撤去し、長く続いた禁教政策に終止符を打った。江戸期以来の弾圧の歴史がここで一区切りを迎え、日本は近代国家として「信教の自由」という概念へ一歩踏み出したのである。皮肉なことに、その60年後の1933年、国際社会の場で日本は別の岐路に立つ。国際連盟総会でリットン調査団報告書が採択され、日本は満州政策を巡って孤立を深める。全権大使だった松岡洋右は退場し、連盟脱退を宣言した。

松岡は若き日にアメリカへ渡り、キリスト教に入信した人物であった。異文化の中で差別を経験しながらも、「対等であるためには対等に臨む」という信条を育てた。信仰を持ち、国際社会を知る彼が、やがて国際協調から決別する象徴的な演説を行ったという事実は、歴史の逆説を感じさせる。言葉に長け、議論に酔いしれた彼の饒舌さは、時に国家の進路そのものを押し流す力となった。

1968年のこの日、テト攻勢が終結した。ベトナム戦争の流れを大きく変えた奇襲攻撃は、軍事的には南側の防衛成功とされながらも、政治的・心理的には決定的な衝撃を与えた。首都サイゴンや古都フエへの攻撃は、戦争がもはや「遠い戦場の出来事」ではないことを世界に示した。戦死者は双方で8万人以上に及ぶともいわれる。数字は冷たく並ぶが、その一人ひとりに生活があり、家族があり、祈りがあった。

1989年には、昭和天皇の大喪の礼が営まれた。昭和という激動の時代を象徴する存在の葬儀には、国内外から多くの要人が参列し、20万人が葬列を見送った。戦争と復興、高度成長を経た日本が、一つの時代に別れを告げた瞬間である。同じ日にはユナイテッド航空811便貨物ドア脱落事故も発生し、技術文明の脆さを改めて突きつけた。

そして2022年2月24日、ウラジーミル・プーチンが軍事作戦開始を表明し、ロシアによるウクライナ侵攻が始まった。21世紀のヨーロッパで大規模戦争が起きるとは、多くの人が想像していなかった。開戦以来、多数の命が失われ、国際秩序は再び揺らいでいる。1933年の国際連盟脱退と重ねれば、国際協調体制の脆弱さという課題は、形を変えながら今も続いているといえる。

2月24日は、信仰の自由が認められた日であり、国際社会からの離脱が宣言された日であり、大規模攻勢が終わった日であり、一つの時代が葬られた日であり、新たな戦争が始まった日でもある。
自由と孤立、終結と開戦、祈りと破壊――対照的な出来事が同居する。

歴史は直線ではなく、選択の積み重ねで動く。
信仰を守るために耐えた人々も、国益を信じて演壇に立った外交官も、祖国のために銃を取った兵士も、それぞれが「正しい」と信じた道を歩んだ。その結果が、後世から見れば悲劇や教訓となる。

2月24日という日付は、私たちに問いかける。
国家とは何か。力とは何か。信念とは何か。
そして、対立の先にある未来をどう築くのか。

歴史を振り返ることは、過去を裁くことではなく、未来への選択肢を増やすことである。
この日に重なった幾つもの物語は、静かにそう語りかけている。