5月28日
20250528水曜日旧暦5月2日赤口(丁酉ひのととりテイユウ)月齢 0.9
乙巳きのとみ年辛巳かのとみ月丁酉ひのととり日 年末まではあと217日
吉方位 陽遁日 丁酉ひのととり日 東、 南 大吉
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5月28日の出来事
1830年 – アンドリュー・ジャクソン米大統領がインディアン移住法に署名。涙の道として知られる地域で、数千人のアメリカ先住民の強制移住が始まった[1]。8000人死亡。
1961年 – 岩手県新里村の山林から出火。フェーン現象による強風に煽られ田老町、宮古市、岩泉町、普代村、久慈市にいたる40万ha以上に延焼する大規模火災(山火事)となった。死者5人、負傷119人、全焼住宅1235棟[6]。
2007年 – 農林水産大臣の松岡利勝が自殺。現職大臣の自殺は阿南惟幾(陸軍大臣、1945年8月15日死亡)以来で、現憲法下では初。
2019年 – 川崎市登戸通り魔事件が発生する[13]。
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1830年 – アンドリュー・ジャクソン米大統領がインディアン移住法に署名。涙の道として知られる地域で、数千人のアメリカ先住民の強制移住が始まった[1]。8000人死亡。
涙の道(なみだのみち、英:Trail of Tears)は、1838年にアメリカ合衆国のチェロキー族インディアンを、後にオクラホマ州となる地域のインディアン居留地に強制移動(Population transfer)させたときのことをいう。このとき、15,000名いたチェロキー族のうちおよそ4,000人から5,000人が途上で亡くなった[1][2]。
チェロキー族の「涙の道」は、1830年の「インディアン移住法」の規定に基づいて署名されたニュー・エコタ条約(英語版)の実践として起こった。条約は東部のインディアンの土地とミシシッピ川以西の土地との交換を取り決めたものであったが、インディアンの選ばれた指導者達にもチェロキー族の大多数の人々にも受け入れられてはいなかった。それにもかかわらず、条約は時のアメリカ合衆国大統領アンドリュー・ジャクソンによって実行に移され、西部に出発する前に合衆国軍が17,000名のチェロキー族インディアンを宿営地にかり集めた。死者の多くはこの宿営地での病気で倒れた。最初の集合の後は、合衆国軍の役目は限られたものになり、チェロキー族が移動の大半の監督を担当した。
1961年 – 岩手県新里村の山林から出火。フェーン現象による強風に煽られ田老町、宮古市、岩泉町、普代村、久慈市にいたる40万ha以上に延焼する大規模火災(山火事)となった。死者5人、負傷119人、全焼住宅1235棟[6]。
2007年 – 農林水産大臣の松岡利勝が自殺。現職大臣の自殺は阿南惟幾(陸軍大臣、1945年8月15日死亡)以来で、現憲法下では初。
2019年 – 川崎市登戸通り魔事件が発生する[13]。
川崎市登戸通り魔事件(かわさきし のぼりと とおりまじけん)は、2019年(令和元年)5月28日に神奈川県川崎市多摩区登戸新町で発生した通り魔殺傷事件[5][リンク切れ]。結果として被害者のうち2人が死亡し、18人が負傷した[2]。犯行の直後、被疑者は自ら首を刺し、その後死亡した。
川崎通り魔事件[6]とも呼ばれていたが、同市宮前区梶が谷で発生した別の通り魔殺人事件[7]などと区別するために川崎登戸通り魔事件または登戸通り魔事件[8][リンク切れ]と呼ばれている。
経歴・人物像
加害者Xは1967年(昭和42年)12月生まれで、犯行当時51歳。4歳か5歳の時に両親が離婚しており、父親が親権を持つ。以降、祖父母、伯父夫婦、その実子である従姉兄と暮らすことになるが、程なくして実父は蒸発する[61][リンク切れ]。当時からX宅の近所に住む住民によると、Xは幼少期にこの家で差別を受けていたのではないかと証言しており、それを表すものとして、Xが通っていたのは地元の公立小学校であったのに対し、従姉兄が入学したのは本件で犠牲者の出たカリタス小学校であった[61][リンク切れ]。こうした経緯から、一部のマスメディアは犯行の動機には伯父一家での扱いに対する積年の恨みがあったのではないかとの憶測を立てた。一方、別の近隣住民は「分け隔てなく育てていたようだ」との印象を持っている[61][リンク切れ]。
地元の公立中学校卒業後は、横浜市内の職業訓練校の機械科に進学する。2年間学んだ後に同校が紹介した企業に就職するものの、その頃から町田駅そばの雀荘に入り浸るようになり、そのうち同店で従業員として働き始め、近所に部屋を借りて生活するようにもなった[62][リンク切れ]。同店のオーナーだった人物の証言によると、麻雀はかなりの腕前で、自身の金を用いて客と麻雀を打つ“本走”も行い、よく勝っていたという。また仕事に対する責任感も強く、夜中から翌朝10時までの夜番の主任を任されており、営業後はXの部屋に同僚が集まることもあった[62][リンク切れ]。この他、複数の工場で働いたとみられるものの、事件当時に働いていた形跡はなく[63]、少なくとも10年以上前から仕事に就いていなかったとみられる[64]。
平成2年に祖父を、同9年には祖母をそれぞれ亡くす。Xが幼少期に暮らした伯父夫婦の家に戻ったのはその後とみられ、従姉兄は既に自立し家を出ており、ここからXと伯父夫婦との3人暮らしが始まったとされる。少なくとも平成10年前後から引きこもりの状態になっていったとみられ、近隣住民が時折外出する姿を見かけた程度であった[65][リンク切れ]。
直近1年の動き
事件直後に行われた川崎市の記者会見によれば、2017年11月、伯父夫婦は市の精神保健福祉センターに「(自身らが)高齢のため訪問介護を受けたいが、家に引きこもり傾向の、直接の会話がほとんどない状態の親族が同居している。そこに介護スタッフを入れても大丈夫だろうか?」という内容の電話相談をしており、これ以降も、2019年の1月までに電話で6回、面談で8回のやり取りを行ったことを明らかにした。しかし、伯父夫婦が「Xを刺激したくない」との意向を伝えていたため、センター側はその時点でXに直接会う考えはなかったとしている[65][リンク切れ]。
2018年に伯父夫婦宅への訪問介護サービスが開始。彼らは近い将来、介護施設へ移ることを念頭に置いていたため、その候補先の見学も行っていた。2019年1月、伯父夫婦は精神保健福祉センターの提案を受けて、Xの部屋の前に「今後自分はどうしたいのか」という趣旨の意思を問いただす手紙を置いたが、それを読んだとみられるXが伯父夫婦の前に姿を見せ、そこで「食事や洗濯、自分のことは自分でちゃんとやっている。それなのに“引きこもり”とはなんだ!」と強い調子で反論したという。これを受けて、伯父夫婦はセンター担当者に「本人の気持ちを聞くことができたので良かった。しばらく様子をみたい」と報告。センター側もそれ以上の働きかけは行わなかった。事件前に伯父夫婦と顔を合わせたのはこれが最後であった[65][リンク切れ]。
事件の前年の夏、Xは近隣の40代女性と小さなトラブルを起こしている。この女性によると、ある日の早朝、何度もインターフォンが鳴らされたため、夫が応対すると、Xから突然「お宅の庭から木が道路にはみ出していて、それが目に入った」という趣旨のクレームをつけられたことで口論に発展した。また、犯行当日の朝にこの女性はXと出くわしており、ゴミ出しをしている女性に、Xの方から「おはようございます」と挨拶をし、そのまま立ち去っている。女性はXが挨拶をしてきたことは初めてだったので妙に思ったと証言している[66][リンク切れ]。
事件後の捜査・刑事処分など
事件翌日、神奈川県警察はX宅を殺人容疑で捜索した。物は少なく整然としており、置かれていたのはテレビと家庭用ゲーム機、そのゲームソフトである『バイオハザード』や『ドラゴンクエスト』など。この他、20年以上前に刊行された雑誌『週刊マーダー・ケースブック』のシャロン・テート殺人事件やパリ人肉事件などを特集した号が捜索の末に見つかったと報じられた。また、飲食店のポイントカードやレンタルビデオ店などの会員証もなく、病院の診察券も20年前に作られたもので、運転免許も未取得であった[67][リンク切れ]。更には、スマートフォンやパソコンなどの電子通信機器を所持しておらず、自宅及び自室にはインターネットに接続する環境自体が無かったことも判明しており、これが動機の解明をより困難なものとした[64]。
2019年9月2日、捜査本部による捜査の結果、被疑者死亡のまま横浜地方検察庁に対して殺人罪・殺人未遂罪・銃砲刀剣類所持等取締法違反容疑により書類送検した[68][リンク切れ]。これにより捜査は終了することとなった。同年11月8日、横浜地方検察庁は被疑者死亡のまま本件を不起訴とする刑事処分を決定した[4]。
チャットgpt先生の5月28日のエッセイ
5月28日という日——過去が問いかける「いま」と「わたし」
5月28日は、一見すれば何の変哲もない一日かもしれない。しかし、歴史のひだに目を凝らすと、そこにはさまざまな人々の「声なき声」が響いてくる。たとえば1830年のこの日、アメリカ合衆国のアンドリュー・ジャクソン大統領が「インディアン移住法」に署名した。国家の論理のもとに、チェロキー族をはじめとする多くの先住民が故郷を追われ、「涙の道」を歩まされた。寒さと飢え、病に倒れた者は数千人にのぼる。
歴史書には簡潔に「8000人死亡」と記されるが、その一人ひとりに、名があり、家族があり、夢があった。国家や制度という巨大な構造に呑み込まれた人々の、その痛みを、私たちはどれほど想像できるだろうか。
日本に目を転じれば、1961年のこの日、岩手の山林火災が起きた。フェーン現象による強風に煽られ、延焼は40万ヘクタール以上に及び、1235棟が焼け落ちた。山間に暮らす人々の暮らしと日常は、たった一日で灰になった。自然災害という「不可抗力」に、人間の営みはあまりにも脆い。
そして現代——2019年、川崎市登戸で突如として通り魔事件が起こった。2人が亡くなり、18人が傷を負った。加害者自身もその場で命を絶ち、動機は完全には解明されないまま幕を閉じた。背景には、家庭内の孤立、社会との断絶、誰にも気づかれなかった内なる叫びがあったのかもしれない。
思えば、5月28日は「語られざる者たち」の日でもある。法の名のもとに移動を強いられた民、自然の猛威に抗いきれず日常を失った村人たち、そして、声を出せぬまま心を閉ざし、ついには暴力という形でしか外に出せなかった一人の男——それぞれの物語が、今日という日付の陰に存在している。
人はしばしば、「歴史は繰り返す」と言う。だが繰り返してはならない歴史もある。見過ごしてはならない孤独、見逃してはならないSOSもある。今この日を生きる私たちは、5月28日という日から、どんな問いを受け取るべきなのだろう。
年末まであと217日。今日の空を見上げる私にできることは小さい。でも、記憶すること、知ること、無関心を選ばないこと。歴史の影を背負いながら、今日という日を少しだけ丁寧に生きてみようと思う。
5月28日——それは、「人の命の重さ」と「社会のまなざし」を静かに問いかけてくる一日なのだ。