7月8日
20260708水曜日旧暦5月24日仏滅(20番癸未みずのとひつじキビ)月齢 23
43番丙午ひのえうま年 32番乙未きのとひつじ月 20番癸未みずのとひつじ日
吉方位 隠遁日 癸未みずのとひつじ日 南西 大吉 年末まであと176日
https://ja.wikipedia.org/wiki/7%E6%9C%888%E6%97%A5
7月8日の出来事
1099年 – 第1回十字軍・エルサレム攻囲戦: 十字軍がエルサレムの城外を巡る「裸足の行列」を始める。旧約聖書ヨシュア記「エリコ虐殺」由来の儀式的行進。
7月8日にこの儀式を行い、7月15日にエルサレム「聖絶」heremヘレム(異教徒の徹底殲滅)
1247年(宝治元年6月5日) – 宝治合戦。鎌倉幕府執権・北条時頼が幕府評定衆・三浦泰村を討ち三浦氏が滅亡。500人余り自害と。
1709年 – 大北方戦争: ポルタヴァの戦いが行われる。
時 1709年6月27日(新暦7月8日)
場所 東ウクライナ(ウクライナ語版)・ポルタヴァ
結果 ロシアの勝利
損害 スウェーデン軍 25000人中 戦死傷10000人弱 ロシア軍 45000人中 戦死傷 4500人強
1853年(嘉永6年6月3日) – 黒船来航: マシュー・ペリー率いるアメリカ海軍所属の東インド艦隊艦船(黒船)4隻が、江戸湾浦賀湾に来航。
1864年(元治元年6月5日) – 池田屋事件がおこる。即死および捕縛40名以上に及ぶ。
1868年(明治元年5月19日) – 北越戦争: 長岡城が陥落。
死者 新政府軍 死者:1040人[2] 奥羽列藩同盟 死者:1180人[2]
1945年-沖縄戦7月8日・日本軍が建設した飛行場は、今や日本本土への爆撃基地となった。伊江島飛行場、 P-47N (サンダーボルト) が戦闘爆撃任務を行う。(中略)A-26 (インベーダー) が日本本土の爆撃を担う。<引用先原文>・ひめゆりや白梅、そして鉄血勤皇隊など、県内21の中等学校から学徒として動員された10代の若者たち。戦前、首里にあった沖縄師範学校と県立一中の学徒隊はおよそ460人が死亡。
文部省は65年前のきょう東京で表彰式をひらき、その師範学校と一中の学徒たちを「学生の鑑」として表彰しました。当時の太田文部大臣は「国体護持のために全国の学校も二校の如くまい進せよ」と挨拶しましたが、沖縄からその表彰式に出席できた人などもちろんいませんでした。
沖縄戦で学徒隊として命を落とした若者はおよそ1130人。敗戦を目前にしながら、政府はその地獄を本土でも繰り返そうとしていたのです。 <琉球朝日放送 報道制作部 ニュースQプラス » 65年前のきょうは1945年7月8日(日)>・工業高校学徒の戦死者率は95%。戦闘恐怖症になり、生きたまま壕ごと軍に爆破された学生もいた。
爆雷出陣が始まると、学友の中から次々戦死者が出た。恐怖のあまり気が狂った学生も出た。「壕内でわめいたり、銃弾が飛び交う中で、踊ったり。かと思うと壕内のすみでじっと身を伏せていました」と長嶺さん、小川さんは語る。<「学友が爆雷出陣 ~ 次々戦死、発狂者も」沖縄県立工業学校の学徒隊 ~ 戦死者率95%の学徒動員 ~ 琉球新報「戦禍を掘る」 – Battle of Okinawa>・ハワイ移送第3期: 7月7日頃、学徒兵を多く含む沖縄出身の捕虜が屋嘉収容所からハワイに移送された。目的も移送対象の選抜も曖昧であれば、移送もずさんであり、10代半ばで20日間近くも貨物船の船倉に詰め込まれ、奴隷のように移送された学徒も多く (証言 ①)、一方では米兵の帰郷に使用される大型輸送船に乗せられた捕虜もいた (証言 ②)。証言 ① 「裸船」「地獄船」
移送船では捕虜の待遇が船によって違っていた。とりわけ捕虜を裸のまま船倉に押し込めて食事の際に食器も与えず、排泄行為も船倉に置いたまま集団の中で強いた船があった。病気になる者も続出したという状況下で、非人道的な扱いを受けた捕虜たちは、後に他の捕虜たちから「裸組」と呼ばれていた。<秋山かおり「ハワイの戦争捕虜収容所における沖縄文化の継承と創造―歌と芝居の事例から―」pdf>・証言 ② 「客船」
客船に乗せられた捕虜たちは、5段式のベッドがある船室に案内された。入口は見張りの米兵が監視していたものの、1日数分ほど外の空気を吸うため甲板に出ることを許された。「船内での食事は1日2回で、レーション(野戦食)が支給された。朝10時と午後4時であった。レーションは防水加工が充分施され、ブレックファスト、ディナー、サパーと表示されており、中味は多少の差異はあるものの、およそ煙草(3本)、罐詰、コーヒー、砂糖、チーズ等が入っていて縦6センチ、横20センチほどの長方形をしていた。食べ屑は使役を2名出して海中に投棄した。水はいつでも飲むことができた。《「沖縄の慟哭 市民の戦時・戦後体験記 戦後・海外篇」(那覇市企画部市史編集室/沖縄教販) 81頁 》
1962年 – 佐賀県太良町で地すべりが発生。死者56人、重軽傷約300人の被害[6]。
1967年 – 西日本で集中豪雨。死者365人[8]。
1974年 – 愛知県小牧基地を離陸した直後の航空自衛隊F-86 (戦闘機)が住宅地に墜落。乗員1人、住民3人が死亡、2人が重軽傷[8]。
1988年 – 南インドのケーララ州の湖に掛かる鉄橋での急行列車が脱線し湖に転落(en)。死者107名。
2022年 – 元内閣総理大臣の安倍晋三が奈良県奈良市の大和西大寺駅前で選挙演説中に、男に手製の銃で銃撃され死亡した(安倍晋三銃撃事件)[12][13]。
——————–
1099年 – 第1回十字軍・エルサレム攻囲戦: 十字軍がエルサレムの城外を巡る「裸足の行列」を始める。旧約聖書ヨシュア記「エリコ虐殺」由来の儀式的行進。
7月8日にこの儀式を行い、7月15日にエルサレム「聖絶」heremヘレム(異教徒の徹底殲滅)
1247年(宝治元年6月5日) – 宝治合戦。鎌倉幕府執権・北条時頼が幕府評定衆・三浦泰村を討ち三浦氏が滅亡。500人余り自害と。
宝治合戦(ほうじかっせん)は、鎌倉時代中期に起こった鎌倉幕府の内乱。執権北条氏と有力御家人三浦氏の対立から宝治元年(1247年)6月5日に鎌倉で武力衝突が起こり、北条氏と外戚安達氏らによって三浦一族とその与党が滅ぼされた。三浦氏の乱とも呼ばれる。この事件は、得宗専制政治が確立する契機として評価されている[1]。また、この事件の推移、経過を詳細に記述する史料は『吾妻鏡』しか現存しない[1]。
合戦に引きずり込まれる形になった時頼は、北条実時に将軍御所の守護を命じ、弟の北条時定を大将軍に任じて三浦泰村の討伐を命じた。三浦館には鎌倉にいた三浦一族、前将軍頼経を慕う御家人達が集まり、三浦半島からも一族が駆けつけた。三浦光村は80騎を率いて永福寺に籠もり、鎌倉と得宗家の本拠地山内荘を分断した。
三浦泰村館への攻撃は明け方に始められたが、昼になっても北条勢は攻めあぐねていた。風向きが変わったところで周辺の館に火がかけられ、燻り出された泰村達は館を出て右大将家(源頼朝)法華堂に向かった。光村は泰村に使者を使わして要害の地である永福寺での合流を勧めたが、泰村はすでに戦う意志はなく、兄弟一緒に亡き頼朝公の御影の前で死ぬべしとして光村に法華堂へ来るように命じた。やむなく光村は数町に及ぶ敵陣の中を強行突破して法華堂へ向かった。法華堂には三浦一族とその縁戚、将軍派であった御家人達500余名が集まっていた。その内260名は将軍御所に出仕する資格を持った番衆であったという。
法華堂の門外で郎従達が防戦している間、出家して西阿と称していた毛利季光が念仏を唱え、三浦光村が調声の任を務めた。源頼朝の御影の前で一同はしばし懐旧の談を交わした。光村は「九条頼経殿が将軍の時、その父九条道家殿が内々に北条を倒して兄泰村殿を執権にすると約束していたのに、泰村殿が猶予したために今の敗北となり、愛子と別れる事になったばかりか、当家が滅ぶに至り、後悔あまりある」と悔やんだ。光村は太刀を抜くと自分の顔を削って「この顔は我とわかるか?」と訪ね、「いまだに光村殿と見ゆ」と返事を聞くとさらに自分の顔を切り刻み、あまりの事に泰村は「汝の血で故頼朝公の御影を汚し奉る。不忠至極である」と諫めた。血気の光村に対し、最期まで穏便であった泰村は「当家数代の功を思えば、累代は赦されるだろう。我らは義明以来四代の家督なり。北条殿の外戚として長年補佐してきたものを、讒言によって誅滅の恥を与えられ、恨みと悲しみは深い。ただし、父義村は他の一族の多くを滅ぼし、罪業を負った。これはその報いであろう。もうすでに冥土に行く身で、もはや北条殿に恨みはない。」と涙で声を震わせたという。三浦一族と与党500余名はそれぞれに自刃して果てた。この顛末は、泰村達が法華堂に乱入した際、逃げ遅れて屋根裏に隠れていたある法師が、戦後捕らわれ尋問を受けた折に北条方に語ったものである[7]。
上総国にあった泰村の妹婿千葉秀胤は7日に追討軍と戦って敗れ、一族と共に自害した。
1709年 – 大北方戦争: ポルタヴァの戦いが行われる。
時 1709年6月27日(新暦7月8日)
場所 東ウクライナ(ウクライナ語版)・ポルタヴァ
結果 ロシアの勝利
損害 スウェーデン軍 25000人中 戦死傷10000人弱 ロシア軍 45000人中 戦死傷 4500人強
ポルタヴァの戦い(ポルタヴァのたたかい、ウクライナ語: Полта́вська би́тва, ラテン文字転写: Poltavska bitva; スウェーデン語: Slaget vid Poltava; ロシア語: Полта́вская би́тва, ラテン文字転写: Poltavskaya bitva)は、1709年6月27日(新暦7月8日)、東ウクライナ(ウクライナ語版)のポルタヴァで行われたロシアとスウェーデンの大北方戦争における最大の戦い。カール・グスタフ・レーンスケルド(スウェーデン語版)率いるスウェーデン軍と、ピョートル1世率いるロシア軍が交戦し、ロシア軍が勝利した。
この戦闘の後、スウェーデンは軍事的優位を喪失した。大戦争の行方を決した会戦といえる。なお、カール12世は負傷のために直接指揮を執っておらず、これが敗因の一つになったとされる。また、スウェーデン軍にはウクライナ・コサックのイヴァン・マゼーパも参加していた。また、後にロシア帝国陸軍における傑出した指揮官の1人となるピーター・レイシ(ピョートル・ペトロヴィチ・ラッシ)もロシア軍右翼で1個旅団を率いた[1]。
1853年(嘉永6年6月3日) – 黒船来航: マシュー・ペリー率いるアメリカ海軍所属の東インド艦隊艦船(黒船)4隻が、江戸湾浦賀湾に来航。
黒船来航(くろふねらいこう)は、嘉永6年(1853年)に代将マシュー・ペリーが率いるアメリカ合衆国海軍東インド艦隊の蒸気船2隻を含む艦船4隻が日本に来航した事件。艦隊は江戸湾入り口の浦賀(神奈川県横須賀市浦賀)沖に停泊し、一部は測量と称して江戸湾奥深くまで侵入した。結果、幕府はペリー一行の久里浜への上陸を認め、そこでアメリカ合衆国大統領国書が幕府に渡され、翌年の日米和親条約締結に至った。日本ではおもに、この事件から大政奉還までを「幕末」と呼んでいる。
相互の贈答品
贈答品
1830年代から50年代にかけ、アメリカでは衣服製造用のミシンが発達していたが、1854年(嘉永7年)の2度目の来航のときには、ペリーから徳川将軍家にはミシンが送られたとされている。他、ペリー側から贈られたものは蒸気機関車の4分の1模型、電信機、銀板写真機、ピストル、望遠鏡など約140点[40]。なかには、世界有数の高額本として知られる図鑑『アメリカの鳥類』も含まれていた[41]。
日本側から贈られたものは、硯箱、絹織物、漆器、陶磁器、剣2振、火縄銃3丁、米200俵と鶏300羽を力士に運ばせた[40]。
逸話
アメリカ海軍の戦艦ミズーリで日本の降伏を行う際、左上にある31州旗は、黒船来航時の星条旗である[45]。
第二次世界大戦後の1945年、アメリカ合衆国が日本を占領した際、最高司令官のダグラス・マッカーサーはペリーと比較されることがあり、類似点がしばしば指摘される[46]。
マッカーサーはペリー提督が4隻の軍艦を率いて日本にやってきたときに旗艦のポーハタンが停泊したのと緯度・経度がまったく同じ場所に停泊させたとされる[47]。
なお、降伏前の1941年12月7日(日本時間8日)、大日本帝国海軍による真珠湾攻撃の際に、ホワイトハウスに31州の星条旗を掲げた。これはペリーのように再び日本を開国させるという意味合いである[47]。
1864年(元治元年6月5日) – 池田屋事件がおこる。即死および捕縛40名以上に及ぶ。
池田屋事件(いけだやじけん)は、幕末の元治元年6月5日(1864年7月8日)に、京都三条木屋町(三条小橋)の旅籠・池田屋に潜伏していた長州藩・土佐藩などの尊王攘夷派志士を、京都守護職配下の治安維持組織である新選組が襲撃した事件。
即死および捕縛40名以上に及ぶ。
1868年(明治元年5月19日) – 北越戦争: 長岡城が陥落。
死者 新政府軍 死者:1040人[2] 奥羽列藩同盟 死者:1180人[2]
背景
慶応4年(1868年)、薩摩藩・長州藩を中核とする明治新政府軍は京都近郊での鳥羽・伏見の戦いに勝利し、東征軍を組織して東海道・東山道・北陸道に分かれ進軍した。北陸道の新政府軍は北陸道鎮撫総督府の山縣有朋と黒田清隆を指揮官としていた。新政府軍は越後における旧幕府軍の平定と会津藩征討のため、長岡にほど近い小千谷(現・新潟県小千谷市)へ進駐した。
死者 新政府軍 死者:1040人[2] 奥羽列藩同盟 死者:1180人[2]
1962年 – 佐賀県太良町で地すべりが発生。死者56人、重軽傷約300人の被害[6]。
1967年 – 西日本で集中豪雨。死者365人[8]。
1974年 – 愛知県小牧基地を離陸した直後の航空自衛隊F-86 (戦闘機)が住宅地に墜落。乗員1人、住民3人が死亡、2人が重軽傷[8]。
1988年 – 南インドのケーララ州の湖に掛かる鉄橋での急行列車が脱線し湖に転落(en)。死者107名。
2022年 – 元内閣総理大臣の安倍晋三が奈良県奈良市の大和西大寺駅前で選挙演説中に、男に手製の銃で銃撃され死亡した(安倍晋三銃撃事件)[12][13]。
安倍晋三銃撃事件(あべしんぞうじゅうげきじけん)は、2022年(令和4年)7月8日11時31分ごろ、奈良県奈良市の近畿日本鉄道(近鉄)大和西大寺駅北口付近にて、元内閣総理大臣の安倍晋三が選挙演説中に手製銃で銃撃され、死亡した事件[8][9]。安倍元首相銃撃事件[10][11][12]、海外の報道機関などでは安倍晋三暗殺事件[13][14][15]とも呼称される。
総理大臣経験者が殺害(暗殺)されるのは二・二六事件以来のことである。本事件の犯人は取り調べで、「旧統一教会への恨みから教団との関係が深い安倍を狙った」と供述したことから、旧統一教会の悪徳商法や政治家とのつながりを浮き彫りにした。
チャットgpt先生の7月8日のエッセイ
7月8日――歴史は「勝者の意思」が形になる日
7月8日を並べて眺めると、一つの共通点が浮かぶ。理想でも正義でもなく、「決定的な力」が歴史を書き換える日である。
1099年、第1回十字軍はエルサレム城外を裸足で巡る宗教儀式を行った。これは単なる信仰行為ではない。旧約聖書のエリコ攻略をなぞり、「神意による征服」を演出する政治的・軍事的儀式だった。その一週間後、エルサレムは陥落し、住民に対する大規模な殺戮が行われた。後世では「聖地奪還」とも「虐殺」とも表現されるが、当時の当事者にとっては宗教と戦争は不可分であり、「ヘレム(聖絶)」という思想は軍事作戦の一部であった。
1247年の宝治合戦も同じ構図である。北条氏は三浦氏を滅ぼし、以後の得宗専制への道を開いた。三浦一族五百余名が法華堂で自害した逸話は悲劇として語られるが、政治史として見れば、有力御家人という勢力均衡が崩れ、一極集中体制が完成した転換点だった。権力は、最後には武力によって確定する。
1709年のポルタヴァの戦いは、ヨーロッパ勢力図を一変させた。長らく最強だったスウェーデン軍は敗れ、ロシアが大国への階段を上る。ここで重要なのは、兵士一人ひとりの勇敢さではない。国家の人口、生産力、補給能力、継戦能力が最終的な勝敗を決めたという事実である。近代戦争は「強い軍隊」が勝つのではなく、「強い国家」が勝つ時代へ移行していく。
1853年の黒船来航も、大砲を撃たずして勝敗が決まった例だった。四隻の軍艦そのものよりも、背後にあるアメリカの工業力、蒸気機関、海軍力、外交力が日本に現実を突きつけた。幕府が見たのは四隻ではなく、産業革命そのものだった。
池田屋事件では、新選組は少人数で尊攘派を急襲し、京都の政治情勢を一変させた。戦術的には局地戦にすぎない。しかし、情報を先に掴み、機動力で先手を打つ者が主導権を握るという戦争の基本原則が、そのまま歴史にも当てはまることを示している。
北越戦争で長岡城が陥落したことも、局地では激戦だったが、大局では近代国家を背景とした新政府軍の優位は動かなかった。個々の戦闘で善戦しても、全国規模の動員能力には抗しきれない。
1945年7月8日頃の沖縄戦は、一般に「圧倒的物量の米軍が一方的に勝利した戦い」と理解されがちである。しかし、軍事史として見るなら、その理解だけでは不十分である。
米軍は圧倒的な制海権・制空権を持ち、艦砲射撃、航空支援、補給能力のすべてで日本軍を凌駕していた。それでも沖縄攻略には約3か月を要し、米軍は戦死約1万2千人以上、戦傷を含めれば数万人規模の損害を受けた。太平洋戦争全体でも最大級の出血戦であり、上陸作戦として見ても極めて困難な戦闘だった。
日本軍は従来の「水際撃滅」を放棄し、首里防衛線を中心とした縦深陣地戦を採用した。天然の地形と洞窟陣地を利用し、艦砲射撃を極力無効化した結果、米軍は一つ一つの高地や陣地を歩兵で攻略せざるを得なくなった。火力優位を持ちながら、その優位を完全には活用できなかったのである。
また、沖縄戦では学徒隊や防衛隊、住民が多数戦場へ動員された。日本側にとって人的損失は壊滅的だった。一方で、米軍も「予想以上の抵抗」を公式記録に繰り返し残している。この経験は、本土決戦を実施した場合の損害予測を大幅に引き上げる要因となった。
戦後、日本では連合国軍総司令部(GHQ)のプレスコードの影響もあり、占領政策に反する軍事評価や作戦研究は長く表舞台に出にくかった。一方、日本国内では軍国主義への反省から、日本軍の戦術的能力まで否定的に語られる傾向も生まれた。
しかし、軍事史研究が進んだ現在では、別の評価も定着している。日本軍は戦略では敗北していたが、戦術・築城・陣地防御という限定された分野では、米軍を極めて苦しめた。米軍が勝利したのは勇敢さだけでも火力だけでもない。圧倒的な補給力、工兵能力、医療体制、兵站、そして損害を補充し続けられる国家総力があったからである。
沖縄戦は、日本軍最強を証明した戦いでも、米軍の圧勝を示した戦いでもない。「圧倒的優勢側ですら、要塞化された島嶼戦では甚大な犠牲を払わざるを得ない」という近代戦争の現実を示した戦場だった。
戦後も7月8日には、自然災害、航空事故、鉄道事故、そして2022年の安倍晋三元首相銃撃事件など、「想定外」が社会を揺るがす出来事が続く。
安倍元首相の事件も、一人の手製銃によって日本政治が大きく動いた。近代国家では制度が社会を支配するように見える。しかし歴史を振り返れば、ときに一隻の艦隊、一夜の襲撃、一発の銃弾が時代を変えてしまう。
7月8日という日は、そのことを静かに教えている。
歴史を動かすのは理念だけではない。信仰だけでもない。英雄だけでもない。
最後に結果を決めるのは、現実に存在する兵力、補給、生産、情報、政治、そして決断である。
歴史は理想によって語られることはあっても、実際には現実の力関係によって形づくられてきた。その冷徹な事実が、7月8日という一日に凝縮されている。

