9月20日
20260920日曜日旧暦8月10日大安(34番丁酉ひのととりテイユウ)月齢 8.9
43番丙午ひのえうま年 34番丁酉ひのととり月 34番丁酉ひのととり日
吉方位 隠遁日 丁酉ひのととり日 北 大吉 年末まであと102日
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9月20日の出来事
紀元前480年 – サラミスの海戦(9月29日説あり)。アテネ南西の水道でギリシャ軍が約2倍のペルシャ軍を撃滅。損害 ギリシア連合軍 370隻中 40隻以上破壊 アケメネス朝 800隻中 200隻以上破壊。
1066年 – フルフォードの戦い。
戦争:ノルマン・コンクエスト
年月日:1066年9月20日
場所:イングランド
イースト・ライディング・オブ・ヨークシャー
フルフォード村(英語版)
(現在のノース・ヨークシャー)
結果:ノルウェーの勝利
損害:ノルウェー軍1万人中 1,000人以下 イングランド軍4千人中 不明(甚大)。
1187年 – サラディンによるエルサレム包囲戦 (1187年)(英語版)が開始。
日付 1187年9月20日〜10月2日
(1週間5日間)
場所
エルサレム
結果 アイユーブ朝の勝利
領土の変更
エルサレムはイスラム教徒に降伏し、回復した。
1260年 – プロイセン人によるドイツ騎士団に対するプロイセン大反乱(英語版)が始まる。
1378年 – 教会大分裂: 4月に選出されたローマ教皇ウルバヌス6世を支持しないフランス人枢機卿が独自に教皇選挙を行い、その結果ロベール・ド・ジュネーヴがクレメンス7世として即位。教会大分裂の始まり。
1498年(明応7年8月25日) – 明応地震、鎌倉大仏の大仏殿が数メートル級の津波により流される。
1609年 – オランダ東インド会社が平戸に日本支社の商館を開設。
1792年 – フランス革命戦争: ヴァルミーの戦い。フランス革命軍 対 プロイセン軍神聖ローマ帝国軍 損害 フランス軍 4万7千人中 300人 プロイセン軍 3万4千人中 184人。
1807年(文化4年8月19日) – 永代橋崩落事故。深川富岡八幡宮の祭礼に詰め掛けた群衆が大勢巻き込まれ、1,400名もの死者・行方不明者が出た。
1854年 – クリミア戦争: アルマの戦い(英語版)。セヴァストーポリ要塞の攻略を目指すイギリス・フランス・オスマン帝国同盟軍がアルマ河でロシア軍と対戦。
日付 1854年9月20日
場所
アルマ川、ロシア帝国
北緯44.831036度 東経33.668879度
結果 連合軍の勝利
損害 連合軍 死傷4,103人[1] ロシア軍 ~5,700人の死傷者[1]
1941年 – 第二次世界大戦・リトアニアにおけるホロコースト: ネメンチネにて虐殺が行われ403人が死亡。
1960年 – 福岡県田川郡川崎町の中元寺川の堤防が集中豪雨により決壊。上尊鉱業豊州炭鉱の坑内が水没して、67人が死亡[2]。
1984年 – 車の中から自爆テロ犯がレバノンのベイルートにある米国大使館を攻撃(1984 United States embassy annex bombing in Beirut)し、22人が死亡。
2024年 – 2024年9月20日ベイルート攻撃(英語版)所在地 ハレット・フレイク、ダヒエ、レバノン
日付 2024年9月20日 ターゲット レッドワン・フォース指揮委員会
死去 55[1] 人 負傷 68+ 人 犯人 イスラエル
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紀元前480年 – サラミスの海戦(9月29日説あり)。アテネ南西の水道でギリシャ軍が約2倍のペルシャ軍を撃滅。損害 ギリシア連合軍 370隻中 40隻以上破壊 アケメネス朝 800隻中 200隻以上破壊。
サラミスの海戦(サラミスのかいせん、ギリシア語: Ναυμαχία της Σαλαμίνας、英語: Battle of Salamis)は、ペルシア戦争最中の紀元前480年9月、ギリシアのサラミス島近海で、ギリシア艦隊とペルシア艦隊の間で行われた海戦。ヘロドトスの『歴史』(第8巻)に詳しい。
この海戦でギリシア艦隊が勝利をおさめ、ペルシア戦争は新たな局面を迎えることになる。
1066年 – フルフォードの戦い。
戦争:ノルマン・コンクエスト
年月日:1066年9月20日
場所:イングランド
イースト・ライディング・オブ・ヨークシャー
フルフォード村(英語版)
(現在のノース・ヨークシャー)
結果:ノルウェーの勝利
損害:ノルウェー軍1万人中 1,000人以下 イングランド軍4千人中 不明(甚大)。
フルフォードの戦い(フルフォードのたたかい、英語: Battle of Fulford)とは、1066年9月20日にヨーク南部のフルフォード村(英語版)[1]で勃発した戦いである。この戦いではノルウェー王ハーラル3世とイングランド亡命貴族トスティ・ゴドウィンソン率いるノルウェー軍と北イングランドの伯爵であるモールカー(英語版)・エドウィン率いるイングランド軍が激突した[1][2][3]。
トスティは当時のイングランド王ハロルド・ゴドウィンソンの弟であり、兄ハロルドから追放処分を受けている身であった。追放されたトスティはノルウェーの国王であるハーラル苛烈王と同盟を組んだ。またノルマンディー公ウィリアムとも同盟を組んでいたとも言われているが、彼のイングランド侵攻の背後にトスティがいたとする記録は残っていない。この戦いでは、ハーラル苛烈王率いるノルウェーヴァイキングの勝利で終わった。モールカー・エドウィンの両伯爵はヨーク市街の城壁を盾に立てこもってノルウェー軍に抗することも可能であったが、彼らは敢えて市街を出て、川を挟んでノルウェー軍と対峙することを選んだ。イングランド軍は死に物狂いでノルウェー軍の盾の壁(英語版)を突き崩そうとしたが、壁を突き崩すことはできなかった。
トスティは追放処分を受けるまではノーザンブリア伯(英語版)の立場にいたものの、自領での失政を機に追放され、ノーザンブリア伯の座は有力貴族のモールカーに移っていた。このことから、トスティはモールカーと対立していたという[4]。
1187年 – サラディンによるエルサレム包囲戦 (1187年)(英語版)が開始。
日付 1187年9月20日〜10月2日
(1週間5日間)
場所
エルサレム
結果 アイユーブ朝の勝利
領土の変更
エルサレムはイスラム教徒に降伏し、回復した。
エルサレムの包囲は1187年9月20日から10月2日まで続き、イベリンのバリアンがサラディンに都市を明け渡した。その夏の初め、サラディンは王国の軍隊を破り、いくつかの都市を征服した。バリアンは防衛を組織する任務を負った。街は難民でいっぱいだったが、兵士はほとんどいなかった。この事実にもかかわらず、守備軍はサラディンの軍隊が街を襲撃しようとするいくつかの試みを撃退することに成功した。バリアンはサラディンと交渉して多くの人々に安全な通路を買い、都市は限られた流血で平和的に降伏した。エルサレムは陥落したが、第三次十字軍戦争後に首都が最初にツロに移り、後にアクレに移ったため、エルサレム王国の終わりではなかった。ラテンのキリスト教徒は1189年にリチャード獅子心王、フィリップ・アウグストゥス、フリードリヒ・バルバロッサが別々に率いる第三次十字軍を開始することで対応した。[1]エルサレムでは、サラディンはイスラム教徒の聖地を修復し、一般的にキリスト教徒に対して寛容を示しました。彼は正教会と東方キリスト教の巡礼者が聖地を自由に訪れることを許可しましたが、フランク人(つまりカトリック)の巡礼者は入場料を支払う必要がありました。市内のキリスト教事務の管理はコンスタンティノープル総主教に引き継がれました。
1260年 – プロイセン人によるドイツ騎士団に対するプロイセン大反乱(英語版)が始まる。
プロイセンの蜂起は、13世紀のプロイセン十字軍中に起こったドイツ騎士団に対するバルト海の部族の一つである旧プロイセン人による2つの大きな蜂起と3つの小さな蜂起でした。教皇とキリスト教ヨーロッパの支援を受けた十字軍の命令は、異教のプロイセン人を征服し、改宗させようとしました。十字軍の最初の10年間で、プロイセンの7つの主要な氏族のうち5つが、数の少ないチュートン騎士団の支配下に置かれた。しかし、プロイセン軍は5回にわたって征服者に対して立ち上がった。
最初の蜂起は、ポメラニア公爵スヴィエトペルク2世の支援を受けました。プロイセン軍は最初は成功し、騎士団を最強の城を5つに減らした。その後、公爵は一連の軍事的敗北を喫し、最終的にはドイツ騎士団との和平を余儀なくされました。スウィトペルク公のプロイセン人への支持が破綻すると、教皇インノケンティウス4世の高位聖職者がプロイセン人と騎士団の間の平和条約を交渉した。この条約は、特に1249年末のクリュッケンの戦いでプロイセンが勝利した後、尊重または施行されることはなかった。[1]
歴史学では「プロイセンの大蜂起」として知られる第二次の蜂起は、13世紀にドイツ騎士団が被った最大の敗北である1260年のデュルベの戦いによって引き起こされました。[2]この蜂起はチュートン騎士団にとって最も長く、最大であり、最も脅威的なものであり、チュートン騎士団は再び最も強力な城の5つに縮小された。教皇ウルバン4世の度重なる励ましにもかかわらず、騎士団の援軍の到着は遅く、騎士団の立場は悪化する見えた。プロイセン人は団結を欠いており、共通の戦略と援軍は1265年頃にようやくプロイセンに到達しました。プロイセンの氏族は次々と降伏し、蜂起は1274年に終結した。
その後の3つの小規模な蜂起は外国の援助に依存しており、1、2年以内に鎮圧されました。1295年の最後の蜂起はプロイセン十字軍を事実上終わらせ、プロイセンはドイツのさまざまな州から多くの入植者を擁するキリスト教の領土になりました。
1378年 – 教会大分裂: 4月に選出されたローマ教皇ウルバヌス6世を支持しないフランス人枢機卿が独自に教皇選挙を行い、その結果ロベール・ド・ジュネーヴがクレメンス7世として即位。教会大分裂の始まり。
教会大分裂(きょうかいだいぶんれつ、ラテン語: Magnum schisma occidentale)は、1378年から1417年の間、ローマとアヴィニョンにそれぞれローマ教皇が立ち、カトリック教会が分裂した状態のことである。最も有名なシスマの1つで、単に「シスマ」という場合はこの事件を指すことも多く、また、「大シスマ」とも呼ばれる(「大シスマ」は、東西教会の分裂を指すこともある)。西方大離教、西方教会大分裂ともいう。
1498年(明応7年8月25日) – 明応地震、鎌倉大仏の大仏殿が数メートル級の津波により流される。
1792年 – フランス革命戦争: ヴァルミーの戦い。フランス革命軍 対 プロイセン軍神聖ローマ帝国軍 損害 フランス軍 4万7千人中 300人 プロイセン軍 3万4千人中 184人。
新しい国民軍が従来の傭兵軍を破ったことが、近代国民国家が絶対君主制国家に勝った証として評価されることが多い。また、この戦いによって史上最強の軍隊・国民軍が誕生したともいわれる。
しかし、
戦闘自体は極めて小規模で、この戦いの実態は戦いらしい戦いはなかったことはよく知られた事実として有名である。小規模な戦闘が起き(というより小競り合い)、雨が降ったので戦いをやめただけで、プロイセンを後退させたといっても濡れた湿地帯では食事が出来ないために20キロ後方に移動しただけであるともいわれている。
1807年(文化4年8月19日) – 永代橋崩落事故。深川富岡八幡宮の祭礼に詰め掛けた群衆が大勢巻き込まれ、1,400名もの死者・行方不明者が出た。
1941年 – 第二次世界大戦・リトアニアにおけるホロコースト: ネメンチネにて虐殺が行われ403人が死亡。
1960年 – 福岡県田川郡川崎町の中元寺川の堤防が集中豪雨により決壊。上尊鉱業豊州炭鉱の坑内が水没して、67人が死亡[2]。
1984年 – 車の中から自爆テロ犯がレバノンのベイルートにある米国大使館を攻撃(1984 United States embassy annex bombing in Beirut)し、22人が死亡。
2024年 – 2024年9月20日ベイルート攻撃(英語版)所在地 ハレット・フレイク、ダヒエ、レバノン
日付 2024年9月20日 ターゲット レッドワン・フォース指揮委員会
死去 55[1] 人 負傷 68+ 人 犯人 イスラエル
チャットgpt先生の9月27日のエッセイ
9月20日という日付を、暦や吉凶から切り離して歴史だけで眺めると、奇妙なほど一貫した構図が浮かび上がる。紀元前480年のサラミス、1066年のフルフォード、1187年のエルサレム包囲、1260年のプロイセン大反乱、1378年の教会大分裂、1792年のヴァルミー、そして近現代の災害やテロ。時代も地域も主体も違うが、そこには共通して「秩序が揺らぐと、既存の制度より先に実力関係が前面に出る」という現実がある。
9月20日――秩序の表面が剥がれる日
9月20日の歴史を並べてみると、そこには「戦争の日」という以上のものが見えてくる。
サラミスでは、ペルシア帝国という巨大な勢力とギリシア側の都市国家連合が海上で衝突した。1066年のフルフォードでは、イングランド王位をめぐる争いが、ノルウェー王ハーラル3世と、イングランドから追放されたトスティという人物を結びつけ、外部勢力による軍事介入へと変わった。1187年にはサラディンがエルサレムを包囲した。
一見すれば、それぞれ別の事件である。
しかし構造は似ている。
権力の中心が弱くなったとき、周辺の利害が一気に軍事化する。
国家や王朝や宗教組織は、平時には巨大で安定した存在に見える。だが、その安定は制度そのものだけで成立しているわけではない。軍事力、財政、忠誠、補給、地理、情報、そして「この秩序はまだ維持される」という各主体の予想によって支えられている。
そのどれかが崩れると、制度の看板は残ったまま、実態だけが変わる。
1066年のフルフォードは、その典型である。
トスティはイングランド王の弟でありながら、追放された。つまり、王国内部の政治的対立が解消されず、国内問題が国外の軍事力と接続した。
ここで重要なのは、トスティ個人の性格ではない。
国内政治の失敗が、外部勢力に参入する余地を与えたことである。
ノルウェー王にとっては、イングランドの内紛は侵攻の機会だった。トスティにとっては、自分の政治的地位を回復するために外部の軍事力を利用する合理性があった。
両者の目的は完全には一致しなくてもいい。
利害が一時的に重なれば同盟は成立する。
歴史における同盟は、価値観の一致よりも、敵の共有によって成立することが多い。
この構造は1187年にも現れる。
エルサレム包囲戦では、都市の防衛能力と攻撃側の圧倒的な軍事力との非対称性が問題になった。都市を守る側にとって重要なのは、最後まで戦えるかどうかだけではない。人口、食料、兵力、城壁、援軍、交渉材料をどれだけ持っているかである。
だから包囲戦は、単純な「勇気対勇気」ではない。
時間を資源として消費する戦争である。
攻撃側には時間が必要であり、防御側にも時間が必要になる。援軍が来るまで耐えられるか、補給が尽きる前に突破できるか、敵の内部に亀裂が入るか。
軍事力とは、単純な兵士の数ではない。
兵士を維持する能力、移動させる能力、食料を供給する能力、情報を得る能力、そして相手より長く戦争を継続できる能力の総体である。
この視点に立つと、1792年のヴァルミーも違って見えてくる。
ヴァルミーは後世に「フランス革命軍がヨーロッパの旧体制軍を打ち破った象徴」として大きく語られる。しかし、戦闘そのものは決定的な大規模会戦だったわけではない。
ここに歴史の面白さがある。
軍事的な出来事の物理的規模と、政治的な意味は一致しない。
実際の戦闘が小規模でも、その結果が「この体制は倒せる」「この軍隊は戦える」という認識を生み出せば、その情報自体が戦争を変える。
戦争では、敵を何人倒したかだけが重要なのではない。
敵が何を信じるようになったかが重要なのである。
ヴァルミーの重要性は、損害の数字だけでは説明できない。
革命によって動員された人間集団が、従来型のヨーロッパ君主制軍隊と対峙し、少なくとも崩壊せずに戦場に留まった。その事実が、政治体制と軍事動員の関係を変えていった。
ここでは「軍隊」が単なる軍事組織ではなくなる。
国家そのものが、人間を組織して戦争を行う装置へと変化していく。
そして1260年のプロイセン大反乱を見ると、さらに別の構造が見えてくる。
ドイツ騎士団は軍事力を背景に領域を支配し、宗教的な正当化と政治的・軍事的支配を組み合わせた。しかし、征服した地域を長期的に維持するには、戦場で勝つだけでは足りない。
反乱を抑え、城塞を維持し、行政を行い、現地社会を取り込み、補給線を確保しなければならない。
つまり、
征服するコストと、統治するコストは別物である。
これは帝国や占領を考える際の基本的な問題である。
軍隊は地域を制圧できても、地域社会そのものを消すことはできない。敵対勢力が残れば、占領軍は常に兵力を分散させられる。
一つの城を落とすことと、一つの地域を支配することは同じではない。
この違いを無視した勢力は、戦場で勝ちながら政治的には消耗する。
そして1378年の教会大分裂は、軍事力とは異なる「権威」の問題を露出させる。
ローマとアヴィニョンに教皇が並立するという状況は、宗教組織の中心が一つであるという前提そのものを壊した。
ここで重要なのは、宗教的教義そのものよりも、正統性を誰が認定するのかという問題である。
権力には二つの側面がある。
一つは、命令を実行させる能力。
もう一つは、その命令を正当なものとして受け入れさせる能力である。
前者だけでも短期的な支配は可能だが、後者が崩れると、同じ命令に対して複数の解釈が生まれる。
そして複数の正統性が存在すると、政治は分裂する。
これは国家だけの問題ではない。
企業でも、軍隊でも、宗教組織でも、政党でも同じである。
トップが一人いるから組織が一つなのではない。
誰の命令が最終的に有効なのかについて、組織内部の人間が共通認識を持っているから一つなのである。
この共通認識が壊れた瞬間、同じ組織名を掲げた複数の勢力が生まれる。
そして20世紀、21世紀になると、この構造はさらに速度を増す。
1941年のリトアニアでの虐殺、1960年の福岡県での炭鉱水没事故、1984年のベイルートでの米国大使館関連施設への攻撃、2024年のベイルート攻撃。
ここでは中世のような「王と王」「帝国と帝国」の戦争だけではない。
国家、非国家主体、都市、インフラ、鉱山、外交施設、都市住民といった異なるレベルの対象が同じ歴史の上に並んでいる。
現代になるほど、権力闘争の対象は軍隊だけではなくなる。
人員、交通、通信、都市機能、エネルギー、外交拠点、象徴施設など、社会を構成するネットワークそのものが戦略対象になる。
ここに近代以降の特徴がある。
古代の戦争では、敵軍を破ることが中心だった。
近代では国家の動員能力が重要になった。
現代では、社会システムそのものの脆弱性が問題になる。
一つの橋、一つの港、一つの発電所、一つの通信網、一つの金融市場、一つの外交施設が、以前の城塞に近い戦略的価値を持つ場合がある。
だから現代のリアリズムでは、「誰が強いか」という問いだけでは不十分である。
見るべきなのは、
誰が何を止める能力を持っているのか。
そして、
誰が何を失うことに耐えられるのか。
この二つである。
国家Aが軍事力で国家Bを上回っていても、Aの経済が戦争の長期化に耐えられなければ、実際の優位は限定される。
逆に軍事的に弱い側でも、地理、人口、補給、時間、国際支援などを利用して戦争を長期化できれば、相手の優位を薄めることができる。
歴史を動かすのは、瞬間的な強さだけではない。
持続可能な強さである。
9月20日に並ぶ出来事を眺めていると、この原理が何度も繰り返されていることに気づく。
サラミスでは地理と艦隊運用が巨大帝国の物量を相対化した。
フルフォードでは国内の政治的分裂が国外勢力の侵攻と結びついた。
エルサレムでは都市防衛と包囲側の時間との競争になった。
プロイセンでは軍事征服と長期統治のコストが衝突した。
教会大分裂では物理的な軍事力とは別に、正統性そのものが分裂した。
ヴァルミーでは小規模な戦闘が巨大な政治的シグナルになった。
近現代の事件では、社会システムの脆弱性そのものが攻撃や災害の結果を左右した。
つまり9月20日の歴史は、個々の事件を超えて一つのことを示している。
秩序とは、固定された物体ではない。
それは、軍事力、経済力、制度、正統性、地理、補給、情報、人的資源、そして各主体の予測によって、その都度維持されている。
平時には、それらが一つの安定した秩序に見える。
しかし危機が発生すると、その内部構造が露出する。
誰が本当に力を持っているのか。
誰が誰を支配しているのか。
誰の命令が通るのか。
誰が援軍を送れるのか。
誰が戦争を長く続けられるのか。
誰が撤退する余裕を持っているのか。
そして、誰が「まだ勝てる」と信じさせることができるのか。
歴史上の大きな転換点は、必ずしも最も多くの人間が死んだ戦場で発生するわけではない。
ときには小さな戦闘が、大きな認識の変化を生む。
ときには一人の追放者が外国軍を呼び込む。
ときには一つの都市の陥落が地域秩序を変える。
ときには教皇が二人になるだけで、何世紀も続いた制度の権威が揺らぐ。
そして、ときには一つのインフラの破壊や一つの攻撃が、国家間関係を変える。
だから歴史を見るとき、出来事の大きさだけを測ってはいけない。
見るべきなのは、その出来事が既存の力関係をどこまで変えたかである。
9月20日は、その意味で象徴的な日付に見える。
そこに並んでいるのは、勝者と敗者の一覧ではない。
むしろ、秩序がどのように作られ、どのように揺らぎ、どこから崩れていくのかを示す断面図である。
歴史は、理念だけで動かない。
人間の意思だけでも動かない。
理念を実現するには組織が必要であり、組織には資源が必要であり、資源を維持するには制度が必要である。
そして制度が危機にさらされたとき、最後に問われるのは、極めて単純な問題になる。
誰が、どれだけの力を、どれだけ長く使えるのか。
9月20日の歴史は、その冷たい現実を、古代から現代まで繰り返し映している。

