kagamimochi-nikki 加賀美茂知日記
慶祝と美とグノ-シスの弥増す日々
日々の過去の出来事

今日という日11月23日 1943タワラ守備隊玉砕、ほか写真wikipedia日本軍地下陣地砲撃する米海兵隊

7月23日

20260723木曜日旧暦6月10日先負(35番戊戌つちのえいぬボジュツ)月齢 8.7

43番丙午ひのえうま年 32番乙未きのとひつじ月 35番戊戌つちのえいぬ日

吉方位 隠遁日 戊戌つちのえいぬ日 北西 大吉 年末まであと161日

https://ja.wikipedia.org/wiki/7%E6%9C%8823%E6%97%A5

11月23日の出来事

1148年 – 第2回十字軍: ダマスクス攻撃が始まる。

第2回十字軍時    1145年 – 1149年

場所        イベリア半島、近東(アナトリア半島、レパント)エジプト、中央ヨーロッパ

損害 十字軍35000人中 死者詳細不明だが被害甚大 イスラム軍20000人中 軽微。
1863年 – 南北戦争: 第三次チャタヌーガの戦いが始まる。(11月25日まで)時 1863年11月23日-25日 場所 テネシー州チャタヌーガ 結果 北軍の勝利 損害 北軍 56000人中 戦死傷5824人 南軍 44000人中 戦死傷6667人。
1876年 – 長野県白馬鑓温泉にて雪崩が発生。建設作業員21人が死亡。

1943年 – 第二次世界大戦: タラワの戦いが終結、日本軍守備隊が玉砕する。

日本軍 戦死 4500人(ほぼ全滅) 米軍 3万5千人中 戦死傷3000人強

1945年-沖縄戦7月23日・米軍は基地建設のため沖縄人を強制収容し、生活基盤を奪い、転々と北部への収容所に移送したため、膨大な数の食糧を被収容者に提供する必要があったが、それは困難を極めた。劣悪な民間人収容所の衣食住の状況に関して、米国に情報が漏れて問題化することがないように内部で情報統制していたことも記録されている。捕虜の収容所には赤十字が査察に入ることもあったが、民間人収容所はあきらに外部に漏れるとまずいほど粗悪であると認識していたことを示している。<引用先原文>・※この時期、ナチスのユダヤ人「強制収容所」(concentration camps) の実態が明らかとなり世界を震撼させているなか、米軍は、沖縄の民間人収容所の劣悪な実態が「強制収容所」の名の下で告発されることを恐れた。1945年の8月31日に米軍が発行した部外秘の沖縄地図では、民間人収容所はすべて「軍政府」 (military government) として示されている。<引用先原文>・米陸軍公刊史書が記録する収容所の配給事情

【訳】一方、米兵による戦利品探しは、民間人の衣類に深刻な被害をもたらした。… 慶良間列島の座間味村でも、戦利品ハンターが第8-9分遣隊の回収した靴と衣類の倉庫の75%を盗んでいた。<Arnold G. Fisch, Military Government in the Ryukyu Islands, 1945- 1950;>・少年兵、鉄血勤皇隊として経験した、あの沖縄戦、摩文仁の丘の激戦。125人のうち生き残ったのはわずか37人。「なぜこういう事態に陥ったのか。もし生き延びることができたら、明らかにしたい」。戦後は研究者として沖縄戦と戦後史を研究。平成2年には沖縄県知事となり、米軍基地の整理・縮小に取り組んだ。「二度と沖縄を戦場にしてはならない」。

<2017年6月12日 元沖縄県知事 大田昌秀さんの後ろ姿 – ~その時、沖縄は~>・国頭村・奥間、女性の証言

河原に降りていくとそこには三〇〇名ぐらいの避難民が集められていて、座りこんで、ヒソヒソ不安そうに話し合っていました。私はたぶんそこで殺されるだろうと思っていました。アメリカ兵はビスケットやチョコレートをくれるんですが初めは誰も毒がはいっていると思って食べないです。アメリカ兵は自分で食べてみせたんですが私はそれでも食う気にはならなかったです。敵から物をもらって食べるということは恥だと思っていましたから、栄養失調で今にも倒れそうなんですが山を降りるまで食べませんでした。

そこから行列をつくって、二〇メートルおきぐらいに銃を構えたアメリカ兵が監視をして山道を宇良の部落につれていかれました。大雨のあとで道は滑りやすくてけわしい坂道を歩いたり大きな岩をよじ登ったりしましたが緊張のせいか子供をおぶりながらもよく倒れなかったと思います。

途中のできごとですが、私の前でも後でも女の人たちがアメリカ兵につれ去られていきました。列のなかには那覇から避難してきたジュリ(遊女)たちも混っていましたが、この人たちは色が白くてすぐ目立つのでとくに狙われたようでした。あっちこっちで「アキサミヨーゥ」とか「助けてくれ」と叫ぶ声が聞こえました。私の見ているところでも五、六名ぐらいつれ去られています。その人たちは私たちが捕虜になって部落に落ついてからも帰ってきたという話はありませんでした。後で私が蒲団を取りにまた山小屋に行ったとき、椎の木の下に十二、三体の白骨があったんですが、ジュリとわかるような女性の遺体も混っていました。

その時のこと、私のすぐ前を胃腸を患って今にも倒れそうな六十ぐらいの爺さんと年ごろの娘さんが歩いていました。たぶん孫だったと思います。女たちはたいてい顔に泥をこすりつけたり男物の著物をつけたりしていたんですが、その娘さんは若いので目立ったのだと思いますが、アメリカ兵に手首をつかまれてつれ去られようとしたわけです。すると爺さんが全身の力をふりしぼって体ごとアメリカ兵にぶっつかっていったんですね。アメリカ兵はよろめいて離れたんですが、銃を向けてきて安全装置をガチャンとはずしたんです。すると爺さんは胸を張って撃つなら撃てと立ちふさがり、これを見て避難民たちもアメリカ兵をとり囲むようにして無言でにらみつけたわけです。アメリカ兵はだんだん後ずさりして、とうとう娘さんをあきらめてしまいました。

十二キロぐらいの山道を歩いて宇良部落につきました。そこで一泊して、翌日一里ほど離れた自分の部落に帰されたんですが、そこでまず米と塩の配給がありました。皆は配給されるのも待ちきれずにワッと塩の方にたかっていきました。それほど塩に飢えていたんで、砂糖みたいにうまそうになめたものです。

私たちははじめて沖縄戦が終ったことを知らされました。しかし、それでもすぐ平和になったわけではなく、捕虜になってもまだ安心できませんでした。山から降りてきたその夜から毎晩のようにアメリカ兵が女さがしにきて、どの家でも女をかくすのにひじょうに苦労したものです。もう一つは、山から降りてきてからも食糧事情は悪く毎日のように栄養失調で倒れていく者がでたことです。とくに老人がバタバタ死にました。部落で葬式のない日はないといったありさまでした。米軍がくるまえ二月ごろ私の家には読谷から疎開してきた人たちが四世帯20名ぐらい住んでいましたが、山から降りてきたときは5、6名ぐらいしか生き残っていませんでした。あとはみんな山の中で栄養失調で死んでしまったそうです。<『沖縄県史 第9巻/第10巻』 沖縄戦証言 ~ 国頭村 – Battle of Okinawa>

1967年 – ミシガン州デトロイトでデトロイト暴動が起こる。5日間続いた住民と警察との対立により43人が死亡、7千人以上が逮捕され、千以上の建物が焼失した。

1982年 – 九州地方北部の集中豪雨(昭和57年7月豪雨)により長崎市を中心に大きな被害。死者・行方不明者計299名。(長崎大水害)
1996年 – エチオピア航空961便ハイジャック墜落事件。死亡123人(犯人3含む)生存 52人。

2013年 – 富山県真砂岳 (立山連峰)にて雪崩が発生。登山者7人が死亡[9]。
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1148年 – 第2回十字軍: ダマスクス攻撃が始まる。

第2回十字軍時    1145年 – 1149年

場所        イベリア半島、近東(アナトリア半島、レパント)エジプト、中央ヨーロッパ

損害 十字軍35000人中 死者詳細不明だが被害甚大 イスラム軍20000人中 軽微。

1863年 – 南北戦争: 第三次チャタヌーガの戦いが始まる。(11月25日まで)時 1863年11月23日-25日 場所 テネシー州チャタヌーガ 結果 北軍の勝利 損害 北軍 56000人中 戦死傷5824人 南軍 44000人中 戦死傷6667人。

1876年 – 長野県白馬鑓温泉にて雪崩が発生。建設作業員21人が死亡。

1943年 – 第二次世界大戦: タラワの戦いが終結、日本軍守備隊が玉砕する。

戦争:太平洋戦争

年月日:1943年11月20日 - 同年11月25日[1]

場所:ギルバート諸島、タラワ環礁[2][3]

結果:アメリカ軍の勝利[1][4][5]

損害:日本軍 戦死 4500人(ほぼ全滅) 米軍 3万5千人中 戦死傷3000人強

タラワの戦い(たらわのたたかい、英語: Battle of Tarawa)は太平洋戦争の戦いの一つで、1943年11月にギルバート諸島のタラワで勃発した日本軍とアメリカ軍の間の戦いである。11月20日にタラワに18,600人のアメリカ第2海兵師団が上陸し[8]、第3特別根拠地隊の柴崎恵次司令官率いる4,600人(うち戦闘部隊は2,600人)の日本軍守備隊[6]と交戦、戦闘は4日間続き、アメリカ軍は大きな損害を被りながらも、タラワの攻略に成功した。そのあまりの苦戦ぶりにアメリカ国内で大きな衝撃が走り、アメリカ史上の名高い激戦となる、レキシントン・コンコードの戦い、フランボロー岬の戦い(英語版)、アラモの戦い、リトルビッグホーンの戦い、ベローウッドの戦い(英語版)と並ぶとも評され[13]、この後の水陸両用作戦の大幅な改良を余儀なくされた[16]。

1945年-沖縄戦7月23日・米軍は基地建設のため沖縄人を強制収容し、生活基盤を奪い、転々と北部への収容所に移送したため、膨大な数の食糧を被収容者に提供する必要があったが、それは困難を極めた。劣悪な民間人収容所の衣食住の状況に関して、米国に情報が漏れて問題化することがないように内部で情報統制していたことも記録されている。捕虜の収容所には赤十字が査察に入ることもあったが、民間人収容所はあきらに外部に漏れるとまずいほど粗悪であると認識していたことを示している。<引用先原文>・※この時期、ナチスのユダヤ人「強制収容所」(concentration camps) の実態が明らかとなり世界を震撼させているなか、米軍は、沖縄の民間人収容所の劣悪な実態が「強制収容所」の名の下で告発されることを恐れた。1945年の8月31日に米軍が発行した部外秘の沖縄地図では、民間人収容所はすべて「軍政府」 (military government) として示されている。<引用先原文>・米陸軍公刊史書が記録する収容所の配給事情

【訳】一方、米兵による戦利品探しは、民間人の衣類に深刻な被害をもたらした。… 慶良間列島の座間味村でも、戦利品ハンターが第8-9分遣隊の回収した靴と衣類の倉庫の75%を盗んでいた。<Arnold G. Fisch, Military Government in the Ryukyu Islands, 1945- 1950;>・少年兵、鉄血勤皇隊として経験した、あの沖縄戦、摩文仁の丘の激戦。125人のうち生き残ったのはわずか37人。「なぜこういう事態に陥ったのか。もし生き延びることができたら、明らかにしたい」。戦後は研究者として沖縄戦と戦後史を研究。平成2年には沖縄県知事となり、米軍基地の整理・縮小に取り組んだ。「二度と沖縄を戦場にしてはならない」。

<2017年6月12日 元沖縄県知事 大田昌秀さんの後ろ姿 – ~その時、沖縄は~>・国頭村・奥間、女性の証言

河原に降りていくとそこには三〇〇名ぐらいの避難民が集められていて、座りこんで、ヒソヒソ不安そうに話し合っていました。私はたぶんそこで殺されるだろうと思っていました。アメリカ兵はビスケットやチョコレートをくれるんですが初めは誰も毒がはいっていると思って食べないです。アメリカ兵は自分で食べてみせたんですが私はそれでも食う気にはならなかったです。敵から物をもらって食べるということは恥だと思っていましたから、栄養失調で今にも倒れそうなんですが山を降りるまで食べませんでした。

そこから行列をつくって、二〇メートルおきぐらいに銃を構えたアメリカ兵が監視をして山道を宇良の部落につれていかれました。大雨のあとで道は滑りやすくてけわしい坂道を歩いたり大きな岩をよじ登ったりしましたが緊張のせいか子供をおぶりながらもよく倒れなかったと思います。

途中のできごとですが、私の前でも後でも女の人たちがアメリカ兵につれ去られていきました。列のなかには那覇から避難してきたジュリ(遊女)たちも混っていましたが、この人たちは色が白くてすぐ目立つのでとくに狙われたようでした。あっちこっちで「アキサミヨーゥ」とか「助けてくれ」と叫ぶ声が聞こえました。私の見ているところでも五、六名ぐらいつれ去られています。その人たちは私たちが捕虜になって部落に落ついてからも帰ってきたという話はありませんでした。後で私が蒲団を取りにまた山小屋に行ったとき、椎の木の下に十二、三体の白骨があったんですが、ジュリとわかるような女性の遺体も混っていました。

その時のこと、私のすぐ前を胃腸を患って今にも倒れそうな六十ぐらいの爺さんと年ごろの娘さんが歩いていました。たぶん孫だったと思います。女たちはたいてい顔に泥をこすりつけたり男物の著物をつけたりしていたんですが、その娘さんは若いので目立ったのだと思いますが、アメリカ兵に手首をつかまれてつれ去られようとしたわけです。すると爺さんが全身の力をふりしぼって体ごとアメリカ兵にぶっつかっていったんですね。アメリカ兵はよろめいて離れたんですが、銃を向けてきて安全装置をガチャンとはずしたんです。すると爺さんは胸を張って撃つなら撃てと立ちふさがり、これを見て避難民たちもアメリカ兵をとり囲むようにして無言でにらみつけたわけです。アメリカ兵はだんだん後ずさりして、とうとう娘さんをあきらめてしまいました。

十二キロぐらいの山道を歩いて宇良部落につきました。そこで一泊して、翌日一里ほど離れた自分の部落に帰されたんですが、そこでまず米と塩の配給がありました。皆は配給されるのも待ちきれずにワッと塩の方にたかっていきました。それほど塩に飢えていたんで、砂糖みたいにうまそうになめたものです。

私たちははじめて沖縄戦が終ったことを知らされました。しかし、それでもすぐ平和になったわけではなく、捕虜になってもまだ安心できませんでした。山から降りてきたその夜から毎晩のようにアメリカ兵が女さがしにきて、どの家でも女をかくすのにひじょうに苦労したものです。もう一つは、山から降りてきてからも食糧事情は悪く毎日のように栄養失調で倒れていく者がでたことです。とくに老人がバタバタ死にました。部落で葬式のない日はないといったありさまでした。米軍がくるまえ二月ごろ私の家には読谷から疎開してきた人たちが四世帯20名ぐらい住んでいましたが、山から降りてきたときは5、6名ぐらいしか生き残っていませんでした。あとはみんな山の中で栄養失調で死んでしまったそうです。<『沖縄県史 第9巻/第10巻』 沖縄戦証言 ~ 国頭村 – Battle of Okinawa>

1967年 – ミシガン州デトロイトでデトロイト暴動が起こる。5日間続いた住民と警察との対立により43人が死亡、7千人以上が逮捕され、千以上の建物が焼失した。

1982年 – 九州地方北部の集中豪雨(昭和57年7月豪雨)により長崎市を中心に大きな被害。死者・行方不明者計299名。(長崎大水害
1996年 – エチオピア航空961便ハイジャック墜落事件。死亡123人(犯人3含む)生存52人。

エチオピア航空961便ハイジャック事件(エチオピアこうくう961びんハイジャックじけん、英語: Ethiopian Airlines Flight 961)は、1996年に発生したハイジャック事件である。

犯人がハイジャックした機体では不可能なオーストラリア行きを要求したため、燃料切れを起こし海上に墜落する惨事となった。

2013年 – 富山県真砂岳 (立山連峰)にて雪崩が発生。登山者7人が死亡[9]。

チャットgpt先生の7月23日のエッセー

11月23日――「勝利の裏側で何が起きるか」を見る日

11月23日という日を眺めると、宗教戦争、中世の攻城戦、南北戦争、太平洋戦争、沖縄戦後の占領、都市暴動、自然災害、航空機事故まで、一見無関係な出来事が並ぶ。しかし構造で見るなら、一つの共通点が浮かび上がる。

戦闘が終わることと、人間の苦難が終わることは一致しない。

むしろ歴史では、戦闘の終結以後に新しい問題が始まることが少なくない。

1148年、第二回十字軍のダマスクス攻撃は、宗教的理想を掲げながらも、補給・指揮・同盟関係の破綻によって失敗した。兵力だけでは勝敗は決まらず、組織の構造が戦争を左右した典型例である。

1863年のチャタヌーガでは北軍が勝利する。しかし勝利とは相手軍を完全消滅させることではなく、補給路を確保し、敵を戦略的に退かせることである。近代戦は「敵兵を何人倒したか」ではなく、「兵站をどちらが維持できたか」で決着する時代になっていた。

1943年のタラワでは、この兵站思想がさらに極端な形で現れる。

日本守備隊約4,600名に対し、米軍は約35,000名という圧倒的戦力を投入した。それでも四日間で約3,000名を超える死傷者を出した。数字だけ見れば米軍勝利である。しかし作戦研究の視点では、「ここまでの物量を投入してなお、この損害を受けた」という事実の方が重要だった。

この戦いは米軍に「正面上陸は想定以上に高コストである」と痛感させた。以後、水陸両用戦術、艦砲射撃、工兵運用、潮位調査、火炎放射戦車など、多くの改善が急速に進められる契機となる。タラワは日本軍が勝った戦いではない。しかし米軍が「勝ちながら学習を強いられた戦い」であった。

そして、その延長線上に1945年の沖縄戦がある。

沖縄戦は、日本軍・住民・米軍すべてが極限状態へ追い込まれた戦場だった。米軍は圧倒的な海空軍力と兵站能力を持ちながらも、日本軍の地下陣地、持久戦術、地形条件により想定以上の損害を受けた。太平洋戦争における米軍最大級の激戦であり、戦術的勝利は容易ではなかった。

一方で、戦場の外側でも別の戦争が始まる。

戦闘終了後、基地建設と占領統治を目的として、多数の沖縄住民が収容所へ移された。食糧不足、衛生悪化、生活基盤の喪失など、多くの困難が発生した。軍事的には占領政策の一環であり、膨大な避難民を管理する必要もあった。しかし管理能力は十分ではなく、結果として深刻な生活環境を生み出した。

同時に、住民証言や軍資料には、米兵による略奪、性暴力、暴行などの犯罪行為も記録されている。一方で、食糧配給や医療活動、感染症対策によって多数の住民が救命された事例も存在する。

歴史を構造として見るなら、どちらか一方だけでは全体像にならない。

占領軍は秩序維持と住民保護という任務を持ちながら、巨大組織である以上、統制不能な犯罪も必ず発生する。その犯罪を軍組織がどこまで防止・処罰できたかもまた、占領政策の一部として評価されるべき対象である。

さらに戦後にはGHQによるプレスコードが存在し、占領軍に不利益となる報道は大きく制限された。そのため、占領初期の実態には長く十分な議論が行われなかった側面がある。一方で、戦後になって公開された公文書や証言を無批判に絶対視することも避ける必要がある。一次資料、軍公文書、住民証言、研究成果を相互に照合しながら全体像を組み立てる姿勢が求められる。

歴史研究に必要なのは、英雄譚でも告発だけでもない。

「巨大組織は勝利しても混乱する。」

これが沖縄戦後の構造である。

同じ構造は1967年のデトロイト暴動にも現れる。行政機能が一時的に崩壊すると、略奪、放火、治安出動が連鎖する。災害や暴動では、人間の善意より先に物流・警察・通信という社会インフラが試される。

1982年長崎豪雨でも、2013年真砂岳雪崩でも、自然は人間の事情を考慮しない。安全対策は存在しても、極端な自然現象はそれを容易に超えてくる。

1996年のエチオピア航空961便もまた、構造的事故だった。犯人は「飛行機ならどこへでも行ける」と誤認し、燃料という物理法則を理解していなかった。政治的要求も、航空力学には従わない。結果として燃料切れがすべてを決定した。

11月23日に並ぶ出来事は、それぞれ時代も場所も異なる。しかし共通しているのは、人間の意思よりも、組織・兵站・情報・地形・自然法則といった構造が最終結果を決めるという事実である。

英雄の勇敢さも、指導者の理念も、個人の善悪も無意味ではない。しかし、それらは巨大な構造の中で初めて意味を持つ。歴史を冷静に読むとは、誰かを神格化することでも悪魔化することでもなく、「なぜその結果が避けられなかったのか」を構造から理解する営みである。

11月23日は、その現実を静かに思い起こさせる一日なのである。