kagamimochi-nikki 加賀美茂知日記
慶祝と美とグノ-シスの弥増す日々
日々の過去の出来事

今日という日9月7日 1812ポロジノの戦い、ほか、写真wikipediaポロジノ戦場

9月7日

20260907月曜日旧暦7月26日友引(21番甲申きのえさるコウシン)月齢 25.3

43番丙午ひのえうま年 34番丁酉ひのととり月 21番甲申きのえさる日

吉方位 隠遁日 甲申きのえさる日 南 南西 大吉 年末まであと115日

https://ja.wikipedia.org/wiki/9%E6%9C%887%E6%97%A5

9月7日の出来事

70年 – ユダヤ戦争・エルサレム攻囲戦: ティトゥス率いるローマ帝国軍がエルサレムを完全に制圧[要出典]。ユダヤ戦争は66~73年のローマ帝国とユダヤの戦争。ローマ帝国延べ7万人 ユダヤ勢力は10万人程度で損失多大とされる。8月31日のエルサレム神殿の攻略完了(この残骸が嘆きの壁)。9月7日でローマのエルサレム攻略自体が完全完了。残りは3年にわたる残党の掃討戦であった。

戦争:(第1次)ユダヤ戦争

年月日:70年3月から9月

場所:ユダヤ属州エルサレム

結果:ローマ帝国の勝利、エルサレム市およびエルサレム神殿の破壊

1191年 – 第3回十字軍: アルスフの戦い。リチャード1世の十字軍がサラーフッディーンを撃退。損害 十字軍 11200人中 戦死700人 サラディンのアイユーブ朝 25000人中 戦死7000人。

1651年(慶安4年7月23日) – 慶安の変。兵学者・由井正雪らの幕府顛覆計画が発覚。

1706年 – スペイン継承戦争: トリノの戦い。年月日:1706年5月14日 – 9月7日 オーストリア プロイセン同盟軍 44700人中 戦死3000人 フランス 40000人中 戦死傷4000人強。

1757年 – 七年戦争: モイスの戦い。オーストリア軍 3万人中戦死800人 プロイセン軍1万3千人中 戦死1500人。

1812年 – ナポレオン戦争・1812年ロシア戦役: ボロジノの戦い。フランス 18万人中 戦死傷50000人強 ロシア 16万人中 戦死傷40000人強。 

戦争:1812年ロシア戦役(ナポレオン戦争)

年月日:1812年9月7日

場所:ヨーロッパロシア中部、モスクワ西方のボロジノ近郊

結果:フランス軍の辛勝、ロシア帝国陸軍の戦略的撤退

1940年 – 第二次世界大戦: ナチス・ドイツがイギリスへの大規模な空襲(ザ・ブリッツ)を開始。翌年5月までに約4万人が死亡。

1945年-沖縄戦9月7日・1945年6月23日に第32軍牛島満司令官らが自刃するが、今まで見てきたように、それで沖縄戦は終わったのではない。牛島の最後の指令は沖縄を終わりなき戦場にさせた。9月7日、最終的な沖縄守備軍の降伏調印式が行われ、これをもって沖縄は正式に終戦の日を迎える。<引用先原文>・旧越来村、現在の嘉手納基地内で行われた降伏調印式には第32軍司令官・牛島満中将が自決したため、守備軍を代表して先島群島司令官・納見敏郎中将ら3人が出席。戦車や武装兵が待機する中、納見中将らは降伏文書に署名を行い、沖縄における戦闘が正式に終結します。住民は戦闘の脅威から解放されますが、文書には「日本帝国政府により執行された全面降伏に基づいて琉球諸島を無条件に引き渡すものである」と記されています。調印後、沖縄奄美は日本本土から切り離され、アメリカ軍の直接統治下に置かれることになります。<65年前のきょうは1945年9月7日(金) – QAB NEWS Headline>・7月18日に一旦沖縄の占領政策を担うことになった米陸軍は、沖縄の行政権日本の降伏とそれに伴う日本や韓国への進駐で大幅な人員が必要とされ、9月21日には陸軍から海軍に沖縄占領の管轄権が移行される。(中略)しかし海軍の管轄も10カ月あまりで終わる。東海岸の多くの海軍基地は二つの台風で壊滅的な打撃を受け、基地の持続はコストに見合わないと判断されるにいたる。(中略)こうして沖縄の占領は二転三転しながら、陸軍統治下におかれる。(中略)米陸軍の公刊史はその時代を「無関心とネグレクト」と表現した。<引用先原文>・仲村渠さんの説得で投降、屋嘉収容所で写真班の仕事をしていた渡辺憲央さん証言

ある日、まさかと思った鹿山と沢田の写真を現像していたのである。この人が生きているとは信じられなかった。私はその晩さっそく二人の幕舎を訪問した。二人とも別におどろいた様子もなかったが、鹿山はちらっと私を見て、ぶいと横を向いた。沢田はふたことみこと話の相手をしていた。鹿山はその間終始横を向いたまま、うんともすんともいわなかった。

それから二、三日して、鹿山の部下の一人が私を訪ねて来た。この人は久米島では身にあまる事をやり、今、良心に咎められ、訴えに来たといって、久米島のことを逐一話していた。仲村渠さん一家の虐殺 は、私はしばらく声も出なかった。私がここで知ったことであるが、仲村渠さんが久米島に渡ったもう一つの理由は、鹿山を説得して山から降すことであった。それはすでに捕虜になっていた鹿山の上官の大尉の強い依頼によるものだったという。海軍のめしを食べていた仲村渠さんにしては当然引き受けるべきだと信じてやったに違いない。久米島で殺した村民二十余名。みなスパイ容疑だったという。しかし朝鮮人一家皆殺しにいたっては、私が鹿山や沢田と初めてあった時の印象を実証してみせているようなサデイステックな殺人である。

… 日本人収容所では、将校も下士官も、戦争中悪いことをした連中は、毎晩必ずどこかで私刑にあっていた。そのようなある晩、塵山は一部の部下に私刑され、それに久米島出身者が加わって暴力をうけ、一月ばかり寝込んで作業にも出て来なかった。<沖縄戦証言 久米島と鹿山隊 『沖縄県史』 久米島篇 Battle of Okinawa>・沖縄戦では約20万人あまりもの人が亡くなりました。そのうち日本兵の戦死者は6万6000人、アメリカ兵の戦死者は1万2500人です。沖縄県民の犠牲者は一般住民が約9万4000人、沖縄出身の軍人・軍属が約2万8000人で、合計約12万2000人です。朝鮮半島から連れてこられた人々も、少なくとも300人以上が亡くなりました。軍人・軍属よりも一般住民の犠牲者が上回ったことが、沖縄戦の大きな特徴です。<沖縄戦ってどんな戦争だったの?>・3月23日からの沖縄戦169回のシリーズを経て、これまで見てきたように、日本軍は、圧倒的な戦力を誇る米軍を面前に、現地調達主義で住民から食糧や資材を収奪するありとあらゆる方法を講じ、また住民を未成年者から中高年まで現地召集し使役した一方、「スパイ」と称して夥しい住民殺害に手を染めた。

それだけではない。同じ隊内で「処分」と称して見せしめの隊員の虐待や処刑を行い、傷病兵の大量殺戮を行いながら撤退した。玉砕や散華といった宗教的なレトリックを使って国家のための死を美化する一方、浄化能力のない「真空地帯」となった軍は、性をはけ口として組織的に推奨・黙認する。このため日本軍が駐屯する地はどこでも「酒」と「慰安所」が必須のものとなり、隊長らは公然と「愛人」と同居した。

壮大で実行不可能な命令が次々と下り、嘘の報告で誤魔化すことが常習化した。その嘘情報に基づいて次の壮大な作戦が立てられ、上部への報告義務を果たすためだけや、命令の対面を保つためだけに、大勢のいのちが無残にも湯水のように使い捨てられた。

ー これらの点において、沖縄戦における日本軍は、対する米軍にとっては考えられない突出した特質を持っていた。

「名誉」の戦死とされているものの、実質は無残にも「友軍に殺された」住民や兵士や軍属の数はどれだけにのぼるのだろうか。「友軍」とよばれた沖縄の日本軍は、ある局面では、米軍と戦うのではなく、むしろ住民や兵士・軍属に対して軍刀を振り回し、戦争を戦っていた。

なぜならば、沖縄そのものが、米軍に差しだす日本の「捨て石」であったからである。

この国は、「捨て石」にすると決めた者たちの声は聞かない。

それは今も同じではないか。<引用先原文>

1951年 – 長崎県大島町に存在した大島炭鉱第1坑でガス爆発が発生。死者10人、重症者5人[1]。

2011年 – ヤロスラヴリ旅客機墜落事故が発生する[5]。死者44人生存1人。

2017年 – メキシコで最大マグニチュード8.2のチアパス地震が起こる[7]。死者90人以上。

—————————————————-    

70年 – ユダヤ戦争エルサレム攻囲戦: ティトゥス率いるローマ帝国軍がエルサレムを完全に制圧[要出典]。ユダヤ戦争は66~73年のローマ帝国とユダヤの戦争。ローマ帝国延べ7万人 ユダヤ勢力は10万人程度で損失多大とされる。8月31日のエルサレム神殿の攻略完了(この残骸が嘆きの壁)。9月7日でローマのエルサレム攻略自体が完全完了。残りは3年にわたる残党の掃討戦であった。

開戦までの経緯

ヘロデ大王の死後、ユダヤ属州はローマの総督によって直轄されていたが、大王の孫であったアグリッパ1世は巧みにローマ側にすりよって、41年にユダヤの統治を委ねられた。このアグリッパ1世が44年に病死すると、再びユダヤ地方はローマの直轄地となった。当時のローマ帝国は基本的に被支配民族の文化を尊重し、統治者としてバランスのとれた巧みな統治政策を示しているが、多神教文化であった地中海世界の中で、一神教を奉ずるユダヤは特殊な文化を持った地域であったため、支配されていたユダヤ人のローマへの反感は日増しに高まった。

エルサレム攻囲戦(エルサレムこういせん、英語: Siege of Jerusalem)は、西暦70年にエルサレムを巡って起こった攻城戦。ユダヤ属州のユダヤ人とローマ帝国の間に起こったユダヤ戦争(第一次ユダヤ戦争)の決戦になった。この戦いでローマ軍は、ユダヤ人の叛乱軍が66年以来立て籠もっていたエルサレムを陥落させ、市街のほか、聖地であるエルサレム神殿も破壊された。一部のユダヤ人はマサダ砦に逃れ、73年に玉砕するまで戦い続けた。

エルサレムの喪失で本拠地を失ったユダヤ民族は各地に離散した。神殿の崩壊した日は民族の悲劇の日とされ、今でもティシュアー・ベ=アーブと呼ばれる悲しみの記念日とされている。神殿の破壊を描いた絵画や、題材にした文学も現代まで数多く創作された。

1191年 – 第3回十字軍: アルスフの戦い。リチャード1世の十字軍がサラーフッディーンを撃退。損害 十字軍 11200人中 戦死700人 サラディンのアイユーブ朝 25000人中 戦死7000人。

アルスフの戦い (英: Battle of Arsuf ) とは、1191年9月7日に勃発した第3回十字軍における戦闘の1つである。この戦いではイングランド王リチャード1世率いる十字軍とサラディン率いるアイユーブ朝軍が戦った。そしてリチャード1世がサラディンを撃破し、サラディンは多くの兵を失って敗走した。

1706年 – スペイン継承戦争: トリノの戦い。年月日:1706年5月14日 – 9月7日 オーストリア プロイセン同盟軍 44700人中 戦死3000人 フランス 40000人中 戦死傷4000人強。

トリノの戦い(イタリア語: Assedio di Torino)は、スペイン継承戦争における戦闘の一つで、1706年9月7日にピエモンテ地方の都市トリノでオーストリア・サヴォイア・プロイセン同盟軍とフランス軍が衝突した。トリノは5月14日からフランス軍に包囲されていたが、この戦いで救援軍が包囲軍に勝利したことにより解放、イタリア戦線は同盟軍が決定的に優位に立った。

1757年 – 七年戦争: モイスの戦い。オーストリア軍 3万人中戦死800人 プロイセン軍1万3千人中 戦死1500人。

モイスの戦い(モイスのたたかい、ドイツ語: Schlacht von Moys)は、七年戦争中の1757年9月7日、ハンス・カール・フォン・ヴィンターフェルト率いるプロイセン軍がオーストリア軍に敗北した戦闘。

影響

ハンス・カール・フォン・ヴィンターフェルトの死により、アウグスト・ヴィルヘルム公は有能な顧問を失った。そして続く数週間にわたって9万に迫るオーストリア軍の追撃を受け、補給を断たれながらも公は整然と撤退する。プロイセン軍の撤退はラウジッツとシュレージエンを通り越してブレスラウの城門まで続いた。1757年11月には、要塞都市シュヴァイトニッツ(英語版)の失陥(第一次シュヴァイトニッツ包囲戦)とブレスラウの戦いにおける敗北が続くこととなる。

1812年 – ナポレオン戦争・1812年ロシア戦役: ボロジノの戦い。フランス 18万人中 戦死傷50000人強 ロシア 16万人中 戦死傷40000人強。 

ボロジノの戦い(ボロジノのたたかい、ロシア語: Бородинское сражение, 1812年9月7日(ユリウス暦8月26日))は、1812年ロシア戦役(ナポレオン戦争)における戦闘の1つである。フランスではモスクワ川の戦い(モスクワがわのたたかい、Bataille de la Moskova)とも呼ばれる。

モスクワ西方のボロジノ[1]近郊で、フランス皇帝ナポレオン1世率いる大陸軍(フランス軍を中核とするヨーロッパ諸国連合軍)と、クトゥーゾフ率いるロシア帝国陸軍との間で戦いが行われた。両軍ともに甚大な損害を出したものの決定的な勝利は得られず、ロシア軍の戦略的撤退によって戦いは終息した。

1940年 – 第二次世界大戦: ナチス・ドイツがイギリスへの大規模な空襲(ザ・ブリッツ)を開始。翌年5月までに約4万人が死亡。

ザ・ブリッツ(英語: the Blitz、ロンドン大空襲[1])とは、第二次世界大戦中にナチス・ドイツがイギリスに対して1940年9月7日から1941年5月10日まで行った大規模な空襲のことである。「ブリッツ(ドイツ語: Blitz)」とは、ドイツ語で稲妻を意味するが、イギリス側での呼び名である。

概要

ロンドン空襲を記録した動画

空襲がイギリス中の多くの都市や町に行われる間、ロンドンへの連続57日間に及ぶ夜間空襲から始まった[2]。1941年5月末までに4万3000名以上の民間人(半分がロンドン市民)が爆撃で死亡、100万以上の家屋が損害を受けた[3][4]。ロンドン市民は空襲を避け地下へ潜り込んだ。地下鉄の駅構内が人々の避難所となった。

アドルフ・ヒトラーの狙いは、英国民の不満を高めて政府の士気を低下させ、降伏に導くことだった。しかし、1941年5月までにイギリス空軍の防戦により、潜在的なイギリス侵攻の脅威を払い、ドイツはイギリスをあきらめ、ドイツの次の注目は東部戦線へと移った。

戦争が終結するまでドイツ空軍は、大規模な空襲には至らなかったものの、小規模な襲撃を継続し、5万1509名の民間人が被害を受けた。1944年に開発されたV1飛行爆弾やV2ロケットの登場は、再びヨーロッパ大陸からロンドンを襲撃することを可能にした。これら報復兵器の攻撃で8,938名の民間人が死傷した[5]。

1945年-沖縄戦9月7日・1945年6月23日に第32軍牛島満司令官らが自刃するが、今まで見てきたように、それで沖縄戦は終わったのではない。牛島の最後の指令は沖縄を終わりなき戦場にさせた。9月7日、最終的な沖縄守備軍の降伏調印式が行われ、これをもって沖縄は正式に終戦の日を迎える。<引用先原文>・旧越来村、現在の嘉手納基地内で行われた降伏調印式には第32軍司令官・牛島満中将が自決したため、守備軍を代表して先島群島司令官・納見敏郎中将ら3人が出席。戦車や武装兵が待機する中、納見中将らは降伏文書に署名を行い、沖縄における戦闘が正式に終結します。住民は戦闘の脅威から解放されますが、文書には「日本帝国政府により執行された全面降伏に基づいて琉球諸島を無条件に引き渡すものである」と記されています。調印後、沖縄奄美は日本本土から切り離され、アメリカ軍の直接統治下に置かれることになります。<65年前のきょうは1945年9月7日(金) – QAB NEWS Headline>・7月18日に一旦沖縄の占領政策を担うことになった米陸軍は、沖縄の行政権日本の降伏とそれに伴う日本や韓国への進駐で大幅な人員が必要とされ、9月21日には陸軍から海軍に沖縄占領の管轄権が移行される。(中略)しかし海軍の管轄も10カ月あまりで終わる。東海岸の多くの海軍基地は二つの台風で壊滅的な打撃を受け、基地の持続はコストに見合わないと判断されるにいたる。(中略)こうして沖縄の占領は二転三転しながら、陸軍統治下におかれる。(中略)米陸軍の公刊史はその時代を「無関心とネグレクト」と表現した。<引用先原文>・仲村渠さんの説得で投降、屋嘉収容所で写真班の仕事をしていた渡辺憲央さん証言

ある日、まさかと思った鹿山と沢田の写真を現像していたのである。この人が生きているとは信じられなかった。私はその晩さっそく二人の幕舎を訪問した。二人とも別におどろいた様子もなかったが、鹿山はちらっと私を見て、ぶいと横を向いた。沢田はふたことみこと話の相手をしていた。鹿山はその間終始横を向いたまま、うんともすんともいわなかった。

それから二、三日して、鹿山の部下の一人が私を訪ねて来た。この人は久米島では身にあまる事をやり、今、良心に咎められ、訴えに来たといって、久米島のことを逐一話していた。仲村渠さん一家の虐殺 は、私はしばらく声も出なかった。私がここで知ったことであるが、仲村渠さんが久米島に渡ったもう一つの理由は、鹿山を説得して山から降すことであった。それはすでに捕虜になっていた鹿山の上官の大尉の強い依頼によるものだったという。海軍のめしを食べていた仲村渠さんにしては当然引き受けるべきだと信じてやったに違いない。久米島で殺した村民二十余名。みなスパイ容疑だったという。しかし朝鮮人一家皆殺しにいたっては、私が鹿山や沢田と初めてあった時の印象を実証してみせているようなサデイステックな殺人である。

… 日本人収容所では、将校も下士官も、戦争中悪いことをした連中は、毎晩必ずどこかで私刑にあっていた。そのようなある晩、塵山は一部の部下に私刑され、それに久米島出身者が加わって暴力をうけ、一月ばかり寝込んで作業にも出て来なかった。<沖縄戦証言 久米島と鹿山隊 『沖縄県史』 久米島篇 Battle of Okinawa>・沖縄戦では約20万人あまりもの人が亡くなりました。そのうち日本兵の戦死者は6万6000人、アメリカ兵の戦死者は1万2500人です。沖縄県民の犠牲者は一般住民が約9万4000人、沖縄出身の軍人・軍属が約2万8000人で、合計約12万2000人です。朝鮮半島から連れてこられた人々も、少なくとも300人以上が亡くなりました。軍人・軍属よりも一般住民の犠牲者が上回ったことが、沖縄戦の大きな特徴です。<沖縄戦ってどんな戦争だったの?>・3月23日からの沖縄戦169回のシリーズを経て、これまで見てきたように、日本軍は、圧倒的な戦力を誇る米軍を面前に、現地調達主義で住民から食糧や資材を収奪するありとあらゆる方法を講じ、また住民を未成年者から中高年まで現地召集し使役した一方、「スパイ」と称して夥しい住民殺害に手を染めた。

それだけではない。同じ隊内で「処分」と称して見せしめの隊員の虐待や処刑を行い、傷病兵の大量殺戮を行いながら撤退した。玉砕や散華といった宗教的なレトリックを使って国家のための死を美化する一方、浄化能力のない「真空地帯」となった軍は、性をはけ口として組織的に推奨・黙認する。このため日本軍が駐屯する地はどこでも「酒」と「慰安所」が必須のものとなり、隊長らは公然と「愛人」と同居した。

壮大で実行不可能な命令が次々と下り、嘘の報告で誤魔化すことが常習化した。その嘘情報に基づいて次の壮大な作戦が立てられ、上部への報告義務を果たすためだけや、命令の対面を保つためだけに、大勢のいのちが無残にも湯水のように使い捨てられた。

ー これらの点において、沖縄戦における日本軍は、対する米軍にとっては考えられない突出した特質を持っていた。

「名誉」の戦死とされているものの、実質は無残にも「友軍に殺された」住民や兵士や軍属の数はどれだけにのぼるのだろうか。「友軍」とよばれた沖縄の日本軍は、ある局面では、米軍と戦うのではなく、むしろ住民や兵士・軍属に対して軍刀を振り回し、戦争を戦っていた。

なぜならば、沖縄そのものが、米軍に差しだす日本の「捨て石」であったからである。

この国は、「捨て石」にすると決めた者たちの声は聞かない。

それは今も同じではないか。<引用先原文>

1951年 – 長崎県大島町に存在した大島炭鉱第1坑でガス爆発が発生。死者10人、重症者5人[1]。

2011年 – ヤロスラヴリ旅客機墜落事故が発生する[5]。死者44人生存1人。

2017年 – メキシコで最大マグニチュード8.2のチアパス地震が起こる[7]。死者90人以上。

チャットgpt先生の9月7日のエッセイ

9月7日という日付を、戦争史を中心とした「出来事の集合」ではなく、国家・軍隊・都市・補給・撤退・占領という構造が、どのように一つの地点へ収束する日なのかという観点から整理すると、かなり特徴的な日になる。

9月7日――戦争は「勝敗」より、その後の構造で決まる

9月7日の歴史を眺めていると、奇妙な反復が見えてくる。

70年のエルサレム、1191年のアルスフ、1706年のトリノ、1757年のモイス、1812年のボロジノ、1940年の英国空襲、そして1945年の沖縄。

時代も地域も違う。宗教戦争、王朝戦争、帝国間戦争、世界大戦と性質も違う。それでも共通しているのは、戦争が単純な「一戦一勝」で終わらないということである。

戦場で敵軍を破ることと、政治的・軍事的な目的を達成することは別問題だからだ。

9月7日に集中している出来事は、この違いを非常によく示している。


エルサレム――都市を取ることと戦争を終わらせることは違う

70年のエルサレム攻囲戦では、ローマ軍が反乱の中心であるエルサレムを制圧した。

ここで重要なのは、都市の陥落がそのまま反乱勢力の消滅を意味しなかったことである。

エルサレムという政治・宗教・軍事上の中枢を失えば、ユダヤ側の戦争遂行能力は大幅に低下する。しかし、それでも抵抗拠点は残る。

その典型がマサダであり、最終的な掃討にはさらに時間を要した。

つまり、軍事作戦には少なくとも、

①敵の主力を撃破する
②敵の中枢を奪取する
③残存勢力の再編能力を奪う
④地域全体を統制する

という複数の段階がある。

「首都を落としたから戦争終了」という単純な図式ではない。

むしろ首都陥落後こそ、占領側にとっては治安維持、補給、行政、残党処理という別の戦争が始まる。

これは古代に限った話ではない。


アルスフ――戦術的勝利と戦略的目的

1191年のアルスフの戦いでは、リチャード1世率いる十字軍がサラディン軍を撃破した。

しかし、これも「勝ったから終わり」ではない。

十字軍側の目的は単なる一個軍団の撃破ではなく、エルサレム奪還という政治的目的だった。

したがって、戦術的勝利には次の問題が残る。

勝ったあと、どこまで進めるのか。
補給線を維持できるのか。
占領した地域を維持できるのか。
敵が再編する前に次の行動へ移れるのか。

ここで軍事力は兵士の数だけでは決まらない。

道路、港湾、食料、馬、情報、要塞、現地勢力との関係など、巨大なシステムとしての軍隊が必要になる。

アルスフは「会戦に勝つ能力」と「戦争目的を達成する能力」の差を示している。


トリノ――包囲戦を決めるのは城壁の内側だけではない

1706年のトリノでは、フランス軍が長期間にわたって都市を包囲していたところへ、救援軍が到着し、包囲軍が敗北した。

ここでは別の構造が見える。

包囲する側が強いとは限らない。

都市を包囲する軍隊は、その瞬間には攻撃側であっても、時間が経過するほど自分自身が固定化される。

大量の兵力を一か所に拘束し、補給を必要とし、敵の救援軍に対して側面を晒す。

つまり、

攻撃する側が、時間とともに戦略的には受動側になる

という逆転が起こり得る。

トリノでは、その弱点を救援軍が突いた。

戦争において「現在どちらが攻撃しているか」は、必ずしも「現在どちらが主導権を持っているか」と一致しない。


モイス――一人の指揮官の損失が組織全体に波及する

1757年のモイスの戦いではプロイセン軍が敗北し、ハンス・カール・フォン・ヴィンターフェルトが戦死した。

ここでは軍隊という組織の別の弱点が現れる。

軍隊は巨大な組織だが、意思決定の能力は均等に分散されているわけではない。

有能な指揮官、参謀、情報担当者、補給担当者などに能力が集中している場合、その人物の喪失は単なる「兵士一人の損失」ではない。

人的資本の喪失が、指揮系統全体の性能低下につながる。

特に18世紀の戦争では、通信速度が遅く、現場判断への依存度が高い。

したがって、指揮官の能力差は、そのまま軍隊の機動力や判断速度の差になった。

現代の組織でも同じ構造は存在する。


ボロジノ――勝っても戦争に負ける

9月7日の歴史で最も象徴的なのが1812年のボロジノである。

ナポレオン軍とロシア軍が正面から激突し、双方が甚大な損害を受けた。

フランス軍は戦場を確保したが、ロシア軍は決定的に破壊されず、戦略的撤退を続けた。

ここで重要なのは、

戦場の勝者と戦争の勝者は一致しない

ということだ。

ナポレオンに必要だったのは「ボロジノでロシア軍を押し返すこと」ではなく、ロシアを政治的に屈服させることであった。

ところがロシア側は、首都・モスクワを失うことさえ受け入れながら、軍隊そのものを温存する方向へ動いた。

結果としてナポレオン軍はモスクワに入った。

しかし、そこから状況が崩れる。

巨大な軍隊は、戦場で勝つことよりも、勝った場所から生きて帰ることのほうが難しい場合がある。

補給線が伸びる。

現地から十分な物資を調達できない。

敵が決戦を拒否する。

時間が経過する。

兵力が消耗する。

そして冬が来る。

ボロジノは、火力や兵力の比較だけでは戦争の結果を説明できないことを示している。


1940年9月7日――都市そのものが戦場になる

1940年9月7日、ドイツによる英国本土への大規模空襲が始まった。

ここで戦争の対象が変わる。

従来の戦争では、敵軍を撃破することが中心だった。

しかし航空戦では、軍事施設だけでなく、

工場、港湾、鉄道、発電所、都市、住宅地、交通網

そのものが戦争遂行能力の一部になる。

つまり「前線」という概念が薄くなる。

ロンドン市民が地下鉄駅へ避難したという事実は象徴的である。

都市インフラが軍事施設であると同時に、生存インフラにもなる。

そして都市への攻撃は、単純に「爆弾を落として建物を壊す」という話ではない。

狙いは生産能力、交通能力、行政能力、国民の士気、政治指導部の意思決定能力など、社会システム全体に圧力をかけることにある。

ところが英国は崩壊しなかった。

ここでも、

物理的破壊=政治的降伏

ではなかった。


1945年9月7日――沖縄で「戦闘終了」と「戦争終了」が分離する

そして日本史・東アジア史という視点では、1945年9月7日の沖縄が特に重要になる。

沖縄では6月23日の牛島満らの自決によって日本軍の組織的抵抗が大きく崩壊した。

しかし、それをもって沖縄におけるすべての軍事的状態が即座に終わったわけではない。

9月7日、降伏調印が行われる。

ここで初めて、

戦闘

軍事的抵抗

降伏

占領

行政権の移行

という異なる段階が明確になる。

この区別は極めて重要である。

戦争を「撃ち合い」とだけ考えると、6月23日で終わったように見える。

しかし国家間戦争を構造として見るなら、降伏文書に署名し、軍事組織が武装解除され、行政権が移されるところまで含めて考える必要がある。

つまり9月7日は、

沖縄において戦争が「戦闘」から「統治」へ転換する日

として見ることができる。


沖縄で見える「戦争の最終段階」

沖縄戦を構造的に見る場合、最も重要なのは戦闘そのものだけではない。

日本軍は圧倒的な物量を持つ米軍に対して、正面から決戦して勝つことが困難だった。

そこで日本側が選択したのが、地形を利用した持久戦である。

これは軍事的には合理性を持つ。

敵に時間を使わせる。

敵の損害を増やす。

本土決戦に向けて時間を稼ぐ。

しかし、その作戦を成立させるには、現地の食料、労働力、輸送能力、地下壕、情報網などが必要になる。

つまり軍隊だけで完結する戦争ではなく、

軍隊が社会そのものを戦争遂行システムへ組み込む

ことになる。

ここから住民の動員、食料の徴発、労務、避難、情報統制などが発生する。

戦線が長期化すればするほど、軍と民間社会の境界は薄くなる。

これは沖縄だけの特殊現象ではない。

総力戦そのものが持つ構造である。


「捨て石」という言葉を構造に置き換える

沖縄について語られる「捨て石」という表現は、感情的な評価としてではなく、軍事戦略上の配置として考えることができる。

すなわち、

本土防衛の準備時間を確保するため、周辺地域で敵軍を拘束する。

これは軍事戦略としては古典的な考え方である。

問題は、その地域に投入できる戦力と補給能力が敵より大幅に劣る場合だ。

その場合、地域防衛の目的は「その地域を守る」ことから、

敵にどれだけ時間と損害を負わせられるか

へ変わってしまう。

この瞬間、その土地の軍事的価値と、その土地を維持する住民の生命・経済的価値が乖離する。

軍事計画から見れば「時間を買う地域」。

住民から見れば「生活そのものが戦場になる地域」。

この二つは同じ地図上に存在するが、目的関数が違う。

沖縄戦を理解するには、この構造を押さえる必要がある。


9月7日に共通するもの

70年から1945年まで、9月7日に起きた戦争を並べると、一つのパターンが浮かび上がる。

エルサレムでは都市を失っても抵抗は続いた。

アルスフでは会戦に勝っても政治目的は残った。

トリノでは包囲が救援軍によって逆転した。

モイスでは指揮官の喪失が軍全体へ波及した。

ボロジノでは戦場で優位に立っても敵軍を消滅させられなかった。

ブリッツでは都市を破壊しても英国政府は降伏しなかった。

沖縄では戦闘が終わった後に降伏と占領という別の段階が続いた。

つまり、9月7日の歴史が示しているのは「戦争の勝敗」そのものではない。

むしろ、

戦争とは、敵軍を殺す競争ではなく、相手の政治・軍事・経済・補給・行政システムを先に機能不全へ追い込む競争である。

という現実である。

兵力が多いこと。

戦場で勝つこと。

都市を占領すること。

敵の首都に入ること。

これらはすべて重要だが、それだけでは戦争は終わらない。

最後に必要なのは、相手が再び戦争を継続できない状態を作ることである。

そして逆に、戦力で劣る側に残された最大の選択肢は、敵軍そのものを完全に破壊できなくても、時間、距離、地形、補給、政治コストを利用して戦争の計算式を変えることになる。

ボロジノも沖縄も、形は違ってもこの問題を抱えている。


9月7日という日

だから9月7日は、単純に「○○の戦いがあった日」として見るより、

攻撃と防御、戦術と戦略、戦闘と占領、勝利と終戦が一致しない日

として見ると面白い。

戦争では、戦場で最も強い者が必ずしも最終的な政治的勝者になるとは限らない。

都市を占領しても残党が残る。

会戦に勝っても敵軍が逃げれば再編される。

首都を取っても国家が降伏しなければ戦争は続く。

空爆しても社会が崩壊しなければ目的は達成できない。

そして戦闘が終わっても、降伏、武装解除、占領、行政移管が残る。

戦争は一発の決戦で終わるものではなく、巨大なシステムが停止するまで続く。

9月7日に並ぶ歴史的事件は、そのことを異なる時代から繰り返し示している。

そして最終的に勝敗を決めるのは、戦場の一日の結果だけではない。

誰がより長く、より遠く、より安く、より組織的に戦争を継続できるのか。

そこまで見て初めて、歴史上の「勝利」と「敗北」の意味が見えてくる。