9月5日
20260905土曜日旧暦7月24日赤口(19番壬午みずのえうまジンゴ)月齢 23.3
43番丙午ひのえうま年 33番丙申ひのえさる月 19番壬午みずのえうま日
吉方位 隠遁日 壬午みずのえうま日 南西 大吉 年末まであと117日
https://ja.wikipedia.org/wiki/9%E6%9C%885%E6%97%A5
9月5日の出来事
1595年(文禄4年8月2日)- 京都三条河原で関白豊臣秀次の正室・側室・遺児ら39名が処刑される。
1596年(慶長元年閏7月13日) – 近畿地方で大地震(慶長伏見地震)が発生。伏見城の天守が大破する。死者は1000人以上とされる。
1781年 – アメリカ独立戦争:チェサピーク湾の海戦が行われる。イギリス王国艦隊とフランス王国(米国支援)艦隊の海戦 フランス艦隊の勝利。イギリス王国は1588アルマダ海戦以来現代にいたるまでの最大の敗戦とする。損害 フランス24隻中2隻損傷 戦死傷209人 イギリス27隻中 6隻大破沈没 戦死傷336人。
1864年(元治元年8月5日) – 下関戦争:四国艦隊下関砲撃事件。英米蘭仏の4か国連合艦隊が下関に砲撃開始。1863と1864の二回 損害 米国他1863軍艦3隻 1864軍艦17隻四国連合艦隊 死亡12人 長州軍 軍艦4隻中 3隻大破 戦死傷1863不明1864 47人。
1887年 – 800名が観劇中の英国エクセターの王立劇場の舞台上で火災が発生。死者は約150名と言われており、19世紀の英国史上最悪の火災とされる[1]。
1905年 – ポーツマス条約が締結され、日露戦争が終結。日比谷焼打事件発生、日本各地でも同様の暴動が起こる。
日付 1905年(明治38年)9月5日
概要 日比谷公園で行われたポーツマス条約反対の国民集会が暴動に発展
損害 死者17名、負傷者500名。内務大臣官邸、国民新聞社、交番などが襲撃される。
対処 87名に有罪判決
1914年 – 第一次世界大戦:マルヌ会戦が始まる。フランスのマルヌ川河畔の戦い。9月6日~12日ドイツの短期決着目論見崩れ、戦争は長期に持ち越される。損害 フランス・イギリス連合 100万人強 戦死傷263000人 ドイツ140万人強 戦死傷250000人
1945年-沖縄戦9月5日・琉球列島の日本軍降伏受諾に関し、米第10軍司令官は8月29日に徳之島と宮古島の日本軍司令部に連絡をとりつける。9月4日、宮古島から納見敏郎中将が到着。7日の沖縄第32軍降伏調印式まで、降伏文書の調整が行われる。<引用先原文>・4月1日のミニッツ布告によって貨幣を含め一切の金融・経済活動が停止された沖縄で、未曽有の無貨幣社会となる。(旧)日本紙幣は米兵に人気の戦利品(土産)となった。<引用先原文>・米軍が沖縄本島に上陸して軍政府の樹立を宣言した1945年4月1日から、第1次通貨交換によって通貨経済が再開された1946年4月15日までの約1年間は現代史においてはきわめて異例ともいえる「通貨なし経済」が続いた。
上陸と同時に米軍は作戦上、住民を戦闘地区から非戦闘地域へ強制的に移動させて収容したが、戦後の住民生活はこのような収容所の中からスタートした。生産施設はいうにおよばず、ほとんどすべてのものを破壊された住民は、まさに着のみ着のままの状態であった。食糧、衣類等は米軍によって無償で支給される一方、労働可能な住民は収容所の建設、米軍施設の雑役、沖縄戦の後かたづけ等の「軍作業」に駆り出された。住民はこれを無償配給時代と呼んでいるが、そこでは通貨は流通せず、すべてが現物で支給または交換される物々交換の経済を営んでいた。こうした現物経済の下で必要なものはバーター方式で入手したが、当時、物々交換の単位を表わす標準的な価低尺度として利用されたのは米国製のタバコであったといわれる。《牧野浩隆『戦後沖縄の通貨 上』おきなわ文庫 (2014) 》・【訳】沖縄で捕らえられた捕虜の少なさほど、太平洋戦線とヨーロッパ戦線の大きな違いを、よく表しているものはない。… これらの捕虜の数字に照らせば、日本の士気の状態に疑問の余地はない。日本兵は殺されるまで戦った。日本人の死傷者は死者一種類だけだった。負傷した者はその傷で死亡するか、殺されるべく戦線に戻されたかのどちらかだ。<Enemy Prisoners of War, Retained Personnel, Civilian Internees and Other Detainees, Department of the Army, 1997. – Basically Okinawa>・日本が「琉球処分」と呼んだ1879年3月27日の沖縄強制併合から、わずか66年目、皇国の「ヤマト世」は、ありったけの地獄をかき集めた沖縄戦で終わりを告げる。<引用先原文>・米軍野戦病院: 久志村
日本が無条件降伏をして「イクサ」は終わった。テント病棟の喧騒はおさまり、退院を待つ者が多くなったためであろうか、村のこと、暮らしの様子が話の中心であった。特に、消灯後の話は、離れ離れになっている肉親のこと、故郷への思いに終始した。あとは思い出につながる歌を歌い、今でいうリクエストがでると誰かが歌った。
そのころ、私たち(私だけだったかもしれない)には、日本が戦争に負けたという切迫したものがなかった。日本降伏の日の悲嘆はどこへどうなったか、誰も口にしなかった。祖国という観念も消えていた。戦争に負けたことに、むしろホッとしている自分に気がついてもあわてなかった。後ろめたさもなかった。《「狂った季節 戦場彷徨、そしてー。」(船越義彰/ニライ社) 121頁より》・県立水産学校通信隊でたった一人生き残った瀬底正賢さん証言
瀬底さんらが捕虜になったのは終戦からかなりたった10月3日だ。6月下旬の司令部壕の落盤で負傷した上前寛市さんも、かなり弱っていた。瀬底さんも地雷に吹き飛ばされた時、30カ所に大小の傷を負い元気はなかった。
南部の収容所に着いた時、元警察署長*1 だった責任者に「上前君は弱っており、早く医者に見せてもらいたい」とたのんだ。だが、返って来た言葉は「学徒兵でも陸軍2等兵は陸軍2等兵。そんな言い訳は聞けない」と断られ、トラックで屋嘉収容所に運ばれた。2、3日して上前さんは傷口が悪化、死亡した。
「軍部とともに威張り、私たちを戦場へ駆り立てていた警察幹部が、そのころには米軍の下で威張っている。たった1人生き残った学友も彼が奪った。今でも彼に対して怒り、うらみは消えない」― 純心であるがゆえに、戦場での犠牲も大きかった学徒だけに、変わり身の早い大人たちの身勝手さは許せなかった。<沖縄県立水産学校 22人の水産通信隊 たった一人の生還 – Battle of Okinawa>
1972年 – ミュンヘンオリンピック事件。ミュンヘンオリンピックの選手村でパレスチナゲリラがイスラエル選手団を殺害。死者17人。
2005年 – マンダラ航空091便墜落事故が起こる。死亡100人生存17人。
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1595年(文禄4年8月2日)- 京都三条河原で関白豊臣秀次の正室・側室・遺児ら39名が処刑される。
その後
7月16日、秀吉は三使が持ち帰った秀次の首を検分した。しかし秀吉はこれで満足せず、係累の根絶をはかった。7月31日、秀次の妻妾公達が亀山城より京都の徳永邸に戻され、8月1日、翌日に処刑されると通達されたので、女性達は辞世の句を認めたり、身支度などをした。
8月2日(9月5日)早朝、三条河原に40メートル四方の堀を掘って鹿垣を結んだ中で処刑が行われることになり、さらに3メートルほどの塚を築いて秀次の首が西向きに据えられた。その首が見下ろす前で、まず公達(子供たち)が処刑された。最も寵愛を受けていた一の台は、前大納言・菊亭晴季の娘であって北政所が助命嘆願したが叶わず、真っ先に処刑された。結局、幼い若君4名と姫君、側室・侍女・乳母ら39名[注釈 48]の全員が斬首された。子供の遺体の上にその母らの遺体が無造作に折り重なっていったということで、観衆の中からは余りに酷いと奉行に対して罵詈雑言が発せられ、見物にきたことを後悔した者もいたという[76][77][78]。
数時間かけて行われた秀次の眷族の処刑が済むと、大量の遺体はまとめて一つの穴に投じられた。この穴を埋め立てた塚の上に秀次の首を収めた石櫃が置かれて、首塚が造られた。首塚の石塔の碑銘には「秀次悪逆」の文字が彫られており、後述のような殺生関白の悪評もあって、人々はこれを「畜生塚」[注釈 49]や「秀次悪逆塚」と呼んでいたが、鴨川の洪水で流出した後はしばらく放置されていた。慶長16年(1611年)、河川改修の際に石版を発見した豪商・角倉了以が、供養のために瑞泉寺を建立し、「悪逆」の文字が削られて供養塔として再建された。同寺には、秀次ら一族処刑の様子を描いた絵巻「瑞泉寺縁起」が残されている[81]。
大名預かりとなっていた家老7名(前野父子・一柳・服部・渡瀬・明石・羽田)は全員死を賜り切腹した[注釈 50]。他の家臣にも遠流になった者がかなりおり、遺臣の中で許された者の多くは(石田三成陰謀説に反して)石田三成や、前田利家、徳川家康らに仕えた。
「#秀次切腹の主な連座者」も参照
秀次の遺児の中では、淡輪徹斎の娘・小督局[注釈 51]との娘で生後1ヶ月であったというお菊は、母の従兄弟・後藤興義に預けられて助かり、後に真田信繁の側室・隆清院となった娘とその同母姉で後に梅小路家に嫁いだ娘も難を逃れた、と言い伝えられている[注釈 52]。十丸の祖父にあたる北野松梅院は、娘と孫を処刑されたが、北野天満宮祠官という地位のために本人は死を免れた。
瑞龍寺の山門(日秀尼母子の菩提寺となった瑞龍寺は、後に秀次の居城八幡山城の虎口跡に移築された。)
縁故の人物を殺しつくした後には、秀次の痕跡まで消し去ろうと聚楽第や近江八幡山城の破却が命じられた。聚楽第の堀は埋め戻されて基礎に至るまで徹底的に破壊され、周囲の諸侯の邸宅も同時に取り壊された。現在の京都に、聚楽第の遺構がほとんど全く残っていないのはこのためである。近江八幡山城は、当時は親族大名の京極高次が城主であったが、城と館は破壊され、高次は大津城主に転じた。この際に近江八幡山城の部材の一部を大津城に移築したという説もある[82]。
事件では多くの連座者を出した。相婿の関係にあった浅野幸長[注釈 53]は、秀次を弁護したこともあって能登国に配流となり、その父・浅野長政も秀吉の勘気を蒙った。
細川忠興は、切腹した家老の前野景定の舅であり、秀次に黄金200枚の借金をしていた。忠興は娘をすぐに離縁させ、徳川家康に取り成しを頼んで、借財を何とか弁解し、結局、借金は秀吉に返すことで難を逃れた[83]。最上義光は娘を秀次の側室に差し出していたことで咎められた。この駒姫は事件が起こった時にはまさに上京したばかりで秀次の寝所にも入っていなかったので、前田利家、徳川家康らが助命嘆願したが、ほかの妻妾と同じように三条河原で処刑された。これが憐れであるというので、義光は結局は許された[84]。
秀吉は、事件が諸大名を動揺させないように、特に朝鮮に出兵中の諸将を安心させるために(高野山入り後の7月10日頃)書状を多数発して、真相をぼかしつつも事情を説明した。その上で、秀次切腹の前である7月12日、今後は拾(豊臣秀頼)に対して忠節を誓うように諸大名に求めて、誓紙を書かせている[85]。『大阪城天守閣所蔵文書』の7月20日付織田常真等連署起請文を見ると、28名の大名が血判書で秀頼に対して忠誠を誓っている[注釈 54]が、その中に細川忠興と最上義光の名がある。
さらに眷族皆殺しの翌日である8月3日[注釈 55]には、五大老の名で御掟五ヶ条を発令して、事件の発端となった秀次と輝元の誓約について、以後は諸大名間の縁組・誓約(同盟)が全面的に禁止されるとした。また時期は不明だが、綱紀粛正が目的と思われる御掟追加九ヶ条が定められた[88]。
1596年(慶長元年閏7月13日) – 近畿地方で大地震(慶長伏見地震)が発生。伏見城の天守が大破する。死者は1000人以上とされる。
慶長伏見地震(けいちょうふしみじしん)は、文禄5年閏7月13日(1596年9月5日)子の刻に山城国伏見(現・京都府京都市伏見区相当地域)付近で発生した大地震である。慶長伏見大地震とも呼称される。
推定マグニチュードは7.5前後で、畿内の広範囲で震度6相当の揺れであったと推計されている。京都では伏見城天守や東寺、天龍寺、方広寺大仏(京の大仏)等が倒壊し、死者は1,000人を超えたとされる。
1781年 – アメリカ独立戦争:チェサピーク湾の海戦が行われる。イギリス王国艦隊とフランス王国(米国支援)艦隊の海戦 フランス艦隊の勝利。イギリス王国は1588アルマダ海戦以来現代にいたるまでの最大の敗戦とする。損害 フランス24隻中2隻損傷 戦死傷209人 イギリス27隻中 6隻大破沈没 戦死傷336人。
チェサピーク湾の海戦(チェサピークわんのかいせん、英: Battle of the Chesapeake、またはバージニア岬の海戦、英: Battle of the Virginia Capes、あるいは単に岬の海戦、英: Battle of the Capes)は、アメリカ独立戦争中の1781年9月5日、チェサピーク湾口の近くで、海軍少将トーマス・グレイブス卿率いるグレートブリテン王国(イギリス)と、同じく海軍少将グラス伯フランソワ・ド・グラス率いるフランス王国の間で戦われた海戦である。この海戦は戦術的には引き分けたが、戦略的にはイギリス海軍の手痛い敗北に終わった。イギリス海軍としては1588年にスペイン無敵艦隊を破ってから第二次世界大戦までのほぼ400年間で最も重大な敗北だった。
フランス艦隊の勝利によって、バージニアのヨークタウンに駐屯していたチャールズ・コーンウォリス将軍の部隊に増援を送るというイギリス海軍の任務が果たせなくなった。またジョージ・ワシントン軍がニューヨークからチェサピーク湾を通って軍隊や物資を運ぶのを妨害することもできなかった。その結果はヨークタウンの包囲戦によるコーンウォリス軍の降伏となった(独立戦争で2度目のイギリス軍の大きな降伏)。その後、イギリスはアメリカ合衆国の独立を認めることになった。
1864年(元治元年8月5日) – 下関戦争:四国艦隊下関砲撃事件。英米蘭仏の4か国連合艦隊が下関に砲撃開始。1863と1864の二回 損害 米国他1863軍艦3隻 1864軍艦17隻四国連合艦隊 死亡12人 長州軍 軍艦4隻中 3隻大破 戦死傷1863不明1864 47人。
戦後、長州藩は幕命に従ったのみと主張したため、アメリカ・イギリス・フランス・オランダに対する損害賠償責任は徳川幕府のみが負うこととなった。
馬関海峡の砲台を四国連合艦隊によって無力化されてしまった長州藩は、以後列強に対する武力での攘夷を放棄し、海外から新知識や技術を積極的に導入し、軍備軍制を近代化する。さらに坂本龍馬や中岡慎太郎などの仲介により、慶応2年1月21日(1866年3月7日)に同様な近代化路線を進めていた薩摩藩と薩長同盟を締結して、共に倒幕への道を進むことになる。
1887年 – 800名が観劇中の英国エクセターの王立劇場の舞台上で火災が発生。死者は約150名と言われており、19世紀の英国史上最悪の火災とされる[1]。
1905年 – ポーツマス条約が締結され、日露戦争が終結。日比谷焼打事件発生、日本各地でも同様の暴動が起こる。
日付 1905年(明治38年)9月5日
概要 日比谷公園で行われたポーツマス条約反対の国民集会が暴動に発展
損害 死者17名、負傷者500名。内務大臣官邸、国民新聞社、交番などが襲撃される。
対処 87名に有罪判決
怒った民衆たちが日比谷公園に侵入。一部は皇居前から銀座方面へ向かい、御用新聞と目されていた国民新聞社を襲撃した。すぐ後には抜刀した5人組が内務大臣官邸を襲撃し、棍棒や丸太で裏門からも襲った。銀座からの暴徒と化した群衆も襲撃に加わった。そうして、東京市各所の交番[7]、警察署などが焼き討ち・破壊される事件が起こり、市内13か所以上から火の手が上がった[8]。
この時、日本正教会がロシアと関係が深かったことから、ニコライ堂とその関連施設も標的になり、あわや焼かれる寸前であったが、近衛兵などの護衛により難を逃れた[9]。また群衆の怒りは、講和を斡旋したアメリカにも向けられ、東京の駐日アメリカ公使館のほか、アメリカ人牧師の働くキリスト教会までも襲撃の対象となった[10]。
これにより東京は無政府状態となり、翌9月6日、日本政府は東京市および府下5郡に戒厳令[注 7]を布き[11]即日施行、近衛師団が鎮圧にあたることでようやくこの騒動を収めた[注 8]。この騒動により、死者は17名、負傷者は500名以上、検挙者は2000名以上にものぼった。このうち裁判にかけられた者は104名[13]、有罪となったのは87名であった。
なお、各地で講和反対の大会が開かれ、9月7日に神戸、9月12日に横浜でも暴動が起こった[注 9]。
1914年 – 第一次世界大戦:マルヌ会戦が始まる。フランスのマルヌ川河畔の戦い。9月6日~12日ドイツの短期決着目論見崩れ、戦争は長期に持ち越される。損害 フランス・イギリス連合 100万人強 戦死傷263000人 ドイツ140万人強 戦死傷250000人。
第一次マルヌ会戦(だいいちじマルヌかいせん、フランス語: Première bataille de la Marne、ドイツ語: Erste Schlacht an der Marne、英語: First Battle of the Marne)は、1914年9月、ベルギーを突破したドイツ軍をフランス軍がマルヌ河畔で食い止めた第一次世界大戦中の戦い。単にマルヌ会戦とも呼ばれる。この戦いによって、ドイツ軍のシュリーフェン・プランは挫折し、短期決戦から長期戦へと戦局は変わっていったことからマルヌの奇跡とも呼ばれている。
概要
第一次世界大戦初期におけるドイツ・フランス主力の会戦(1914年9月6日-12日)で、これによってドイツ軍のフランス席巻計画は完全に失敗した。
1945年-沖縄戦9月5日・琉球列島の日本軍降伏受諾に関し、米第10軍司令官は8月29日に徳之島と宮古島の日本軍司令部に連絡をとりつける。9月4日、宮古島から納見敏郎中将が到着。7日の沖縄第32軍降伏調印式まで、降伏文書の調整が行われる。<引用先原文>・4月1日のミニッツ布告によって貨幣を含め一切の金融・経済活動が停止された沖縄で、未曽有の無貨幣社会となる。(旧)日本紙幣は米兵に人気の戦利品(土産)となった。<引用先原文>・米軍が沖縄本島に上陸して軍政府の樹立を宣言した1945年4月1日から、第1次通貨交換によって通貨経済が再開された1946年4月15日までの約1年間は現代史においてはきわめて異例ともいえる「通貨なし経済」が続いた。
上陸と同時に米軍は作戦上、住民を戦闘地区から非戦闘地域へ強制的に移動させて収容したが、戦後の住民生活はこのような収容所の中からスタートした。生産施設はいうにおよばず、ほとんどすべてのものを破壊された住民は、まさに着のみ着のままの状態であった。食糧、衣類等は米軍によって無償で支給される一方、労働可能な住民は収容所の建設、米軍施設の雑役、沖縄戦の後かたづけ等の「軍作業」に駆り出された。住民はこれを無償配給時代と呼んでいるが、そこでは通貨は流通せず、すべてが現物で支給または交換される物々交換の経済を営んでいた。こうした現物経済の下で必要なものはバーター方式で入手したが、当時、物々交換の単位を表わす標準的な価低尺度として利用されたのは米国製のタバコであったといわれる。《牧野浩隆『戦後沖縄の通貨 上』おきなわ文庫 (2014) 》・【訳】沖縄で捕らえられた捕虜の少なさほど、太平洋戦線とヨーロッパ戦線の大きな違いを、よく表しているものはない。… これらの捕虜の数字に照らせば、日本の士気の状態に疑問の余地はない。日本兵は殺されるまで戦った。日本人の死傷者は死者一種類だけだった。負傷した者はその傷で死亡するか、殺されるべく戦線に戻されたかのどちらかだ。<Enemy Prisoners of War, Retained Personnel, Civilian Internees and Other Detainees, Department of the Army, 1997. – Basically Okinawa>・日本が「琉球処分」と呼んだ1879年3月27日の沖縄強制併合から、わずか66年目、皇国の「ヤマト世」は、ありったけの地獄をかき集めた沖縄戦で終わりを告げる。<引用先原文>・米軍野戦病院: 久志村
日本が無条件降伏をして「イクサ」は終わった。テント病棟の喧騒はおさまり、退院を待つ者が多くなったためであろうか、村のこと、暮らしの様子が話の中心であった。特に、消灯後の話は、離れ離れになっている肉親のこと、故郷への思いに終始した。あとは思い出につながる歌を歌い、今でいうリクエストがでると誰かが歌った。
そのころ、私たち(私だけだったかもしれない)には、日本が戦争に負けたという切迫したものがなかった。日本降伏の日の悲嘆はどこへどうなったか、誰も口にしなかった。祖国という観念も消えていた。戦争に負けたことに、むしろホッとしている自分に気がついてもあわてなかった。後ろめたさもなかった。《「狂った季節 戦場彷徨、そしてー。」(船越義彰/ニライ社) 121頁より》・県立水産学校通信隊でたった一人生き残った瀬底正賢さん証言
瀬底さんらが捕虜になったのは終戦からかなりたった10月3日だ。6月下旬の司令部壕の落盤で負傷した上前寛市さんも、かなり弱っていた。瀬底さんも地雷に吹き飛ばされた時、30カ所に大小の傷を負い元気はなかった。
南部の収容所に着いた時、元警察署長*1 だった責任者に「上前君は弱っており、早く医者に見せてもらいたい」とたのんだ。だが、返って来た言葉は「学徒兵でも陸軍2等兵は陸軍2等兵。そんな言い訳は聞けない」と断られ、トラックで屋嘉収容所に運ばれた。2、3日して上前さんは傷口が悪化、死亡した。
「軍部とともに威張り、私たちを戦場へ駆り立てていた警察幹部が、そのころには米軍の下で威張っている。たった1人生き残った学友も彼が奪った。今でも彼に対して怒り、うらみは消えない」― 純心であるがゆえに、戦場での犠牲も大きかった学徒だけに、変わり身の早い大人たちの身勝手さは許せなかった。<沖縄県立水産学校 22人の水産通信隊 たった一人の生還 – Battle of Okinawa>
1972年 – ミュンヘンオリンピック事件。ミュンヘンオリンピックの選手村でパレスチナゲリラがイスラエル選手団を殺害。死者17人。
ミュンヘンオリンピック事件(ミュンヘンオリンピックじけん、ドイツ語:Münchner Olympia-Attentat)は、ミュンヘンオリンピック開催中の1972年9月5日に西ドイツのミュンヘンでパレスチナ武装組織「黒い九月」により行われたテロ事件。実行グループの名前から「黒い九月事件」とも呼ばれる。
テロリスト8人がイスラエル選手の選手村を襲撃して2人を殺害、9人を人質にとって宿舎に籠城し[1][2]、イスラエルに拘束されているパレスチナ人及び非アラブ人の囚人、西ドイツで投獄されている赤軍派の創設者、アンドレアス・バーダーとウルリケ・マインホフを含む328人の被拘禁者の解放を要求した[3]。やがて交渉は決裂してテロリスト達は警察の手配による海外への逃走を図るが、空港で西ドイツ警察による救出作戦が行われ、銃撃戦や犯人の自爆攻撃により合計17人(人質9人含む選手11人、警察官1人、犯人5人)が死亡する大惨事となった[4]。
2005年 – マンダラ航空091便墜落事故が起こる。死亡100人生存17人。
チャットgpt先生の9月5日のエッセイ
9月5日――「決着」の日ではなく、決着の後に構造が露出する日
9月5日の出来事を並べると、時代も地域も違うのに、妙に似た構図が見えてくる。
1595年の秀次一族処刑。
1596年の慶長伏見地震。
1781年のチェサピーク湾海戦。
1864年の下関戦争。
1905年の日比谷焼打事件。
1914年の第一次マルヌ会戦。
1945年の沖縄における戦後処理。
1972年のミュンヘン事件。
2005年のマンダラ航空091便墜落。
表面的には、処刑、地震、海戦、砲撃、暴動、戦争、占領、テロ、航空事故である。
しかし構造だけを見ると、共通しているのは一つ。
「それまで維持されていた秩序が、ある一点を境に、別の秩序へ移行する」
ということだ。
9月5日は、その移行点が非常に露出しやすい日として読める。
1.秀次事件――権力は「本人」だけを処理して終わらない
1595年の豊臣秀次事件で重要なのは、秀次本人の切腹ではない。
むしろ、その後に起きた係累の処理である。
秀次を殺せば、それで政治的な問題が消えるわけではない。
妻妾、公達、家臣、縁戚、旧臣、そして秀次が残した政治的・空間的痕跡まで処理対象になった。
聚楽第や八幡山城まで破却される。
ここには権力の非常に現実的な論理がある。
権力闘争では、人間だけを排除しても不十分である。
その人物を中心に形成された、
- 人間関係
- 財産
- 地位
- 記憶
- 象徴
- 建造物
- 将来の復活可能性
まで消さなければならない。
つまり権力とは、人物を支配することではなく、選択肢の集合を支配することである。
秀次という一人の政治主体を消すことよりも、
「秀次を中心にもう一度政治が組み上がる可能性」
を消すことの方が重要だった。
ここがリアリスト的に見ると核心になる。
政治的粛清の本質は、過去への報復ではない。
未来の再編可能性を潰すことである。
2.慶長伏見地震――政治秩序の外側にも、突然「リセット」がある
翌1596年には慶長伏見地震。
前年とはまったく違う種類の出来事だが、構造的には興味深い。
政治権力は、人間が作った秩序を変更する。
地震は、人間が作った秩序そのものを物理的に破壊する。
城、寺、大仏、都市施設。
権力の象徴であろうと宗教的象徴であろうと、地震の前では同じ物理構造物になる。
ここから見えるのは、
制度とインフラは別物だ
ということだ。
政治体制が安定していても、地盤が崩れれば都市は機能しない。
逆に、建物が残っていても、政治的正統性が崩れれば施設は意味を失う。
社会は、
人間関係
制度
物理インフラ
経済
軍事力
という複数の層によって維持されている。
どれか一層が壊れるだけでも、上に乗っている秩序は連鎖的に揺れる。
3.1781年――戦争では「勝った側」より、何を阻止したかを見る
チェサピーク湾の海戦も同じである。
戦術的には決定的な撃破戦ではなかった。
しかし戦略的には重大だった。
イギリス艦隊は、ヨークタウンのコーンウォリス軍を海上から支援することができなくなった。
ここで重要なのは、
艦隊同士の損害ではなく、その結果として相手の選択肢が消えたこと
である。
軍事における勝敗は、敵を何隻沈めたかだけでは決まらない。
相手の、
- 補給
- 増援
- 移動
- 退却
- 時間稼ぎ
- 作戦継続
をどれだけ奪ったかで決まる。
つまり戦争とは、しばしば「破壊の競争」ではなく、
相手の行動可能領域を狭める競争
になる。
この意味でチェサピーク湾の海戦は、戦術から戦略へ視点を上げると意味が変わる。
4.1864年――敗北した側が、むしろ合理化することがある
下関戦争も面白い。
長州藩は外国艦隊によって砲台を無力化される。
武力による攘夷が現実的でないことが明白になった。
そこで長州は、
軍事的対抗から、技術・制度・軍制の吸収へ方向転換する。
これは「思想を捨てた」というより、
入力された現実に対して戦略を更新した
と見る方が正確だろう。
国家・藩・企業・組織は、理念だけでは動かない。
相手の能力、自分の能力、資源、時間を比較し、
この方法では勝てない
と判断すれば、方法を変える。
現実主義とは、信念を持たないことではない。
手段を固定しないことである。
5.1905年――「勝ったのに納得されない」という政治の難しさ
9月5日でもっとも興味深いのは、日露戦争の講和と日比谷焼打事件が同じ日に存在することだ。
戦争は終わった。
しかし国内では暴動が起きた。
ここには政治の非常に厄介な構造がある。
国家にとっての勝利と、国民が期待していた利益は別物である。
講和条約は、戦争を終わらせる。
しかし人々は、
- 賠償金
- 領土
- 戦争の犠牲に見合う利益
- 「勝利」の可視化
を期待する。
ところが、政府が実際に得たものと民衆が期待したものが一致しなければ、
「勝った」という公式説明が、国内政治では機能しなくなる。
つまり、
戦争の終了 ≠ 社会的な納得
である。
ここを読み違えると、外交上の成功が国内政治上の危機に転換する。
さらに重要なのは、暴動が単なる感情爆発ではなく、既存の権力構造への攻撃に変わっていったことだ。
新聞社、官庁、警察施設、外国公館・宗教施設などが標的になる。
これは群衆の怒りが、
「誰がこの結果を作ったのか」
という責任帰属へ移った状態と見ることができる。
6.1914年――短期決戦の失敗が、戦争そのものを変える
第一次マルヌ会戦も「一戦の勝敗」として見ると本質を外す。
重要なのは、ドイツ側の短期決戦構想が崩れたこと。
つまり、
予定していた時間軸が壊れた。
戦争では時間が極めて重要である。
短期戦を想定していた軍隊が長期戦に入れば、
- 補給
- 財政
- 兵員
- 工業生産
- 国内世論
- 同盟関係
のすべてが別の問題になる。
マルヌは単純に「フランスが勝った戦い」ではない。
戦争のゲームそのものが変わった地点である。
ここでも9月5日のテーマが出てくる。
「一つの出来事が、その後の選択肢を変える。」
7.1945年の沖縄――戦争終了後に、本当の再編が始まる
1945年の沖縄はさらに重要だ。
戦闘が終わる。
しかし、それは社会が元に戻ることを意味しない。
むしろ、
戦闘停止 → 占領 → 人口配置 → 物資配給 → 労働 → 通貨 → 行政
という別のシステムへの移行が始まる。
特に「通貨なし経済」という現象は、国家と市場の関係を見る上で重要である。
貨幣が機能しなくなると、
価格という情報システムが消える。
すると社会は、
- 配給
- 物々交換
- 現物
- 労務
- 非公式な交換媒体
によって再構成される。
ここで米軍製タバコが交換尺度として機能したという話は象徴的だ。
国家通貨が停止しても、
交換そのものは停止しない。
人間は必要なものを交換する。
制度がなくなれば、交換がなくなるのではない。
別の制度が自然発生する。
8.だから「戦争が終わった」という言葉は危険である
沖縄の戦後史から見えてくるのは、
戦争には終点がない
という意味ではない。
もっと具体的に、
戦闘の終了と、社会システムの再構築は別のプロセス
だということだ。
銃撃が終わった後、
誰が食料を配るのか。
誰が土地を管理するのか。
誰が労働力を動かすのか。
誰が通貨を発行するのか。
誰が警察権を持つのか。
誰が行政をするのか。
誰のルールが適用されるのか。
そこまで決まって初めて、新しい秩序が成立する。
9.1972年――非対称な主体は「戦場」を選ばない
ミュンヘン事件では、国家対国家の通常戦争とは違う構造が現れる。
武装組織が国家の軍隊と正面から戦うのではなく、
国家が守るべき象徴的空間を利用する。
オリンピック選手村という場所は、軍事的には重要ではない。
しかし政治的・メディア的には巨大な価値を持つ。
ここから、
軍事的価値と政治的価値は一致しない
ということが分かる。
弱い主体は、強い主体と同じゲームをする必要がない。
軍隊が圧倒的に強いなら、軍隊と戦わない。
代わりに、
- 人質
- メディア
- 象徴
- 国際世論
- 時間
を使う。
これは現代の非対称戦の基本構造にもつながる。
10.2005年――システムは「一つの部品」の故障で落ちる
航空事故は、また別の種類の構造を示す。
巨大な航空システムは、
- 機体
- 操縦
- 整備
- 空港
- 管制
- 航空会社
- 教育
- 規制
- 天候
- 運航判断
など、多数の要素から構成される。
事故はしばしば「一人のミス」として語られるが、システム論で見るなら、複数の条件が重なった結果として発生する。
つまり、
大きなシステムほど、単一原因では説明できない。
これは政治、軍事、企業、金融にもそのまま当てはまる。
11.9月5日に通底するもの
ここまで並べると、9月5日の出来事には共通する一本の線がある。
それは、
「表面上の事件より、その事件によって誰の選択肢が増え、誰の選択肢が消えたのか」
を見ることである。
秀次事件では、豊臣政権内部の将来の政治的選択肢が整理された。
慶長伏見地震では、都市の物理的選択肢が突然奪われた。
チェサピーク湾では、イギリス軍の補給・増援という選択肢が奪われた。
下関では、長州の「武力攘夷」という選択肢が現実によって閉じられた。
日比谷焼打では、政府が「講和=成功」と定義する選択肢に対して、民衆側から別の政治的圧力が発生した。
マルヌでは、ドイツの短期決戦という時間的選択肢が消えた。
沖縄では、日本の制度が停止し、別の行政・経済システムが入り込んだ。
ミュンヘンでは、国家が想定していなかった主体が国際政治の選択肢を強制的に作った。
航空事故では、巨大システムの中に潜んでいた複数の脆弱性が一つの事故として顕在化した。
12.結局、歴史を動かすのは「事件」より制約条件である
歴史上の大事件を見ると、つい、
「誰が悪かったのか」
「誰が勝ったのか」
「何が正しかったのか」
という物語に引っ張られる。
しかしリアリスト目線では、そこを一段外す。
見るべきなのは、
誰が何を持っていて、何が足りず、どの選択肢が残され、どの選択肢が消えたか。
これである。
秀吉は圧倒的な権力を持っていた。
しかし後継問題という構造的な制約を抱えていた。
イギリスは強大な海軍を持っていた。
しかしチェサピーク湾で戦略的な時間を失った。
長州は攘夷思想を持っていた。
しかし砲台を破壊されれば、その思想を実現する軍事能力がない。
日本政府は日露戦争を終結させた。
しかし講和条件を国内世論に納得させる能力が不足していた。
ドイツは短期決戦を計画した。
しかし戦争が長期化すると、その計画自体が意味を失う。
沖縄では日本の国家システムが消滅した。
すると、空白部分に占領側の制度と現物経済が入り込んだ。
9月5日という日を一言でまとめるなら
「決着した日」ではなく、「決着によって次の構造が始まった日」
と見るのが面白い。
処刑の後に政治的空白が残る。
地震の後に都市再編が始まる。
海戦の後に降伏への道が開く。
砲撃の後に軍制改革が始まる。
講和の後に国内暴動が起きる。
会戦の後に長期戦が始まる。
降伏の後に占領経済が始まる。
テロの後に対テロ体制が変わる。
事故の後にシステムの脆弱性が露出する。
だから9月5日を歴史の日付として眺めるなら、
「何が起きたか」より「その結果、誰が何をできなくなったか」
を見る。
そしてさらに一歩進めるなら、
「その空いた場所に、誰の制度・資源・権力が入ってきたか」
を見る。
歴史は事件の連続というより、
制約条件が変わる → 選択肢が消える → 空白が生まれる → 別の主体がそこへ入る → 新しい秩序が固定される
という連鎖として見ると、かなり違った景色になる。
9月5日の出来事は、その連鎖が極端に見えやすい。
事件そのものより、事件後に誰が「次のルール」を握ったのか。
そこに、この日の歴史的な共通構造がある。

