kagamimochi-nikki 加賀美茂知日記
慶祝と美とグノ-シスの弥増す日々
日々の過去の出来事

今日という日9月4日 1862メリーランド方面作戦開始、ほか写真wikipedia南軍兵士の遺体

9月4日

20260904金曜日旧暦7月23日大安(18番辛巳かのとみシンシ)月齢 22.3

43番丙午ひのえうま年 33番丙申ひのえさる月 18番辛巳かのとみ日

吉方位 隠遁日 辛巳かのとみ日  東 南東 大吉 年末まであと118日

https://ja.wikipedia.org/wiki/9%E6%9C%884%E6%97%A5

9月4日の出来事

476年 – 西ローマ帝国皇帝ロムルス・アウグストゥルスがオドアケルによって退位させられ、西ローマ帝国が滅亡。

1260年 – モンタペルティの戦い(英語版)。シエーナ共和国のギベリン軍がフィレンツェ共和国のゲルフ軍を破る。ダンテアリギエーリの『神曲』に記載あり。

死者10000人以上とされる。

1346年 – 百年戦争:カレー包囲戦が始まる。年月日:1346年9月4日 – 1347年8月3日クレシーの戦いの後 エドワード三世がフランスの港湾都市カレーを1年がかりで包囲籠城攻めし、以後カレーは降伏イングランドのフランス支配における重要拠点になる。

1862年 – 南北戦争:ミルヒルの戦い、リーズバーグ近郷でポトマック川渡河点を確保するための騎兵同士の会戦で、北バージニア軍の1隊がラウドアン郡からポトマック川を越えてメリーランド州内に入る。メリーランド方面作戦の前哨戦。

メリーランド方面作戦

時             1862年9月12日 – 9月20日

場所        メリーランド州西部

結果        北軍の戦略的勝利 南北戦争の転換点。

損害 北軍8万7千人中 戦死傷不明12401人 南軍4万5千人中 戦死傷不明10316人

1886年 – アパッチ族のジェロニモが降伏。

1870年 – フランス皇帝ナポレオン3世がプロイセンの捕虜となったのを受けてパリで蜂起が発生し、国防政府(臨時政府)が成立。第二帝政が終焉を迎え、第三共和政が始まる。

1945年-沖縄戦9月5日・9月2日、日本の横須賀沖の戦艦ミズーリ艦上で降伏調印式が行われ、正式に日本の太平洋戦争が「終戦」した。しかしまだまだ降伏調印は続く。

琉球列島の日本軍降伏受諾に関し、米第10軍司令官は8月29日に徳之島の高田利貞将軍と宮古島の納見敏郎中将から連絡を受けた。9月4日、宮古飛行場から飛び立った日本軍航空機は読谷飛行場に到着。7日に沖縄第32軍降伏調印式が行われることになる。<引用先原文>・沖縄に渡った日本兵らは、生活様式や言葉など文化の違いに戸惑った。日本語とは違う言語を話す人々が、米ではなく芋を主食にし、裸足で生活していたため、沖縄出身の兵隊たちは、本土の兵士に馬鹿にされ人一倍辛酸を嘗めた。

「沖縄の人は日本人以上に日本人であろうとした」。沖縄戦を経験した元日本兵の1人はそう語る。戦時中は特に、日本軍への協力姿勢を示さなければ、「非国民扱い」「スパイ扱い」されるという恐怖心が沖縄住民に浸透しており、また、本土から蔑視されないようにと皇民化教育を徹底しようともがいていた。「沖縄の人は私ら兵隊以上、日本人以上に一所懸命やって、日本人だということを認めてもらおうとしているのが痛いほど分かった」と、元日本兵は、当時を振り返った。(33-34頁)《証言「沖縄戦の日本兵 60年の沈黙を超えて」(國森康弘 箸/岩波書店) 33-34頁より抜粋、一部要約》・それから、自分たちの斬り込みの任務を報告に本部に帰って来て、報告をしたとたんに息を引き取った沖縄の初年兵もいた。そこまでして、自分たちの任務に忠実であろうとしていた。皆、そういう教育を受けてきたんです。

本土の教育よりも沖縄の教育のほうが、もっと徹底して日本人になる教育だった。日本を守るため、沖縄を守るため、戦わなければならない、という考えだったのです。<外間守善の言葉 地獄の前田高地と沖縄語の美と学問のはざまで – Battle of Okinawa>・毎晩のように執り行う陰鬱な初年兵〝教育〟があった。沖縄本土に駐留した球12517部隊独立高射砲第27大隊に所属した男性は、糞尿の汲み取り作業の際に軍靴についてしまった人糞を上等兵に見咎められた。「舐めろ。天皇陛下からお預かりしたものを汚すとは何事だ。舐めて食ってしまえ」。言葉に表せない屈辱だった。両目から「稲妻が飛び出るほど」殴られた。執拗なしごきでほとんどの初年兵が軍人精神に凝り固まっていくなか、男性の胸中には「こんな国のために死ぬもんか」との思いが増幅していった。《証言「沖縄戦の日本兵 60年の沈黙を超えて」(國森康弘 箸/岩波書店) 30-31頁より。証言者らを「男性」と書き換える》・石垣島出身の一中鉄血勤皇隊の青年 (18歳) 証言

おれをそこへ立たせて散々殴った。殴って、あまりにもひどい殴られ方なんで、倒れちゃって、その水の中へ倒れた。その人に、僕は、いま考えると「感謝する」。その日から「兵隊とはこんなもんか、おれは国のためにやろうとしたのに」というあれで、とても心が大きく変化した。… それのお陰で、… その気持ちが、それで、僕は生き延びたようなもんです。「これ、やくざの作法かなっ」て。人を牛耳る、統率するにはね、ひとつ、そういう犠牲者出しとくとね、言うことあとみんな聞くんだって。<「日本軍が怖かった」一中鉄血勤皇隊・宮城真一さん証言 (NHKドキュメンタリー「戦場の少年たち」) – Battle of Okinawa>・【和訳】沖縄本島全体が墓で覆われており、そこには何世紀にもわたって沖縄人が故人の遺灰や遺骨を収めた鮮やかな釉薬の陶器壷を保管していた。ジャップが隠れて最も激しい戦いを続けたのはこれらの墓であり、これらの同じ墓にシービーたちは戦利品を求めて群がった。数人の男性がジャップ狙撃兵によって負傷した後、これらのロマン的なまでに美しい洞窟への巡礼はぴったりとやんだ。

住民、あるいは「グーク」と米軍が呼んでいた者たちはとても友好的であり、アメリカの占領にかなり満足しているようだった。しかし、男性は7歳か70歳か(少年か年寄り)であり 、ご婦人の場合も同様だった。太平洋での31か月の間に、若い女性にちょっとでも似たものを見たことがない。ここでは、被占領国の女性と親密になるなという規定は必要ありませんでしたよ。… グーク、飛行場、水田、墓を取り除いてみれば、沖縄はコネチカットと同じかもしれませんよ。《 15th NBC メモリアルブック, 1945, p. 45. 》・【訳】黒人、ネイティブアメリカン、中国系アメリカ人の兵士がバーや売春宿を訪れたとき、彼は自分も占領者になったことに気づいた。

ここは褐色の人々が住んでいて、白人の兵士たちは私を「N****」(ブログ註・アフリカ系アメリカ人に対する極めて人種差別的な蔑称であり N-word とよばれる) と呼んだのと同じように、沖縄人を「グーク」と呼んだ。奴隷制の時代に我々がちょうど同じだったように、アメリカ人が銃を持っていたので、沖縄の人々はそれに甘んじなければならなかった。彼らは沖縄を捕らえた。彼らは我々も捕らえていた。しかし今は私は彼ら白人の側にいた。つまり私も占領者だったのだ。

Okinawa the Bad Dream – James Foreman『The Making of Black Revolutionaries』(1990) – Basically Okinawa

彼によると、幾人かの黒人兵は「沖縄人をグークとよんだ。彼らはアメリカ白人の傲慢な態度を採用し、彼らもまた自分たちは沖縄人よりも優れていると考えた。」一部の男たちは沖縄の女性を「人間ではなく物であるかのように」傷つけた。<Kimberley L. Phillips, War! What Is It Good For?: Black Freedom Struggles and the U.S. Military from World War II to Iraq (2012) pp. 127-128.>

1955年 – 由美子ちゃん事件: アメリカの占領下にあった沖縄の嘉手納基地付近の海岸で6歳の幼女の遺体が見つかる。満5歳の強姦殺人事件。犯人は性犯罪歴のある白人。いったん死刑判決出るが大統領令で減刑される。事件当時31歳、後退役軍人病院で60歳没。

1963年 – スイス航空306便墜落事故。死亡80人(全員)。

1971年 – アラスカ航空1866便墜落事故。死亡109人(全員)。

1995年 – 沖縄米兵少女暴行事件。日米地位協定により起訴されるまで犯人が日本側に引き渡されないことが大きな問題になる。12歳の小学生女子を3人の黒人米兵が集団強姦。

————————————————–   

476年 – 西ローマ帝国皇帝ロムルス・アウグストゥルスがオドアケルによって退位させられ、西ローマ帝国が滅亡。

最後の皇帝

オドアケルに帝冠を渡すロムルス・アウグストゥルス

トレミシス金貨に描かれたユリウス・ネポス

トレミシス金貨に描かれたロムルス・アウグストゥルス

476年にオレステスが、オドアケル率いるヘルリ連合軍に賠償金を与えることを断ると、オドアケルはローマを荒掠してオレステスを殺害し、ロムルス・アウグストゥルスを退位させ、元老院を通じて「もはやローマに皇帝は必要ではない」とする勅書を東方皇帝ゼノンへ送り、西方皇帝の帝冠と紫衣とを返上した。ゼノンは彼の政敵ロムルス・アウグストゥルスを倒した功績としてオドアケルにパトリキの地位を与え、オドアケルをローマ帝国のイタリア領主(dux Italiae)に任じた[注 4]。一方、オレステスによって追放されたユリウス・ネポスは、まだダルマチアの残存領土で引き続き西方の統治権の保持を宣言しており、東帝ゼノンも一応はネポスを正当な西帝として支持していた[注 5]。そこでゼノンは、オドアケルにはユリウス・ネポスを西帝として公式に承認すべきだとの助言を与えた[21]。元老院は西方正帝の完全な廃止を強硬に求めたが、オドアケルは譲歩して、ユリウス・ネポスの名で硬貨を鋳造してイタリア全土に流通させた。だがこれは、ほとんど空々しい政治的行動であった。オドアケルは主権を決してユリウス・ネポスに返さなかったからである。ユリウス・ネポスが480年に暗殺されると、オドアケルはダルマチアに侵入して、あっさりとこの地を平定してしまう。東帝ゼノンが正式に西方正帝の地位を廃止したのは、このユリウス・ネポスの死後のことである[注 6][注 7]。とはいえ、6世紀末から7世紀初頭にかけて皇帝マウリキオスや教皇グレゴリウス1世らが西方正帝の設置を検討したように、東西に広がるローマ帝国を必要に応じて複数の皇帝で分担統治するという考え方そのものはただちに失われたわけではなかった[22]。

1260年 – モンタペルティの戦い(英語版)。シエーナ共和国のギベリン軍がフィレンツェ共和国のゲルフ軍を破る。ダンテアリギエーリの『神曲』に記載あり。

死者10000人以上とされる。

モンタペルティの戦いは、1260年9月4日にトスカーナのフィレンツェとシエナの間で、グエルフとギベリンの間の紛争の一環として戦われました。フィレンツェは敗走しました。これは中世イタリアで行われた最も血なまぐさい戦いであり、10,000人以上の死者が出ました。戦い中の裏切り行為は、ダンテ・アリギエーリによって神曲の地獄のセクションに記録されています。

神曲での描写

ダンテは、アルフォンソ10世エルサビオにグエルフ・フィレンツェの助けを求めて、カスティーリャの大使館で、彼自身も戦場から離れていたフィレンツェのブルネット・ラティーニ首相に師事した。ダンテは、この戦い、その準備(ラティーニがモンタペルティのリブロに記録している)、戦略と裏切り、そしてベネヴェントとタリアコッツォの戦いについて、首相から学んだだろう[22]、フィレンツェの商人で歴史家であるジョヴァンニ・ヴィラーニによって後で収集される資料も使用した。その結果、ダンテは『神曲』の中で、裏切り者ボッカ・デッリ・アバティのために地獄の第9サークルの場所を確保しました。[23]ギベリンの司令官ファリナタ・デッリ・ウベルティも、戦いでの彼の行動ではなく、エピクロスの哲学への異端的な遵守の疑いのためにダンテの地獄に投獄されました。[24]

1346年 – 百年戦争:カレー包囲戦が始まる。年月日:1346年9月4日 – 1347年8月3日クレシーの戦いの後 エドワード三世がフランスの港湾都市カレーを1年がかりで包囲籠城攻めし、以後カレーは降伏イングランドのフランス支配における重要拠点になる。

カレー包囲戦(カレーほういせん、英: Siege of Calais)は、クレシーの戦いの後、1346年9月4日から1347年8月3日に亘って、イングランド王エドワード3世がフランスの港湾都市カレーを包囲し開城させた戦い(攻城戦)。以降、カレーは百年戦争を通じて重要なイングランドの拠点であり続け、百年戦争後も1558年までイングランド領だった。

1862年 – 南北戦争:ミルヒルの戦い、リーズバーグ近郷でポトマック川渡河点を確保するための騎兵同士の会戦で、北バージニア軍の1隊がラウドアン郡からポトマック川を越えてメリーランド州内に入る。メリーランド方面作戦の前哨戦。

メリーランド方面作戦

時             1862年9月12日 – 9月20日

場所        メリーランド州西部

結果        北軍の戦略的勝利 南北戦争の転換点。

損害 北軍8万7千人中 戦死傷不明12401人 南軍4万5千人中 戦死傷不明10316人

南北戦争のメリーランド方面作戦(英:Maryland Campaign、またはAntietam Campaign)は、1862年9月に東部戦線で行われ、戦争全体の大きな転換点となったと広く考えられている。南軍の将軍ロバート・E・リーが初めて北部の領地内に侵攻したが、北軍のジョージ・マクレラン少将率いるポトマック軍に撃退された。マクレランはリーの北バージニア軍の侵攻を阻止するように動き、最終的にシャープスバーグの近くで攻撃した。その結果として起こったアンティータムの戦いはアメリカ史の中で単一日の損失量としては最大となった。

1886年 – アパッチ族のジェロニモが降伏。

ジェロニモ(Geronimo、1829年6月16日 – 1909年2月17日)は、ネイティブ・アメリカン、アパッチ族のシャーマン、対白人抵抗戦である「アパッチ戦争」に身を投じた戦士。本名はゴヤスレイ(Goyathlay)。なお、部族の酋長と誤解されている例も多いが、実際は酋長ではなく部族の「指導者」でもない[要出典]。

家族がメキシコ軍に虐殺されたのを機に、アパッチ族の戦士たちとともに対白人のゲリラ戦に従事した。ちなみに戦士集団だったアパッチ族には「酋長に戦士が服従する」という義務も風習もない。戦士は結束はしてもすべて個人行動で動くものであって、戦士たちはジェロニモ個人を慕って抵抗戦をともにしたのである。また、ジェロニモは軍事的な指導をしたこともない[要出典]。

メキシコとアメリカ双方は、アパッチの略奪に頭を悩ませ、何度も遠征をおこない掃討戦を試みた。しかし山岳ゲリラとも言うべき彼らの戦いは変幻自在で西部大平原のスー族と並んで、アパッチ族は最後までアメリカ合衆国に抵抗したネイティブ・アメリカンとなった。数々の戦いの中に、ジェロニモの姿があった。彼は雄弁に白人への抵抗を呼びかけ、白人と戦い続けた。ジェロニモの抵抗戦は、情報操作されて東部白人社会に大げさに伝えられた。数人殺された白人の数は、数十人、数百人となって報じられたのである。

オクラホマ州のジェロニモの墓

1886年に投降して以後、ジェロニモは生涯米軍の虜囚として扱われた。その間、1904年のセントルイス万国博覧会などで人間動物園として展示されるなどした[1]。生まれ故郷のメキシコ国境へ帰りたいというジェロニモの願いは叶えられず、オクラホマのシル砦でその一生を閉じた。ジェロニモの墓はシル砦にある。

1870年 – フランス皇帝ナポレオン3世がプロイセンの捕虜となったのを受けてパリで蜂起が発生し、国防政府(臨時政府)が成立。第二帝政が終焉を迎え、第三共和政が始まる。

1945年-沖縄戦9月5日・9月2日、日本の横須賀沖の戦艦ミズーリ艦上で降伏調印式が行われ、正式に日本の太平洋戦争が「終戦」した。しかしまだまだ降伏調印は続く。

琉球列島の日本軍降伏受諾に関し、米第10軍司令官は8月29日に徳之島の高田利貞将軍と宮古島の納見敏郎中将から連絡を受けた。9月4日、宮古飛行場から飛び立った日本軍航空機は読谷飛行場に到着。7日に沖縄第32軍降伏調印式が行われることになる。<引用先原文>・沖縄に渡った日本兵らは、生活様式や言葉など文化の違いに戸惑った。日本語とは違う言語を話す人々が、米ではなく芋を主食にし、裸足で生活していたため、沖縄出身の兵隊たちは、本土の兵士に馬鹿にされ人一倍辛酸を嘗めた。

「沖縄の人は日本人以上に日本人であろうとした」。沖縄戦を経験した元日本兵の1人はそう語る。戦時中は特に、日本軍への協力姿勢を示さなければ、「非国民扱い」「スパイ扱い」されるという恐怖心が沖縄住民に浸透しており、また、本土から蔑視されないようにと皇民化教育を徹底しようともがいていた。「沖縄の人は私ら兵隊以上、日本人以上に一所懸命やって、日本人だということを認めてもらおうとしているのが痛いほど分かった」と、元日本兵は、当時を振り返った。(33-34頁)《証言「沖縄戦の日本兵 60年の沈黙を超えて」(國森康弘 箸/岩波書店) 33-34頁より抜粋、一部要約》・それから、自分たちの斬り込みの任務を報告に本部に帰って来て、報告をしたとたんに息を引き取った沖縄の初年兵もいた。そこまでして、自分たちの任務に忠実であろうとしていた。皆、そういう教育を受けてきたんです。

本土の教育よりも沖縄の教育のほうが、もっと徹底して日本人になる教育だった。日本を守るため、沖縄を守るため、戦わなければならない、という考えだったのです。<外間守善の言葉 地獄の前田高地と沖縄語の美と学問のはざまで – Battle of Okinawa>・毎晩のように執り行う陰鬱な初年兵〝教育〟があった。沖縄本土に駐留した球12517部隊独立高射砲第27大隊に所属した男性は、糞尿の汲み取り作業の際に軍靴についてしまった人糞を上等兵に見咎められた。「舐めろ。天皇陛下からお預かりしたものを汚すとは何事だ。舐めて食ってしまえ」。言葉に表せない屈辱だった。両目から「稲妻が飛び出るほど」殴られた。執拗なしごきでほとんどの初年兵が軍人精神に凝り固まっていくなか、男性の胸中には「こんな国のために死ぬもんか」との思いが増幅していった。《証言「沖縄戦の日本兵 60年の沈黙を超えて」(國森康弘 箸/岩波書店) 30-31頁より。証言者らを「男性」と書き換える》・石垣島出身の一中鉄血勤皇隊の青年 (18歳) 証言

おれをそこへ立たせて散々殴った。殴って、あまりにもひどい殴られ方なんで、倒れちゃって、その水の中へ倒れた。その人に、僕は、いま考えると「感謝する」。その日から「兵隊とはこんなもんか、おれは国のためにやろうとしたのに」というあれで、とても心が大きく変化した。… それのお陰で、… その気持ちが、それで、僕は生き延びたようなもんです。「これ、やくざの作法かなっ」て。人を牛耳る、統率するにはね、ひとつ、そういう犠牲者出しとくとね、言うことあとみんな聞くんだって。<「日本軍が怖かった」一中鉄血勤皇隊・宮城真一さん証言 (NHKドキュメンタリー「戦場の少年たち」) – Battle of Okinawa>・【和訳】沖縄本島全体が墓で覆われており、そこには何世紀にもわたって沖縄人が故人の遺灰や遺骨を収めた鮮やかな釉薬の陶器壷を保管していた。ジャップが隠れて最も激しい戦いを続けたのはこれらの墓であり、これらの同じ墓にシービーたちは戦利品を求めて群がった。数人の男性がジャップ狙撃兵によって負傷した後、これらのロマン的なまでに美しい洞窟への巡礼はぴったりとやんだ。

住民、あるいは「グーク」と米軍が呼んでいた者たちはとても友好的であり、アメリカの占領にかなり満足しているようだった。しかし、男性は7歳か70歳か(少年か年寄り)であり 、ご婦人の場合も同様だった。太平洋での31か月の間に、若い女性にちょっとでも似たものを見たことがない。ここでは、被占領国の女性と親密になるなという規定は必要ありませんでしたよ。… グーク、飛行場、水田、墓を取り除いてみれば、沖縄はコネチカットと同じかもしれませんよ。《 15th NBC メモリアルブック, 1945, p. 45. 》・【訳】黒人、ネイティブアメリカン、中国系アメリカ人の兵士がバーや売春宿を訪れたとき、彼は自分も占領者になったことに気づいた。

ここは褐色の人々が住んでいて、白人の兵士たちは私を「N****」(ブログ註・アフリカ系アメリカ人に対する極めて人種差別的な蔑称であり N-word とよばれる) と呼んだのと同じように、沖縄人を「グーク」と呼んだ。奴隷制の時代に我々がちょうど同じだったように、アメリカ人が銃を持っていたので、沖縄の人々はそれに甘んじなければならなかった。彼らは沖縄を捕らえた。彼らは我々も捕らえていた。しかし今は私は彼ら白人の側にいた。つまり私も占領者だったのだ。

Okinawa the Bad Dream – James Foreman『The Making of Black Revolutionaries』(1990) – Basically Okinawa

彼によると、幾人かの黒人兵は「沖縄人をグークとよんだ。彼らはアメリカ白人の傲慢な態度を採用し、彼らもまた自分たちは沖縄人よりも優れていると考えた。」一部の男たちは沖縄の女性を「人間ではなく物であるかのように」傷つけた。<Kimberley L. Phillips, War! What Is It Good For?: Black Freedom Struggles and the U.S. Military from World War II to Iraq (2012) pp. 127-128.>

1955年 – 由美子ちゃん事件: アメリカの占領下にあった沖縄の嘉手納基地付近の海岸で6歳の幼女の遺体が見つかる。満5歳の強姦殺人事件。犯人は性犯罪歴のある白人。いったん死刑判決出るが大統領令で減刑される。事件当時31歳、後退役軍人病院で60歳没。

事件当時、沖縄で発生した外国人事件はどのように処理されているのか、沖縄の人々には知らされずにいた[65]。米軍統治下の沖縄では、米軍人・軍属の刑事裁判は軍法会議で行われていたが、軍法会議は軍全体の規律を維持するため、それに違反した兵士を処罰することを目的にしているものである[66]。そのため、たとえ沖縄人が被害者となった事件でも、沖縄人はほとんど裁判に参加したり、裁判を傍聴したりすることはできず[注 20]、その結果を知らされることも稀だった[66]。また、本事件とは別の米兵による拉致・強姦事件や、殺人事件(いずれも被害者は沖縄の一般市民)の軍法会議では、性犯罪が正当に起訴されず、軽い罪で裁かれていたり、弁護人が被害者を貶める主張で量刑の軽減を狙っていたことも、後年になって判明している[注 21][66]。

そのような背景から、本事件以前にも、沖縄の人々は外国人による傷害事件が治外法権的に取り扱われている印象を強く抱いていたが、幼女が米兵に拉致されて殺害された本事件をきっかけに、人々の間に「沖縄人に関係する外人事件の裁判は、いっさい公開せよ」という世論が起こった[67]。琉球政府は米軍当局に対し、軍規粛正と取締強化を求め、米軍当局も遺憾の意を表明した[6]。また、琉球立法院(後の沖縄県議会)は、本事件を「鬼畜にも劣る残虐な行為」と非難した[68]。

本事件の6日後[8](9月10日夜)には、前原警察署[注 22]管内の中頭郡具志川村(現:うるま市)明道5班で、小学校2年生の女児(当時9歳)が就寝中に、雨戸をこじ開けで侵入してきた米兵の男によって拉致・強姦され、重傷を負う事件が発生[69][69]。犯人は、海兵隊の黒人兵レイモンド・エルトン・パーカー(Raymond Elton Parker、当時21歳:上等兵)で[70]、美里村登川在マリン隊(第12海兵隊第2大隊)に所属していた[注 23][69]。パーカーは犯行時、軍服姿で、逃走後に部隊に戻ってズボンを洗濯し、干していたことから捜査線上に浮上[71]。さらに、被害者宅から持ち出したランプを松林に捨てていたことから、そこから指紋を検出され、翌日(9月11日)6時に逮捕された[71]。この事件も本事件とともに、沖縄の新聞で大きく取り上げられた[70]。この2つの事件は、沖縄の人々に強い衝撃を与え[72]、「祖国復帰闘争」に重大な影響を与えた[73]。

大統領令により減刑

死刑判決を受けた後、ハートの再審請求は却下されたが、彼の家族や退役軍人会は、彼の出身地であるケンタッキー州選出の上院議員・下院議員に働きかけ、「ハートは沖縄人の反米感情の犠牲になった」などと主張し、ホワイトハウスに減刑を陳情した[8]。ケンタッキー州や、隣接するテキサス州の上院議員が、連邦政府にハートの減刑を求めた[12]。

まず、ケンタッキー州の民主党員で、第二次世界大戦の退役軍人であるカール・D・パーキンスが、ホワイトハウスにハートの減刑を陳情した[100]。その後、同州上院議員のスラストン・B・モートン(共和党)が、ケンタッキー州のVFWが発した「有罪判決は状況証拠に基づいており、ハートの有罪に関していくつかの疑いがある」という警告の決議を、個人的にアイゼンハワー政権へ転送した[100]。また、同州の共和党員かつ上院議員であるジョン・シャーマン・クーパーや、多数党院内総務のリンドン・ジョンソン[100](後の米大統領)[12]、テキサス州民主党の上院議員ラルフ・ヤーボローらも支援に加わり、ハートの減刑を求める大規模な運動が起きた[101]。

ドワイト・D・アイゼンハワー大統領は1960年(昭和35年)6月1日付で、ハートを死刑から、不名誉除隊・給与手当の剥奪[9][7]・重労働45年の刑に減刑する大統領裁決を出した[8]。この裁決に当たっては、仮釈放・執行猶予、そして刑の免除に関するいかなる法律による恩恵も与えられないとの条件がつけられた[9][7]。これらの経過は、琉球政府法務局が米民政府に対し、「人権侵犯事件の処理状況」について照会したところ、米民政府からの1961年(昭和36年)7月14日付の回答によって判明したものである[9][7]。これに対し、軍法務部は1960年6月10日付で、ホワイトハウスに対し「憲法上、大統領裁決で認められているのは、死刑執行の承認もしくは延期、恩赦のみで、減刑は権限を逸脱している[注 25]。このような過ちが永続化しないための措置を求める」とする抗議文書を出したが、減刑判断は覆らなかった[8]。ハート本人は、カンザス州の刑務所から、上院やフォード政権の司法長官に対し、「自分は、アメリカ軍による占領の終了を求める(沖縄の)反体制政治勢力をなだめるために犠牲になったと信じる」などと主張し、仮釈放か判決の取り消しを求める嘆願書を送った[102]。当時、琉球政府法務局次長は「刑期が45年になっている[注 26]こと、釈放などの恩典が除かれていることなど、額面通りに受け取れば、日本の無期懲役よりも実質的には重い」という見解を示していた[9]。

1977年1月19日(水曜日)付で、フォード大統領は、カンザス州レブンワースの連邦刑務所に収監されていたハート(当時52歳)を含め、軍属時代に殺人を犯して死刑判決を受けた男性6人の仮釈放を許可する決定を出した[注 27][5]。この恩赦措置は、エドワード・レヴィ(英語版)司法長官の勧告によって行われたものである[注 28][5]。ハートは刑務所を出所すると、同年11月まで、シンシナティのグッドウィル・センター (Goodwill Center) で職業訓練を開始し、後に夜警として働くようになった[102]。ハートは1981年6月12日[31][103]、キッチンヘルパー (Kitchen Helper) の女性 Lura B Nicely と結婚したが[102]、1984年8月6日[31][32]、オハイオ州の退役軍人省の病院で死去した[12][4](60歳没[12][31])。ハートの妻となった Lura は、彼を「法を順守し、善良で道徳的な市民」として溺愛し[4]、結婚から1年後には、ハートに対する完全な大統領恩赦を求め、ワシントンに書類を郵送していたが、それに対する結論は、ハートが死去した時点でもまだ出ていなかった[102]。ハートは死後、オハイオ州ハミルトン郡レディング(シンシナティ郊外)に埋葬され[32]、アメリカ政府から従軍を讃えられる形で墓石を贈られた[12]。退役軍人省によれば、不名誉除隊されたり、軍法会議で有罪判決を受けたことによって除隊されたりした人物や、死刑に値する重罪ないし特定の性犯罪を犯した人物は、墓石提供(退役軍人に対する恩典の1つ)を受けられなくなるが[注 29]、ハートがどのような経緯で墓石を提供されたのかは不明で、退役軍人省は2021年9月25日、『沖縄タイムス』の取材に対し、その経緯について調査する旨を回答したが[38]、2022年2月21日までに、墓石の提供を「(当時の)法律に従った対応だった」として、撤回しない考えを示している[105]。

後年の評価

本土復帰後の1995年(平成7年)9月4日には、沖縄本島北部で米兵による少女暴行事件が発生している[106]。同事件は、沖縄の本土復帰後類を見ない米兵による犯罪として、県民の怒りが爆発し、抗議運動が広がった[107]。沖縄県知事側は外務省に対し、日米地位協定第17条「身柄の引き渡し」の見直しを求めた[108]。同月13日に開かれた沖縄県議会の軍特別委員会で、本事件の被害者が在住していた石川市の出身である比嘉勝秀議員(自民党)は、「同事件(少女暴行事件)のことを聞いて、復帰よりかなり前に地元で起きた由美子ちゃん事件と、コザ暴動を連想した」と発言した[109]。

高里鈴代(「基地・軍隊を許さない行動する女たちの会」共同代表)は、うるま市女性殺害事件(2016年発生)の加害者である米軍属が、日本の法制度で性犯罪が親告罪になっており、被害者による通報率も低いことを知った上で、弁護士を通じて『星条旗新聞』に「逮捕されることについては全く心配していなかった」というコメントを出したことや、本事件の加害者であるハートの家族が沖縄の「反米感情」を根拠に減刑を訴えた(前述)ことに言及した上で、性犯罪を犯した米軍人から「暴行しても訴えられる可能性は低い」という主張が何度も出ていることや、人間の尊厳を貶める犯罪への抵抗を「反米感情」としてくくることは、事件当時から現在まで、アメリカ国家によってリクルートされた公務員である兵士たちの間で、沖縄女性への差別意識が蔓延していることの証左であるという趣旨の指摘をしている[110]。

1963年 – スイス航空306便墜落事故。死亡80人(全員)。

1971年 – アラスカ航空1866便墜落事故。死亡109人(全員)。

1995年 – 沖縄米兵少女暴行事件。日米地位協定により起訴されるまで犯人が日本側に引き渡されないことが大きな問題になる。12歳の小学生女子を3人の黒人米兵が集団強姦。

チャットgpt先生の9月4日のエッセイ

9月4日の材料を、暦情報を外し、道徳的・倫理的な講評も外して、リアリスト/権力政治の構造として読むなら、かなり一貫したテーマがあります。
資料上の出来事だけから組み立てると、中心にあるのは「正義」ではなく、支配権・軍事力・制度・占領・忠誠・情報・交渉力の配分が変わる瞬間です。

9月4日――支配は理念ではなく、構造で決まる

9月4日の歴史を並べてみると、一見ばらばらな事件の集合に見える。西ローマ帝国の終焉、モンタペルティの戦い、カレー包囲戦、南北戦争、ジェロニモの降伏、フランス第二帝政の崩壊、そして沖縄における日本軍の降伏手続き。時代も地域も違う。

しかし、リアリストの視点から見ると、共通する構造がある。

それは、「誰が正しいか」より先に、「誰が実力を持ち、誰がそれを制度として固定できるか」が歴史を動かしているということである。

476年の西ローマ帝国の終焉は、その典型だ。

オドアケルはローマ皇帝を単純に殺して王国を宣言したわけではない。軍事的実力によってイタリアの支配権を握った後、元老院を通じて東方皇帝へ帝冠と紫衣を返上し、自らはパトリキというローマ帝国内部の地位を得た。さらにユリウス・ネポスを形式上の西方皇帝として認める余地まで残した。

ここで重要なのは、実力による権力移転と、既存制度による正当化が同時に進んでいることだ。

実際の支配者になるには軍事力が必要だった。しかし、支配を安定させるには、旧制度を完全に破壊する必要はなかった。むしろ旧制度の名称、称号、貨幣、元老院などを利用することで、権力移転の摩擦を小さくできた。

つまり権力政治では、

実力 → 支配権 → 制度化 → 既成事実化

という流れが重要になる。

帝国が「理念として消滅した」のではない。

実際の権力配分が変化し、それに合わせて制度の意味が変わったのである。

1260年のモンタペルティの戦いも同じ構造を持つ。

フィレンツェとシエナの対立は、単純な二国間戦争ではない。グエルフとギベリンという政治的ネットワークが背後にあり、戦場では軍事力だけでなく、内部の忠誠と裏切りが勝敗を左右した。

ここで重要なのは、軍隊が外部の敵だけで構成されているわけではないという点だ。

国家や都市国家の戦争では、内部の派閥、同盟者、商人、貴族、政治勢力がそれぞれ異なる利害を持つ。

したがって戦争の勝敗は、

兵力 × 指揮能力 × 同盟関係 × 内部統制

で決まる。

戦場での裏切りが後世の文学にまで残ったという事実も、裏返せば、当時の戦争において「誰が味方なのか」が極めて重要な資源だったことを示している。

1346年に始まったカレー包囲戦では、さらに別の構造が見える。

イングランド側はカレーを一日で占領しようとしたのではない。1年近く包囲し、最終的に都市を降伏させた。

ここでは戦場で敵を撃破することより、敵の補給能力と持久力を削ることが決定的になる。

つまり軍事力とは、単純な兵士の数ではない。

兵站、時間、食料、港湾、金融、海上交通、増援能力まで含めて軍事力である。

そしてカレーを手に入れた後、その都市はイングランドのフランス支配における重要拠点となった。

このことから分かるのは、戦争の目的が「戦闘に勝つこと」ではなく、戦後の地理的・経済的・軍事的ポジションを獲得することだということである。

1862年の南北戦争でも、同じ原理が働く。

メリーランド方面作戦は北軍の戦略的勝利となり、南軍による北部領土への侵攻を阻止する結果につながった。資料ではこの戦役が戦争全体の転換点とされている。

ここでも一回の戦闘だけを見ると本質を見失う。

重要なのは、

どこまで進出できるか
補給線を維持できるか
敵の政治的意思を削れるか
戦争を継続する能力をどちらが維持できるか

という問題である。

戦争は一戦の勝敗ではなく、継続能力の競争になる。

1886年のジェロニモの降伏も、同じ構造を別の角度から示している。

ジェロニモ側は長期間、山岳ゲリラ的な抵抗を続けた。しかし最終的には投降し、その後も米軍の虜囚として扱われ、生涯を故郷から離れた場所で終えることになった。

ここで見るべきなのは、個人の勇気や信念ではなく、非対称戦争の限界である。

局地的には圧倒的な強者を苦しめることができても、相手がより大きな人口、資金、補給、行政能力、通信網を持っている場合、長期的には抵抗側の選択肢が減っていく。

ゲリラ戦は「勝てる戦争」ではなく、しばしば「相手に高いコストを払わせる戦争」になる。

そして相手がそのコストを払い続けられるなら、最終的な交渉力は徐々に弱くなる。

1870年のフランスでは、逆方向から同じ現象が起きた。

ナポレオン3世がプロイセンの捕虜となったことを契機にパリで蜂起が発生し、国防政府が成立、第二帝政が終わって第三共和政へ移行した。

ここでは「国家元首が倒れた」ことそのものより、軍事的敗北が国内政治の権力配分を一気に変えたことが重要になる。

外交・軍事上の敗北は、国内政治から切り離せない。

対外戦争で失敗すると、

軍事的威信が落ちる

政権への支持基盤が弱くなる

対抗勢力が動く

統治機構の再編が起こる

という連鎖が発生する。

つまり国際政治と国内政治は別々のゲームではない。

外部での敗北は、国内の権力構造を変える。

そして9月4日の資料で最も重要なのは、1945年の沖縄である。

9月4日、宮古飛行場から日本軍航空機が読谷飛行場へ到着し、7日の沖縄第32軍降伏調印へつながっていく。

ここでは「終戦」という一つの言葉だけでは説明できない。

国家間の降伏は、一瞬の署名で完了するわけではない。

現場では、

指揮系統
通信
武装解除
部隊単位の降伏
占領行政
現地住民との関係
法的管轄
軍事施設の管理

といった細かな権力移転が必要になる。

つまり戦争の終了とは、戦闘が止まることではなく、誰が命令権を持つのかが確定する過程なのである。

沖縄の資料をさらに読むと、この問題がもっと露骨になる。

日本軍内部では、本土出身者と沖縄出身者の関係、軍事教育、住民統制などが複雑に絡み合っていた。一方、米軍占領下では米兵、沖縄住民、黒人兵などの間に別の権力関係が形成されていた。

ここで重要なのは、占領すると、戦争が終わっても権力関係は終わらないということである。

むしろ戦争終了後には、

「誰が裁くのか」
「誰が逮捕するのか」
「どの法律を適用するのか」
「誰が基地を管理するのか」
「住民はどこまで政治的発言力を持つのか」

という新しい問題が出てくる。

1955年の由美子ちゃん事件に関する資料は、この構造を非常に明確に示している。

当時の沖縄では米軍人・軍属の刑事裁判が軍法会議で行われ、沖縄側が裁判に参加したり結果を知ったりすることが難しかったとされている。

ここで問題になるのは、犯罪そのものだけではない。

裁判権を誰が持っているのか

である。

法制度は単なるルールではない。

法制度は、最終的には「誰が誰を拘束できるのか」「誰が誰を裁けるのか」という権力配分を固定する。

そのため、地位協定や軍法会議の制度設計は、外交問題であると同時に、安全保障問題であり、国内政治問題でもある。

さらに、ハートの減刑をめぐる経緯を見ると、個別事件の処理さえ国内政治と結びつく。

ケンタッキー州の政治家、退役軍人会、ホワイトハウス、軍法務部など複数の主体が関与し、最終的に大統領の減刑判断につながった。

つまり、制度上の権力は一枚岩ではない。

軍、議会、行政府、地方政治、退役軍人組織、占領当局、現地政府。

それぞれが別々の利益と影響力を持つ。

リアリストが見るべきなのは、表向きの制度名称よりも、実際に決定を動かせる主体が誰なのかである。

そして1995年9月4日の事件では、この問題が日本復帰後の沖縄に再び現れる。

資料では、事件後に沖縄県知事側が外務省に対して日米地位協定17条の身柄引き渡し規定の見直しを求めたとされている。さらに抗議運動が広がり、基地問題と結びついていく。

ここから見えるのは、事件が制度変更要求へ変換されるメカニズムである。

一つの事件が、

個別事件

世論形成

政治問題化

制度への要求

外交交渉

安全保障体制への圧力

へ変化する。

だから、リアリストの視点では、事件の重大性だけを見るのでは足りない。

見るべきなのは、

その事件によって誰の交渉力が増え、誰の交渉力が減ったのか

である。

9月4日の歴史を一本の線にすると、こうなる。

西ローマ帝国では、軍事的実力を持つ勢力が旧制度を利用しながら支配権を再編した。

モンタペルティでは、軍事力と内部政治が勝敗を決めた。

カレーでは、兵站と持久力が都市の支配権を決めた。

南北戦争では、戦場の勝敗が戦争全体の戦略環境を変えた。

ジェロニモでは、非対称戦争の長期的な資源差が抵抗側の選択肢を狭めた。

フランスでは、対外的な軍事敗北が国内の政権構造を崩した。

沖縄では、降伏後も軍事的支配が行政・司法・外交の制度へ移行し、その制度自体が長期的な政治問題になった。

つまり、9月4日の核心は「勝者と敗者」という単純な二分法ではない。

勝敗の後に、どのような権力構造が残ったのか。

ここを見る必要がある。

戦争で勝つことと、戦後秩序を作ることは別の能力である。

戦場で優勢でも、行政を維持できなければ支配は不安定になる。

軍事力がなくても、交渉・制度・情報・同盟を使えば一定の影響力を確保できる。

逆に、形式的な主権や制度を持っていても、実力がなければ、その制度の実効性は低下する。

だからリアリストの基本線は単純になる。

権力とは、命令できることではない。相手の選択肢をどこまで狭め、自分の選択肢をどこまで維持できるかである。

9月4日の歴史は、その事実を何度も繰り返している。

帝国の終焉も、都市の陥落も、政権交代も、降伏も、占領も、制度改編も、最終的には同じ問題へ収束する。

誰が実力を持っているのか。

その実力を誰が制度化できるのか。

そして、その制度を誰が長期間維持できるのか。

歴史を動かすのは、理念そのものではない。

理念を実現できるだけの資源・組織・軍事力・制度・同盟・情報・時間を持っている側である。

9月4日を読むなら、ここから始めるのが一番リアリスト的である。