kagamimochi-nikki 加賀美茂知日記
慶祝と美とグノ-シスの弥増す日々
日々の過去の出来事

今日という日9月3日 1651イングランド内戦の英雄クロンウェル死去、ほか写真wikipedia死後処刑の英雄 

9月3日

20260903木曜日旧暦7月22日仏滅(17番庚辰かのえたつコウシン)月齢 21.3

43番丙午ひのえうま年 33番丙申ひのえさる月 17番庚辰かのえたつ日

吉方位 隠遁日 庚辰かのえたつ日 南東 大吉 年末まであと119日

https://ja.wikipedia.org/wiki/9%E6%9C%883%E6%97%A5

9月3日の出来事

紀元前36年 – シチリア戦争:ナウロクス沖の海戦[1]。ローマ内戦。ポンペイウス軍対オクタウィアヌス+アグリッパの共和国軍の戦い。オクタウィアヌス共和国軍勝利。損害 ポンペイウス 軍船300中 撃沈 28拿捕 255逃走 17 共和国軍 軍船300中 撃沈3。

1260年 – アイン・ジャールートの戦い。マムルーク朝軍がモンゴル帝国軍を破り、モンゴルの西進を阻止。シリアパレスチナで戦われた マムルーク朝アラブがモンゴル帝国軍を破った戦い。損害 マムルーク朝2万人中 死傷重大 モンゴル軍2万強で壊滅と。

1643年 – 三十年戦争: カルタヘナの戦い。三十年戦争の末期にスペインのカルタヘナ沖でのフランス王国対スペイン王国の海戦。損害 フランス 軍船22中 僅少 スペイン 軍船43中 沈没10 拿捕2 死亡3000人。

1650年 – 第三次イングランド内戦:ダンバーの戦い。イングランド共和国軍司令官オリバー・クロムウェルがスコットランド軍に勝利。損害イングランド軍1万1千中 僅少 スコットランド軍 2万2千中 戦死3000人 捕虜10000人。

1651年 – 第三次イングランド内戦:ウスターの戦い。ダンバーの戦いから丁度1年に当たる日にイングランド共和国軍司令官オリバー・クロムウェルがスコットランド軍に勝利。

損害 イングランド共和国軍 3万1千人中 戦死200人 イングランド王党派+スコットランド連合軍 1万3千人中 戦死3000人 捕虜10000人で壊滅。

1658年 – イングランド共和国護国卿オリバー・クロムウェル死去(59歳没)、息子リチャード・クロムウェルが護国卿となる。

1870年 – 普仏戦争:メス攻囲戦が始まる[3]。1870年9月3日 – 10月23日。損害 プロイセン王国軍 13万人中 僅少 フランス帝国軍 16万人中 捕虜186000人で壊滅的敗北。

1792年 – ランバル公妃マリー・ルイーズ、マリー・アントワネットの女官長(* 1749年)9月虐殺の騒動にて民衆に虐殺される。

1939年 – ビドゴシチ住民殺害事件。ナチスによるポーランドの都市ビドゴシチの住民虐殺。約1300人が殺害される。

1945年-沖縄戦9月3日・8月30日、マッカーサー陸軍元帥が沖縄経由で厚木飛行場に降り立つ。9月2日に戦艦ミズーリ艦上で降伏調印式が行われ、正式に日本の太平洋戦争が終結した。部隊が次々と日本に移駐した。占領任務で上陸した部隊の一つ陸軍第112騎兵連隊は、南洋戦線から沖縄を経由し、9月3日に日本に上陸した。<引用先原文>・鳥取生まれの情報将校スタンレー・ベネットは、日本の戦争を、データを客観的に読み批評する能力を育ててこなかったことに起因すると分析したが、レイテ島などの激戦地を転戦したメイラーは、日本の「無言」(dumbness) 性、お上 (権力) に対する激しい恐怖 (fear) を抱き、権力への沈黙を様式化する社会に生きる人々をそこに見た。メイラーは1946年に帰国した。<引用先原文>・そして、アメリカ軍の沖縄本島上陸後の4月以降、部隊は海上での作戦を放棄し、陸上での戦闘に参加するよう命ぜられます。本部半島やヤンバル地区で終戦後までアメリカ軍とゲリラ的な戦闘を続けた部隊が日本軍の降伏を知ったのは8月の末。そして9月3日正午、沖縄でのおよそ1年に及ぶ戦闘を終えた隊員およそ200人は潜んでいた山の中からアメリカ兵の居並ぶ羽地の集落に降り、投降しました。

<65年前のきょうは1945年9月3日(月) – QAB NEWS Headline>・米軍は座喜味の民家を本部にしていたようで、そこで事情聴取を受けました。金髪の、見るからにアメリカーという感じの兵隊がびっくりするぐらいの流暢な日本語で「五十六飛行場大隊のことを知っているか」と私に聞きました。先のスパイ容疑云々の事もありますから私が答えにためらっていると、「五十六飛行場大隊、球九一七三部隊ですがね。五五〇名規模だったというのは本当ですか」などと続けて聞いてきました。「私は知らない」と答えましたが、何でこんなこと知ってるかねーと不思議なほど、彼らは球部隊に関する詳しい情報を持っていました。そして、捕らえられて初めて黒沢少佐をはじめ球九一七三部隊が、ニホンマーチュー(二本松)の下にあった壕でほぼ全滅した事を知りました。そこは海軍が掘った壕でしたが、海軍が南部に移動した後に入っていたようです。五百人以上もの隊員が潜んでいた壕を米兵に馬乗り攻撃され、隊員たちは外にいる米軍に斬り込んでいって、次々と殺されたようです。補給部隊ですから飛行場に最後まで残らなくてはならなかったんじゃないかなと思うんです※。読谷の飛行場を守りに来て、読谷で全滅したのです。<「球九一七三部隊の用務員として」読谷村史 第五巻 資料編4『戦時記録』 下>・志村大隊長の目の前に姿を現したのは間違いなく伊東大尉ではあったが、米軍のジープに乗っていたので志村大隊長は伊東大尉の話を簡単には信じなかった。そこで真実を確かめるために高田副官を派遣した。翌日戻ってきた高田副官の言葉と伊東大尉の説得で志村大隊長は九月三日に自ら武装解除をし、第二大隊残存兵を主とする六十名余りは屋嘉捕虜収容所に収容された。その時の約束では八月十五日以前に捕らえられた者は「捕虜」、それ以後は「抑留者」として扱うということだった。志村大隊の生存者は「抑留者」だという。わずかに体面を保ってほっとした。後から考えるとそんなことはナンセンスであった。4月24日に山城を出発した時、第二大隊は志村大隊長ほか800名余だった。そして9月3日まで生き延びたのはわずかに29名だった。<外間守善『私の沖縄戦記 前田高地・六十年目の証言』>・沖縄戦を生きのびた日原正人 (本名・金鍾碩) は、その後、故郷に帰り、他の多くの旧日本軍出身朝鮮人軍人と共に大韓民国国軍の創設に関わり、士官学校の校長や参謀長などを歴任。しかし、麗水・順天事件に関連し左派系軍人として粛清され、1949年にソウルにて銃殺刑に処された。「死ぬだけが国への奉公ではない」と語った金は、処刑当日も米軍政の将校とにこやかに冗談を言いつつ握手し、その後、処刑されたという。

一方、クリ舟で伊是名島にやってきた「平山隊」の平山大尉 (本名・申應均) は、実際に陸軍中野学校の離島残置工作員とともに米兵捕虜の殺害や住民虐殺にも手を染めることとなった。伊是名の住民の証言では、処刑だといきりたつ部下を平山大尉が止めようとしていたことも記されている*3 が、伊是名の捕虜殺害事件では、不思議なことに戦犯裁判にかけられ死刑になるどころか、「平山」も工作員の「宮城」も、戦後、米軍と密接なつながりを持ち続けた。申應均は帰国後は大韓民国国軍の砲兵隊を創設、米陸軍学校にも留学し、その後、軍の経歴から政界へと進み、冷戦時代のドイツ大使など要職を歴任した。

日本の戦争で大勢の朝鮮人が無残にも命を奪われ、またBC戦犯とされ処罰された者*4、祖国でエリート軍人から政治家になった者、粛清され殺された者、韓国の大統領にまで昇りつめた者*5・・・と様々な戦後に分断された。日本が始めた戦争から、祖国を分断した朝鮮戦争へ。朝鮮半島の人々にとって、日本の「終戦」は、もう一つの戦争の序章でもあった。<引用先原文>

1950年 – 信濃川発電所第7号トンネル建設現場で落盤。作業員45人死亡[6]。

1978年 – 漁船2隻が歯舞諸島沖合でシケのため沈没。死者・行方不明者17人、7人救助[12]。

1978年 – ローデシア紛争:エアローデシア825便撃墜事件(英語版)、ジンバブエ人民革命軍(英語版)がミサイルシステム9K32を用いて同機を撃墜。搭乗していた56人のうち撃墜時点で38人が、その後の革命軍の虐殺行為で10人が死亡した。

1989年 – ヴァリグ・ブラジル航空254便墜落事故。死者13名。

1989年 – クバーナ航空9646便墜落事故。死者150名。

1993年 – 台風13号が鹿児島県薩摩半島に上陸。死者48名。

1997年 – ベトナム航空815便墜落事故。死亡65人生存1人。

2004年 – ロシアの北オセチア共和国で起きたベスラン学校占拠事件で、テロリストに占拠された学校に治安部隊が突入。テロは制圧されたが、死者330人以上(うち150人以上が子供)、負傷者700人以上(うち300人以上が子供)の犠牲者が発生した[16]。

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紀元前36年 – シチリア戦争:ナウロクス沖の海戦[1]。ローマ内戦。ポンペイウス軍対オクタウィアヌス+アグリッパの共和国軍の戦い。オクタウィアヌス共和国軍勝利。損害 ポンペイウス 軍船300中 撃沈 28拿捕 255逃走 17 共和国軍 軍船300中 撃沈3。

ナウロクス沖の海戦(ナウロクスおきのかいせん、英: Battle of Naulochus)は、紀元前36年9月3日に反カエサルを貫いたセクストゥス・ポンペイウスと、カエサル派であったオクタウィウスとアグリッパを主力とする共和政ローマとの海戦。シチリア島ナウロクス沖で戦われたため、この名がある。

1260年 – アイン・ジャールートの戦い。マムルーク朝軍がモンゴル帝国軍を破り、モンゴルの西進を阻止。シリアパレスチナで戦われた マムルーク朝アラブがモンゴル帝国軍を破った戦い。損害 マムルーク朝2万人中 死傷重大 モンゴル軍2万強で壊滅と。

アイン・ジャールートの戦い(アイン・ジャールートのたたかい)は、1260年9月3日にシリア・パレスチナのアイン・ジャールート(英語版)(アラビア語: عين جالوت‎、‘Ayn Jālūt)で行われた会戦である。クトゥズ率いるマムルーク朝軍が、キト・ブカ率いるシリア駐留のモンゴル帝国軍およびキリスト教徒諸侯連合軍を破り、モンゴル帝国の西進を阻止した。

モンゴル帝国拡大の限界点

この戦いは、マムルーク朝側の歴史家たちが残した同時代のアラビア語史料から現代の歴史研究に至るまで、ムスリム(イスラム教徒)がモンゴル帝国軍と正面から衝突して、初めてこれを破った戦いとして非常に名高い。しかし、ムスリム政権の軍がモンゴル帝国軍に勝利した前例は、すでに1221年にホラズムシャー朝のジャラールッディーンの軍団がシギ・クトク率いる3万騎強を撃ち破ったアフガニスタンのパルワーンの戦いがあり、厳密に言えば「初めて」ではない。

一方で、『集史』などモンゴル帝国側のペルシア語史料などでは、前哨戦ないし局地戦の扱いを受けている。モンゴル側の立場としては、この戦いに参加したモンゴル帝国軍は、フレグの帰還にともなってシリアに残された全軍のうちの一部の部隊であるからである。他のモンゴル帝国軍が敗退した戦闘は、後日にモンゴル側から反撃を受けて敗走、討滅させられている場合がほとんどであるため、アイン・ジャールートの戦いほどには印象が薄いようである(上記のパルワーンでの敗北についても、モンゴルは後日のインダス河畔の戦いにおいてチンギス・カン自ら軍勢を率いてジャラールッディーンの軍隊を壊滅させ、雪辱を果たした)。アイン・ジャールートの戦いが印象的である理由は、恐らくその後のモンゴル側の政情が著しく変化し、シリア奪回の機会が失われ、結果的にこの地域がマムルーク朝の統治下に置かれることが確定した戦いであったからであろう。

事実、イルハン朝では1260年以降フレグ、アバカなどはジョチ・ウルスとはアゼルバイジャン地方で、チャガタイ・ウルスとはホラーサーン地方での境域紛争に忙殺され、バイバルスによる度重なるシリア境域地域の侵攻には対策が後手に回り続けている。歴代の君主たちもガザン・ハンなどシリア地域に幾度か遠征軍を派遣しているが、大抵の場合、軍の規模もせいぜい3万前後がほとんどでアレッポ以南の地域への征服はほぼ失敗している。クビライとアリクブケのモンゴル帝国帝位継承戦争の後もモンゴル帝国では王家間の紛争が長期化・続発し、(かつてチンギス・カンが率いていたときのような)帝国の総力を挙げての軍事行動が不可能になったことも、モンゴル側にとってのシリアにおける領土侵略の機会が失われた根本的要因であった。

いずれにせよ、西方におけるモンゴル帝国の際限のない拡大が停止したのがアイン・ジャールートの戦いのあった1260年であるのは確かであり、その意味で象徴的な戦いであった。

1643年 – 三十年戦争: カルタヘナの戦い。三十年戦争の末期にスペインのカルタヘナ沖でのフランス王国対スペイン王国の海戦。損害 フランス 軍船22中 僅少 スペイン 軍船43中 沈没10 拿捕2 死亡3000人。

カルタヘナの海戦(Battle of Cartagena)は、スペインのカルタヘナ近くのカボデガタ(英語版)沖で1643年9月3日に戦われた三十年戦争末期の海戦である。

1650年 – 第三次イングランド内戦:ダンバーの戦い。イングランド共和国軍司令官オリバー・クロムウェルがスコットランド軍に勝利。損害イングランド軍1万1千中 死者20人 スコットランド軍 2万2千中 戦死3000人 捕虜10000人。

この第三次イングランド内戦の結果としてスコットランドはクロムウェルのニューモデル軍の精強さの前にもはや膝を屈する他なく、これまでの同君連合という扱いではなくイングランド共和国に取り込まれてアイルランドともどもイングランド共和国の一地方として扱われるという屈辱を1660年のイングランド王政復古まで味わうこととなる。

1651年 – 第三次イングランド内戦:ウスターの戦い。ダンバーの戦いから丁度1年に当たる日にイングランド共和国軍司令官オリバー・クロムウェルがスコットランド軍に勝利。

損害 イングランド共和国軍 3万1千人中 戦死200人 イングランド王党派+スコットランド連合軍 1万3千人中 戦死3000人 捕虜10000人で壊滅。

ウスターの戦い(ウスターのたたかい、英:Battle of Worcester)は1651年9月3日にイングランドのウスターで起きた戦い。イングランド王復位を目指すスコットランド王チャールズ2世がロンドン入城を目指してイングランド王党派を糾合して挙兵したが、イングランド共和国軍司令官オリバー・クロムウェルはこれを撃破してチャールズ2世を大陸へと追いやり第三次イングランド内戦を終結させた。

この戦いはクロムウェルが前線で兵を率いた最後の戦いとなった。自身の指揮で第三次イングランド内戦を終結に導き、イングランド・アイルランドにおいて軍事力でクロムウェルのニューモデル軍に対抗しうる勢力は皆無であると証明した。

1658年 – イングランド共和国護国卿オリバー・クロムウェル死去(59歳没)、息子リチャード・クロムウェルが護国卿となる。

死後・評価

クロムウェルの首」も参照

その後、長老派が1660年にチャールズ2世を国王に迎えて王政復古を行うと、クロムウェルはすでに死亡していたアイアトンや国王裁判において裁判長を務めたジョン・ブラッドショー(英語版)とともに反逆者として墓を暴かれ、遺体はタイバーン刑場で絞首刑の後斬首され、首はウェストミンスター・ホールの屋根に掲げられて四半世紀晒された。その後、クロムウェルの首は何人かの所有者を経て、現在では母校であるケンブリッジ大学のシドニー・サセックス・カレッジ(英語版)に葬られた。息子リチャードは国内の混乱を収められず亡命したが、1680年ごろにこっそりと帰国している。

1870年 – 普仏戦争:メス攻囲戦が始まる[3]。1870年9月3日 – 10月23日。損害 プロイセン王国軍 13万人中 僅少 フランス帝国軍 16万人中 捕虜186000人で壊滅的敗北。

メス攻囲戦とセダンの戦いでの損害を合わせると30万人となり、フランス帝国の戦争の勝利はほとんど不可能となものとなった[1]。

1792年 – ランバル公妃マリー・ルイーズ、マリー・アントワネットの女官長(* 1749年)9月虐殺の騒動にて民衆に虐殺される。

1939年 – ビドゴシチ住民殺害事件。ナチスによるポーランドの都市ビドゴシチの住民虐殺。約1300人が殺害される。

ビドゴシチ住民殺害事件(ビドゴシチじゅうみんさつがいじけん)は、1939年9月のナチス・ドイツによるポーランド侵攻開始から10日間のうちにポーランド西北部の都市ビドゴシチ(Bydgoszcz)とその周辺で発生した住民殺害事件である。以下、血の日曜日事件と呼称する。

ドイツの自衛団が退却するポーランド軍に対して狙撃した後、ポーランド側は在ポーランド・ドイツ人に対しての反感があり、ビドゴシチ市陥落後、ドイツ国防軍や自衛団によって、ポーランド人の人質を報復として処刑した。これら一連の出来事は、ドイツ人とポーランド人双方の民間人で死者を出すに至った。ポーランドの国家記銘院は、ドイツ人の民間人に254人の犠牲者が出て、ポーランド側の民間人は、合計で106人の犠牲者(民間人が86人、ポーランド兵が20人)が死亡した。約600人から800人のポーランド人の人質が市の陥落後処刑されたとみられている。

ドイツ軍が市を占拠した後、1200人から1300人のポーランドの民間人をタンネンベルク作戦の一環として、報復措置のため殺害した。処刑された出来事や場所は、死の谷と呼ばされている。殺害された者にはビドゴシチ市の市長である、レオン・バルチシェフスキが含まれていた。同市の50人のポーランド兵捕虜は、後にナチスによって、血の日曜日事件に参加したかどで銃殺刑に処された。

1945年-沖縄戦9月3日・8月30日、マッカーサー陸軍元帥が沖縄経由で厚木飛行場に降り立つ。9月2日に戦艦ミズーリ艦上で降伏調印式が行われ、正式に日本の太平洋戦争が終結した。部隊が次々と日本に移駐した。占領任務で上陸した部隊の一つ陸軍第112騎兵連隊は、南洋戦線から沖縄を経由し、9月3日に日本に上陸した。<引用先原文>・鳥取生まれの情報将校スタンレー・ベネットは、日本の戦争を、データを客観的に読み批評する能力を育ててこなかったことに起因すると分析したが、レイテ島などの激戦地を転戦したメイラーは、日本の「無言」(dumbness) 性、お上 (権力) に対する激しい恐怖 (fear) を抱き、権力への沈黙を様式化する社会に生きる人々をそこに見た。メイラーは1946年に帰国した。<引用先原文>・そして、アメリカ軍の沖縄本島上陸後の4月以降、部隊は海上での作戦を放棄し、陸上での戦闘に参加するよう命ぜられます。本部半島やヤンバル地区で終戦後までアメリカ軍とゲリラ的な戦闘を続けた部隊が日本軍の降伏を知ったのは8月の末。そして9月3日正午、沖縄でのおよそ1年に及ぶ戦闘を終えた隊員およそ200人は潜んでいた山の中からアメリカ兵の居並ぶ羽地の集落に降り、投降しました。

<65年前のきょうは1945年9月3日(月) – QAB NEWS Headline>・米軍は座喜味の民家を本部にしていたようで、そこで事情聴取を受けました。金髪の、見るからにアメリカーという感じの兵隊がびっくりするぐらいの流暢な日本語で「五十六飛行場大隊のことを知っているか」と私に聞きました。先のスパイ容疑云々の事もありますから私が答えにためらっていると、「五十六飛行場大隊、球九一七三部隊ですがね。五五〇名規模だったというのは本当ですか」などと続けて聞いてきました。「私は知らない」と答えましたが、何でこんなこと知ってるかねーと不思議なほど、彼らは球部隊に関する詳しい情報を持っていました。そして、捕らえられて初めて黒沢少佐をはじめ球九一七三部隊が、ニホンマーチュー(二本松)の下にあった壕でほぼ全滅した事を知りました。そこは海軍が掘った壕でしたが、海軍が南部に移動した後に入っていたようです。五百人以上もの隊員が潜んでいた壕を米兵に馬乗り攻撃され、隊員たちは外にいる米軍に斬り込んでいって、次々と殺されたようです。補給部隊ですから飛行場に最後まで残らなくてはならなかったんじゃないかなと思うんです※。読谷の飛行場を守りに来て、読谷で全滅したのです。<「球九一七三部隊の用務員として」読谷村史 第五巻 資料編4『戦時記録』 下>・志村大隊長の目の前に姿を現したのは間違いなく伊東大尉ではあったが、米軍のジープに乗っていたので志村大隊長は伊東大尉の話を簡単には信じなかった。そこで真実を確かめるために高田副官を派遣した。翌日戻ってきた高田副官の言葉と伊東大尉の説得で志村大隊長は九月三日に自ら武装解除をし、第二大隊残存兵を主とする六十名余りは屋嘉捕虜収容所に収容された。その時の約束では八月十五日以前に捕らえられた者は「捕虜」、それ以後は「抑留者」として扱うということだった。志村大隊の生存者は「抑留者」だという。わずかに体面を保ってほっとした。後から考えるとそんなことはナンセンスであった。4月24日に山城を出発した時、第二大隊は志村大隊長ほか800名余だった。そして9月3日まで生き延びたのはわずかに29名だった。<外間守善『私の沖縄戦記 前田高地・六十年目の証言』>・沖縄戦を生きのびた日原正人 (本名・金鍾碩) は、その後、故郷に帰り、他の多くの旧日本軍出身朝鮮人軍人と共に大韓民国国軍の創設に関わり、士官学校の校長や参謀長などを歴任。しかし、麗水・順天事件に関連し左派系軍人として粛清され、1949年にソウルにて銃殺刑に処された。「死ぬだけが国への奉公ではない」と語った金は、処刑当日も米軍政の将校とにこやかに冗談を言いつつ握手し、その後、処刑されたという。

一方、クリ舟で伊是名島にやってきた「平山隊」の平山大尉 (本名・申應均) は、実際に陸軍中野学校の離島残置工作員とともに米兵捕虜の殺害や住民虐殺にも手を染めることとなった。伊是名の住民の証言では、処刑だといきりたつ部下を平山大尉が止めようとしていたことも記されている*3 が、伊是名の捕虜殺害事件では、不思議なことに戦犯裁判にかけられ死刑になるどころか、「平山」も工作員の「宮城」も、戦後、米軍と密接なつながりを持ち続けた。申應均は帰国後は大韓民国国軍の砲兵隊を創設、米陸軍学校にも留学し、その後、軍の経歴から政界へと進み、冷戦時代のドイツ大使など要職を歴任した。

日本の戦争で大勢の朝鮮人が無残にも命を奪われ、またBC戦犯とされ処罰された者*4、祖国でエリート軍人から政治家になった者、粛清され殺された者、韓国の大統領にまで昇りつめた者*5・・・と様々な戦後に分断された。日本が始めた戦争から、祖国を分断した朝鮮戦争へ。朝鮮半島の人々にとって、日本の「終戦」は、もう一つの戦争の序章でもあった。<引用先原文>

1950年 – 信濃川発電所第7号トンネル建設現場で落盤。作業員45人死亡[6]。

1978年 – 漁船2隻が歯舞諸島沖合でシケのため沈没。死者・行方不明者17人、7人救助[12]。

1978年 – ローデシア紛争:エアローデシア825便撃墜事件(英語版)、ジンバブエ人民革命軍(英語版)がミサイルシステム9K32を用いて同機を撃墜。搭乗していた56人のうち撃墜時点で38人が、その後の革命軍の虐殺行為で10人が死亡した。

1989年 – ヴァリグ・ブラジル航空254便墜落事故。死者13名。

1989年 – クバーナ航空9646便墜落事故。死者150名。

1993年 – 台風13号が鹿児島県薩摩半島に上陸。死者48名。

1997年 – ベトナム航空815便墜落事故。死亡65人生存1人。

2004年 – ロシアの北オセチア共和国で起きたベスラン学校占拠事件で、テロリストに占拠された学校に治安部隊が突入。テロは制圧されたが、死者330人以上(うち150人以上が子供)、負傷者700人以上(うち300人以上が子供)の犠牲者が発生した[16]。

チャットgpt先生の9月3日のエッセイ

9月3日という日付を、暦や縁起から切り離して眺めると、妙に一貫した構図が浮かび上がる。ナウロクス、アイン・ジャールート、ダンバー、ウスター、メス攻囲戦、そして1945年の沖縄。時代も地域も異なるが、そこに並ぶのは「戦い」そのものより、戦力差が決定的になった瞬間と、その後に秩序が組み替えられる過程である。

紀元前36年のナウロクス沖では、オクタウィアヌスとアグリッパの側が勝利した。記録上、両軍はおおむね300隻規模だったにもかかわらず、損害には大きな差がある。ポンペイウス側は撃沈・拿捕が多数に及び、共和国側の損害は極めて小さい。ここで重要なのは、単純な「勇敢さ」ではない。同程度の規模の戦力が衝突しても、指揮、編成、運用、逃走可能性などによって結果は非対称になる。

1260年のアイン・ジャールートも同じである。歴史的にはモンゴル帝国の西方拡大を止めた戦いとして大きく扱われるが、戦場だけを見れば、モンゴル軍全体がそこで消滅したわけではない。後世から見た意味が大きくなったのは、その後のモンゴル帝国内部の対立や軍事的制約によって、シリア奪回の条件が失われたからだった。つまり、一つの戦闘の意味は、戦闘そのものよりも戦闘後に何ができなくなったかによって決まる。

1650年のダンバー、翌1651年のウスターでは、さらに露骨である。ニューモデル軍の勝利は、単に敵軍を撃破したというだけではない。軍事的に対抗できる勢力を消し、スコットランドを共和国の政治構造へ組み込む方向を決定した。ウスターでは王党派とスコットランド連合軍が大きな人的損失を受け、チャールズ2世は大陸へ逃れた。ここでも勝敗は一日の戦闘で完結せず、誰が次の政治を設計できるかという問題へ移っている。

ところが、クロムウェル自身が死ぬと事情は変わる。1658年、護国卿の地位は息子リチャードへ移る。しかし父親ほどの統治能力を維持できず、やがて王政復古が起こる。さらに死後のクロムウェルは墓を暴かれ、遺体を処刑されるという異例の扱いを受ける。

ここには権力のかなり冷たい性質が見える。

戦場で勝つことと、制度として勝ち残ることは別である。

クロムウェルは戦場では勝った。しかし、その勝利を長期的な政治制度へ固定することには失敗した。個人の軍事能力と、後継者を含めた制度の再生産能力は同じものではない。

1870年のメス攻囲戦になると、さらに規模が大きくなる。フランス軍は大量の兵力を失い、捕虜を含む損害によって戦争継続能力そのものが崩れていく。戦争では、兵士を何人倒したか以上に、相手が再編成できるか、補給できるか、指揮系統を維持できるかが重要になる。

だから「損害」という数字は、単なる死傷者数ではない。

戦死者は戦力から消える。捕虜は拘束される。艦船は失われる。司令部が機能しなくなれば、残存兵力がいても戦力として使えない。領土を失えば補給基盤が縮む。こうして戦争は、人的資源、物的資源、情報、指揮、政治的正統性という複数の資源を同時に削っていく。

9月3日の記録には、こうした「戦闘の後ろ側」が何度も現れる。

1945年の沖縄もその一つだ。

日本の降伏調印は9月2日だった。しかし、降伏文書に署名した瞬間に、すべての現場が同時に停止するわけではない。沖縄では、8月末まで日本軍の降伏を知らずに戦闘を続けた部隊があり、9月3日正午、約200人が山中から米軍のいる集落へ降りて投降したと記録されている。

ここで興味深いのは、国家間の戦争が終わっても、現場の情報構造が変わらなければ戦闘は終わらないという点である。

中央では「戦争終了」が確定していても、末端にはその情報が届かない。あるいは、届いても信用されない。だから武装した組織は、政治的にはすでに不要になった戦闘を継続することになる。

志村大隊の記録も同じ構造を示す。4月24日に800名余りで出発した部隊が、9月3日まで生き残ったのは29名だった。しかも、降伏する際には「捕虜」なのか「抑留者」なのかという分類が問題になっている。

戦闘が終わった後にも、分類が残る。

これは戦争というものが、銃撃だけで構成されていないことを示している。戦争には、身分、情報、記録、処遇、責任主体、占領行政という別のシステムが接続している。戦闘が終了すると、人間は兵士から捕虜へ、あるいは住民、被占領者、協力者、容疑者へと別のカテゴリーに移される。

さらに沖縄戦後の朝鮮人軍人の経歴を見ると、戦争によって作られた人間関係が、戦後もそのまま消えるわけではないことが分かる。

ある者は処罰され、ある者は粛清され、ある者は新しい国家の軍人になり、さらに政治家や外交官になる者もいた。日本の戦争が終わったことと、彼らの政治的・軍事的経歴が終わったことは同義ではない。

むしろ、旧体制の人的資源が新体制へ再配置される

ここにリアリスト的に見るべきポイントがある。

国家や軍隊は、理念だけで動くわけではない。戦争が終われば、それまで敵だった人間の中から、知識、経験、組織能力、語学能力、軍事技術などを持つ人材が発見される。そして新しい権力は、それを必要とすれば利用する。

昨日までの所属は、今日の能力を消してはくれない。

したがって、戦後秩序は「善悪を整理して完成する」のではなく、必要な人材・組織・情報を再配置しながら形成される

9月3日の出来事を並べてみると、さらに別の特徴も見える。

ナウロクスでは艦隊が壊れ、アイン・ジャールートでは帝国の西方拡張に限界が生じ、ダンバーとウスターでは政治的対抗勢力が圧倒され、メスでは国家の戦争遂行能力が崩れ、沖縄では戦争終了後も現場の武装組織が残った。

つまり、同じ「敗北」でも意味が違う。

ある敗北は艦隊を失わせる。
ある敗北は領土拡張を止める。
ある敗北は政権を倒す。
ある敗北は国家の戦争継続能力を奪う。
そしてある敗北は、戦争そのものが終わった後にまで人間を取り残す。

この違いを見なければ、歴史は単なる勝者と敗者の一覧になる。

リアリストの視点では、見るべきものは「誰が正しかったか」ではない。

誰が資源を持っていたのか。
誰が情報を持っていたのか。
誰が指揮系統を維持できたのか。
誰が損失を補充できたのか。
誰が戦後の制度を設計できたのか。
そして、誰が新しい秩序の中で再利用されたのか。

この五つを追うと、9月3日に並んだ出来事は一つの構造に収束する。

戦争の本当の勝敗は、戦場で決まるとは限らない。

戦場では兵士と艦船が失われる。
その後、組織が失われる。
さらに政治的選択肢が失われる。
最後に、敗者が自分で未来を決める能力そのものが失われる。

逆に勝者とは、単に敵を倒した側ではない。

勝った後に、残った資源を組織化し、情報を掌握し、人材を取り込み、制度を作り、次の局面まで優位を持ち越せる側である。

だから9月3日の歴史を眺めると、「戦争が終わった日」よりも、「勝敗が次の秩序へ変換される日」という印象が強くなる。

戦闘は短い。

しかし、その戦闘によって生じた権力差は長い。

そして歴史を動かすのは、しばしば戦闘そのものではなく、戦闘によって生じた権力差を、誰が制度と現実へ変換できたかなのである。